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遠照寺
遠照寺(おんしょうじ)は、長野県伊那市高遠町山室にある日蓮宗の寺院。山号は妙朝山。牡丹寺として知られる。釈迦堂と堂内の多宝小塔は重要文化財。旧本山は、身延山久遠寺。潮師法縁。
歴史
寺伝によれば最澄が東国教化のために伊那谷を通った折りに(詳しくは『叡山大師伝』)教えに浴し、弘仁11年(820)(1955年文部省による解体調査修理の折り、屋根裏より「弘仁十一年薬師堂建之」の矢羽根が発見された)現在の釈迦堂の場所に前身である薬師堂が建てられた時が草創とされる。伝承では、最澄自作の漆黒の薬師如来を安置したという。以来、天台宗寺院として発展し、天福元年(1233年)現在地より1キロメートルほど南、原妙堂の地に天台宗谷室山天福寺が開かれた。『三義村誌』には「碩徳名僧相継ぎ諸人の渇仰最も盛んにして輜素の精髄之に集まり近郷最稀なる著名の巨刹にして二百四十一年を経るも、文正六年十一月伽藍悉く祝融の厄に遭ふ。然るに、文明五年(1473)身延山11世行学院日朝上人、この地に駐錫を垂れ住僧権律師某を教誡す。師本化の慈光に浴し豁然として改宗し名を日用と賜わり遠照寺第1世として、道場を薬師堂の許に創し一寺を建立し、日朝上人を開山と仰ぎ日蓮宗妙朝山遠照寺を開く」(要約)とある。
2019年7月、三年余に渡る日蓮宗宗門史跡調査により、釈迦堂は日蓮宗「宗門最古の法華堂」として認定され、境内全域が「宗門史跡」の指定を受ける。
これまで釈迦堂の建立は、1955年の文部省による解体調査修理の折りに須弥壇壇腹裏板、来迎壁裏面に発見された墨書から天文7年(1538年)とされて来たが、今般の調査において、新築建物に落書きがされるはずはなく、堂内多宝塔が文亀2年(1502年)であること、新たに発見された明応5年(1496年)朝師堂建立の墨書(朝師堂前机内墨書)等により、建立年代は40年以上さかのぼり、文明6年(1474年)から明応4年(1495年)の間と改められた。
近年は牡丹の名所(180種類2000株)として知られ、花の時期(5月中旬~6月初旬)には多くの参拝者が訪れる。
2020年、薬師堂建立から数えて開創1200年を迎え、「いのちに合掌(いのりを)」に加え新たに「美しい山里の寺づくり」を掲げ、境内伽藍の整備、地域と共に生きる開かれた寺づくりへの取り組みがはじめられている。
金城町石畳道
那覇市金城町なはしきんじょうちょうにある「金城町石畳道」は長さ300mあり、琉球石灰岩が敷かれた石畳道で首里城から続いています。尚真王しょうしんおうの時代(1477~1526)に首里城から南部へ行く道として造られたそうです。戦争で一部なくなり300mしか残っていませんが、両脇に沖縄の古民家があり、風情ある場所です。この石畳道は沖縄県指定文化財です。石畳沿いの家では普通に生活していますので、騒いだりしないようにマナーをお守りください。
銘文引用
この石畳は、旧首里城守礼門南脇にあった石門(いしじょう)から識名(しきな)、国場(こくば)、真玉橋(まだんばし)を経て南部へ至る重要な道の一部だった。
首里の主要な道が石畳道に改造された16世紀のはじめ、1522年(尚真王46)年ごろにこの石畳道は造られたと推定されている。
全長300m、道幅やく4m。敷石は大小の琉球石灰岩を組み合わせた「乱れ敷き」で、石の表面には適度な加工が施されていたが、長い年月で摩耗している。急な勾配のところでは石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段をつけたりしている。沿道の石垣は、琉球石灰岩を用い、主に沖縄独持の石積みの手法である「あいかた積み」で積まれており、石畳と調和して城下町の風情を残している。
太平洋戦争とセレベス島、父の足跡を追う!
記:稲葉秀章(上級デジタル・アーキビスト)
ホテルの九階からマカッサルの港を眺めていた。
昭和一九年一一月二二日、父は此処マカッサルに日本陸軍の通信兵として上陸した港だった。
穏やかな海に何隻もの船が港の外で停泊し、荷物の積み下ろしを待っているようだ。
突然、ホテルの部屋の電話機が「プル・プルー プル・プルー」と鳴り出した。私は受話器を取り「もしもし」と言っていた。その時、ここが日本では無いことに気が付いた。
電話はフロントからの女性で、「あなたを訪ねロビーで男性が待っている」と云っているようだった。
私は慌てて、下に降りロビーを見渡すと、50歳代の男性が私に近寄って来た。
「こんにちは、稲葉さんですか?私はサリーです」
流ちょうな日本語で私に話しかけてきた。
日本人にも見えなくはないのだが、肌の色が少し褐色な事が違っていた。
昔テレビ番組で「怪傑ハリマオ」を放送していた。そこに登場するハリマによく似ていた。しかし、あの俳優は日本人だったが、サリーの身のこなしがハリマオに似ていた。
ここの島は戦前までセレベス島と呼ばれていたが現在はスラウェシ島と呼ばれている。ここに来る前に、私は北スラウェシ日本人会にメールを出していた。そこから在マカッサル領事事務所に転送されたメールは、南スラウェシ日本人会の吉川さんが、私の旅行目的を知ることになっていく。
当初、私一人で父親が終戦を向えたスリリ陸軍病院を訪れようと考えていた。吉川さんはその行動を危ぶみ、ガイドと車を手配してくれた。
ガイドのサリーは何度かスリリ周辺やピンラン飛行場を訪れていた。
しかし、飛行場辺りの地理は、ガイドもハッキリ分からないと云っていた。
トヨタの車に運転手とサリーそして私が乗り、アストン・マカッサルホテルを朝、九時に出発した。
「私は富山県で温泉を掘るボーリングの仕事をしていました」
彼の日本語の会話から想像するに、何年も日本に滞在していたようだ。
ガイドは車窓から見える農村のことから島に住む人種などを説明してくれた。
「私はマカッサル人ですが、もう少し北へ行ったパレパレの町は、また違う人種が住んでいます。そして言葉も違います。若い人は今、学校へ行きインドネシア語を話しますが、学校に行っていないお年寄りは話せません」
運転手はマカッサル人では無く、他の言葉も分かるらしい、ガイドは運転手が別の言葉の通訳を介して分かる事もあると云っていた。
マカッサルの町から北へ150キロほど行ったパレパルの町で既に言葉が違う、私の郡上弁英語が使えるはずもなかった。ましてや私の聞きたいことは80年前の日本軍の事である。地元の高齢者でも記憶が曖昧で有った。
「ここら辺りは殆ど稲作をやっています。一年で二回米を取っていますが、三回とる処もあります。」
「えっ! 三回も」
「はい、以前は雨が降るシーズンに田植えをしていたのですが、ダムが出来て灌漑用水が引いてある場所は、いつでも田植えをすることが出来ます」
ガイドが面白いことを話してくれた。百姓が専門で無くても、家に保存してある米が少なくなったころ田植えをして、米を自給していると話してくれた。ほぼ赤道直下のこの辺りでは作物は何でも取れるようだと思ったが、そのことが出来ないところが日本軍の捕虜収容所がある処だと、後から分かった。
インドネシアの国は赤道から南に幾つかの島から成り立っている、その中にセレベス島と呼ばれた、スラウェシ島がある、日本本土の八〇%程で島と呼ぶには大きい。2000万人程が住んでいるが、ガイドの話では多数の言語があると言う。
父は昭和一九年十一月にマカッサルの港に入っている。そこから陸軍の司令部が有ったであろう。ピンランの町へ向かったと思われる。時の戦況は決定的な状態に陥り、父は日本軍の南方支援に向かう護送船団の一隻に乗り組み台湾、フィリピンを南下してジャカルタへ入っている。途中、米軍の潜水艦の放つ魚雷に命中して船団の多くの船が轟沈(ごうちん)または沈没してゆく話を何回も聞いている。
米軍の潜水艦からの魚雷を避けるため船団はジグザグ航行で進み、突然全艦隊、一斉に船主の方向を変えて進み、敵の潜水艦の目を欺(あざむ)くのだと云っていた。常に船団の片側に島を見て、その方向からの魚雷の攻撃を回避する戦術を取った。しかし、真夜中に突然船団の中の一隻に、魚雷が命中すると、なんとも綺麗な火柱が一本上がり船が轟沈してゆくのだと云っていた。船団はその沈みゆく船に手を差し伸べることも出来ず、必死で残りの船は逃げて来たと云っていた。
南方の日本軍に弾薬や物資そして兵隊を送り届ける貨物船、それを米国の潜水艦の魚雷から守る為、駆逐艦などで船団を取り囲んでいた。
この話を岐阜女子大学 元学長 木田宏氏(元文部事務次官)の「木田宏オーラルヒストリー」の中で全く同じ話をしておられる。
木田氏もおそらく私の父と同じ船団の中の一隻に乗船していたと思う。
その時の様子を、木田氏は「まったく申し訳ないのだが、一本の綺麗な火柱が静かな海の中で突然上がって来るのだ」と。この木田宏オーラルヒストリーが伝える話と、私の父の話す言葉は全く同じに聞こえた。
船団は八月三日マニラ港出帆
八月一七日 昭南港上陸 (シンガポール)
九月 七日 昭南港出帆
九月一〇日 瓜哇島「ジャカルタ」港上陸
九月一三日 「ジャカルタ」出発 鉄道?
