飛騨鰤

飛騨鰤
越中からのブリ
1,ぶりで年取りをする行事
高山では毎年、12月31日の大みそかの夜に「年取り」という行事をする。12月31日に一つ年を取るということを祝う行事である。昭和30年代までは、「数え年」で年齢を数え、生まれたその年にまず1歳、その年の12月31日に1つ年を取って2歳と数えた。12月30日に生まれた赤ちゃんは翌年1月1日には「数え」で2歳ということになった。12月31日に年を1つ取ったのである。それで12月31日には年を取る祝いを盛大に行い、その時に出世魚であるぶりをおいしく食べる。しかし、年取りでぶりを食べることができる家庭は少なく、多くは煮イカであった。高山の豪商の中には、年取りのぶりを食べる専用の皿を用意している家もあった。今のようにぶりを皆が食べるようになったのは、昭和40年代後半くらいからであろう。
年取りに、家族揃って脂の乗ったおいしいぶりを食べることは、1年の総決算と、新年を迎える一大行事であり、普段食べるぶりとは味が違っているのである。
ぶりは名前を変えるのだが、当歳ではツバエソ、フクラギ、二歳ではニマイズル(ガンド)、三歳ではコブリ、四歳ではアオブリ(70㎝程)、五歳以上をオオブリと富山ではいうそうだ。
2,ぶりが運ばれた越中街道
魚の消費地高山では、江戸時代から街道を開いて越中の塩や魚を輸入した。魚は塩干が中心で肥料にも使われたが、酢でしめた肴も高級仕出し料理で使われたといわれ、高山の豪商の家では池にカレイが泳いでいたという。
越中から富山へ通ずる道は飛騨に向けては「飛騨街道」、越中に向けては越中街道といった。この街道は、基本的に3本あって、宮川沿いに国府、古川、宮川、猪谷へと北進するのが「越中西街道」。国府の上広瀬から今村峠へと山地に入り、神岡の船津に入って橋を渡り、高原川の右岸を通るのが「越中東街道」。高原川を渡らずに左岸を通るのが「越中中街道」といった。年末の年取り用のぶりはこの越中街道を主に通って高山に運ばれている。
富山湾でとれたぶりは4匹ずつの塩鰤が入れられ、牛の背又は歩荷により高山まで運ばれた。
この越中東街道は文禄(1592~)~慶長(1596~)年間にかけては、飛騨への主要路であり、寛永16(1639)年からは加賀藩領としての街道に継続している。岩瀬浜の東岩瀬→東笹津→神通川右岸→船津→藤橋(渡)→朝浦→高山というコースである。
一方、寛永16年(1639)、富山藩が加賀藩から分藩したことにより、「富山藩コース」に「越中中街道」がなり、肴はこの中街道を通るようになってゆく。西岩瀬→富山→大久保→西笹津→西猪谷→蟹寺→谷村→茂住→船津→山田→巣山→八日町→高山というコースである。
この蟹寺(富山)から谷村(飛騨)へ渡るとき、籠の渡しを通るが、安藤広重は「六十余州名所図会」で版画に残している。また、猪谷の関所では、富山の魚商人が口役銀を払えず、念書を書いて帰りに払った商人もいた。口銭帳には役銭不足書上で通過している。12~160文であった。富山藩は魚方役所及び中野口、青柳口で発行した魚送り状をつけ、西猪谷関所で受け取り、改めて、魚問屋役所に送り返して魚の流通を確認している。
3,ぶりを集めた肴問屋の「川上」
江戸時代、ブリは高山の肴問屋を通じて美濃や信州に流通した。富山県の氷見港などでとれたブリは、「佐平鰤」、「かね松鰤」などと網持ち荷主の名で呼ばれ、越中街道を通って飛騨の問屋に入る。高山の問屋から、改めて出荷するときには「飛騨鰤」という名前に変わり、野麦峠を越えて信州へと旅をしていった。信州の人は、鰤が飛騨で獲れるものと思っている人もいたほどである。
越中に、江戸時代から飛騨へブリを送った網元魚屋がいて、この人たちが絵馬額を寄進している。この絵馬額は飛騨国藩主金森4代頼直の武運長久、病気平癒を祈願して寛文5年(1665)、越中肴屋連中らが山王宮に奉納したもの。これにより飛騨と越中、加賀との魚、物産交流を知ることができる。
絵馬額・奉懸絵馬 寛文五暦六月吉日敬白・越中肴屋三衛門ほか24名、同塗師屋仁右衛門、同針田屋治郎兵衛ほか1名、加州大工梅口四郎兵衛・小田原五兵衛
また、信州から飛騨鰤の買い付けに商人が来ている。直接市場で買うことができないので仲介を通したが、よい鰤が出るまで高山の宿に泊まり、それを松本、高遠へと運送した。宿帳に名前が記録されている。

年取り行事
飛騨では今でも大晦日に盛大な祝いをする。それは、年をとる祝いであり、帰省した兄弟や子息を加えて、家族水いらずで、厳かにとり行なう神聖な儀式である。皆、順に風呂へ入り、仏壇にまいり、それから一同席について今年の事を感謝し、また来年も良き年であらん事を祈る。
この行事の膳には、必ずブリが乗る。十二月中頃から氷見港に回遊してくる油の乗り切ったおいしいブリが、飛騨へ入ってくる。ブリは小さい頃にハマチ、フクラギといい、大きくなるごとに名前が変わってゆくという、出世縁起を託して食べた。ブリが買えない年には煮イカで代用し、子どもも大人と同じようにブリや煮イカを膳に乗せてもらった。
正月の朝は、ゾウニを食べるぐらいで、ごちそうを食べなかった。この年取り行事は全国的にまだまだ残っている。一日の始りは夜から始まるという日本古来の民俗や、正月三カ日の儒教の影響による若水迎え、雨戸を開けるのは家長が、とかの慣習を含んだ年中行事として、飛騨の「年取り」は特筆すべきものである。

 

関連資料

3-2-1 飛騨鰤

3-2-2 ぶりの年取り行事