飛騨の匠の技を繋ぐ
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブは、文部科学省私立大学研究ブランディング事業(2017~2020)及び岐阜県私立大学地方創生推進事業(2022~2023)として、岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が高山市などの自治体や関係機関の協力を得て構築した飛騨の匠に関する資料10万点のデータで構成されています。
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブのデータ提供について(2025.3.28)
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブは、文部科学省私立大学研究ブランディング事業(2017~2020)及び岐阜県私立大学地方創生推進事業(2022~2023)として、岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が高山市などの自治体や関係機関の協力を得て構築した飛騨の匠に関する資料10万点のデータで構成されています。
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブのデータ提供について(2025.3.28)
東山寺院群の中ほどには東山神明神社があり、境内地に絵馬殿がある。この絵馬殿は高山城二之丸にあった月見殿が移築されたものである。その北方向の墓地には、金森氏墓、大原彦四郎墓がある。さらに北方向には大雄寺、雲龍寺と連なる。
雲龍寺の参道は若達町1丁目から上がるが、古い石段を踏みしめてその先にある鐘楼門を目指す。古都高山らしい景観なので多くの海外観光客がここを訪れている。
この鐘楼門は1638年(寛永15)の建築材(年輪年代法による)が創建時に使われている古い建物で、高山城内の「黄雲閣」という建物を賜わり、鐘楼門になったと伝わる。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕を留めただけで焼け残った。
建物の外観を見ると、緩やかな曲線を持つ屋根の頂部に、露盤(四角の台)と宝珠(火炎が燃え上がっている形をした玉)をのせている。上層の外廻りには戸溝があり、中央通路の両側に三方を板で囲われた場所があることなどから、寺院の鐘楼門として建てられたものではないと考えられている。
雲龍寺の草創は古く、奈良時代の初めに泰澄大師(白山を開山)が白山社(現在の東山白山神社)を開山し、別堂として妙観寺(現雲龍寺の場所)を建立したと伝わる。後に天台宗に属していたが、幾世紀を経て寺は無住になってしまった。
応永2年(1395)、能登の総持寺4世・竹窓智厳(ちごん)和尚が荒廃を嘆いて妙観寺跡に寺を再建した。智厳は師である了堂真覚禅師を開山に招いて海蔵山雲龍寺と改称、曹洞宗に改めた。現在も総持寺の門末になっている。
金森長近は飛騨入国後、長子忠次郎長則の菩提寺として雲龍寺を修営。長則は天正10年(1582)の本能寺変に際し、二条城において19歳で戦死している。
高山城内にあった建物は次の寺社に払い下げられたと伝わる。雲龍寺鐘楼門、素玄寺本堂、法華寺本堂、東山神明神社絵馬殿、高山陣屋御蔵である。
このように東山寺院には高山城の古い建物が移築されて大事にされている。
越前大野城主であった金森長近は、天正14年(1586)に飛騨の国の国主となり、現在の高山市の基礎を作り上げた。飛騨を治めることになった長近は、信長や秀吉と攻略した各地の軍事拠点や越前大野の城下町づくりなどの経験を生かし、経済基盤のしっかりした城下町づくりを目指した。