九月一四日 瓜哇島「スラバヤ」着
一一月一八日 「スラバヤ」港出帆
一一月二二日 「セレベス島 マカッサル」上陸
私の父が乗船する船団が南シナ海を通る時には、既にアメリカの潜水艦が多くいた状況で、その後、昭和一九年十月、戦艦大和はそのレイテ沖海戦で米軍と対戦している。白鳥町で理容院を開業していた、幸太郎さんはその時、戦艦大和に乗船しており、その時の話を私は聞いている。
「三日三晩飲まず食わずで、撃って撃って撃ちまくった、敵も味方も関係なかった」と
また、幸太郎さんは私に面白いことを言った。
大和が呉港に帰って来た時、幸太郎さんは上官に大和から降りる願いを出して受理されている。
「もう!日本は負けたと思って大和から降りることにした。上官はそうか!と言って黙っておった」
戦後、幸太郎さんは戦友会に参加した時、その時の上官がそこに居り、お互いに手を取り合って「よかったなあ~」と話したと云う。
幸太郎さんは、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」を、「軍人は要領を本文とすべし」と変えて私に話してくれた。
「この辺りは漁師の家が多いいです。屋根に魚の尻尾があるでしょ」よく見ると、屋根の棟に付けてある。日本では鬼瓦が載せてある所に、魚の尻尾を掛け合わせて表示している。
ガイドはパレパレの近くの海に私を案内してくれた。広い海なのだが日本の瀬戸内海のような静かな波が打ち寄せていた。砂浜には小魚が戸板に並べて干してある。よく見ると、海岸から少し離れた所に竹で櫓を造り漁師がそこから回遊してくる魚を網で取るとガイドは話してくれた。大きな魚を見ることは出来なかったが、日本の煮干しの様に天日で魚を干しているようだった。
ガイドは浜の近くの民家に案内してくれた。5.6人の男女が雑談をしている所へ
「こんにちは」私が話したら、
みんなから、「こんにちは、ありがとう」など日本語が帰って来た
三十代から四十代の人たちは昔、学校で日本語を習ったが忘れてしまったと、云っているようだった。
私は、当時、日本陸軍の態度が悪く、現地では歓迎されないのではと思っていたが、思ったのと違う歓迎で嬉しかった。
当時の日本陸軍は原住民の作物などの略奪を軍命令で禁止しており、長期駐留は自給自足体制をとっていた。
この辺りの家では、漁師の娘が農家へ嫁いだりすることは出来ないらしい、家の職業が同じでなければ駄目らしい。そして、結納金のような結婚資金が必要で、若い男は必死に貯金をしていると言った。私は、「反対されても結婚したいときはどうするのか」と聞いたら「女を連れて逃げる」と云っていた。日本と同じらしい。
「この辺りは昼の暑いときは仕事を休み、少し涼しくなってから仕事を始めます」とガイドは話した。
海は穏やかで波の音も聞こえては来なかった。
米軍が制空権を取り終戦が近くなったころ、父達は敵兵の目を盗み夜間にジャングルの中から抜け出して、塩を取るため海岸の砂浜に出て来たと話していた。
「服を脱ぎ、海の中へ首までゆっくり浸かっていると。体の中へ塩分が吸収されて元気がじわじわと出てくることがハッキリと分かった」と云っていた。
残念ながら、塩をどのように海水から取り、ジャングルへ持ち帰って行ったかは聞いていない。
父は、昭和19年11月22日、「セレベス島」「マカツサル」上陸している。
日記では昭和19年11月1日~昭和20年1月31日間、第二次濠北作戦参加
昭和20年6月25日、第4航測隊専属。
2月1日~8月14日間、反攻激撃ゝ砕作戦参加。
と書いている。
父は昭和14年ごろから揚子江周辺で日中戦争を経験し、満州辺りまで転戦している。その後、陸軍航空通信学校招集下士官として日本での通信学校の後、セレベス島へ派遣されている。
当時、上空の飛行機の位置情報は現在のような、GPS位置情報システムも、地上にレーダーアンテナが有るわけでもない。当時の飛行機に対気速度計、姿勢指示計、高度計、昇降計、方位計、旋回計まであっただろうか?一機の飛行機の位置情報を調べるには、その飛行機がまず電波を発信する、その信号を地上の別々の離れた所から、受信することで、飛行機の仰角、方位を図る、2か所の情報から、飛行機の高度と方位を地図上に書き出してその情報を飛行機に知らせる方法だったらしい。
つまり、三角測量である。
また、私が直接、当時の飛行機乗りに確認したところ、自分が乗った飛行機の位置情報を調べるには、雲の下まで機首を降下して行き、地上の地形から位置を確認して、また雲の上まで舞い戻ったと話していた。
私たちは、また、車で北へ進みパレパレの町に着いた。ここは、大きな湾が入り込んでいる良港で、古くから海の交通で栄えていた。父も引揚船で日本へは、この港から帰っている。ガイドは「ここで食事をして行きましょう」と、町の中央にある天井の高い食堂へ入った。店の中に幾つものテーブルが置いてあった。
明らかに店主は華僑の人に見えた。年齢を聞くと七三歳だった。私より一つ上だったが、矍鑠(かくしゃく)として店を切り廻していた。私に古い写真を持ってきて見せてくれた、昔のこの店だと気が付いたのは後からだった。
店の主人からガイドが聞くには、向かいに建っている建物は当時のヤマトホテルで、建物の前だけが残り、内部に入ることは出来ないらしい。
当時、日本人が多くこの界隈を行き来していたのだろう。しかし、今は日本人の姿を見ることは無い。その代りに、行き交う車は、ほとんど日本車で、オートバイもよく見ると日本メーカーの名前が後ろに書いてある。バイクの事をホンダと言うらしい。イスラム教では、女性は外出の時に肌を露出せずに隠す服装で、ヘジャブをまといオートバイに乗っている。これが、また、凄い、片手でハンドルのアクセルを握り、片手にスマホを持ち「ビィーン」と私たちの車を追い越して行く。二人乗りのバイクは当たり前で、よく見ると中に子供が挟まれ顔だけが見えている。バスや電車の公共交通機関が少ないのは、バイクが便利なのかもしれない。
信号機の無い交差点等では、先に車の鼻を入れたものに優先権があるようである、道路での追い越しは右側でも左側からでも追い越してくる、前に車が居れば追い越すことになっているらしい、これはバイクでも車でも同じで、その時、必ずクラクションを鳴らすのが合図のようである。
昼食後、私たちはパレパレ市内から三〇キロ離れたスリリバラット温泉へ行ってみることにした。
父の残した記録ではスリリ陸軍病院に昭和二一年一月一六日からアメーバ赤痢のため入院していたと記録がある。当時の日本陸軍病院はわざわざ温泉の湧き出るところに病院を持って来たのだろう。それ以前に病院が在ったとは考えにくい。
スリリには現在、地元の人が週末に通うプールや野外バーベキュなどの施設がある。施設の横に温泉が湧き出ているが、地元の人は温泉に入る風習はない。水を張った田んぼの様に見えるが、手を入れてみると40度以上はあり、もしかすると水を足さなければ入浴出来ないかもしれない。この施設には週末に人が集まり賑わうらしい。
施設の反対側に在る、家の住民に聞いた、昔のことは全く分からないと云っていた。ただ、家の横にヤシの木が何本か有り、周りを竹で取り囲んで垣根を設け闘鶏を飼っていた、その場所に赤いレンガブロックが無造作に積んであり、昔の建物のものだったと主は話した。私はそのレンガの一個が欲しいと話したら、そこの主が棒切れを取り出して庭の片隅のレンガを掘り出して私に渡してくれた。土の付いたレンガの土を取り除いて見ると、赤みを帯びた焼きレンガだった。少し重たいが主にお礼をいって日本へ持参した。
スリリ陸軍病院とは、南方第十五陸軍病院といっていたらしい。
この地方では闘鶏が盛んらしく、庭の中では、三羽の鶏が足に紐を括られて、それぞれが距離を置いて、私たちに鋭い目を向けていた。試合では蹴り合いの威力を増すため、蹴爪に鋼鉄製のナイフを装着させて戦わせる。負けた鶏は、ほとんど致命傷を負って死亡する激しい競技らしい。
記録では、昭和21年1月16日「スリリ」陸軍病院に入院している。終戦後である。
父はマラリヤで体を悪くしたと思っていたが、父の手帳にはアメーバ性公病と書いて有る。
多くの戦友がこの病気で亡くなって行ったと話していた。「食べる物もなく、ヤシの実が落ちてくるのをジ~と待ち、ヤシの実が落ちてきたら、其処まで這(は)って行き実を探して持ち帰る。しかし、誰かが持って行った事も知らず、他の傷病兵は辺りを這いずり回りながら探し続けていた」と、父は何度か話をしていた。
「栄養不足で体力が落ちてくると若い兵隊から亡くなって行く」とも話した。体が若いと新陳代謝が活発でエネルギーの吸収が必要だったのだろう!
