下原八幡神社

下原八幡神社
なかつはら 中津原<金山町>
益田(ました)川左岸に位置し、火打ち峠する。地名の由来は「古しえ此郷中に、上ツ原(門原)、此の中津原、下ツ原(下原町)三村並び称えたる名なるべし」という(後風土記)。
〔近世〕中津原村 江戸期~明治8年の村名。飛騨国益田郡麻生(あそう)郷、のち下原(しもはら)郷のうち。
〔近代〕中津原 明治8年~現在の大字名。はじめ下原村中津原組と称し、明治22年からは下原村の大字。昭和30年金山(かなやま)町の大字となる。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
下原八幡神社
祭  神  応 神 天 皇
創  立  仁徳天皇の御代  1,600年前
旧社格  郷社 下原郷(下原・中原・上原)17ヵ村
境内坪数  1,935坪
上古は、中津原水無八幡宮と称して飛騨八社の第一番であった。
由 緒
斐太後風土記によると仁徳天皇の御代、飛騨の国は「両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)」という首長が治めていた。宿儺は、1つの体に両面があり手足は4本ずつあって、走ることは馬の如く左右に剣を佩し強弓を引く豪傑であった。時恰も大和朝廷の全国統一期にあたり、宿儺は天皇の命に反したので、皇弟の「難波根子武振熊命」が勅命を奉じて飛騨へ討入ることとなった。
武振熊は、武内宿称と共に神功皇后にお供して、三韓に渡り凱旋の後も香坂王忍熊王の軍に勲功のあった名将軍であったので、美濃国高沢山の要塞で両面宿儺の軍を打ち破り、道々心を配りつつ中津原に来て軍勢を宿め、飛騨入国の最初のこの地に仮の斎場を設けて先帝、応神天皇の御霊を奉祀して戦勝祈願された遺跡が下原八幡神社の起源である。武振熊は、どこからともなく舞い降りた1羽の白鳩の道案内によって無事討伐の任を果たした。
本殿の左側の注連を廻らした大岩を、昔から猫の形に似てもいないのに「ねこ岩」といっている。武振熊がこの大岩の上に八幡様を勧請されたので、難波根子武振熊命の「ねこ」から来たものといわれている。「根子岩」の横に国指定天然記念物で直径4mの「神代杉」と、傘のような大杉で乞食が年中いたという「乞食杉」や、穴がいくつもあってくぐることが出来た「蓮根杉」があったが、昭和24年、濃斐中学建設資金として伐倒された。
*説明版より