【報告書】飛騨一之宮ものがたり
飛騨一之宮は、この地域に名高い位山の麓に広がり、水・木・道・祈りなどをくらしのより所としながら、豊かに里の歴史を積み重ねてきました。
飛騨の人々の生活に深くかかわる宮川が流れ出すこの地域には、水温が年間14℃前後の清流にのみに育つバイカモ(梅花藻)が見られ、この地のシンボルの一つともなっています。 [水]
この地域の山々や里のところどころに巨木(大きな木)が残されています。国指定天然記念物の樹齢2000年の大いちい、樹齢1100年の大幢寺の臥龍桜などみごとです。 [木]
時代とともに、日本各地の文化が位山分水嶺の峠を越えて、高山町や北飛騨全体のくらしの礎(もとになるもの)を伝えてきた歴史があります。古くは刈苅安峠を越えた位山古道、新しくは宮峠を越えた国道41号線やJR宮トンネルがあります。 [道]
都でも尊い(とうとい)と歌われた位山の麓であるこの地には、古代より飛騨一宮水(み)無(なし)神社がまつられ、飛騨はもとより富山県などの人々の厚い信仰は、今も長くたえることなく続いています。[祈り]
遅い飛騨の春、一之宮の人たちは、桜の里の花がいっぱいに咲くのを楽しみにしながら、水に恵まれた米作りや豊かな山林の木々の伐りだしの仕事に精を出すなど、長い歴史の時を生きてきたのです。 [くらし]
タイトルにある「ものがたり」ですが、これは「おはなし」という意味ほかに、フランスのことばで「歴史」という意味も込められています。これからも皆さんは、飛騨一之宮でいろいろなことを体験するでしょう。
そのものがたりの一つひとつは、飛騨一之宮の歴史になります。いままでの飛騨一之宮のものがたりを知り、それを糧として、これからも飛騨一之宮のものがたりが続いていくことを願い、このタイトルを名づけました。
– 目 次 –
ⅰ わたしたちの飛騨一之宮
1.土地と気候
2.飛騨一之宮の生い立ち
ⅱ 水
1.宮川の源流と分水嶺
(1)水のふるさとを訪ねて
(2)水のあるくらし
2.川のゆくえ
(1)源流から日本海
(2)川の移り変わり
3.宮川と昔話
(1)覆河原と座禅石とあじめ
(2)三本松
4.「あじめ」を守る
ⅲ 木
1.ツメタの大イチイ
2.水無神社の大杉
3.臥龍桜
4.松
(1)刈安峠の松
(2)ヌクイ谷の赤松
ⅳ 道
1.位山古道
(1)位山古道の整備
(2)位山古道の地図
(3)位山匠の道
(4)位山古道散策マップ
2.JR
3.国道41号線
(1)宮峠
(2)宮トンネル
ⅴ 祈り
1.飛騨一宮水無神社
(1)起源と祭神
(2)歌碑
(3)歴史
(4)笏木の献上
(5)例祭神事
2.飛騨一之宮の祭り
(1)神事芸能の伝承
(2)飛騨生きびな祭り
(3)闘鶏楽
(4)神代踊
(5)獅子舞
3.大幢寺
4.巨石
ⅵ くらし
1.むかしのくらし
(1)縄文時代の遺跡
(2)両面宿儺
2.一之宮の伝統と技
(1)わたしたちの町の伝統工業
(2)飛騨の宮笠(一位笠)
(3)伝わる技術とささえる条件
(4)伝える技術と問題点
◆飛騨一之宮の地図 (付録)
冊子
01目次 02私たちの飛騨一之宮 03水 04木 05道 06祈り 07くらし
千光寺
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には7堂伽藍19の院坊があったと伝える。永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第24世法印*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
観音堂 棟札 員数 1棟
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なった。その2年後の慶長3年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬治2年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
昭和44年12月11日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
宿儺堂 員数 1棟
慶長3年(1598)建立。当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。両面宿儺は、日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最期は大和朝廷と戦って敗れる。
平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長3年の建立と判明した。
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に、当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が、1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なっている。
平成15年6月16日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
弁天堂 員数一棟
永禄年間の武田軍による焼き討ち後、再建されたと伝わる。
弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記される。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。
平成15年6月16日指定 *説明版より
極楽門(仁王門)
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には七堂伽藍十九の院坊があったと伝える。永禄7年(1565)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。
平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第二十四世法印
高野山傅燈大阿闍梨 大圓敬曰*説明版より
高山市指定史跡 四国八十八カ所霊場札所
明治20年(1887)、当山住職三蔵祐圓法師の時に、新四国霊場を草創し、巡礼運動を展開したのが、現今の道場である。
巡礼者は、身に白衣をまとい、笈摺(おいずる)を負い、金剛杖をつきながら歩き、真言宝号とご詠歌を唱え、施主の報謝を受けつつ巡拝する。巡拝中種々の霊験を蒙(こうむ)ると、古今に伝説が多い。巡拝は四季絶えないが、特に春季が多い。
安置仏88堂の左側に弘法大師、右側に如来・観音・菩薩像等の札所本尊仏を祀っている。
平成15年6月16日指定 *説明版より
資料
002_002_千光寺