また、父も体力も無くなり寝込んでいる時、「自分の後ろに誰が寝ているのかも分からず、寝返りを打つ体力も無かった」と話していた。ところが、私の姉は父から、聞いていたのだが、「ストレプトマイシンを討ったら段々と元気が出てきた」と話していたとい言っていたらしい。
この事が事実だとしたら、日本に帰る前に、セレベス島の捕虜生活の中で進駐軍のアメリカ軍かオーストラリア軍が持って来て、捕虜の日本兵にストレプトマイシンが打たれていた事になる。
父は終戦の昭和二〇年八月から十二月までは、体も元気で捕虜生活の事を話してくれたことが有った。
オーストリア兵の監視の中、旧日本軍の大砲の爆弾を海に運び、海中に放棄する仕事をしていたと話した。弾薬の重みでトラックのタイヤのスプリング板の湾曲が無くなり、スプリング板同士が張り付いて伸びてしまったらしい。その様子を、父はスプリング、キッスと和製英語でオーストラリア兵に説明をした事を私に話してくれた。
「セレベス戦記 奥村 明」 の書籍ではセレベス島のマリンプン捕虜収容所辺りではオーストラリア兵ではなく、傭兵(ようへい)のアンボン兵だったと書いてある。父がアンボン兵に英語を使ったと私に話すだろうか?オーストラリア兵は確かにいたのだろうと思う。そしてストレプトマイシン」の話も、謎が多く、そこのスリリ陸軍病院に進駐軍の誰が持って来たのだろうか?
スリリから西へ5キロほど離れた所にピンランの名の付く集落が有る。反対に東へ5キロほど行くとマリンプンがある。そこにピンラン飛行場が有ったと云われている。そこは死熱の草原マリンプンと言われ、第一次世界大戦の時、『死の草原』と呼ばれ、マリンプンは、第一次大戦中のジャワ移民及びドイツ軍捕虜がほとんど死に絶えたという、いわくつきの「地の果て」なのだそうである。
確かにそこの場所だけ、密林が少なく、耕作地も少ない、グーグルマップで見てもハッキリと草木が少ない。
ピンラン飛行場は日本軍が作ったのか、その以前に有ったのかは分からない。しかし、日本軍が飛行場にするのには、最適地だったようだ、遠くまで見渡す事が出来き、障害物の山もない。
ピンラン飛行場は、豪北作戦中に日本軍が使用した飛行場の一つと言われる。
終戦後、マリンプン捕虜収容所には、南セレベスに居た軍人、軍属、一般人2万人の多くはこの収容所に連れられてきたらしい。ここで、連合軍からは自給自足の生活をするようにいわれていた。スリリ陸軍病院とピンラン飛行場は六キロ程離れているが、当時は隣だったのだろう。
スリリに温泉が有ったとことは資料には無い、「セレベス戦記」 奥村明氏の本にも書いてない。しかし、現実には温泉が湧いている。ガイドのサリーさんは日本で温泉のボーリングの仕事をしていた。彼は専門家である、彼が云うには「何故ここに温泉が湧いているのか分からない」と、近くに火山があるのなら話は別だが、火山がない。北スラウエシには火山が有り地震もあるとガイドは話していたが、南スラウエシは地震も無いと話していた。このマリンプンから北東へ五〇キロほどの所にラティモジョン山 標高は3,478メートルがあるが、火山の記録はない。
グーグルマップで探すと、現在でもピンラン飛行場を航空写真で見ることが出来る。
当時の飛行場の滑走路がそのまま浮き出てくる。畑と原野に滑走路の直線が浮き出ている。おそらくこれは、未発表かもしれない。まだ、恐ろしい事にその滑走路上には米軍が落とした爆弾の後が残っているのである。滑走路をハチの巣状態で絨毯(じゅうたん)爆撃したことが現在でも、グーグルマップで確認できる。
ピンラン飛行場らしき所へ行って見ると、インドネシア軍の一人が常駐していた。彼に話を聞くと、今後この辺りの開発を進めて現在は軽飛行機が飛んでいるが、滑走路も拡張するといっていた。
私は、「グーグルマップで確認できる穴は何か」と聞いたら、おそらく、爆弾の穴だといっていた。
それ以外は当時の日本軍が残した建物や残骸は残っていなかった。
そこから見渡す景色に高い山は無く、飛行機で飛び立てばすぐにあたりの地形の様子がよくわかると思えた。父は通信兵として、ここから飛び立つ飛行機を点になるまで見送っていた事だろう!
