恭仁京
恭仁京
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)
恭仁京は、奈良時代に聖(しょう)武(む)天皇によって造られた都である。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平(へい)城(じょう)京を離れ、各地を転々とした後、天(てん)平(ぴょう)12年(740)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めた。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃(はい)都(と)されてしまう。
その後、宮域は大極殿(だいごくでん)を中心に、山城国分寺として再利用されることになる。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂(こんどう)跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を持つ寺であった。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基(き)壇(だん)と塔(とう)跡基壇が地表に残されている。周囲を塀に囲まれた踏は、残されている基壇跡や礎(そ)石(せき)跡から考えて七重塔であったと推定される。
※説明板より
恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。
遷都後、748年(天平18年)恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入されている。
宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E4%BB%81%E4%BA%AC)