国指定・田中家
国指定・田中家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 冬頭町982番地)
〈時代〉江戸時代中期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造、東面1間庇付、板葺
この建物は、もと高山市の北部中切町にあったものを二之町薬種商田中屋の第4代田中大秀が買い、冬頭村の田舎(でんしゃ)として文化年間(1804~1818)に移築、手代茂七郎(庶子)に与えたという。1度移築を受けているが、内部は昭和の初めまで建設当初のままで土座形式であった。飛騨の石置板葺の民家の中で18世紀前半まで溯る代表的な建物の1つである。
平面は本来土座の「オエ」の上手に板の間の「デイ」「ブツマ」、裏手に板の間の「ネマ」と土間の「ニワ」、下手に「マヤ」を配したもので、さらに下手外側に下屋が付加されている。この形式は、飛騨地方でも高山市周辺から西は荘川、白川までの大野郡でこの平面形式の民家が見られる。ただし屋根が板葺になるのは高山周辺だけである。北の国府町でも一部この平面形式が見られるが、南の益田郡はこれと異なる。
後世の改造時期については明らかではないが、まず「ネマ」回りの改変があり、次いで「マヤ」回りや正面出入口および「オエ」南側が改造され、さらに昭和になってから「オエ」の土座や「ニワ」の土間に床板が敷かれ、東側の下屋も撤去された。
昭和46年9月、旧所有者田中秀茂氏が高山市に寄贈し、翌年12月「飛騨民俗村 飛騨の里」に移築するため解体工事に着手、昭和48年12月にすべての修理を完了した。
建物の外観は素朴な板葺石置屋根で、勾配が緩く棟高が低くて荷重が軽いため、雪国にしては梁が細く数も少ない。入口を入るとL字形の「ドウジ」、「マヤ」がある。奥にはそれぞれ炉をもつ「オエ」と「ニワ」が広い土座を形成し、「オエ」には深さ60㎝程の「ムロ」がつくられる。「デイ」、「ブツマ」は板敷となり、東西2室の「ネマ」は板壁で囲まれて窓もなく、閉鎖性をもっている。各室とも天井を張らず、屋根裏がむき出しになり、柱は土間回りに栗、部屋に赤松が使われ、土間と外回りは杣ハツリ、部屋回りは丸刃釿(ちょうな)が多い。鴨居は溝を掘らず、付(つけ)樋(ひ)端(ばた)(付(つ)け溝(みぞ))にしてある。小規模な家だが、高山を代表する古い農家である。
参考文献
『高山の文化財』14~16頁 高山市教育委員会発行 平成6年