緯度,経度 3.73386,119.74546 グーグルマップより
その日は、パレパレ市内のホテルにガイドと運転手の三人で宿泊した。ホテルの前に道路が通り、その向こうはパレパレの港だった。対岸には集落が見えている。大きな貨物船が停泊している。おそらくこの風景を日本に引き上げる「帰り船」に乗った多くの日本兵が無言で眺めていたと思う。
乗船前に兵隊の荷物の検査が行われ、アメリカ軍とオーストラリア軍の傭兵(ようへい)のアンボン兵が検査したとセレベス戦記 奥村明氏の本に書いてある。
父の話では「検査する者は、兵隊の時計など、何もかも欲しがり、取ろうとしていた」アンボン兵に調べられる時、最初から「やるやる」といって、持ち物検査を早く終わらせたといっていた。おそらく、父はリュックの奥に貴重な物を忍ばせていたのだろうが、いくつかの貴重品も取られたと、私は思う。
そこの荷物の中で、今でも不思議な飛行機の置物が私の家に残っている。
史料から調べると九六式陸上攻撃機に似ている。飛行機に使われていたジュラルミンの塊を取り出して、鑢(やすり)で削り置物の飛行機に作ってある。父がスリリ陸軍病院で作ったと聞いたが、詳しく聞いていない。
おそらく、ピンラン飛行場とともに飛行機も爆撃され、残された飛行機の廃材から、プラモデル風に、父が作ったものと思う。
次の日の午後、マカッサルにある慰霊碑に行くことが出来た。
1945年8月17日、インドネシアが独立を宣言した。戦後、南スラウェシ州マカッサルで戦犯として処刑された日本兵34人がいた。
インドネシア人、故マハカウベさん宅の敷地内に慰霊碑を建立。現在でも遺志を継いだ家族が、参拝に訪れる日本人を暖かく迎え入れ、慰霊碑を守り続けている。
慰霊碑に日本で私が作ったお米と水を供えて参拝し、お経を上げて来ました。
父は、セレベス島に来る前、陸軍航空通信学校に召集され本土にいた。しかし、その以前は中支派遣で揚子江近辺で幾つもの戦闘に参加している。私がテレビ映画「コンバット」を見ていた時、サンダース軍曹を見て、父は「戦いは、ドンパチと撃ち合う事ではない、そこで飯盒(はんごう)で飯を炊き、食べて死体の傍(そば)で眠ることが戦いなんだ」と話していた。、「下痢になっても敵前上陸ともなれば、一発で治ってしまう、人間の体はそんなものだ」と話していた。
しかし、その父も、セレベスの食糧不足とマラリアに体力を奪われたようだ。
父がセレベスから帰って来れたお蔭で、私が生まれ、このデジタル・アーカイブの報告が出来ることを感謝します。
ここに、北スラウェシ日本人会、南スラウェシ日本人会の吉川さん
在マカッサル領事事務所の皆さんの、ご指導とご鞭撻にお礼を申し上げます。
最後にガイドのサリーさんと運転手さんありがとう。
陸軍曹長 稲葉仁大 昭和四十五年 没 五十二歳
経歴
氏名:稲葉仁大 大正六年九月二十一日生
本籍:岐阜県郡上郡牛道村陰地五百三十五番地の三
所管:岐阜飛行師団司令部
兵科:飛行兵(歩兵)
特業:無線・航測・機関銃・瓦斯
官等級:陸軍軍曹
身長:1米65糎
靴:10文7分
褒章:昭和15年4月29日、支那事変従軍北章換装
善行證書:昭和21年5月31日善行證書付奥
適任證書:昭和21年5月31日、大正11年勅令第431号に依る事務適任證明書付奥
官等級:
昭和13年4月11日、歩兵一等兵。
昭和14年1月10日、歩兵上等兵。
昭和14年12月1日、伍長勤務。
昭和15年1月1日、陸軍伍長。
昭和16年1月1日、陸軍軍曹。
昭和18年3月1日、陸軍曹長。
履歴:
昭和13年1月10日、現役兵として歩兵第68連隊補充隊第2機関銃小隊に入営。
昭和13年4月20日、陸支機密第55号により歩兵第60連隊機関銃中隊に隷属。
8月5日、中支派遣のため編成地出発。
8月〇日、大阪港出発。
8月11日、上海上陸。
8月16日、〇〇着。同月同日より〇〇付近警備。
昭和13年10月10月7日、蕪湖出発。
10月12日、湖北省大〇県違源口付近上陸。
10月12日~13日間、違源口付近上陸戦闘に参加。
10月14日~20日間、大王山ー〇石港戦闘に参加。
10月21日~23日間、〇城―段家領に至る追撃戦に参加。
10月24日~26日間、葛房付近の戦闘に参加。
10月26日、武昌入城。
10月26日~11月7日間、武昌付近警備。
11月8日、武昌出発。
11月10日、蕪湖着。当日、原所〇隊に復帰。
11月12日~19日間、第15師団第二次〇〇領付近討伐参加。
11月29日より、蕪湖付近の警備。
昭和14年1月2日~1月7日間、〇〇付近戦闘に参加。
4月20日、蕪湖出発。同月同日、〇〇着。当日より同地付近警備。
4月6日~11日間、第15師団高淳付近討伐参加。
4月8日、新河〇付近の戦闘参加。
4月9日、狸〇橋付近の戦闘参加。
8月30日~9月2日間、第二次高淳作戦討伐参加。
10月25日~11月11日間、第15師団秋季討伐に参加。
11月20日~23日間、繁昌付近の討伐に参加。
12月14日~16日間、繁昌付近の討伐に参加。
昭和14年12月20日~昭和15年1月10日間、揚子江岸冬期作戦参加。
昭和14年12月20日~27日間、青陽作戦参加。
12月23日~24日間、大領付近の戦闘に参加。
12月25日、集家領付近の戦闘に参加。
昭和14年12月26日~昭和15年1月4日間、青陽県付近の作戦に参加。
12月30日~1月4日間、貴伐作戦に参加。
1月5日~10日間、虜州作戦に参加。
2月18日~28日間、〇渓漂陽作戦の戦闘に参加。
2月18日~26日間、新河〇付近の戦闘に参加。
7月1日、〇等〇。
追記、同年3月19日、支那派遣軍総司令部衛兵要員として派遣。
3月20日、支那派遣軍総司令部に専属。
4月28日、14年冬期作戦並び治安確保に参加。
昭和15年4月29日~12月31日、宜昌作戦並び秋季掃〇作戦に総司令部に在りて参加。
昭和15年4月29日、旭七等。
昭和16年1月1日より7月7日、昭和16年前期作戦に総司令部に在りて参加。
昭和16年9月30日、給三等級。
昭和17年2月10日、昭和17年度第一次航空要員として第4航空教育隊に専属を命ず。
1月22日、南京出発。同日上海着。
1月25日、上海出帆。
1月26日、長崎上陸。
2月1日、着隊。同日第2中隊付を命ず。
7月1日、陸達第42号により給二等級。
昭和18年1月20日、陸軍航空通信学校招集下士官(無線)として2月1日より概ね八ケ月間分遣を命ず。
1月31日、出発。
2月1日、同校入校。
9月21日、陸軍航空通信学校修学終了。同日、満洲第2航測連隊専属。同日、水戸出発。
9月24日、下関港出帆。同日、金山港上陸。
9月25日、鮮満国境(安京)通過。
9月28日、〇〇浜第2航測連隊着。
10月1日、第二中隊編入。同日、〇〇浜出発。
10月2日、北安省龍旗第2中隊着。
10月25日~30日間、〇号演習参加。
11月7日、〇〇浜移駐のため龍旗出発。
11月8日、〇〇浜着。
12月31日、二等級。同日、命管外居住。
昭和19年5月14日、「カ」号演習下令(於〇〇浜第2航測連隊)。
6月27日、南方専進のため〇〇浜出発。
6月29日、鮮満国境(安京)通過。
7月1日、釜山着。
7月3日、金山港出帆。同月同日、関東軍隷下を脱し第4航空軍司令官隷下に入る。
7月19日、比島「マニラ」港上陸。
5月14日~7月19日間、専進準備〇に輸送作戦に参加。
8月3日、「マニラ」港出帆。
8月17日、昭南港上陸。
9月7日、昭南港出帆。
9月10日、瓜〇島「ジャカルタ」港上陸。
9月13日、「ジャカルタ」出発。
9月14日、瓜〇島「スラバヤ」着。
7月20日~31日間、第一次比島作戦参加。
11月18日「スラバヤ」港出帆。
11月22日、「セレベス島」「マカツサル」上陸。
昭和19年11月1日~昭和20年1月31日間、第二次濠北作戦参加。
昭和20年6月25日、第4航測隊専属。
2月1日~8月14日間、反攻激撃ゝ砕作戦参加。
8月14日、終戦詔書発布。
11月15日、第32航空地区司令部専属。
11月30日、「セレベス」島「マリンプン」集結。
12月31日、給一等級。
昭和21年1月16日、「アメバ」赤痢のため「スリリ」陸軍病院に入院。
3月23日、アメーバ性赤痢公病。
6月3日、「セレベス」島「パレパレ」港出帆。
6月15日、和歌山県田辺港上陸。
6月16日、復員。
昭和45年2月3日 稲葉仁大 死去 52歳
日記
氏名 稲葉仁大 大正六年九月二十一日生
本籍 岐阜県郡上郡牛道村陰地五三五番地の三
歩兵上等兵
昭和14年7月19日(水)
天候・曇り
衛兵勤務。明方の眠い事、一通りでない。司令白田軍曹。
妹と故郷の母に便り出す。滝下君にも。
腹具合が少し悪い為、食事進まず。午后読書、常識。
7月20日(木)
起床、〇時馬運動。曇り勝の晴天。
九時半より分隊教練。西門付近堤防上にて午前、陣営具検査。
午后、被服検査準備。
三時ヨリ中隊長学科、聖戦ノ意義に就キ。
夕方〇〇ノ検査。
7月21日(金)
天候・晴れ、風強し。
朝、馬動。後手入。本日師団〇理〇〇巡視ノタメ被服検査実施サル。
午后二時、朝より腹具合悪ルク特急列車でコマル。
午后診断受ケル。練兵休二日、尽、被食セズトノ緊〇宣告。
酒保(※1)の側にて火事あり七時頃、中隊非常招集にて消火に出動す。
自分は見物に行く。支那民衆の呑氣さにはあきれる。〇で火事と言ふのに平然たるもの。
各自の業務に励んでいる。それとも皇軍を信頼しているのか?
