令和8年度【デジタルアーカイブ計画】岐阜市地域文化遺産デジタルアーカイブ
令和8年度【デジタルアーカイブ計画】岐阜市地域文化遺産デジタルアーカイブ
【国登録】旧櫻井銘木店店舗兼住宅、土蔵
通りに南面する町家。間口7.9mの切妻造桟瓦葺、木造2階建で、背面には居室や台所などの2階屋を付設する。正面は下屋が大きく引違い戸の開口を設け、東寄りを格子窓とする。上屋は格子窓に黒漆喰壁とし、袖ウダツを付ける。伝統的な町家の表構えを示す。
【国登録】藤田家住宅主屋、土蔵
岐阜旧城下にある味噌醸造を営んだ商家。主屋は東面して建ち、総二階建切妻造の表屋背面に平屋建切妻造の角屋を付す。表屋は南に土間を通す1列3室型、角屋は台所兼醸造場で梁組を現す。平格子と出格子を組み合せた表構えなど城下の伝統町家の構成を伝える。
【国登録】旧青木家住宅(エグゼクス・ガーデン)表門
敷地の南辺中央、堀に架かる橋に面した一間薬医門で切妻造の桟瓦葺とする。桟瓦葺の袖塀を東西に延ばし、西に潜戸を設ける。門柱は見付幅の広い長方形断面で成の高い冠木を受ける。控柱は内法高の桁行梁で繋ぎ、棟木は束立とする。木太く簡明な構造である。
【国登録】後藤家住宅主屋、離れ、旧郵便局舎、土蔵、門、地蔵覆屋
郡上街道の西側に建つ切妻造の東西棟で四周の下屋とも桟瓦葺とする。南面東寄りが玄関で北に台所を配す。西の床上は二列六室で南から西へ縁を廻し、西端を続き間座敷とする。玄関南東に風呂が接続する。欄間や金具に意匠を凝らした有力商家の近代住宅。
【国登録】葛西家住宅主屋、長屋門
市郊外にある大規模民家。南面して建つ切妻造2階建,平入で,4面に下屋を廻し,南面中央に入母屋造の玄関を突出し,桟瓦葺屋根とする。居室部は6間取に畳廊下を備えた平面で,全体に良材を用いた上質なつくりになり,随所に高い建築技術が発揮されている。
【国登録】 旧松喜仏壇店店舗兼主屋
通りに東面して建つ町家。間口6.3m奥行15mの木造2階建とその奥の台所や客間棟等からなる。正面の2階建は南に通り土間を配し、北にミセなど3室を一列に並べ、2階に6室設ける。出桁造で、2階に出格子や袖卯建を構えるなど、伝統的な町家構えを残す。
【国登録】鏡岩水源地旧エンジン室・旧ポンプ室
昭和3年に建設着手した当水源地施設は同9年に完成。旧ポンプ室は類似した外観をもつ旧エンジン室の北東に位置する。平側に丸窓を一列に穿ち,旧エンジン室では壁面の外側に出された2ヒンジ鉄骨トラスを室内側に収める。棟の脇に細長い換気口を設ける。
【国登録】震災紀念堂
市街地にあり,ほぼ南面して建つ。入母屋造,桟瓦葺,正面唐破風造の向拝付で,平面は外陣,内陣及び余間の構成になり,側廻りは角柱に舟肘木を載せる。震災紀念堂としては我が国最初のもので,外観,内部とも浄土真宗本堂形式を基調としている。
【市】正法寺大仏殿
金鳳山正法寺は、江戸時代初期に中国から伝わった黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の末寺です。天和3年(1683)に広音(こうおん)和尚が草庵を結んだことに始まり、萬福寺第6代住持千呆(せんがい)和尚を開山に迎えて創建されました。
江戸時代後期には大釈迦如来像(通称、岐阜大仏)が造られ、大仏殿は、大仏造立と並行して造営が進められました。
像高10mを超える大仏を安置するには、巨大な空間が必要で、大仏殿は巨大仏像を安置するという目的で内部空間と構造が設計されました。八角形の通し柱を八角形に配して固めることにより大空間を形成していることが最大の特徴で、他に見られない固有の形式として評価できます。
また、過去に増改築を繰り返しており、参拝者が階段で二重(二層目)に登り、大仏正面から参拝できるようにしていたこと、螺旋状の巡拝経路を有していたことも、他には見られない大きな特徴です(現在は二重以上へ登ることはできません)。
明治9年(1876)、第13代掬泉(きくせん)和尚のもとで有志を募って行われた修理・改築により、現在の姿となりました。
【市】妙照寺本堂・庫裡
三光山妙照寺は、当初は今泉村にあったとされていますが、慶長5年(1600)に織田秀信(信長の孫)が竹中半兵衛の屋敷跡を寄進し、現在地に移転したと伝わります。
