美濃禅定道
美濃禅定道は、美濃馬場の中宮である郡上市長滝にある長滝白山神社、長滝寺から、石徹白地区にある白山中居神社を経て、三ノ峰、別山を経て白山山頂(御前峰)に至る信仰の道。総延長は約36㎞に及ぶ。
歴史の道 白山禅定道(はくさんぜんじょうどう)の一部として、平成8年に文化庁より歴史の道100選に選定されている。
メタデータ
美濃禅定道
資料集
083_087_美濃禅定道
比楽駅
比楽駅(ひらかえき)は、平安時代前期に見える古代の駅であり実態、場所は不詳である。「三代実録」には貞観11年2月23日の条に「加賀国比楽河置半輸渡子廿五人」と書かれ、古代の平楽河を渡河するために25人の人夫を置いていたことがわかっている。また、延喜式には、湊として名称が出てきており越前国(加賀国の誤記カ)の国津として出てくる。現在、比定地は不詳であるが、白山市美川地区平加(ひらか)町の安産神社(やすまろじんじゃ)から白山市立美川図書館のあたりが有力である。ここは、砂丘地の先にあり、古代の比楽河が東側に面していたと推定される。古代の比楽河は、平安時代の手取川の本流であり、平楽駅、湊が平安時代において北陸道沿いの重要な交通起点であったと想定される。
特色
古代駅の推定地として有力な地勢であり、将来的に発掘調査等で確認されることが期待される。
平楽駅推定地
メタデータ
比楽駅
資料集
082_086_比楽駅
白峰伝統的建造物群保存地区
白峰伝統的建造物群保存地区は、手取川の源流左岸の河岸段丘に位置する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2メートルを超える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕、製炭および焼畑による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230メートル、南北約960メートル、面積約10.7ヘクタールの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘上に形成される。敷地が限られていたため、主屋が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。 主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造で、年代の古いものは、下屋や軒庇を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪の搬入口として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2センチメートルから3センチメートルの木の枝を使用し、非常に厚い。これらの特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴をよく示している。
特色
白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業に即して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致をよく残し、我が国にとって価値が高い。
市街地全体の伝統的建造物保存地区としての価値が認められ平成24年7月9日に国指定となった。
白峰の冬景色
メタデータ
白峰伝統的建造物群保存地区
資料集
081_085_白峰伝統的建造物群保存地区
白山比咩神社
白山比咩神社・白山本宮・加賀一の宮
(白山市三宮町)
古くから加賀の人たちに崇敬されてきた神社で「白山(しらやまさん)」と呼ばれる。霊峰白山(標高2707m)をご神体とし、伊弉諾、伊弉波、菊理姫を祀る。
白山山頂に奥宮がある他、大汝峰(標高2684m)、別山(標高2399m)にも祭神を祀る。
神社口伝によると創建は崇峻3年(BC91)で舟岡山に創られたと伝わる。その後、応神28年(318)に手取川畔に遷座したという。霊亀2年には、社地が崩壊したため、東南の地(現古宮公園)の地に遷宮したと伝わる。文明12年(1480)、鶴来今町からの出火により類焼し、その後社地を三宮に遷座する(白山荘厳講中記録)。明治2年神仏判然令により、白山寺惣長吏澄遥は三神直藤原澄遥と改名し、神職となる。その後、本地堂、釣鐘堂は取り払われた。本地堂は、解体され、木津町の須郷白山神社として再利用されている。明治4年(1871)白山本宮から白山比咩神社と改称され、国幣小社に列する。