7月22日(土)
天候・晴れ。
朝炊事に行き粥(?)食ヲ作る。演習部隊は八時出発す。五里脾。
午前十時、兵団長閣下の慰霊祭のため南京に向って黙祈を捧ぐ。
午后も寝る。病気時は故郷の事、過去の事が偲ばれてならぬ。
母上、姉上に心より感謝せずには居られぬ。こんな事追想するも淋しいからかな・・・。
夜、俸給を戴く。
7月23日(日)
気候・晴れ後曇り、夜る雨
起床、〇時気分良好。点呼後、皆使役等に行き病人の俺一人、床にらみ。
晝前何するとなく寝て過す。炊事場に慰問袋が到着している。嬉しいなー・・・。
午前中皆演習に出場。晝食まで粥食す。十二半外出者整列と共に待望の慰問袋分配。
クジによれば幸運にも俺には一番大きなの・・・。
開けてビックリ玉手箱、中から出てくる出てくる古新聞。
でもとてもインテリー的な手紙あり。免〇銃後(※2)の人の心には感謝にたへぬ。
夜る雨となる。
※1:兵営内や軍艦内で、日用品・ 飲食物などを扱う売店
※2:戦場における銃の後ろ、すなわち前線に対して、直接の戦場ではない後方という意味で用いられる
昭和14年8月9日
天候・晴れ
師団長閣下、小丹陽巡視のため中隊より警備兵出る。補充兵も一部の者が参加。
自分は午前中兵器の手入。午后、補充兵兵器手入監視。
8月10日
天候・晴れ
連隊兵器検査。朝九時迄各自の兵器手入。十時より配列。十二時半より検査。
想たより平凡に終る。家に便り出す。
夜る十二時、河南巡警哨にて二十数発の銃声。中隊非常呼集。自分は佐々木曹長に従行して龍山橋迄で敵を追走す。巡警一名戦死す。中隊に帰隊したのは午前五時半であった。
8月11日(金)
天候・晴れ
昨夜の斥候の疲れにて晝前ぐっすり眠る。
午后2時より西門付近に於て歩哨教育。相変わらず焼け付く様な暑さだ。
8月30日(水)
天候・曇
朝、補充兵 小銃射撃ノ予定ナレドモ雨天ノタメ取止。
普通 分解 〇〇実施。
午后、五里脾ニテ小銃射撃。夕食後、短剣術。志気旺盛。
8月31日(木)
天候・晴れ
七時、高淳方面討伐隊出動ス。
自分ハ教育ノタメ出動出来ズ。九時ヨリ就戴御下教練。午后も同ジ。
二、三日前ヨリ急ニ涼シクナッタ。
9月1日(金)
天候・晴れ
午前、陣地侵入。午后も同ジ。
皆んな張り切ってやる。
夕方、白田班長殿と共に會食。補充兵一同と演藝會一時間。
又、蓄音機のメローデに夕を面白くすごす。
9月2日(土)
天候・晴れ
八時より陣地侵入。假設的に出る。
午后、班内実施。三時頃より一時間後眠す。
七時より問〇古分解搬送にて
太平の町を騎兵にて一周。
原〇一郎君、討伐より帰り、班内にて二人で茶話會する。
ビールの味、少しは分る様になった。幸か不幸か。
でも戦地での唯一の気晴に結構なものなり。
9月3日(日)
天候・晴れ
朝より休養、晝より外出。酒保〇〇方面へ散策に出る。相変わらず暑し。
夕、短剣術。
9月4日(月)
天候・晴れ
午前中、射撃予行演習、故障排除。
午后、飛行機射撃、一時間半。
三時半より五時迄で休憩。
夜、体操。
9月5日(火)
天候・晴れ
八時整列、分隊戦斗教練。
クリーク地帯にて金桂蘭塔まで行く。
非常に暑くなる。午后三時まで午眠、三時より馬ノ学科。
馬手入。四年兵除隊も近日とのこと。第二次補充兵始メテ警戒兵ニ立ツ。
9月6日(水)
気候・晴れ
朝〇〇教育。警〇動作。
野戦築城、〇〇ノ方法等。
午後三時より連隊本部〇本少尉
馬管理法に就きて講話あり約三時間。
三時半より警戒兵に立つ。書簡到着、ハガキ五本、手紙二本。
9月7日(木)
天候・雨
四時半、非常呼集にて五里脾方面へ夜間行軍。
並に陣地侵入。八時帰営す。午前中休養。ぐっすり眠る。
午后二時より射撃予行演習。
問〇古に夜間警立つ。〇〇。
9月8日(金)
天候・晴れ
午前中射撃予行演習ノタメ假設敵ニテ過ス。
午后一時中隊検問ノ假設敵
空砲二連使用。夜ル一線警戒兵ニ。
9月9日(土)
天候・晴れ
八時ヨリ五里脾ニ於テ補充兵第一次基本射撃、成績良好。
帰隊ハ十二時。二時ヨリ舎前ノクリークニテ水泳演習。
水モ大分冷タクナッテ来タ。
魚取ガ目的デアッタレ共、要領ヲ得ズ。
故郷ノ姉ヨリ便リアリ。又、犬山ノ永井君カラ便リアリ。
彼モ女学校二年生トカ。未ダ若キ乙娘ダ。
明日ハ日曜ダカラ便リデモ書イテ過ソウ。
夕方、問〇古ニ基本体操号令調正。
一ヶ月程前ニ注文シタ部隊ノ写真、配布サル。
吉田君ニ写シテモラッタ写真、中々上出来ダ。
故郷ノ母ニ送ロウ。
明日、御賜ノ煙草ガ渡ルソウダ。軍人ノミノ特典。
地方ニ於テハ望ンデモ出来得ナイ光景ダ。
四年兵除隊モ目前ニ近ズキ毎日會食宴會ガ各所ニ
開カレテイル。彼等モ四年ト謂ウ長ク年月ヲ軍隊生活デ過シ、
今元気デ凱旋スルノダカラ、小鳥ガ籠カラ飛ビ立ツ思イダロウ。
9月10日(日)
天候・晴れ
今日は日曜。朝食前、久方ぶりに馬運動に出る。
午前十時より中隊事務室前に於て御賜の煙草受領。
有難さに一同感激無量。誓って一層奮斗努力せねばならぬ。
午後、外出が許可さる。自分は外出を止め姉に便り書く。
此の間の写真同封。
午后三時半、中公司方面に於て火事。
中隊では〇〇呼集。便り書くのも忘れ飛んで出る。
数十軒炎上す。南風にて一時は手の下シ様無シ。でも五時半鎮火す。
9月11日(月)
天候・晴れ
午前八時整列。行軍兼追撃戦。
五里脾〇地より〇水河渡河、さらにクリークを渡り
河南-太平の〇路を取り一時帰隊す。
三時半迄休養。三時半より眼鏡照準。
昨日より左足ヒザが何が原因か分からぬがはれて
痛みを感ず。夕方衛生兵に頼みエキホス(※3)を塗る。
問〇古あれども休む。未だ相変らず暑い。
※3:塩野義商店では昭和二年消炎、鎮痛の巴布(はっぷ)剤をエキシカと名付けて発売した。これに対して、武田長兵衛商店はやがてホスビンを発売した。
昭和四年、両社の製造販売の統制機関として二巴(ふたば)合名会社が生まれた。
エキシカ、ホスビンはこれまでどおり両社でそれぞれ製造、発売され、名前も「エキホス」となった。大メーカーの間で協定が円満に行われた珍しい例とされている。
(「二代塩野義三郎伝」からの要約)
9月12日(火)
天候・晴れ
八時半より西門堤防付近に於て眼鏡照準す。
陣地進入未だ初歩にて要領を得ず。
午后一時半より陣内戦斗一時間。非常に暑。
最後に密集教練を行ひ四時半終る。
夕食前、学科試験を行ふ。案外皆出来ぬ。
此の頃手紙を書こうと思へど、暇があって暇の無い現在。
それに名文も出ぬのでペンを取るだけで書けぬ。
なんとか修養の道はないものか?・・・
9月13日(水)
天候・晴れ
午前中、馬運動。
午後、馬手入。補充兵も炎暑の中で暑いと思ふ。
北門東南角に行く所に大きな寺あり。始めて見に行く。
塗〇にもこんな所があるとは知らなかった。
問〇古剣術。
9月14日(木)
天候・晴れ
午前、クリーク地帯の戦斗。北門外ヲ塔に向って状況開始。
十時半迄に終り、それよりクリークヲ東に約千米上りて
手榴弾爆発二ケ。帰りは急行軍を〇て帰隊。
午後二時より歩哨教育。白田班長出場されず。点呼後、前の班に学科。
腰接不良か腰が痛む。
9月15日(金)
天候・曇時々雨
朝非常に涼しくふっている。昨夜より小雨。
八時半より西門付近にて陣内戦。状況一回にて雨のため中止。
涼しくなったので今日より上衣を着て出場。
午後二時より射撃予行演習、後、夜間射撃。
大龍口の小川五郎君、〇〇少尉殿の傅令(伝令)のため来隊。
二三日後、南京兵團司令部に出張との事。晝、本部の〇〇川君より便りあり。
夕方、問〇古体操。点呼後、班長殿の学科。
9月16日(土)
天候・曇時々雨