妙照寺の本堂は寺伝によると、寛文2年(1662)に建てられた、全国的にも珍しい江戸時代前期の日蓮宗の寺院建築です。
構造は、桁行七間、梁間七間半の入母屋造の建物で、その後の改造や向拝(本堂正面階段の上に張り出した庇の部分)の付加はあるものの、内部の須弥壇(しゅみだん)周りは当初のままで、意匠・色彩など江戸時代前期の雰囲気をよく残しています。
妙照寺の庫裡は、建築年代は明らかではありませんが、貞享5年(1688)に岐阜を訪れた松尾芭蕉(まつおばしょう)が、この庫裡に一か月間滞在としたという記録があるため、寛文2年(1662)に建てられた本堂と前後して建てられた江戸時代前期の建築であると考えられます。
構造は、桁行九間、梁間四間の切妻造で、入口から土間・板間・座敷が並びます。平面的には土間・板間境を開放しており、板間には座敷が三室接し、日蓮宗庫裡の通例に従っています。
【市】三輪神社社殿
三輪神社は、美濃国神名帳(みののくにじんみょうちょう)に正二位美和大明神と記載があり、大和国三輪大神を江洲志賀郡と濃州山県郡に祀ったと伝えられています。永禄年間(1558~1570)に、近松光保(ちかまつみつやす)が願主となって社殿を建立し、現在地に遷座したといわれています。
現在の社殿は、棟札の墨書から、元禄9年(1696)に再建されたものであることがわかっています。再建の際には、建立当初の様式を踏襲したといわれ、随所に室町時代の様式がみられます。
構造は、桁行三間、梁間二間、入母屋造、一間向拝付、桧皮葺の大きい社殿です。
社殿に祀られている木造神像は五躯あり、いずれも素朴な神像です(岐阜市指定重要文化財、非公開)。
【市】護国之寺楼門
雄総山護国之寺は、天平年間(729~749)、行基により創建された寺院と伝わっています。
護国之寺の楼門は、宝暦12年(1762)、良恭・良観両上人により再建されたものです。
三間二面、重層の楼門で、欅(けやき)材を使用し、自然石の礎石の上に円柱を建てた重厚な造りとなっています。正面2間には仁王像(におうぞう)が安置されています。
三間一戸楼門の典型的な構造をもち、細部の枓栱(ときょう)、虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、蟇股(かえるまた)、彫刻等の手法は、その時代の特徴を良く示し、後年の修理補修も少なく良好な状態をしています。
また、棟札から地元長良の大工棟梁の手によることがわかっている点で、貴重な建造物です。
【市】名和昆虫研究所記念昆虫館
名和昆虫研究所は、名和靖(なわやすし)によって明治29年(1896)、岐阜市京町に開設された害虫防除・益虫保護を目的とした研究所です。明治37年(1904)に岐阜公園内に移転し、同40年(1907)には特別昆虫標本室(現在の記念昆虫館)、大正8年(1919)には博物館を開き、農業や昆虫学の研究・教育に大きな役割を果たしてきました。
記念昆虫館は、当時著名な建築家であった武田五一(たけだごいち)の設計で、その構造は、桁行14.54m、梁間7.3mの二階建て、鉄板葺き切妻形式をとっています。一階の壁はレンガ組みで、この上に屋根を支える三角形の木造トラス組みを設け、二階としています。急勾配の屋根には、一階窓に対応して四か所ずつ採光出窓を設け、変化をつけています。
この建築は、当時オーストリアに興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、実用性や理論的な建築構造を重んじた新しい考え方で、レンガの積み方や採光窓などにその様子がうかがえます。記念昆虫館は、日本におけるセセッションの代表例の一つで、明治末から大正にかけて、日本の新しい建築文化への出発点にあるものと考えられます。
【国】岐阜城跡(山上の城郭)
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の拠点とした城としてもよく知られています。
指定は山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯で、面積は約209ヘクタールとなります。
