【連携】岐阜市との「地域活性化に関する包括連携協定」
岐阜女子大学は、令和2年2月3日岐阜市(柴橋正直市長)と地域活性化に関する包括連携協定を締結いたしました。本学が自治体との包括協定を締結するのは3例目となります。
この協定は、双方が多様な分野で包括的に連携と協力関係を築き、地域の課題に適切に対応し、協働による事業を推進することにより、活力ある地域社会の形成・発展や未来を担う人材育成などの地域社会に寄与することを目的としています。
連携内容は、次の事項です。
(1)教育、文化の振興に関すること
(2)健康づくりに関すること
(3)まちづくりに、地域の活性化に関すること
(4)人材育成に関すること
(5)災害対応に関すること
(6)上記各号に掲げるもののほか、目的を達成するために必要な事項に関すること
柴橋岐阜市長から、岐阜提灯や岐阜和傘などの伝統文化産業をはじめ「本物志向の観光街づくり」の推進に大いに期待しているとの話があり、松川学長は、本学の有する多様な知を岐阜市における地域課題と結び付け、独創的、先進的な取組みにチャレンジしていくと応えました。本学はデジタルアーカイブを始めとする大学力により地域貢献に努めて参ります。
瑞巌寺
正式名称:松島青龍山瑞巖円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ)
天長5年(828)、慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の古刹で、延福寺と呼ばれていました。延福の寺号は天台宗の総本山、延暦寺に由来します。正元元年頃(1259)臨済宗に変わり寺名も円福寺へと改名されました。
現在の建物は、慶長14年(1609)、伊達政宗公が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものです。建築にあたっては、諸国から名工130人を集めたほか、建材も熊野山中から取り寄せるなど、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。造営の縄張には政宗自ら縄頭を執ったことからも政宗が心血を注いだことが窺われ、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。
伊達家の菩提寺である瑞巌寺は、桃山時代の真髄を表している荘厳な建物です。特に唐戸や欄間、あるいは襖や床の間の豪華な絵画は日本の自然美を代表する人工美の極致とされています。
本堂は平成21年9月より平成の大改修をしておりましたが、平成28年4月5日より拝観を再開しました。
■本堂(方丈)
書院造りで入母屋造本瓦葺の本堂は、三方に広縁、落縁を廻らし、室中孔雀の間、仏間、上段の間、上々段の間など10室の部屋で構成されております。正面の幅は38メートル、奥行き24.2メートルです。京都・根来の大工衆が技を競いました。(国宝)
■上段の間
藩主の部屋で別名御成りの間。黒塗框の豪壮な床の間・火頭窓・違い棚・武者隠(帳台構)を備えた書院です。上段の間は仙台城本丸大広間にも設けた施設で秀吉の聚楽第と併び称された仙台城の豪華さを今に伝えています。
■欄間の彫刻
文王の間には「諫鼓の鶏」「鶴の巣籠り」、礼の間は「菊に尾長鶏」「紅葉に鹿」、松の間は「牡丹に金鶏」、「牡丹に孔雀」等、吉祥のモチーフが写実的手法で彫刻されています。
■庫裡(非公開)
禅宗寺院の台所。切妻造りの本瓦葺きで、屋根には入母屋造りの煙出しを載せ、唐草の透かし彫り等名工の腕が冴えた庫裡の傑作といわれています。
■参道
本堂へと続く参道は、両脇に鬱蒼たる杉木立が続き、その両側に江戸時代には、十二の塔頭がありました。 崖際には、修行僧が生活した場所、苔むした洞窟、石碑、石塔、石像群があり、静寂かつ厳粛な雰囲気があります。
正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとう せいりゅうざん ずいがん えんぷくぜんじ)」という。天長5年(828)に開創された奥州随一の古刹である。現在の建物は、慶長14年(1609)に伊達政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものである。奥州は地理的関係、気候の厳しさから、中央の文化を受け入れることが遅いと考えられている。しかし、これはあくまで一般論であって、時として中央文化を凌駕するものが現れることがある。例えば平安時代末の平泉文化で、その象徴が中尊寺金色堂である。伊達政宗の仙台城および城下町、瑞巌寺、大崎八幡社に代表される奥州桃山建築もこれに当たるものである。
これらの造営の中心になったのは、山城の梅村家一門及び紀州根来の鶴家一門である。そのなかでもこの奥州桃山建築の華を仙台にもたらしたのは、後に彫刻の名人「左甚五郎」のモデルとされる鶴家の鶴刑部左衛門国次であると言われている。
#左甚五郎
資料集
189_200_瑞巌寺
中尊寺
中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。
清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。
清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。
清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。
法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。
二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。
平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。
鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。
資料集
060_063_中尊寺
毛越寺
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。
法会のあとに催される歌舞を総称して「延年」といいます。毛越寺には「田楽踊」「路舞(ろまい)」「祝詞(のっと)」「老女」「若女禰宜」「花折」「勅使舞」など10数番が伝承されています。また幕末まで「延年の能」も多数残されていましたが廃仏毀釈等で廃れ、近年そのうちの「留鳥」(とどめどり)が復興されています。延年の舞は、開山以来連綿と行われてきた常行三昧供の修法とあわせて国の重要無形民俗文化財に指定されています。
資料集
059_062_毛越寺