長近は高山城を造り、次に、その城を取り囲んで外敵から守るために武士団の屋敷群を構成している。この地区は1段高い場所にあって、現在地元の人たちは「空町」、「ソラ」と呼んでいるが、昔は「欠ノ上(かけのうえ)」といった。
東山寺院群は、金森氏の領国時代に武家の菩提寺として建てられた。そのため江名子川の右岸辺りから、各寺院に東方向に登る参道がある。参道の石段を登るのは大変だが、段々寺が近くなってゆく心地よい情景が感じられる。
北から南方向に雲龍寺、大雄寺、素玄寺、天性寺、法華寺、善応寺、宗猷寺と並んでいる。南端は臨済宗の宗猷寺、北方向に善応寺、法華寺と並んでいる。宗猷寺の裏には木地師の集団墓地、近くに金森左京の墓がある。
国府町から県道76号で上宝町に向かい、大坂峠(通称十三墓峠)を越え、2㎞ほど下ったところに濃飛乗合自動車の「石仏前(いしぼとけまえ)」というバス停がある。
このバス停の奥に、カラマツの間から高さ12mほどのまるで仏様のような形をした岩肌が突出している。これが地名の由来の「石仏岩」で、足元には小さな祠(ほこら)が建てられ、祀られている。周囲にも点々と岩肌が露出し、屏風岩、駒掛岩(こまかけいわ)、鏡岩、箪笥岩(たんすいわ)などと名づけられ、全体が「石仏と奇岩群」として、高山市の天然記念物に指定されている。
「石仏と奇岩群」の岩石の本体は、大雨見山層群の流紋岩溶岩である。この溶岩は、中に青灰色の玉ズイ(石英の微小な結晶の集まり)を含んでいて、「球顆流紋岩(きゅうかりゅうもんがん)」という。溶岩の一部は、大坂峠近くにも露出し、風化した部分から数㎝~こぶし大ほどの玉ズイの塊を見つけることができる。
石仏岩は、6,000万年という長い年月をかけ、風化や侵食を受けた球顆流紋岩が、偶然にも仏様の容姿になって現れたものである。
<大雨見山層群>
「石仏と奇岩群」は、どのようにして作られたのだろうか。今から6,600~6,000万年前の中生代白亜紀最末期から新生代古第三紀にわたり、現在の大雨見山(国府町、丹生川町、上宝町にまたがる山)を中心に、約100㎢にわたって流紋岩質マグマによる火山活動が起こった。この時できた溶岩や「凝灰岩」、「火砕流堆積物」を主体とする地層をまとめて「大雨見山層群」という。
高山の古い町並みには、道路の両側を流れる側溝がある。江戸時代に宮川上流から引かれている。側溝に雪を詰め込んで雪を解かす消雪溝の役割を果たしてきた。現在も雪が降った朝は早朝から住民が雪かきをする。いっぺんにたくさんの雪を側溝に詰め込むと下流に一気に雪が流れてしまい、下流では押し寄せた雪でダムが出来てしまい、道路に側溝の水があふれだしてしまうことになる。少しずつ、下流の様子に配慮しながら雪を流すのがマナーになっている。
高山の雪は盆地型気候なのでサラサラ雪である。新雪はホーキで掃いて除雪をする。一晩に30㎝余が降って3日続くと1mの積雪となってしまう。1、2月は昼間も寒いので、たくさん降り積もった雪は消えずに圧雪となる。圧雪は最終的には氷の盤となり、住民はツルハシで道路の氷を割らなければならない。
<56豪雪>
高山市で、市民の誰もが自家用車を持つようになったのは、昭和40年(1965)頃からである。昔は雪が多くても、さほど生活に影響はなかった。しかし、車に依存する生活習慣ができると、冬期の交通において雪はどうしても乗り越えなければならない大きな課題となっていった。
昭和55年(1980)12月28日から降り始めた雪は毎日のように20~30㎝降り続け、明治32年(1899)の測候所始まって以来、最高の積雪115㎝を記録し、豪雪になった。岐阜県岐阜市でも21㎝積もっている。1月になってもほとんどの日に雪が降り、一冬の積雪累計は7.19mを超えた。市内の道路は、車がわだちや「グレーチング」の段差場所で落ち込んで大渋滞、屋根の雪降ろしや道路の除雪で大変なことになった。高山の町並みでは、道路を通行止めにして地区民が一斉に雪下ろしをしてまとめて除雪運搬をする事態になった。
