アーカイブ年: 2018
高山陣屋
昭和4年に国の史跡に指定された。建物周辺の所有者は岐阜県、陣屋前広場は高山市。史跡範囲は11,219.05㎡。現在遺構は「御門」天保3年(1832)、「門番所」天保3年(1832)、 「御役所」文化13年(1816)、「御蔵」慶長年間(1596~1615)、「御勝手土蔵」天保11年(1840)、「書物蔵」天保12年(1841)、「その他・供待所、腰掛、中門」
元禄5年(1692)徳川幕府は金森頼旹を出羽国上ノ山に転封し、飛騨一円を幕府直轄領とした。それ以来、明治維新に至るまでの177年に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この「御役所」を「高山陣屋」と称している。陣屋設置以来、享保10年(1725)、文化13年(1816)と数度にわたって改築がなされ、幸いにも火災を受けなかった。明治になると、主要建物はそのまま地方官庁として使用され、昭和4年には国の史跡に指定された。昭和44年12月、ここにあった飛騨県事務所が移転し、復元修理と復旧事業が行なわれ、江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ甦っている。
内部は、玄関の間が文化13年改築のままで残り、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。御蔵は高山城三ノ丸に米蔵として建てられていたが、元禄8年現在地に移築された。軸部は慶長年間(1596~1615)のもので、良質のヒノキが使われ、仕上げも蛤刃手斧であり、年代、規模共に全国有数の穀物土蔵である。壁面の傾斜(四方転び)や通風の隙間など、飛騨匠の手法が見られる。
参考文献 『高山市の文化財』
資料集
014_018_高山陣屋
千鳥格子御堂
金鉱が発見されて賑わいを見せていた六厩で、慶長元和(1596~1624)の頃、この地の了宗寺の建立を終えた名工の棟梁が、その余材で旧軽岡峠の辻に「地蔵堂」を造った。御堂の扉として考えられたのが、謎に包まれた千鳥格子の秘法だった。この格子戸は檜の角棒を互い違いに組んでいるが、どこでどのように組み合わせたものか、外見では全くわからない立派な細工で、千鳥格子と呼ばれてきた。地蔵堂は昭和34年の新軽岡峠開削、平成4年の軽岡バイパスの開通に伴い、旧軽岡峠の辻から新軽岡峠口を経て現在地へ移されている。移築時には復元された千鳥格子の扉もできている。昭和46年に高山市の文化財に指定された。
当初の千鳥格子は、長い年月の風雪に耐え、切り取られたり、秘法を知りたい人々の手ですり減っているが、無残になりながらも伝えられてきた秘法の造形に、往時の名工の密かな誇りが込められているかのようで美しい。その秘法扉をつけた地蔵堂は、新しい鞘殿の中に安置されている。
高山の名工岡田甚兵衛は軽岡峠まで出向き、その組み方を解き明かそうと調べたが、外見からは全く解らない。やむなく扉の片隅を少し壊し、その秘法を盗んだという。その謎は噛み合わせ部分の切り込みの深さにあった。秘法を会得した甚兵衛は、早速高山で千鳥格子を使った御堂を建てたという。それが、高山市内東部を流れる江名子川に架かる助六橋の近くにある現存の稲荷堂(川上別邸)である。
参考文献 『新・飛騨の匠ものがたり』(協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
015_019_千鳥格子御堂
飛騨匠神社
「飛騨匠神社」
住所 高山市堀端町90 護国神社境内
ご祭神 手置帆負大神(たおきほおいのおおかみ)
彦狭知大神(ひこさしりのおおかみ)
飛騨木匠霊位
例祭日 1月2日
昭和34年11月15日上棟祭、昭和36年11月15日入神祭。
飛騨の高山でこれらの人たちを祀る「飛騨匠神社」が、堀端町、飛騨護国神社境内に出来上がった。左甚五郎はじめ多くの棟梁(とうりょう)工人をうみ「飛騨匠」の名を残している神社は小さなつくりだが、出来ばえは精密なもの。そのうえ、この神社の建設は明治維新以来飛騨匠の伝統を継ぐ人たちの宿題となっていただけに関係者の喜びはひとしお。
