亀塚古墳
亀塚古墳
<立地と環境>
本古墳は、歩み山丘陵の北端が埋没する所に在って、荒城地区と広瀬地区の出合いである。現在国府小学校校庭となっている。近隣には、十王堂古墳が東北400mに在り、北150mに芦原古墳が在る。この地は国府町の中枢である。
<調査の経緯>
明治42年の『飛州志』によると、こう峠口古墳及び広瀬古墳のことが広瀬窟として紹介されている。したがって2つの古墳は、明治42年以前に盗掘されていることが知られている。明治28年7月発行の『飛州』の広瀬亀塚発掘記事(岡村季(り)坪(へい))によると、明治28年4月、この墳墓を壊して小学校を建てたとある。明治29年の小学校の落成写真を見ると校舎の左側に一部古墳が残っているのが確認できる。
また、大正7年の運動場拡張工事で亀塚古墳は完全に破壊された。大正7年の土砂取除き作業当時の写真は次の通りである。
<遺構と遺物>
墳丘は失われて古墳の規模を詳しく調査することができないが、ただ1つ当時の古墳の大きさを知る資料として、明治21年の広瀬町村の野(の)取(とり)丈量帳(じょうりょうちょう)の測量図によれば東西で73m、南北で70mを推定することができる。
また、明治28年7月号の飛州の記事(岡村季坪、「岡村利平の事」)では墳墓の大きさを記述している。一部抜粋すると「墳墓の周囲120間(218.4m、直径69.4m)、高さは5間(9.1m)、円形でアーチ形をしている。その形が亀の甲に似ているというので亀の字を用いたのであるが、瓶塚(かめづか)と書く一説もある。」
広瀬町村大塚(亀塚)の測量図が岡村季坪の斐太温古志料「楲田之(ひだの)玉(たま)秧(お)」吉城郡三に書かれている。その測量図によると古墳の基底が凡(おおよ)そ34間(61.9m)とあり、大きな違いは、野取丈量帳では亀の頭に似た出張り部分があるが、岡村季坪の斐太温古志料『楲田之玉秧』では、この部分が無いことである。おそらく明治21年から小学校建設当時の明治28年4月の間に削られたと思われる。亀塚古墳の基底の直径は、明治21年当初は70m前後の2段築成の円墳であった。
「土砂の芝生を均す工事にかかり、頂上の芝生より4尺~5尺も掘り下げたところ、川石を畳のように敷き、其の隙間を粘土で充たした、凡そ2間(3.64m)、幅凡そ6~7尺(10.92m~12.74m)の溝のような堀にあたった。西側の方から鉄鎧、鉄兜各1、両刃刀、片刃刀各数本、東側から両刃刀、片刃刀各数本、鉄鏃凡そ50程出土した。北側は偏って、石畳はあったが粘土はなかった。其の内より鉾1本、片刃刀1本を発見した。墳は砂と真土とが層をなしていた。工事は元々個人の受負なので日限も切迫してきた。考古学に眼中にない族なので、墳墓は容赦なく破壊される恐れがある。有志者が話し合い彼等と相談して、数日間の奇妙な部分の探検の許可を得たが、十分な調査ができず誠に残念である。」との感想を述べている。
現存する出土遺物は、鉄製鎧(兜含む)、鉄刀2個、鉄鏃11本である。鉄製鎧は三角板皮とじで5世紀前葉と推定できる。
前述のように、亀塚古墳は径70mに及ぶ大円墳であった。多量の武器のほか、全国的にも希有な甲冑を副葬しており、この古墳の被葬者は5世紀前葉の飛騨最大の豪族で、両面宿儺に象徴される飛騨の豪族たちの盟主と亀塚古墳は深い関わりがあることが指摘されている。
明治27年に小学校建設に伴って検出され、今日まで遺存した遺物は次のようである。
⑴武器類
①鉄剣 10本以上
②鉄刀 4本
③鉄鏃 11本
⑵甲冑
①三角板革綴短甲 1領
②肩冑 1具
③頸甲 1具
④三角板革綴衝角付冑及び錣(しころ) 1具
⑶鉄製蓋状鉄器鉄具 1個
【文献】
柏木城谷 飛州30号「広瀬王塚考」 1895
岡村利平 飛州31号「広瀬亀塚発掘記事」 1896
広瀬町 広瀬町村野取丈量帳 1888
岡村利平 斐太温古志料「広瀬亀塚測量図」
春日井市 春日井シンポジウム 2005
国府町史刊行委員会編集・発行『国府町史 考古・指定文化財編』 平成19年発行
資料集
143_153_亀塚古墳