江戸街道

江戸街道
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337キロメートル)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6キロメートルは古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡上堺(ぐじょうげ)といわれ、それが「びじょうげ」から美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおよびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修がおこなわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道がもっていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまったが、しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
旧江戸街道
<市指定> 昭和32年8月2日
<所有者> 高山市(市道)
      管理者 山口史跡保存会
<所在地> 山口町森下より水呑(のみ)洞
<時 代> 江戸時代~明治時代(17~19世紀)
<員 数> 約6㎞
 街道(1箇所)指定区域内に高札場・橋場・差手観音・雨乞平・幕の内・接待所跡・南無阿弥陀仏石・餅売場・比丘尼(びくに)屋敷・峠観音等の旧跡がある。
 飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337㎞)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6㎞は古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
 高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡(ぐ)上(じょう)堺(げ)といわれ、それが「びじょうげ」→美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
 江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
 江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修が行なわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠(みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
 明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道が持っていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまった。しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
『高山の文化財』より
江戸街道の史跡
この旧江戸街道は尾根道が多く、随所で高山市街地の眺望が良い。健康づくりに、そして、歴史を感じながらハイキングをするには良いコースであろう。
江戸まで43次85里(337㎞)
山口が最初の宿場で、金森長近が道普請をして本道往還筋とした飛騨唯一の公道。
①了心寺 山号を松(しょう)生(ぶ)山(さん)、浄土真宗大谷派、開基永正15年(1518)
②高札場 もともと現地より100m先の山手にあった。現在の公示、告示掲示板。
 姉小路歌碑 おくふかく 華をたつぬる あけほのに 山口しるく 雲も かほれる
 楠神社 明治36年頃、現高山病院地内で「嗚呼忠臣楠正成」と刻字された石碑を発見。桜ヶ岡八幡神社の末社
③橋場  山口谷川にかかる重要な橋、長さ8間
④関屋跡 関所の門番所があった場所
⑤梅村用水 梅村速水は、大島から山口へ水を引こうとしたが、もう少しのところで完成をみなかった。1,000分の1勾配
⑥のぞき城 のぞき新蔵という武士が在城したという。山頂に平地がある。
⑦蛇ぬけ  安永2年(1773)の山崩れ。大原騒動の年でもある。
⑧雨乞平  昭和中頃まで行なわれた。昭和43年の畑かん施設により山口の水不足はようやく解消。
⑨幕の内  永禄7年(1564)武田が飛騨を攻めた際の陣跡といわれる。
➉接待所跡 昭和の初めまで茶屋があった。
⑪南無阿弥陀仏の石 新八郎という若者がこれを刻んで自害したと伝わる。
⑫餅売場  八百比丘尼がこの辺りに茶屋を開いて餅を売ったという。
⑬比丘尼屋敷 伝説の八百比丘尼が住んでいたという。
⑭三角点  標高984.9m
⑮峠の観音 水呑洞にある。
⑯神力不動 以前清涼な水が湧き出ていた。高根にあった石仏不動尊をここに移して祀る。
菊(きく)田(た)秋宜(あきよし)建立 天保3年(1832)
「献燈荏名神社大前
 左江戸 みのぶさんぜんこうじ 道
 行列の見事乗鞍かさが岳
 やりさへ高くふれるしら雪 秋宜
 天保壬辰春3月 菊田秋宜」
<明治時代飛騨地図から>
 明治8年、筑摩県時代には飛騨往還(松本、野麦、高山)と飛州往還(木曽福島西野、日和田、高山)を3等とし、道幅を9尺以上としたが、改修をされたところはあまりなかった。依然として江戸時代のままが続いたが、明治28年日清戦争が済んでから野麦街道が整備され、美女峠もその頃にようやく改修されたのである。
 別紙「江名子~久々野の道図」は明治時代初期の地図で、山口から辻へ太い線で表されているが、これは旧江戸街道であり、山口谷川沿いの道ではない。
 山口谷川沿いの道は、明治30~40年代頃に新しくつけられ(図の⑤)、馬車が野麦まで通れるようになった。ここに人馬から荷馬車へと交通形態が変遷したのである。しかし、荷馬車がすべて山口谷川沿いの道へと移ったのでもなさそうで、昭和初期に旧江戸街道を荷馬車がカラカラと通っていったのを記憶している里人がいる。さらに、旧江戸街道の山路は荷馬車が通るつづらおりの坂道と、人が通る直線的な近道があったという。その通り、現在も旧江戸街道の遊歩道を1歩はずれて山へ入ると随所に別の旧道が何本も遺存している。
<伝説等>
①八百比丘尼の伝説
 昔、この峠にたいそう美しい尼様が住んでいた。不思議なことにこの尼様は、何百年たっても少しも年をとらず、髪もつやつやと黒く、常に17、18歳としか見えなかった。それで八百比丘尼と呼ぶようになったという。
 この尼様は美しいだけでなく、愛嬌が良くて餅を作ることが上手で、毎日道端の店で売っていた。この峠を通る旅人はその餅の味の良さと、尼様の愛嬌の良さに引かれて店で休み、旅の疲れを忘れたのである。後、訳があってこの尼様は長い間住み慣れた峠の茶屋を捨て、若狭へ移って行った。その時、長い間世話になった村人たちに何かお礼の気持ちを残したいと思い、「私のか弱い力では何もできませんが、もし日照りが続いて難儀するような時には、この山に登って雨乞いをして下さい。きっと雨を降らせます。」と言い残してこの山から姿を消した。
 村人はこの尼様のいた所を比丘尼屋敷といい、餅を売った所を餅売場と呼ぶ。また峠に「雨乞平」と呼ぶ所があって、日照りの時には村人がここに集まり、1晩中焚火をし、鉦を打ち鳴らして雨乞いをすると、八百比丘尼の言った通り雨が降るといわれる。
江戸街道入口

