唐招提寺
唐招提寺
・唐招提寺は天平宝字3年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建された。飛鳥時代に仏教が伝来して以来、戒律は概念として知られながらも、さほど重視されていなかった。奈良時代に入り、その重要性が知られ始めたが、日本には授戒を行える僧侶がおらず、授戒の体制整備が急がれた。鑑真和上は朱鳥2年(688)、中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家。21歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられていた。
そこで興福寺の栄叡(ようえい)と普(ふ)照(しょう)が唐へと渡り、南山律宗の継承者である鑑真に、伝戒師としての来日を要請。鑑真は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意、5度の渡航失敗の後、来日決意より10年後の天平勝宝5年(753年)、65歳でついに九州へと上陸を果たす。鑑真は5年間東大寺に座し、天皇や僧侶400人に戒律を授け、天平宝字3年(759年)、戒律を学ぶ為の道場である唐招提寺を開いた。律宗総本山としてその法灯を今に伝える。国宝金堂の背後には、教義を説く為の講堂が建てられている。
この講堂は、平城宮の東朝集(ちょうしゅう)殿(儀式に出席する臣下の控え室)であったものを、平城宮改修の際に下賜され、天平宝字4年(760年)頃に唐招提寺へ移築したものである。大幅な改修が施されているが、平城宮の唯一現存する宮廷建築として非常に貴重である。
参考資料『唐招提寺 リーフレット』
・平城宮展示施設に創建当時の東朝集殿が復元されている。この朝集殿は、屋根勾配は緩やかで、ゆったりとした印象である。柱はひとまわり太く、扉は厚板の板であった。
平城宮から移され、唐招提寺の講堂として生まれ変わった。そして宗教施設として大改造がなされ、建具が入り、屋根は切妻造りから入母屋造りに改められた。この講堂は鎌倉時代に大修理されている。
*平城宮跡 説明版より
・鑑真和上は759年に、新田部親王旧宅の地を賜って開創した。境内には現在、天平建築の金堂、平城京から移築された講堂、三面僧坊東室の後身とされる礼堂、元経堂と推定される鼓楼、創立当時からの校倉2棟、境内西部に石造戒壇などが遺る。山内には80件700点余に及ぶ国宝、重要文化財が遺存する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.1