堂前廃寺

堂前廃寺
堂前廃寺
<立地と環境>
 この廃寺は、国府町木曽垣内字堂前に所在する。北西方向2kmには白鳳寺院塔の腰廃寺があり、付近一帯には、古墳としては木曽垣内大塚、木曽垣内比丘尼塚、木曽垣内塚田古墳などが知られているが、いずれも減失している。また、中世の寺院と伝わる健正寺跡や二ツ寺遺跡などこの付近は遺跡の宝庫である。
<調査の経緯> 本廃寺跡の遺構は不明。
<遺構と遺物>
 昭和39年の土地改良整備事業の時に、木曽垣内の中村健一によって軒丸瓦、丸瓦、平瓦等50数点が採取されている。昔から古い寺があったと古老は伝えている。
 今回の町史編纂のための遺物調査によって、新しく発見された遺物である。単弁軒丸瓦の1種類(第34図の1)である。弁は6弁で先は丸く弁の中央に突線を持つ。弁と弁の間に小さな間弁をもつ、中房は欠損していて不明。外縁は素縁である。本軒丸瓦の形式はほかの寺院にない独特の紋様である。弁の中央に突線(鎬しの)を有する紋様は、高句麗様式の瓦当紋様に端を発する。岐阜県下では、宮代廃寺(不破郡)、厚見寺跡(岐阜市)に類例が出土し、周縁も素縁である点も共通する。また、伊勢湾に面する尾張南部には、甚目寺跡や奥田廃寺など数か寺から出土する。尾張の場合は、瓦当周縁が重圏文になる点が特徴的である。
 寺院建立は、国府町の他の白鳳寺院より若干先行するため、7世紀後半に建立されたものと推定できる。
 従来の研究で国府町における白鳳寺院より若干先行するもので、7世紀後半に建立されたものと推定できる。
 従来の研究で国府町における白鳳寺院は、石橋廃寺、名張廃寺、塔の腰廃寺、光寿庵廃寺、安国寺廃寺の5か寺であったが、今回の調査で1か寺増え6か寺となった。全国的にみても狭い地域での寺院建立はその数の多さと、その華麗さを考えるとき、律令体制の中で国府が置かれていた位置付けと、その歴史的背景を十分考慮しておかなければならないことは当然である。終末期の古墳をみても寺院の様相をみても、飛騨の古代文化は近隣の諸国と並外れた高度な文化内容を持つことを付して置く。
国府町史刊行委員会編集・発行『国府町史 考古・指定文化財編』 平成19年発行
木曽垣内の大仏について
「木曽垣内のおおぼとけ」・「木曽垣内の大仏さま」の呼称で親しまれるこの仏像は、仏身の丈2メートル1センチ、台座の高さ97.5センチ、仏の顔の長さ60センチ、肩幅は1メートル余で檜材を用い、顔から胸・腹にかけての部分は作られた当時のものである。
肩から両手・膝から足及び蓮台は、慶応2年(1866)に補修されたことが胎内にあった墨書銘から判明した。飛騨地方には例を見ない大きな仏像であり、県重文に指定された。
国分尼寺の御本尊は上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結んだ阿弥陀如来坐像である。像高177センチ、台座は97.5センチ、いわゆる丈六(じょうろく)像に近似した大きさである。坐像としては飛騨で一番大きいことから「木曽垣内の大仏」と呼ばれ、古来から多くの人々に深く信仰され、親しまれ、幾多の伝説も残されている。
昭和30年代の初め、宗教法人化する際、当地区近辺に二ツ寺・堂前・建正寺・大日などの小字があることから、山号を建正山、寺名を国分尼寺とし、臨済宗妙心寺派に属することになった。昭和39年12月8日、本像が後世に保存すべき重要な仏像と認められ、岐阜県の重要文化財に指定されている。
阿弥陀像の、頭頂部は少し欠損しているものの、顔から胸、腹にかけての部分はカヤの木の一本造りで、仏像が造立された当時の姿で残されている。両肩から手、脚部にかけては江戸時代後期、慶応2年(1866)に地元の仏師東平(とうべい)によって桧で修復されているためか、顔の長さが60センチあることを思えば、少しきゃしゃな感じを受ける。昭和56年10月から58年3月にかけて、岐阜県の補助を受け、仏像の研究と修復の第一人者である奈良市在住・辻本千也氏に依頼し、仏像の修復、防虫、保存修理が行なわれた。この修理の中で、眼の造り方が彫眼であること、螺髪(らほつ=頭髪部分)のひとつひとつの粒が大きいこと、額と螺髪の部分が直線に近いこと、胎内に残された鑿(のみ)などの痕跡、彩色が施された痕跡が全く見当たらないこと、これらを総合的に考え合わせると、平安時代中期に作成された可能性が高いことが判明した。 リーフレットより
円空上人作 観音像
この堂宇には大仏の他に円空の仏像も保存されている。観世音菩薩(高さ台座共61センチメートル)で、享保時代円空が当地へ来遊した時の作と伝えられる。
 説明版より