荒神社
鎮座地 江名子町大谷4946番地  白幣社 (旧社格 無格社)
一、祭神
火結神(ほむすびの)(斎火武主比神)
火之夜芸速男神(ひのやぎはやおの)
奥津日子神(おきつひこの)
奥津日売神(おきつひめの)
一、由緒
 延元3年(皇紀1998・西暦1338)越前において新田義貞戦死の際、その勇将畑六郎左衛門時能が、兵と食糧を求めて飛騨に入り、この地で墾田開拓したが、このときの京都の上賀茂と御所内の荒神の御分霊を祀り、田畑の守護神としたことに始まると伝えられる。いまも寒中に「裸足参り」などの風習が残っている。
 古昔は女人禁制で、婦女の社地を踏むのを忌み、また、境内樹木の枝葉を採ることさえ禁じたが、またこれを犯す者も無かった。
 五穀・養蚕をはじめ、殖産興業に霊験があり、ために多くの信仰をあつめ、氏子組織とは別に、「荒神講社」をもち、飛騨一円にわたって熱心な信者がある。
 俗に言う「荒神さまの甘酒祭り」で世に知られる。元禄検地による除地帳に、荒神社の社名のみ見える。昭和21年神社庁の創立とともに、これに所属し、岐阜県神社庁より白幣社の指定を受けた。
 同24年国有境内地911坪の無償譲与を受けた。社地は市の保存林に指定され、「夫婦杉」はまた、市指定天然記念木となっている。
一、祭祀
 例祭日は陰暦の閏年11月8日(制定日11月18日)。その日五穀餅と醴酒を一般参詣者に供する。
 祭日には里長の屋敷前で、その前夕祓いをして身を浄めた若者は、屋外積雪の中で醸した醴酒と、米・大豆・小豆・粟・稗を材料として搗いたいわゆる「五穀餠」、110膳(75と35にして柏の葉に盛分け箸を添える。)を神前に供えて、豊凶を占った神事の後、一般参拝者に供饌を頒布する。
一、建造物
 本殿(流造 1坪)・拝殿(平棟造 6坪)・手水舎(1坪)・鳥居(木、石各1個)。
一、境内地 42坪。 境外地 山林2反8畝2歩。原野1畝9歩。
一、氏子 50戸。上江名子の賀茂神社の氏子と同区内である。
『飛騨の神社』より

 

関連資料

3-6-1 江戸街道

3-6-2 旧江戸街道

3-6-3 江名子から久々野の道・地図

3-6-4 荒神社