特色
加賀白山信仰の中心的な施設
メタデータ
白山比咩神社
資料集
013_016_白山比咩神社
白山山頂遺跡
いにしえから山岳信仰のメッカとして栄えた白山の山頂部には、平安時代から江戸時代まで使用されていた仏堂跡や宿(しゅく)と呼ばれる宿泊所跡が遺跡として残されている。白山の山頂は、御前峰(ごぜんほう 標高2702m)、大汝峰(おおなんじがみね 標高2684m)、別山(べつさん2399m)から成る。この三峰には、社祠があり白山の諸神を祀る。もともとこの社祠には白山の本地仏(ほんちぶつ)が平安時代から祀られており、明治7年(1874)7月まで安置されていた。明治7年に当時の政府によって推進されて廃仏希釈により仏像が下された(「白山下山仏」という)。御前峰が十一面観音、大汝峰は阿弥陀如来、別山は聖観音である。この周辺には、祈祷の場所として遺構も残る。この存在を初めて確認したのが、昭和60年に國學院大學の考古学研究室が実施した確認調査である。調査の結果、10世紀中頃から16世紀まで使用された祭祀遺物(鏡・経石・懸仏・刀子、経筒、銅銭、陶磁器等)が濃厚に残存していることが判明した。また、かつての噴火口に近い六地蔵堂などでは石垣や明治の廃仏稀釈で破壊された石仏が残存していることが確認されている。」
特色
歴史遺産価値が高く、文化財としての保護措置が求められている。
メタデータ
白山山頂遺跡
資料集
080_083_白山山頂遺跡
波切不動
白山市鶴来今町に南、手取川七ヶ用水給水口に西接し舟岡山の山裾に磨崖仏が小堂に安置されている。高さ約2.6m、幅2.1m、厚さ0.7mを測る。舟形に切り取れれた巨石に、不動明王坐像が線彫りされている。彫面は平坦になっている。上部不動明王の背面は火炎が線彫りされている。その中央に螺髪の不動明王の顔が見え、向かって左側に刀剣が見える。摩耗が激しく他の図がらは不詳。13世紀頃の作品と推測されている。本像の向かって右側には3体の仏像が安置されている。前列のものは地蔵菩薩半跏像で、面相は表現されていない。石高は90㎝である。前列のもう1体は如来刑坐像、石高は68cmを測る。後列の1体は、阿弥陀如来坐像である。石高は92㎝を測る。もともと、凝灰岩からなる舟岡山の磨崖仏であったが明治32年から始まった手取川七ヶ用水の掘削事業により、岩塊から切取られ、現在の姿になる。「波切」は手取川の河畔波切部にあったことによる。その他に、このあたりに江戸時代まで九重の石塔があったらしく、御堂向かって左側には、石塔の円形状の屋根部、向かって右には塔輪の残骸が残っている。
特色
歴史資料
メタデータ
波切不動
資料集
079_082_波切不動
美川おかえり祭り
手取川河口右岸砂丘地上に位置する。本殿、琴平神社、素戔嗚社から成る。大山咋神(おおやまいくのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、事代主神(ことししろぬしのかみ)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。創建は寿永年間(1182~1184)の山王権現に始まる。その後、藤塚山王社となり、明治元年(1868)に本吉日吉神社から藤塚日吉神社となり明治7年(1874)に藤塚神社となる。古くから滋賀県大津市坂本にある日吉神社の分霊してきた。5月下旬に開催される「おかえり祭り」(石川県無形民俗文化財)は、当神社の春季例大祭、1日目に東側約800mに位置する御旅所へ神輿を先頭に16基の山車と獅子舞が街中を練りまわる。1日目を神幸祭(しんこうさい)と呼ぶ。2日目は御旅所から神社まで、神輿、獅子舞、山車が練り歩く。2日目を還幸祭(かんこうさい)と呼ぶ。2日目の通称「おかえり筋」と呼ばれる町会がその年の祭事全般を司る。
資料
美川のおかえり祭り
メタデータ
藤塚神社
資料集
078_081_美川おかえり祭り
藤塚神社
手取川河口右岸砂丘地上に位置する。本殿、琴平神社、素戔嗚社から成る。大山咋神(おおやまいくのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、事代主神(ことししろぬしのかみ)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。創建は寿永年間(1182~1184)の山王権現に始まる。その後、藤塚山王社となり、明治元年(1868)に本吉日吉神社から藤塚日吉神社となり明治7年(1874)に藤塚神社となる。古くから滋賀県大津市坂本にある日吉神社の分霊してきた。5月下旬に開催される「おかえり祭り」(石川県無形民俗文化財)は、当神社の春季例大祭、1日目に東側約800mに位置する御旅所へ神輿を先頭に16基の山車と獅子舞が街中を練りまわる。1日目を神幸祭(しんこうさい)と呼ぶ。2日目は御旅所から神社まで、神輿、獅子舞、山車が練り歩く。2日目を還幸祭(かんこうさい)と呼ぶ。2日目の通称「おかえり筋」と呼ばれる町会がその年の祭事全般を司る。
