【研究】勝ち組・負け組
【研究】勝ち組・負け組
1945年太平洋戦争が終結した時からブラジル日本移民の悲劇は始まった。
1908年笠戸丸で最初にブラジルへ渡ってから太平洋戦争まで、戦前の移住者は27万人、90パーセント以上の人々は永住のつもりは無く、一旗上げて母国日本に錦を飾って帰るつもりの人々が多かった。移民の条件には3人以上の構成家族で、最初一年から二年間は農業移民としてコーヒー園などで働き、日雇いから歩合給、借地での農業の後お金を貯め土地を取得、一生懸命日本の移住者は働いた。
もともと、出稼ぎのつもりの為、ポルトガル語を覚えようとか、立派な家に住む事すら考えていなかった人たちも多くいた。
しかし、最初の移民斡旋会社の言葉とは裏腹に開拓地での生活は苦難の連続で、少しでも良い処の開拓地へと引越し「ムダンサ」を繰り返した、ブラジルの奥地を転々とする移住者には、早く農業を見切り大都市へと移り商売に転進する人など、引越し「ムダンサ」を10回以上重ねた者は普通で、多くの人は毎日の生活が精一杯で苦難の毎日だった。
しかし,日本人の集まるコロニアでは日本語学校が造られ子供達への教育が行われる。家族が増えるに従い日本への帰国願望から子供達二世へ夢を委ねるように変わって行く。
バスガス政権の同化政策によって、日本語学校の閉鎖に続き1941年8月日本語新聞が発刊禁止となる。日本人移民社会は殆ど情報がない状態となり、太平洋戦争開戦にともないブラジル政府は1942年1月、日米開戦の翌月には日本に対し一方的に国交断絶を宣言、日本とは敵対国となる。1945年6月これまた一方的にブラジルは日本に対し宣戦布告を告げている。
開拓地では、日本語禁止令にともない、日本語学校の閉鎖、日本語の書籍の没収、日本人3人以上の集会の禁止等、日本人に対するブラジル政府の圧力も強くなり、ラジオの所持禁止で日本からの短波放送すら受信できなくなる。
国土の広いブラジルの奥地まで入り込んだ移住者は、日本からの情報は途絶してしまう。
ブラジル日本移民史料館に、1944年にパラナ州バンディランテス市の地方治安局が発行する日本人の通行許可証が残されている。
密かにラジオジャパンを聞いていた人達も、大本営発表の情報を鵜のみにし、ポルトガル語が良く理解出来ない人達はコロニアの中でのデマの情報に振り廻されて行った。
戦前、大日本帝国は満州国から支那、南方にかけて、日本円「儲備、チョビ券と言う」の流通を広め、日本国内だけでなくアジア各地に日本の影響力を広げようとした。
しかし、中国大陸の商売人からは日本円「儲備、チョビ券」を1日でも早く自分の手元から放そうとし、アジア各地で使用した日本円は必然的に日本本土に帰ってくる。日本国内の円札はインフレに向かう事を懸念した,東条英機は本土以外では軍札での使用に変更する。
このような経緯のなかで、当時27万人の日系移住者のいるブラジルに上海からアルゼンチン経由で日本円がブラジルへと渡り、また、米国本土の日系金融機関は日米の開戦を察知して、米国内の日本円をアルゼンチンへ避難させたといわれる。
太平洋戦争が泥沼化する中、日本人や華僑など各国の銀行家がブラジルの金融市場に、それも日系の南米銀行に一部の日本円が集まる事となる。
1945年8月14日 「日本時間 8月15日」
天皇陛下の玉音放送はブラジルにも短波放送で伝わるが、残念ながらその放送を全部の日系人が聞くことは出来なかった。雑音に近い玉音放送を聞いた人でも、天皇が敗戦を受け入れた放送だと信じる人も少なく,逆にデマが飛び交い「日本勝つ」のデマは一夜のうちに日本人コロニアを駆け抜けて行く。