今度の建設は去る33年春ごろから高山市の大工組合員堀新造さんと下島一郎さんの2人が同組合を代表して精魂こめてつくってきたもので、高さ約1メートルの石台に間口、奥行き各1.5メートル、高さ約2メートルの神殿だ。
明治維新のころ、すでに計画され、内務省へ飛騨の有力者たちが連名で嘆願書を出したが、当時は神社の新築が認められなかったという。その後、法律がゆるめられ、工事にかかったが、今度は資金難などのため一部つくっただけで延べ約1年間工事を中止していた。今度完成までこぎつけたのは飛騨地方の木材関係者などの間に資金面の協力が得られたからで、明治初年以来90余年でようやく出来上がった。
神社には故人となった工匠たちの位牌と今後の大工職人でなくなった人の位牌も納めるほか、年貢米を納める代わりに京都の御所の普請に出た大工がその仕事ぶりをたたえられて受けた菊の御紋入りの弓と当時の飛騨匠の名声をつづった古文書などを神宝として納める。
(第4代)長沢秋太郎高山大工組合長の話 長い間の夢だった匠神社が我々の代に出来たことは大変うれしい。なくなったたくさんの先輩たちもよろこんでくれることでしょう。いま飛騨国分寺にまつられてある「飛騨匠木鶴大明神」の木像が匠神社に飾れないのが残念だ。以前匠神社は国分寺内に神殿を持っていたが、あるとき大工と住職の意見が対立して別れることになった。そのとき匠の木像だけ大工側に渡されなかった。近々に今の住職にお願いして何とかもらい受けたいと思っています。
(朝日新聞 飛騨版 昭和36年9月19日)
明治12年1月2日より現護国神社境内にお祀りされている飛騨皇大神宮にて例祭が斎行されて以来、滞りなく毎年の例祭が催行されている。
明治42年正式に飛騨匠神社として神社庁に登録がなされたのであるが、匠発祥の地たる飛騨に木の神を祀り飛騨匠を顕彰し奉る神社がないことはすこぶる遺憾として兼々神社建立が企画されてきたが、機ついに熟するところとなり昭和36年11月15日、着実に進歩し素晴らしい技術の粋を結集した現匠神社がここに誕生したのである。
神社の御神霊は木の神 手置帆負大神並びに技工の神彦狭知大神であり、同業篤志家の昇天された方は洩れなくこの神社に合祀されたのである。匠神社は木に携わる人々の守り神としてまた、心のより処として飛騨の地を鎮守したまうことを念ずるものである。
(護持者 高山建築組合 組合長)『飛騨の匠神社』高山建築組合、匠神社発行 平成27年 より
現在の建物は高山建築組合により、新社殿として昭和36年に新築されている。当初は飛騨国分寺境内に歴代工匠諸霊を併せて祭祀と供養がなされていて、この堂宇を「木鶴堂」と呼び「木鶴大明神」を祀っていた。
木鶴大明神は国分寺の「大明神縁起」によると平安時代に飛騨市河合(かわい)町天生(あもう)から出て京に行き、さらに中国の唐へ渡って活躍した飛騨匠の「韓(からの)志和(しわ)」だという。しかし大工仲間があがめる「木鶴神」は、鎌倉時代に郡上市長滝寺の大講堂建立という大工事をなした藤原宗安をもって飛騨匠の祖としている。そして自分たちを藤原宗安の末裔だと信奉している。
明治12年、城山公園三ノ丸に中教院(現在の飛騨護国神社)が創立されると、神霊は木鶴神像を残して国分寺より分離して中教院に遷され、明治15年、飛騨匠神社として高山中教院の皇大神宮内に祀られた。明治17年1月2日、匠神社例祭として定着(神道事務分局日誌)し、大工組合・木匠講などによって祭祀が行なわれるようになった。
明治20年、久邇宮朝彦親王殿下より「木(たく)匠(みの)祖(おや)神(がみ)」の御神号を賜り、木匠祖神(猪名部(いなべの)眞(ま)根(ねの)大人(うし))を主神とし、相殿に飛騨工匠歴代の神璽と手置帆負(たおきほをひの)神(かみ)・彦狭(ひこさ)知(しり)神(のかみ)2柱の神を祀る。
昭和36年の新社殿は、昭和55年、護国神社の社務所と遺品館建築のため、南側に移されて現在に至る。
参考文献
飛騨建設工業倶楽部企画・編集『飛騨匠』昭和60年
『飛騨の匠神社』5~6頁 高山建築組合 匠神社崇敬会発行
#左甚五郎
資料集
016_020_匠神社
熊野神社
一間社流れ見世棚造で柿葺(こけらぶき)、桁行1.827m、梁間1.073m、昭和54年、重要文化財に指定されている。荒城神社、阿多由太神社本殿に続くもので、飛騨地方の神社建築の流れを知る上にも重要である。