【国】岐阜城跡(織田信長公居館跡)
岐阜城の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあります。発掘調査の成果から、この地形は斎藤氏三代の頃に造られ、織田信長公が大規模に改修をし、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていたことがわかってきました。
現在、岐阜公園内で見られる地形は、織田信長によって造られたもので、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形を造り、建物や庭園を配しています。
【国登録】真龍寺本堂、玄関及び茶室、鐘楼、山門
百々ヶ峰を背に境内を構える浄土真宗寺院の本堂。入母屋造桟瓦葺、向拝を構え正面7間で規模大きく、平面は内外陣間に矢来内、内陣左右に余間を配す等、真宗本堂の典型。長大な虹梁で柱を省略して外陣を大空間とし、小組格天井、金箔押し彫刻欄間で荘厳する。
【国登録】岡本家住宅茶室・岡本家住宅待合
岐阜市の金屋町に位置する旧家の茶室。主屋の北妻に接続する切妻造妻入桟瓦葺で北面に檜皮葺、西面にこけら葺下屋を付す。内部は南半をカッテ、北半を水屋と茶室とし、茶室は二畳台目中板入りで南東に床を構える。屋根に変化を付けた丁寧な造りの茶室。
待合は、茶室の北東に西面する敷地東辺に沿って建つ。平屋建の杉皮葺片流で、待合の南側に落棟の雪隠を付属する。軸部は主として丸太を用い、軒は小丸太の垂木。西面南半の出入口以外を土壁とし西壁に円窓の下地窓を開ける。旧家の落着いた露地を構成する。
【国】琴塚古墳
琴塚古墳(ことづかこふん)は、岐阜県岐阜市にある前方後円墳。岐阜県内では3番目の大きさである(1位は大垣市の昼飯大塚古墳)。5世紀頃の古墳である。1934年(昭和9年)8月9日、国の史跡に指定されている。被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられ、琴塚の名もこれに由来する。
長良川南岸の岐阜市から各務原市にかけての地域に、柄山古墳(全長91メートル)、南塚古墳(全長65.6メートル、消滅)土山古墳(全長58メートル、消滅)などの前方後円墳、円墳で形成された琴塚古墳群が所在した。
本古墳は、この古墳群中の1基であり、岐阜市東部、金華山の南東に広がる低位台地の東端に位置する[1]。二重の濠をもち、現在知られている古墳のうちでは県内第3位の規模である。現在は外濠は埋め立てられており、北西と東側に痕跡は残っている。内濠は築造時のままである。未発掘のため内部構造は不明である。墳丘は三段築成、葺石、円筒埴輪をもつ。墳丘の両側に造り出しが対称に設けられている。定型化が進んだきわめて整った形をしている。
構造
墳形:前方後円墳(葺石・埴輪も残る)
規模
全長:約115メートル(外濠を含めた古墳全長は194メートル)
後円部径:69メートル、後円部高さ 10.5メートル
前方部幅:74.2メートル、前方部高さ 7.5メートル
内濠幅:18~20メートル、外濠幅 7.2メートル、内堤の平均幅 14.5メートル
主な出土品
埴輪、勾玉、銅鏡、石槍、鏃など
【県】延算寺本堂
寺伝によれば、弘仁6年(815)に弘法大師が当地を巡杖し、一寺を建立し延算寺と名付け、貞観6年(864)清和天皇の病気平癒祈願により定額にあづかり、七堂伽藍を建立したとある。天正10年(1582)兵火により全焼、寛永20年(1643)再建された。
本堂は、桁行3間、梁間4間、単層屋根の銅板葺であり、勾配は比較的ゆるやかな入母屋造[いりもやづくり]である。均整のとれた素朴な建物で各部様式は格調高く外観は優美である。ことに組物[くみもの]、蟇股[かえるまた]、入母屋破風等の彫刻に室町時代末期の様式をよく残しその手法は優れている。昭和36年に本堂の解体修理工事が行われ、屋根が檜皮葺[ひわだぶき]から銅板葺に葺き替えられている。
美濃和紙関連
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