朝八時半より馬運動。自分は遠山に乗る。補充兵最初にて落馬する者多シ。
十一時より馬手入。終りて後、班内にて小川君と五目をやる。
晝より弟に便り出す。ペン習字の加盟に入る如く説き三人競争にて上達を計る。
夕食は班内に於て宴会。軍橋が今度軍の援後の本に立派な橋に架換になる
その祝いにビールが上る。夜る、二線警戒兵。
9月17日(日)
天候・曇
朝、小雨振り馬運動も出来ず、補充兵は手入に出る。
自分は班内に於て書簡を書く。小川五郎君、本日南京に向って出発す。
九時、厩週番を一時間ほど交代。村瀬上ト等兵が公務の為。
晝、御賜の酒が渡る。皆有難く頂戴す。午後は皆外出すれ共、俺は班内に於て手紙を書。
妹と弟そして村瀬石之助氏へ〇〇を書く。犬山へも便りを書く。半ばにて終る。
夜、森准尉殿音頭にて軍歌演習。
9月18日(月)
天候・雨
相変わらず曇天。日朝点呼時、中隊長殿の学科あり。
満州事変〇発九周年記念は当時の様子に付き中隊長殿の訓〇あり。
八時半より銃床に於て射撃予行演習、十一時半終る。
午后は二時より中隊長殿の学科、作戦要ム会に就き四時頃より
白田軍曹殿の支那語に就きて。夕方二班に行き御賜品を入れる箱を造る。
点呼時迄で班内に於て離〇。明日、揚子江を侍従武官殿御通過の為沿岸警備に出る告。
大橋付近へ。
9月19日(火)
天候・曇後晴れ
朝より小雨。八時より馬運動。
補充兵落馬甚シ。それでも大分上手に成って来た。
馬手入後、十時半整列して汽車輸送。大橋より行軍。
自分は兵四名をつれて路上斥候。小隊の前三百米を前進。
二時、大〇〇に到着。住民は比較的平穏。兵隊の顔を見て逃げる娘もあり哀れなり。
山上に登り揚子江上を警戒す。侍従官は三時頃、駆逐艦にて西通過遊ばさる。
無事大任を果し大〇〇を宣撫。午后五時大橋より自動車にて帰還す。
夜、二中隊の連絡兵二名、宿る。
9月20日(水)
天候。曇後晴れ
朝馬運動。午前中馬手入。
今晩、夜間演習のタメ午後は休養。材料を集めて少し仮眠をとる。
便り書こうと思へど意の如くならず。六時半、整列して東獄神に行き夜間設備。
自分は兵一名と〇〇斥候に出る。戦斗の夜間行動は不気味だが
演習は勇敢に高動画出来て面白い。
〇〇兵は攻撃、従事終り。帰舎して床に入るのが十一時半頃であった。
9月21日(木)
天候・晴れ
今日は自分の誕生日。第二十二年も終った。
昨夜、夜間演習ノタメ午前中武器、被服の手入。
朝八時起床。それより故郷に便り書く。
午后は馬運動。馬場に於て一時間程、そして塔の方向へ並足にて行く。
秋とは言へまだ暑い。山田が大龍口より連絡に来る。
夕方問〇古、体操、遊戯。今晩も電燈がつかぬ。点呼後早くねる。
今晩より蚊帳をつらぬ。涼しくなって蚊も居ない。
9月22日(金)
天候・晴れ
八時、自分と大石と共感殿三人、早く五里脾に向って出発。
最初の廟より状況開始。五里脾〇地に上り假設敵となる。
大隊本部の通信(無線)がいたので借りて聞いて見る。電話と同じ様に聞へてくる、
実に驚かざるを得ん。十二時半帰隊。晝食後、御賜品を送る。
三時より補充兵は馬手入、自分は行かぬ。夜、試験を実施。
一、第一〇反〇突撃ニ頓挫した場合、〇は如何にすべきや
二、射撃の間分隊長の件務
三、戦斗ノタメ前進、〇換を容易さらしむるには如何にすべきや
9月23日(土)
天候・晴れ
朝八時、勅列會で補充兵査関も来月早く実施さる予定。
それで今朝は基本分隊教練。分隊長を一回やる。後密集教練。
午後は内務実施。今日は俸給が戴ける予定にて、珍らしき
アメ、南京豆、甘庶等、たらふく食ふ。夕方、事務室にて俸給を渡さる。
二十一〇恵〇〇義金に徴発さる。亀谷上ト兵、小丹陽より来隊。
9月24日(日)
天候・晴れ
朝、馬運動。挟虎に乗る。馬場に於て然し馬が張り切っている為
自分は駅方面に行く。〇教育の者は塔の方向に行く。
午后外出。学校付近に行くと、〇〇のクーニアンのいる
中公司の所にて約三十分四モ山の話。芝居があるので入いる。皇軍は無料。
言葉が通じなき為早く出る。帰り酒保にてカルピスを呑む。
そして山本慰安所にて二十分程ヒヤカス。それより支那ソバ食して帰隊。
外出中、中隊当番が四年兵を捜している。愈(いよいよ)明日蕪湖集結、
待つ日は来たのだ。〇ふ長い間の御奉公御苦労様であった。
夜銃床に於いて送別会。第二次會は各班内に於いて酒二升、ピール一本宛、
下〇品として渡る。皆んなこん気一ぱい呑んで踊って歌ふ。
自分も又其の中の一人。
日夕点呼は午后十時。四年兵は楽しき夢路で故郷を偲んでいるだろう。
9月25日(月)
天候・晴れ
愈、四年兵とも今日は別れねばならなくなった。
午前十時半、舎前に整列。中隊長殿挨拶、森准尉殿の答辞。
一同元気一杯で駅に向ふ。駅に於ては大隊長殿の訓辞の後十一時の汽車にて
蕪湖に汽笛一声。皆んな別れを惜しみ、只感激で胸一ぱい。さらば四年兵殿さようなら。
今度合ふ日は何時の事。否、永久に合ぬだろう。
午後は馬運動、五里脾高地、廟のある方向に前進中、
鈴木一等兵落馬に依り大事。不省に陥る。
自分と小佐川班長と二人、医ム室に急を告げに走る。
走る走る、矢の如く。中隊より戦友の應援を得て〇〇修用に行く。
後の情報によれば生命には別状無いらしい。夕方第二中隊の四年兵を駅迄見送る。
七時半より宣撫班に於て中支派遣〇兵部、慰問演藝團来るに就き一同行く。
演藝は十時迄。実に面白かった。
第二中隊連絡兵、宿る。
9月26日(火)
天候・晴れ
八時半より検関予行〇戦斗を西門堤防付近にて状況二回にて午前終る。
午后一時半より馬運動、馬場に於いて補充兵も大分上手に成った。
原君、假〇より連絡に来る。相変わらず朗らかな・・・
午后七時より問〇古、体操。
点呼後、原、服部、自分と三人で一ぱいやる。三浦いねさんより慰問袋戴く。
感激の外なし。十時より白田軍曹殿と巡察。河南各巡警哨。
長井実君より便りあり。彼も遂に入隊。〇〇十三連隊。
9月27日(水)
天候・晴れ、風あり
七時半、帰還兵駅通過に付き、見送に行く。秋風涼しく身にしむ。
もう少したてば此の風も寒くなるのだ。今は何をしても好シーズンだ。
九時より体操、剣術。午後一時半より馬運動。朝中隊長殿の訓辞あり。
四年兵帰還し愈と我らが中隊の中枢なるにより自重自奮して職務にあたれ。
夕、軍歌演習。色々物想して床に入る。
班の窓を新聞紙にて貼る。
9月28日(木)
天候・晴れ、風強し
朝の点呼に寒さを感じる。尤も風強き為。
八時より馬運動。守泉に乗る。十時よりコレラの予防注射あり。
午後は一時半より中隊長の学科、封支戦斗。支那軍の特色に就きて四時迄。
風強き為班内にホコリ吹込む事甚だし。補充兵を使役に出し舎前に水まきをさす。
大龍口の安〇軍曹殿より電池代八十〇戴。瓦〇口蓋○の件、班長殿に申出る。
宮田〇〇〇より便りあり。
9月29日(金)
天候・晴れ
第〇回應用射撃、五里脾に於て午前九時より。大隊砲も実弾射撃六発。
晝食は中隊より持参。午后一服して離〇目測。三時半帰隊す。
〇〇軍、五名中隊に宿泊す。他に連絡兵三名。四班に投宿す。明日工務兵を
蕪湖に引率して行く事になった。点呼後、服部上ト兵と一ぱい、昨日のビールにて。
9月30日(土)
天候・晴れ
今日は千葉、大谷、銃剣術修行兵として蕪湖に分遣されるので
引率して行く。自動車にて八時三十分、太平出発。乗客多数、満員。
道中にても大〇の乗客あり。之も宣撫の賜と嬉れしく思ふ。蕪湖到着十時。
獣医室に行き申告する。馬取〇兵相変わらずの顔ブレ。然し俺は此所に来なかったのが
心嬉しと思ふ。皆んなこぼしている。上等兵連中の胸中、察するに余りあり?