熊野神社本殿は、安国寺境内の北側にあって西面して祀られ、近世には安国寺の鎮守であった。現在は覆屋に入っている。明治初年、神仏分離によって村社に列し、その後明治末期に拝殿、幣殿の建立と整えていった。その際、本殿を覆屋に格納するのに狭いため背面軒廻りを切断してしまった。昭和61年から2カ年にわたり解体修理が行なわれた。
創祀は詳らかでないが、安国寺の鎮守堂として建てられ、寛永元年(1624)に西門前村の請願によって産土神となり氏子達に守られてきた。西門前村は、もとは荒城神社を産土神とする宮地村の中にあったが、安国寺の興隆とともに門前町ができ、ついには東・西に分かれたものである。東門前村は分裂後も産土神を荒城神社にしていたが、西門前村には神社がなかった。そのため、産土神として安国寺の鎮守堂を崇拝するようになっていった。
現在の祭神は、熊野大権現、伊勢皇大神宮、白山妙理大権現の木彫神像を祀っている。この三神像の背にそれぞれ祭神の名が書かれている。この像はその作風から僧円空によるものとされ、延宝4、5年(1676、77)頃の作と言われている。
参考文献 『重要文化財 熊野神社本殿保存修理工事報告書』財団法人文化財建造物保存技術協会編集 重要文化財熊野神社本殿保存修理委員会 昭和62年9月発行
資料集
017_021_熊野神社
安国寺経蔵
この経蔵は飛騨地方で唯一の国宝建築である。経蔵の建立は、天井裏にある輪蔵心柱の上端を受ける横木の墨書により応永15年(1408)と判明していて、内部の八角輪蔵は国内における現存最古の輪蔵である。輪蔵には寺僧が中国に渡航して請来した元版大蔵経(一切経)が納められている。心柱に大蔵経を納める書架を中心とした八角輪蔵の部材が取り付き、心柱を軸に回転する構造となっている。
飛騨安国寺は諸国安国寺の一つとして貞和3年(1347)に創立された。多くの安国寺は既存の寺院に寺号を付与する形で設置が実現されており、飛騨安国寺も前身寺院として少林寺の名を伝える(『扶桑五山記』)。本尊釈迦三尊像は延文2年(1357)の造立、現在経蔵に安置してある三牌は文和元年(1352)の作成、観応元年(1350)に示寂した開山瑞巌和尚の頂相彫刻は明徳3年(1392)に造像され、開山塔(塔所)として成立した塔頭・瑞雲庵に安置されたと考えられる。
応永2年~11年にかけて、益田郡中呂村・円通寺(のちの禅昌寺)の寺僧らが自坊に所蔵する大般若経をこの大蔵経と校合(文字の異同の確認作業)していることから、大蔵経が少なくとも応永2年以前に安国寺に請来されていたことがわかる。経蔵造営事業においては、建物より先に、大蔵経の入手が実現していたことになる。安国寺経蔵の元版一切経は現在では半数以上が散逸してしまったが、なお2000帖を超える規模で当初納入された場所に安置されているのは、全国でも稀有な事例となっている。
参考文献『高山市史・建造物編』
資料集
018_022_安国寺経蔵
荒城神社
明徳元年(1390)に創建され、元中7年(1390)に再建されている。三間社流造り、柿葺で、素木造り。本殿と棟札7枚が国の文化財に指定されている。
宮地鎮座の荒城神社は、延喜式神名帳にある飛騨国八社の一つである。祭神は天之水分(あめのみくまり)神(のかみ)・国之水分(くにのみくまり)神(のかみ)であるが、大荒木命を祀ったとの説もある。俗に荒城宮または河泊(かはく)大明神と呼ばれている。つまり川の神、水の神として地域の信仰をあつめてきた。
本殿は、明徳元年(1390)再建されたと伝えられている。その後、数度の修理をしたが、昭和7年の大修理を経て面目を一新した。三間社流造、杮葺(こけらぶき)、棟は箱棟とし妻飾豕叉首式(つまかざりいのこさすしき)、軒は二軒(ふたのき)繁(しげ)垂木(たるき)で母屋は円柱の上に雄健な舟(ふな)肘(ひじ)木(き)をおく。向拝の柱は方柱で9分の1の大面取り、この上に唐様(からよう)三斗(みつと)をおく。両端の木鼻の上には天竺様の皿斗(さらと)をつけた斗(ます)もみえる。
また向拝正面中央を飾る蟇(かえる)股(また)は、肩の巻込みの眼が痕跡だけとなり、しかも両肩に大きな耳をつけたものは室町期のものであるが、内側の繰抜きは宝珠を中心に若葉を相称形にした古い形式のものである。棟札には、 延宝6年午ノ3月吉日、再建立寛政4壬子載小春如意珠日など7枚がある。