位山
位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつであり、山域は岐阜県の「位山舟山県立自然公園」に指定されている。
資料
003_003_位山 周辺地域の自然
長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
美濃馬場 長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
動画資料
資料集
005_006_美濃馬場 長滝白山神社
白山文化博物館
一年を通して白雪の天衣をまとった白山は、農民たちから祖先の霊の宿る聖域、水を司る神の御座所と崇められてきました。白山が開かれたのは、717年(養老元)。平安前期には、加賀・越前・美濃の3つの禅定道と呼ばれる登拝のための道が開かれました。その中でも、郡上市白鳥町長滝白山神社を拠点とする美濃禅定道は、「上り千人、下り千人」といわれ、多くの参拝客で賑わいました。
資料集
004_005_白山文化博物館
合掌造り
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の叉首構造の屋根が大きな特徴となっており、とりわけ後の時代に建てられたものはその屋根が急勾配になっている[1]。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている[1]。現在見られる合掌造りにも切妻屋根のもの(白川村や五箇山に多い)、入母屋屋根のもの(旧荘川村に多い)がある[5]。残存している切妻屋根の家屋については、その方が屋根裏の作業スペースが多く取れるからと指摘されている[6]。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった[6]。世界の建築の一つとして国立民族学博物館には合掌造りの展示として、五箇山初の民宿「勇助」(ゆうすけ)の模型が展示されている。書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から「人」の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造であるとされる[。
合掌造りの葺き替え風景
合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている[7]。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
資料集
003_004_白川郷
映像資料
雪国の暮らし
和田家住宅(白川郷)
和田家住宅は岐阜県大野郡白川村萩町地区に位置しています。和田家は室町時代末期(天正元年:1573年)にこの地に土着した上層農家で、名主や牛首口留番所役人(白川郷に設置された番所は牛首口・小白川口・椿原口の3箇所で、寛政年間:1789~1801年以降和田弥右衛門家が代々管理運営し明治5年:1872年に宿駅制度廃止まで続けられました。)を歴任し苗字帯刀を許された家柄です。当時は白川郷の特産の1つ焔硝の取引も積極的に行い財を築いたとされます(焔硝の精製・販売は白川郷の主要産業の1つで和田家では高山陣屋から木製鑑札を発行してもらい特別な許可を取っていました。)。現在の主屋は江戸時代中期に建てられたと推定される建物で、桁行12間(22.3m)、梁間7間(12.8m)、木造3階建(1階は居住空間2階より上部は養蚕で利用)、茅葺、合掌造(左右両側と背面に庇が付属)、正面には式台付きの玄関(和田家は上層農家だった為、武士や幕府の役人との付き合いが多く、身分の高い人達専用の式台付きの玄関が設けられた。)、1階外壁は黒漆喰仕上げ(腰部は白漆喰)。和田家住宅は現在白川郷に残る上層合掌造り農家建築の中でも最大級の規模で質も高いことから土蔵(江戸時代中期建築、土蔵2階建、桁行6.1m、梁間5.3m、切妻、桟瓦葺)、便所(江戸時代中期建築、木造平屋建、切妻、茅葺、桁行7.3m、梁間4.3m)、土地(融雪用池・石組水路・防風林・石垣など)と共に平成7年(1995)に国指定重要文化財に指定されています。又、付属舎である板蔵と稲架小屋が昭和47年(1972)に岐阜県指定重要文化財に、和田家牛首口留番所文書が平成27年(2015)に白川村指定文化財にそれぞれ指定されています。
資料集
002_003_白川郷 和田家
動画資料
明善寺
明善寺(白川郷)概要: 松原山明善寺は岐阜県大野郡白川村萩町地区に境内を構えています。明善寺の創建は不詳ですが延享5年(1748)、白川八幡神社(上白川郷18ヶ村・下白川郷23ヶ村の産土神)の別当だった仙光院の跡を継ぐ為、内ヶ戸から移ってきたのが始まりと伝えられています(延享元年:1744年に浄土真宗本願寺派の本覚寺から真宗大谷派として分派したとも)。現在の庫裏は江戸時代末期に建てられたもので高さ15m、建築面積100坪、萱面積108坪、白川郷を代表する合掌造建築として貴重な事から昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。鐘楼門は享和元年(1801)に飛騨の匠である加藤定七によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、一間一戸、2重垂木、上層部には下層部に比べ柱割が短く、壁は吹き放し、際には高欄が廻っています(当時の梵鐘は大戦中に供出となり現在のものは戦後中村義一氏によって制作されたものです)。鐘楼門は江戸時代後期に建てられた2重楼門建築として貴重なことから昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。本堂は文政6年(1823)から文政10年(1827)にかけて現在の高山市出身の宮大工水間宇助によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、桁行7間、梁間6間、正面には茅葺の大屋根切欠くように向拝が取り付いています。明善寺本堂は江戸時代後期に建てられた寺院本堂建築として貴重ことから昭和42年(1967)に白川村指定重要文化財に指定されています。境内にあるイチイは文政10年(1827)、本堂落成時に副棟梁だった与四郎が植えたと伝えられる大木で樹高約10m、根回り約2.6m、昭和49年(1974)に岐阜県指定天然記念物に指定されています。白川郷が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、その構成要素の一つに選定されています。山号:松原山。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。