獣医室に於て晝食を給〇受ける。蕪湖にも野戦郵便局が出来ている。
伊〇准尉殿より依頼を受けし貯金を実施したる後、第二福明に行く。
半島人も此の頃では日本人と大差ない。そして自分等も支那語が
学び得ない事はないと思ふ。用事終り四時の自動車にて帰隊。
俺の班の優秀な者二名、いないので淋しく感ず。
10月1日(日)
天候・晴れ
朝九時より馬運動。今朝より起床は午前七時となる。
晝より休養。外出許可あれど出ず。手紙を書く。家と永井実君と
滝下君に出す。役場に出す下書きをする。一時より一時間半程ピンポンをやる。
夜る中隊長室にて助手、四名に学科あり。検閲科目に就きて十時まで。御賜ノ菓子を頂く。
10月2日(月)
天候・晴れ
九時より検閲の基本分隊戦斗教練を実施。自分は分隊長をやる。中隊長殿見に来られる。
午後も一回実施。三時帰営す。四時より中隊長殿の学科あり。
封支戦斗法に就て約一時間半。点呼後、役場に出す手紙を書く。
服部上ト兵、伍長に進級す。神保一等兵、上ト兵に進級す。何れも十月一日付。
又、荒尾班長殿、曹長に進級さる。
10月3日(火)
天候・晴れ
九時より検閲の予行演習。
樺山、林少尉殿も見学に見へる。一同張り切っていたので午前一回にて終る。空砲使用。
午后休養。馬手入。自分は寝具一切、洗濯す。
点呼後、班長殿チェッコ機銃(九六式軽機関銃)に付て話あり。
亀谷班長来隊。愈、明日は検閲。過去一ヶ月間の辛苦の実が結ぶか?
西門横にて三時頃火事あり出動す。一家にて消止める。
10月4日(水)
天候・晴れ
愈、今日は待望の第二次補充兵の検閲。日頃の猛訓練が実が結ぶ時が来たのだ。
一同緊張して西門演習場に行く。八時四十五分、大隊長殿が見えたので演習開始。
分隊戦斗教練、約二十分にて終る。講評は元氣旺盛にて良好。次は大隊砲教練。
之も二十分にて良好な成績を修む。次は短剣術。元氣にて良好。次は密集教練。
自分は分隊長。共同一致の精神。充〇し前と同じく良好。十分休憩後、
中隊長、封支戦に就き、試間的に学科あり。無難にて終る。
全般を通じての講評も又、非常に良好〇と、過去四十日間の教育の賜にて
今日の成績が得られたのだと教官殿、班長殿と喜び合ふ。午后は休養。
中隊長殿よりもおほめの言葉賜る。教官殿から祝にピール二本いただく。
夜、巡察に野田少尉殿と〇南に行く。九時半よりモ範小学校の横の芝居見物に行く。
面白いのでつひ十一時半頃まで見ている。そして帰営は十二時。ぐっすり眠る。
10月5日(木)
天候・晴れ
日朝点呼時、中隊長の学科あり。陸軍刑罰に就きて例を占され説明あり。
点呼後、補充兵に学科あり、今後の指針を示さる。そして今日は慰労休暇を許さる。
朝、銃手入。日誌を整理新して班長殿に提出。晝に冬服及冬袴下等渡さる。又営内靴も。
一時半より外出。山本へ行き三十分程遊び、太平を一周して帰営。
ガス口蓋弾の件、解消す。戦友はもつべきもの。
10月6日(金)
天候・晴れ
朝食後、馬運動。守泉に乗る。馬場にて約一時間半。
午後一時整列にて北門より五里脾北方南方の部落に宣撫行軍を実施。
未だ住民逃亡する者あり。銃分隊と機関銃分隊編成にて。自分は此の〇の分隊長。
午后五時、全員無事帰隊す。〇〇を得ず。本日上番の司令部工兵なれども
明日より厩週番の為取消となる。明七日は中隊兵器検査が実施さる予定。
夜、大龍口連絡者三名ねる。郵便来る。
10月7日(土)
天候・雨時々曇
今日は兵器検査。起床と同時に機関銃手入。後小銃と晝前は非常に多忙。
十二時迄に銃床に陳列を終る。厩週番、申受けをする。
魂馬三八。馬糧受領に本部へ五回通ふ。五日分十一日迄。
上番厩当番、言橋安〇増加、加我。夕食後、第四班より二班に編入になる。
消燈時巡察す。
10月8日(日)
天候・晴れ
一時間早く起きるのに大義な気持になる。点呼前に馬糧をはかる。
剣術専習員が点呼後、問〇古を実施している。朝食後、馬運動。十七頭出場。
山田繁君等、大龍口より来る。自分は週番のため剣術に出られぬのは残念。
午后、皆外出す。假眠所にて山田上等兵と一時間程、雑談。
10月9日(月)
天候・晴れ
点呼前に馬糧をはかる。馬当番も中々精勤して呉れる。
起床当時、剣術専習員、問〇古をしている。馬運動十九頭、出場。
伊〇准尉殿が子供を一人、厩屋に下さる。三吉と名付ける。
午后も剣術の問〇古をやっているので見学に行く。
午后五時、中隊長殿お呼びで行くと、名古屋の教員が慰問に来るから
挨拶せよとの令。腹案を立てて見る。
「一言挨拶申し上げます。
只今は御懇切なる御慰問の言葉を賜はりまして誠に感謝感激致して居ります。
私共は出征以来10有年、無事に奉公の大任を全う致しましたのも、
〇〇〇の大〇の然らしむる所とは言へ銃後皆様の熱誠溢るる御後援の賜と
常に感謝致しています。皆様が御無事で御帰還の上は、
今日の中國の状況をつぶさに御視察の上國民指導の中〇として御〇斗
あられん事を御願致しますと共に、私共も皆様の〇誠に深く感謝致し益て、
奮斗努力致す覚悟で御座います。何卒御帰りになりますになれば〇〇様の兵隊は
此の通り元気溌溂として御奉公に邁進致している事を銃後の皆様に御傳へ下さらん
事を御願ひ申上げます。甚だ簡単にながら兵隊を代表致しまして
御礼の言葉にかふる〇〇であります。」
五時二十分舎前に整列〇して慰問を受く。挨拶は普通に出来たと思ふ。
中期兵、中々張り切る。そろそろ神様(?)が出来はじめた。
10月10日(火)
天候・晴れ
朝、金井班長、〇引卒にて馬運動。午後は引馬運動。
夕方、保護兵、錬成隊より帰還す。二班へは三浦、塚田二名。
手紙来ている。妹との〇〇。察するところあり。
専習員相変わらず猛烈に訓練している。
夜、酒が上がる。少し呑んだだけにいい気持になる。
大隊砲に於て中期兵の連中さわぎている。
10月11日(水)
天候・晴れ
朝、全員演習にて馬運動なし。何でも揺石方面へ下士官教育の使役にて。
午后二時より大隊本部に於て角力(すもう)競技あり中隊よりも多数出場。
厩週番にては致方なし。午后、平凡に厩にて過す。
昨年の今晩、違〇に敵前上陸をした思い出深き夜なり。
夕方、全員馬手入れに整列さす。
10月12日(木)
天候・晴れ
朝、馬運動あり。
午後、剣術の試合あり自分も出場す。始めてなれ共、予期以上の成績。
でも練習が何よりと思ふ。流石が以前より練習している者は上手になっている。