参考文献『高山市史・建造物編』
資料集
019_023_荒城神社
小萱の薬師堂
中世北飛騨の領主江馬氏の菩提寺だった瑞岸寺の飛び地仏堂。古くから養蚕の守り本尊として広く信仰され、寝雑薬師と呼ばれる奇祭が毎年行なわれ、多くの信者が参拝に訪れていた。正式名称は「瑞岸寺安楽院薬師堂」といい、桁行3間(6.686m)、梁間3間(6.666m)、一重、入母屋造、こけら葺、国指定文化財。簡素ななかにも屋根の美しい曲線や、平面と立面の均整がとれていて、各柱は円柱からなり、柱頭には舟肘木をのせ軒は1軒、疎垂木で、垂木は強く反り上がっている。内部の改造がたびたび行なわれているが、外観は中世の様式を残している。
この薬師堂はかつて隣の野首村にあり、現在地に移築された。堂内に安置してある薬師三尊十二神将御正体に永仁7年(1299)の刻銘があるところから、薬師堂の創建は鎌倉時代に遡るとする説もあった。しかし、昭和49~50年にかけて実施された解体修理復元工事によって、鎌倉時代建立の前身堂の部材を一部利用して南北朝末期、もしくは室町時代初期に再建されたことが判明した。
薬師堂は養蚕の守り本尊として、また5月8日が縁日の「寝雑ぜ薬師、小萱薬師」の名で近隣に知られ、現在、臨済宗妙心寺派「瑞岸寺」に属する仏堂として管理されている。瑞岸寺は天文元年(1532)、江馬氏によって飛騨市神岡町殿の地へ移ったが、以前は上村台地(下小萱、野首、丸山、上小萱)の小丸山にあったとう。
参考資料 『神岡の文化財』3頁 神岡町教育委員会発行 昭和56年11月3日
動画資料
資料集
020_024_小萱の薬師堂(国重文)
阿多由太神社
昭和36年、国の重要文化財に指定されている。三間社流見世棚造柿板葺、桁行は2.76m、梁間は1.25m、向拝は0.96m、基壇は玉石で積まれている。素朴・優雅で技法が極めて優れ、優雅な感じのする建物である。延喜式や三代実録に記載された古い社で、木曽垣内・三日町・半田の一部の産土神として、江戸時代にはこの地方の総社として広く崇敬されてきた。主祭神 は大歳(おおどし)御祖(みおやの)神(かみ)、大物(おおもの)主(ぬしの)神(かみ)。
荒城川にかかる赤い欄干の橋の向うに社域の杜が見える。橋を渡って木造の鳥居をくぐり、階段の上が阿多由太神社の境内である。阿多由太神社の境内地は山裾の南面を切開いて南面した平坦地で、樹齢数百年の大樹が繁り、往昔より阿多由太の森と称されてきた。
本殿建物は様式、技法等から見て室町初期に建立されたものと考えられている。その後の修理年代についても記録がないため判然としないが、本殿は元禄以前より覆家がかけられていたが、江戸末頃に修理が行なわれ、昭和初年にも修理が加えられている。虫害及び腐朽は甚だしく、昭和41年10月からは9カ月の工期で全解体修理工事が進められた。
本殿の祭神は中央に大年御祖神、右脇間に熊野社家津御子神、左脇間に諏訪社建御名子神のほか、七軀の神像と二軀の随神像が祀られている。
(註1)『重要文化財阿多由太神社本殿修理工事報告書』重要文化財阿多由太神社本殿修理委員会 昭和42年発行
資料集
021_025_阿多由太神社
飛騨国分尼寺 高山市岡本町1丁目128番地辻ケ森三社境内地
奈良時代から10世紀後半頃まで飛騨国分尼寺が建てられていた場所である。昭和63年、辻ヶ森三社の社殿改築を機に発掘調査が実施され、飛騨国分尼寺金堂跡が発見された。規模は、基壇の大きさが正面幅110尺(32.78m)奥行66尺(19.67m)で、基壇上には桁行7間、梁間4間の礎石建物が建てられていた。飛騨国分寺の金堂寸法も、桁行7間、梁間4間と同じで、桁行の寸法も88尺と同じ大きさであることが分かり、両寺の強い関係が知られた。
敷地の形では南側正面1間分に壁が無く、床は石が敷かれ、この形態は、奈良の唐招提寺金堂の吹き放し廊下と同じ様式であった。また基壇の版築(ばんちく)は高さ120cmで、非常に硬く叩きしめられ、版築の上に穴を掘って設けられた礎石は安定して水平を保ち、礎石間の高低が発掘時でも2~3cmの誤差であった。凍結厳しい高山でも版築構造による基壇が堅牢であるかが知られた。遺物は、奈良時代から平安時代にかけての須恵器・灰釉陶器と瓦が出土し、灰釉陶器が基壇上の堆積土から出土、その年代から10世紀後半頃まで尼寺が存続していたと考えられている。
