飛鳥浄御原宮(板蓋宮を含む)
飛鳥浄御原宮(板蓋宮を含む)
板蓋宮
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。643年(皇極天皇2年)4月、遷る。
板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。この日、蘇我入鹿が刺殺され、これにより皇極天皇は同月12日(14日)に退位し、軽皇子が即位した(孝徳天皇)。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた(難波長柄豊碕宮)。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。当時、大陸から伝来した最新様式を反映している寺院は瓦葺きであったが、それ以外の建築物への普及は進まず、平安時代以降の貴族の居宅である寝殿造も檜皮葺である。本格的な瓦葺きの普及は江戸時代以降である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
史跡 伝飛鳥板蓋宮跡 昭和47年4月10日国指定
推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまだ確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、主に橿原考古学研究所によって発堀調査が続けられてきた。
その結果、掘立柱列で囲まれた東西約156m、南北約197mの長方形の区画(内郭)と、その南半では中軸線上に位置する5間×2間の門と、7間×4間の建物、北半ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。また内郭の東南に接しては、9間×5間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の県道沿いには、これらの遺構を囲む外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。
建物はすべて掘立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺跡と推定されるが、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。
*板蓋宮跡説明版より
資料集
086_093_飛鳥浄御原宮(板蓋宮を含む)