点呼後、入浴。就寝す。
10月13日(金)
天候・晴れ
朝点呼後、又剣術の試合をやれとの事で出席す。十中六迄黒星。でも気が楽になる。
今日、鈴木少尉殿、蕪湖より出張との事で厩内外の清潔、整頓を実施す。
晝より馬運動。十九頭出場す。午後、馬糧受領す。多き為明日に繰越す。
10月14日(土)
天候・雨
六時起床。まだ大変暗い。
今日は愈、週番下番だ。命に依り飼付を本日より四食飼とす。
朝よりの曇りが、八時頃より小雨となる。そして遂に本降りになる。
十二時、週番交代。三時より中隊長殿の使役、地図を貼り
中隊長殿病気のため、情報を読んでやる。そして(俺の)勉強にもなると思ふ。
10月15日(日)
天候・晴れ
小雨を破って八時より馬運動、後、馬手入れ。
午后休養。班内に自分一人。晝寝。三時より和田班長殿と四方八方話に〇ける。
夕方、顔すり。後ピンポンを少しやる。写真〇へ行って見れど出来ていない。
明日自警乗・・・南京まで。
10月16日(月)
天候・晴れ
今日は南京自動車警乗。
起床前に洗面終り点呼を待つ。七時四十分出発。
途中乗客多数、満員。南京に到着は十時半頃。最初師團司令部へ行き、
公用書を渡し郵便局、千代〇〇等。晝食は日の丸食堂。
流石、首都だけに賑やかな。表だけは立派な家も中は爆撃の跡がある。
二時十分、太平に向って出発。帰りも乗客多数。五時太平着。
夜、大日本青年の中に
「日は高く、手は低く」
・・・眼前の利益に捉はれるな。即ち青年はよろしく明日を望め。
すなはち高き理想、大いなる理想(希望)の下にその修養を怠らないやうに
するとともに目前の任務の遂行に対しても最も忠実でなくてはならぬ。之が
「目は高く、手は低く」と言ふ事である。誠に意義深き言葉と思ふ。
10月17日(火)
天候・晴れ
八時半より馬運動。一時間半。
剣術専習員、本日十時三十分の汽車にて蕪湖に出発。一同の健闘を祈る・・・。
昼食早く出来ぬ為、皆食はずに出発す。大河内隊、〇澤隊と共に十二時より、
将石方面へ粛正行軍に出動す。自分も整列したが人員の関係で出動せず。
そして二時より藁を倉庫に入れる。銃手入、洗濯をする。
今日、司令部衛兵。最初の司令に服務す。歩哨〇〇〇武夫歩哨、横山、丸山、山田である。
夕方、弟姉より便りあり。〇れ班長よりも便りあり。
10月18日(水)
夜る、とうとう巡察がなくて済んだ。朝七時迄でぐっすり眠る。朝食後も又眠る。
昼より衛兵所〇築終ったので移〇する。窓が大きいので夏向だがこれからは寒いだろう。
剣術選手、試合の結果は三番との事。予想より悪かった。然し、勝敗は時の運。
全力を盡して頑張って呉れただけで結構と戦友ニ感謝す。
10月19日(木)
朝八時半より馬運動。吉繁に乗る。手入終りは十一時。
被服返納準備をする。十二時より宣蕪班へ慰問団が来たので参観。
去る九月二十五日来たのと同じ人員であった。でも如何見ても面白い。
夕方馬手入。妹より便りあり。他に庭女、四冊送ってくれる。
村瀬〇〇君より便りあり。彼は野戦砲兵とか。俺と同じく馬に縁があるな・・・。
十時より警戒兵に立哨。
10月20日(金)
天候・曇り
八時ヨリ対空監視哨兵として服務。二村、三博、言橋、三名。
午前中、子供二三人遊ビニ来ル。風レ、寒サヲ感ジル様ニナリタリ。
夕方ヨリ小雨トナル。六時三十分引上グ。本日、萬年筆、折〇ス。惜シイ事ヲシタ。
10月21日(土)
天候・曇り
午前中、武器被服の手入。(夏被服返納)班内全員ニテ個人兵器ノ手入実施。
午前十一時、週番下士官殿ヨリ明日鈴木一等兵退院のタメ蕪湖連絡ヲ命セラレ
十一時四十分ノ汽車ニテ蕪湖ニ出張ス。連絡終リ御木曹長殿ト〇〇の方に
オモッテ戴キ、朝日ニテ晝食ス。森二町ニテ面會、四時十分自動車ニテ太平帰隊ス。
小丹陽ヨリ馬九頭来ル。原一等兵、連絡ニ来ル。
10月22日(日)
天候・雨
朝手入。後剣術専習員が訓練シテイルノデ仲間ニ入リ、実施ス。
剣術モヤハリ訓練ガ第一、ソシテ真剣ニヤレバ面白イモノデアル。
午后外出。山本ニテ遊ブ。三時帰隊。今日は俸給日、今月ハ貯金モ出来ソウニナイ。
夜ハ司令部衛兵、中隊長巡察ニ来ラル。異状ナシ。
10月23日(月)
天候・雨
昨夜、中隊長殿巡察ニ見ヘル。服務状態良好ノ御言葉ヲ賜ル。
十二時、金井軍曹殿巡察、異状ナシ。午前二時頃ヨリ非常ニ寒サヲ感ジル様ニナッタ。
二時ヨリ歩哨係ト交代シテ床ニ入ル。相変ラズ寒シ。妹ニ便リ書く。ハガキ一枚。
朝モ相変ラズ雨ガ降ッテイル。今日ハ靖國神社〇時大祭ニテ午后皆外出シテイル。
服ム中、陸軍〇式、及、つはものヲ読ム。勉強もヤリ始メレバ面白イガ、
少しヤラヌト手ガツカヌ。後五ヶ月モアル、ミッチリヤッテ見ル覚悟。
10月25日(水)
天候・晴れ
愈、本日より向ふ四日間第一次秋季討伐開始さる。自分は四番射手にて参加。
今度の討伐は大官坪一帯の粛正、宣撫宣傅が目的との事。
午前七時、大橋西方二粁迄、自動車。それより行軍。宣撫班、憲兵等も来ている。
女の宣撫班員一名、人目に入る。官東門、東頭門、龍山橋、約五里。
宣撫行軍実施。〇〇を得ず。夜るは太平に帰隊す。
12月7日
午后二時、東村 村長
岐阜県長村長會代表慰問使トシて和田清右エ門氏来隊さる。
自分ハ中隊ヲ代表致して挨拶す。挨拶概要左ノ如し。
一言御挨拶申上げます。
只今は御懇切なる御慰問の言葉を賜りまして私共一同強く感謝致して居ります。
私共は郷里を皆々様の歓呼の声に送られて征〇に上がりましてより早くも
一年有余は夢の間に過ぎ去りました。其の間大か無く無事奉公の大任を
全うし得ました事は之一重に上、一天〇〇ノ〇〇るの然らしむる所とは言へども
銃後皆々様ノ熱誠溢るるの御〇援、即ちあのいたいけない小学児童ノ慰問文、
或は各〇團体の慰問袋〇、又、御佛への御祈頭等、聽しにつけ見るにつけ
私共は如何程鞭撻された事か存じません。
又、本日ははるばる此の異郷の僻地まで御慰問に来て下さいまして、私共一同
何と御礼申し上げてよいか、其の言葉も無い様な次第であります。
どうぞ御帰りになられた〇は、戦地の吾々は此の通り益々元気、溌溂として御奉公の途に慢心している事を銃後の皆々様に御傳え下さらん事を御願致します。
甚だ簡単ではありますが一言、一同に変わりまして御礼の言葉にかふる次第であります。
稲葉秀章(文責)
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