国分尼寺は全国的に見て、その位置や構造など詳しいことが分かっておらず、飛騨国分尼寺のように建物構造まで明らかになったのは珍しい。飛騨国における国分寺、国分尼寺の特定により、奈良時代において聖武天皇、持統天皇の悲願であった、諸国に国分寺、尼寺の位置が判明している。
参考文献
『高山市史・考古編』
資料集
022_026_国分尼寺
飛騨国分寺
現在の国分寺境内地は奈良時代の国分寺があった場所で、現境内地は東西70、南北92㍍、民地が入り組んでいて創建当時の寺域より、かなり狭まっていて、室町時代の国分寺本堂が建っている。
昭和27~29年、国分寺本堂を解体修理する際に本堂下が発掘調査され、9個の礎石と根石を確認した。この遺構は4×7間規模の建物跡と推定され、金堂跡と推定されている。
昭和61年、境内北側に貯水槽を造る際、高山市教育委員会により発掘調査がなされ、現況表面から130~150㌢下に瓦片が出土した。この面が奈良時代の生活面であり、広範囲の河川氾濫により、奈良時代の遺構が埋まってしまったものと考えられている。
本堂東側に玉垣で囲われた塔心礎石(国指定史跡)が据えてあり、礎石本体は創建当時のものと推定される。ほぼ方形で、上面に円柱を据える座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2㍍四方、地上高さ約1㍍。しかし過去に東方向から西に移動されて、原位置を保っていない。
奈良時代国分寺の屋根瓦は、高山盆地の西方山麓にある「赤保木瓦窯」で焼かれており、軒丸瓦は5個の蓮子をもつ中房の周囲に細形単弁八葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対称の唐草文を配する。
西方の国分尼寺(辻ケ森三社)と東西一直線に並び、この時代の条里型地割の痕跡も報告されていて、高山盆地における奈良時代の景観が知られる。
参考文献「角田文衛編集『新修国分寺の研究 第7巻 補遺』株吉川弘文館 平成9年発行
「第2飛騨」第2項飛騨の項・267~300頁田中彰
奈良時代の古代寺院 「飛驒国分寺跡」
JR高山駅の東方250mに所在し、創建時から現在まで法灯を保っている。室町時代創建の現存する本堂は5間×4間で、昭和42年に国の重要文化財に指定された。また境内地内の塔心礎は国の史跡に、大イチョウは国の天然記念物に指定され、本堂に安置されている。平安時代作の木造薬師如来像・観世音菩薩像も国の重要文化財に指定されている。
本堂の解体修理や防災施設等の工事に伴い、昭和27年以降、4次にわたり発掘調査が行なわれた。
飛驒国分寺跡では、遺構として金堂及び塔を確認している。本堂の建て替えに伴って、現在の本堂下に原位置を保つ5石の礎石と11カ所の根石などを確認し、4間×7間の礎石建物の存在が判明した。都で技術を習得した飛騨匠の秀れた建物であったろう。柱間寸法は桁行中央3間が14尺、両脇が12尺、庇は11尺であり、梁行は身舎2間が12尺、庇は11尺とである。昭和27~29年の調査当時は建物跡の性格は不明とされていたが、昭和63年に調査された国分尼寺跡金堂と建物規模・柱間寸法が類似するため、金堂跡と推定されるに至った。
また、平成9年に本堂東側で版築の痕跡を確認し、金堂基壇に伴う版築と考えられた。周辺一帯では、現地表下1.2mほどで瓦が出土する層を確認している。その下面が奈良時代の生活面と考えられており、金堂礎石との比高差約1mが基壇の高さであろう。本堂より東20mには塔心礎が残っている。過去に移動しており、原位置を保っていない。心礎の形状は方形で、上面に円柱座を造り出し、中心に仏舎利孔と考えられる円形の穴が開く。
遺物は瓦・須恵器等を確認している。軒瓦は、軒丸瓦2種・軒平瓦4種が確認され、全て国史跡の赤保木瓦窯跡(高山市赤保木町)で焼成したことが分かっている。
参考文献 田中彰編集『高山市史・考古編』高山市教育委員会発行 平成28年3月
資料集
023_027_国分寺