一部、日本人の中で、アメリカの放送を聞き、日本の戦況を良く理解する人もいたが、大多数の日本人には伝わらなかった。
日本の終戦とは裏腹に、ブラジル各地の開拓地では、「日本勝った、日本勝った、」と戦勝記念日の祝賀会を開催するところまで現れた。
終戦直前の7月「臣道連盟」と改名した一団は8月23日 本部をサンパウロ市ジャバクワラ区パラガツ街98番に堂々と構え、家族数2万、総人員10万を擁する一大組織を構成した。戦勝を信じる者たちは日本からの邦人慰問使節団・軍事使節団を乗せた軍艦がサントスに入港するとのデマニュースを信じ、歓迎の為各地から日の丸を持って二千余名がサンパウロに押し掛けた。警察当局は治安を理由に警告を発令するに至った。
日本が占領した南方諸地域の新植民地をブラジル在住の同胞に配分する為、日本陸軍によって臣道連盟会長の吉川順次大佐が派遣されたと連盟本部は案内した。
サンパウロ市の中心から20キロにあるイタケーラのコロニアでも多数の人達が戦勝を信じ、九月九日に戦勝祝賀会を挙行したと記録されている。その後イタケーラでは日系人の運動会が2年間開催は無く、1947年5月1日に開催の記録がある。
「日本は負けたんだ、勝ってなんかいない」と言う「負け組」
「日本は神の国、負けるはずが無い」日本は勝ったという「勝ち組」
ブラジル日系人を真っ二つにしての論争は、「負け組」敗戦認識派と「勝ち組」信念派に入り乱れ、負け組の幹部達は、勝組と負組を分けるため日章旗を破り捨てたり、「天皇写真踏絵事件」までが起きた。
終戦直後に日系人コロニアの8割は日本勝ったと信じていた。
「迎えの連合艦隊が来る」デマの戦勝ニュースを信じ奥地から大勢の人達が続々とサンパウロ,サントス目指して集まり、リオに船団が入ると伝わるやリオに向かい、一時は日本船の出迎えに日本人の異様な集団がサンパウロに集結した。
日系新聞である,サンパウロ新聞は「日本勝つ」とデマのニュースを出すまでとなり、
敗戦によって紙くずとなった大量の日本円を、日系企業の南米銀行とサンパウロ新聞の上層部は、他国の通貨に交換する為、日本人を騙して、土地や家などを日本円で買う計画をたて、デマのニュースを流したといわれている。
「日本政府は新たに、南方の開拓地の入植者たちを募集している、その為サントス港に日本政府からの迎えの船が来る」というデマを流し、ブラジル各地で農業をしている人々に「今すぐ土地を売り払いサントス港に集まるように」と、「日本人はアジアに帰ろう!」という南洋「海南島」移住説が現れ、この出迎えの為200人の先発隊が日本を出発し、四千人の軍隊が警備の為派遣、日本人総引き揚げの船団がサントス港に向かったとデマを流す。日本は勝ったと信じ込んでいる人達は、これ以上ブラジルの国にいても、ブラジル政府は日本に対し敵対国であり、日本語学校の閉鎖等からの日本人への敵対視に嫌気を感じ、ブラジルを離れようとした。
裏で円売り帰国詐欺師と手をつなぐ、エセ勝ち組集団も現れ、円売りのデマに踊らされた人達の中には、勝った日本へ帰るつもりで、土地や家、農作物,家畜等を五分の一から,十分の一の値段で売り払い、サントス港に出てきた。
すでに日本円は他の外国紙幣との両替も不可能だった。
日米開戦と同時に、日系企業は活動を停止に追いこまれ、アメリカ合衆国からも莫大な邦人資産がアルゼンチンを経由してブラジルに逃避して来るが、ブラジル政府がこれらを資産凍結してしまう。その前に一部の資金がコロニアの有力者に流れ、戦後各地の鉄道沿線の駅には、南米銀行の関係者ら日本船迎えの受け入れ担当者らを案内人として,日本円での土地の売り買いをはじめた。しかし、紙くず同然となった日本円を掴まされ、「日本は勝った」と信じる人達に日本からの迎えの船が来る事も無く、ただ港で待たされる事になる。