特色
砂丘上に立つ山王社系神社、北前船によって搬入した文化を祭事等に色濃く残している。
メタデータ
藤塚神社
資料集
077_080_藤塚神社
東二口人情浄瑠璃
東二口文弥人形浄瑠璃は、白山麓尾口地区東二口集落の伝わる民俗芸能。今から約350年前に村の有志が京で人形遣いについて伝授し、現代に伝えられている。毎年、旧正月である2月中旬の土曜日・日曜日に東二口歴史民俗資料館の特設舞台で演じられる。1公演は2~3時間である。浄瑠璃は、集落の伝承者15名で行わる。ここで上演される浄瑠璃は、「でくの棒」と呼ばれる顔の表情が変わらない高さ60cm程度の人形遣いによる芝居である。普通浄瑠璃は、一つの人形を2~3人の人形遣いが操作するが、ここで使用される人形は、各役の頭部の人形に十字の木の棒を付け、服を着せているので文字どおり「でくの棒」である。ゆえに「でくの舞」とも呼ばれている。公演は、太夫(話手)、三味線、太鼓打ち、人形遣いで行われる。人形遣いは2~3名で行われ、一人の人形遣いが1度に2~3体の人形を扱うこともある。芝居の演目は、「源氏烏帽子折」「出世景清」「門出屋島」「大職冠」「酒呑童子」等江戸から明治時代にかけて大衆芝居等で演じられてきた演目である。演目は三番叟、口上から始まり、当日の演目、最後は太夫が人形を遣い「華ほめ」と呼ばれる観客に対しての謝辞で終わる。昭和54年からは東二口民俗資料館の専用舞台で演じられているが、以前は、村の浄土真宗道場にて演幕を張り、簡素に行われてきた。現在、集落は急激な過疎化に悩まされ、伝承者が高齢化し伝承が危機的な状況に陥っている。
特色
国指定無形民俗文化財(昭和52年5月17日「尾口のでくまわし」として指定)、古浄瑠璃の形態の芸能は、全国では薩摩川内市、佐渡市、この白山麓のものしかなく貴重な無形文化財である。
メタデータ
東二口のでくまわし
資料集
076_079_東二口人形浄瑠璃
石川ルーツ交流館
現在の行政区域である石川県は、明治5年2月2日に金沢町にあった金沢県庁を石川郡美川町に庁舎を移設したことに始まる。このとき県名を石川県とする。同年9月25日には、能登の七尾県を廃して石川県に統合させた。同年11月17日には、江戸時代幕府領で明治4年の廃藩置県後は足羽県(現在の福井県の一部)に属していた白山を含む白山麓十八ヶ村を石川県に併合したことにより、現在の石川県の原形が完成した。その後、明治6年1月14日には、石川県庁は金沢町に戻り現在に至る。2年にわたり現在の白山市美川地区本吉は手取川」の左岸上に形成された砂丘地であり、16世紀から川海に面した天然の良港で、日本海側有数の北前船の寄港地でもあった。なぜ、金沢から離れた美川に石川県庁が置かれたかは、謎であるが金沢との違いは、海に面した港であり、交通に便がいい場所にあった。金沢は江戸時代全国で5番目の都市であったが、廃藩置県とともに武家文化が崩壊し、失業した大量の武家層は当時全国的に地方自治を動かしていた薩長藩士に対しての憎悪があった。当時の第1代県令(知事)は薩摩出身の内田正風であり、美川に県庁を置いたには、一説には反乱の政変時に、早く脱出できること考慮したとも言われている。平成13年にこの旧庁舎が石川ルーツ+交流館内復元され、当時の資料も一部展示されている。
特色
旧石川県庁舎を復元
メタデータ
石川ルーツ交流館
資料集
075_078_石川ルーツ交流館
石の木塚
石の木塚は、白山市石立町地内にある。古代の北陸道がこのあたりを通っていたと思われ、石立町より日本海に面して併行して南西に進む。この街道沿いにまさしく石立町の名前の由来となっている石のモニュメントがある。凝灰岩で四角に整形された高さ120cmの石柱が東西南北の方向に各1本づつ人口的に立てられており、古来から石の木塚と称された。この石柱の起源を探るため平成6年に松任市教育委員会により発掘調査が実施され11世紀頃に建立されたことが判明した。古代の道標的施設と考えされている。
特色
古代北陸道の道標施設で、全国的にも貴重な歴史遺産である。石川県指定史跡(平成12年8月29日指定)
メタデータ
石の木塚