神の国、日本が負ける事は無いと考える移住者がブラジルに多く居たのは間違いなかった。
移住者の中で意見が割れたのは、ブラジル政府がはっきりと日本は負けたと言わなかった事にも一因が有ったが、むしろ日本人の中で負けたこと事体が都合悪い人達もいた。
大量の紙くず同然の日本円を持つ南米銀行や日本円を利用しての日本人同士の騙し合い
また、騙された日本人がそのツケを取り戻す為また、日本人を騙すという構図が複雑な日系社会を作り出して行く。「日本は勝った」と信じる勝ち組。「日本は負けた」もう日本は立ち直れない日本国は無くなってしまった。と言う「負け組」日本の教育を止めてブラジルの教育をと天皇の写真を破り日章旗を破り捨てるものまで現れてくる。
勝ち組に組織された臣道聯盟は、敗戦認識の「負け組」幹部らにテロ行為を働き、23人を暗殺、147人の負傷者を出してゆく。
ブラジル政治治安警察(DOPS、ブラジルの特高)は約3万件の嫌疑をかけ、臣道連盟幹部を次々に検挙した。しかし、踏絵を拒否しただけの無実の罪で収監された無実の人々も多かった。アンシエッタ島の監獄に170名の日本人が送られたが、十数名は法を犯した者だったがあとは無実だった。抑留生活は2年7カ月に渡った。
その後、リオとサンパウロの間に在るアンシエッタ島の監獄は囚人の暴動が起きて、閉鎖されている。今ではウバトゥバで最も人気のある観光島で美しい保護区に動物と植生の両方で多くの自然保護が行われている。
「勝ち組・負け組」の事は、現在に至るまでブラジルの日系社会では癒すことは出来ないが、表に出て来ることも無い。
戦後、日系社会の指導者には「負け組」の人達が多く、彼等の多くは、日章旗を破り捨て、日本の国は無くなってしまったと、人々に宣伝をした人だった。近年、その人達に日本国政府からの叙勲が授与されている、「勝ち組」の人から見れば、愛国心に複雑な思いがあるようだ。
日本で戦後教育を受けた我々の愛国心とは違うかもしれない、地球の裏側から祖国日本に思いを寄せた人達がいた事に頭が下がる思いです。
読売新聞オンライン記事
ブラジル政府は2024年7月25日、第2次大戦後の日本人移民らの強制収容を巡り、人権侵害だったのか審議すると明らかにした。また、謝罪する見通しだと明らかにした。
世界最大の日系コミュニティーは、実現すれば、ブラジル政府として初の謝罪で、日本からの移民として、不当な扱いを受けた人々の名誉を回復する節目になる。
1946年から約2年間、日系人ら172人をサンパウロ州沖のアンシエッタ島監獄に収監し日系人は監獄で虐待や拷問を受け、天皇の写真や国旗の「踏み絵」を拒み監獄に送られた人もいたとされる。
参考文献
読売新聞オンライン 2024/05/23 05:00
「日本は降伏していない」 著者 太田恒夫
ブラジル激動の日本人移民史 拓魂100年 著者 星野豊作
遠い架橋 著者 山田智彦
ブラジル日本移民
戦後移住の50年 ブラジル・ニッポン移住者協会
ブラジル日本移民史料館
ブラジルと福井県縣人 ブラジル福井県人会
Ilha Anchieta アンシエッタ島
ブラジル岐阜県人会・福井県人会のみなさん
上村照信 上村俊明 上村茂男 上村アリンド 梅村良治 瀧日富美子 山田彦次会長 小島康一副会長 国井治郎 寺林由雄 飯田みよ子 飯田俊弘 小田・押本・セルジオ
イタケーラコロニア70年のあゆみ イタケーラ日系クラブ
イタケーラコロニア 小坂 誠さん
令和6年(2024)6月30日
稲葉秀章(文責)