道路は官公庁で除雪をしたが、道路脇へ寄せた雪は人力で片付けなければならなかった。屋根から降ろした雪を川へ捨てたり、市民は朝から夜まで「雪またじ(除雪)」に追われた。慣れない作業で、腱鞘炎(けんしょうえん)にかかる人がたくさん出ている。市民憲章推進協議会では、町内会と協力して「雪またじ運動」を展開した。車がなかった時代には、こんな豪雪があってもニュースになっていない。橋の下の残雪は、5月まで残っていた。
乗鞍岳から西に派生する位山分水嶺にあり、位山、船山とともに「位山三山」とも「飛騨三名山」とも呼ばれている。
川上岳の北側は宮川の源流域となり、支流のツメタ谷が入り込んでいる。このツメタ谷沿いの右岸には、高山市一之宮町の天然記念物に指定されている、推定樹齢2,000年、樹高25m、目通り6.9mの「ツメタのイチイ」がある。一方、南側には山之口川の支流大足谷が、頂上近くまで入り込んでいる。
営林署のゲート前に駐車し、ここから大足谷に沿って道を辿り、登山道に入る。この道は植生が豊かで、ブナ、ダケカンバなど広葉樹の自然林が広がる。途中下呂市馬瀬からの道と合流する。川上岳の頂上は草地となっており、360度の展望が楽しめる。
<飛騨三名山の伝説>
この3つの山には、次のような伝説が残っている。 「神代の昔、位山には男神が、そして船山と川上岳には女神が住んでおられ、2人の女神が同時に男神に求愛された。そこで男神は、満月が位山の頂上へ来るのを合図に、先に着いた方を嫁にすると約束された。
川上岳の女神は、自分の山から月を見ると、まだ船山の上にあるようにも見え、すでに位山の上に来ているようにも見えたので、急いで出発したが、船山の女神は、まだ自分の上に月があるので、念入りに化粧をしてから出発した。このため、川上岳の女神に遅れをとってしまい、嫁になることができなかった。
これを悲しんだ船山の女神は、位山との間に大きな溝を作り、行き来を絶ってしまった。その溝が、今の無数河(むすご)川と言われている。また、川上岳の神が、位山との間に作った道が、現在のナベツル尾根である。」(『宮村史』)
また、位山には、両面宿儺(りょうめんすくな)の伝説もあって、「この山の主である宿儺が、神武天皇を即位させた。その時、アララギの木で作った笏を献上した。天皇は即位後、このアララギの木に一位の位を贈り、この山を位山と命名した。」という伝説である。
石工組合が建てた組合員の碑が善応寺の裏側墓地にある。50人の組合員の氏名が裏面に記され、表には「侠骨雄心記念碑」と彫られている。神武天皇の即位2600年を記念して昭和15年に建てられた。「侠骨雄心」は弱い人を助け正義を行なう男らしい強い心の意味。現在石工組合は無くなっている。
組合員の名前を見ると、5段に10人ずつが記され、1段目には水木作右衛門、坂本佐左エ門、山本初次郎、宮地勝太郎、高村菊之助、宮地長吉、西島長太郎、平塚常造、立田里平、宮地新次郎と続く。石積み等の黒鍬(土工)を中心とした職人たちである。宮地長吉は横山家、日下部家の江名子川沿いの石垣を積んだ石工である。
宮峠の不動明王像は宮地敬三という石工が彫った。山本初次郎の孫・山本稔氏は高山別院の鐘楼の基礎石垣を積んでいる。別院の総代が鐘楼建設にあたり、昔通りの積み方で施工してくれと言われ、六角の形で積み上げる「亀甲積み」で、苦労しながらノミで丁寧に仕上げ、鐘楼は昭和49年に完成した。
高山城があった城山公園には、江戸時代から現代まで多くの石碑が建てられてきた。山田秋籟碑、広瀬中佐銅像、白雲山桜花の碑、垣内松三碑、飛騨山娘歌碑、福田夕咲歌碑、館柳湾詩碑など歴史、文学、人物顕彰などの碑がある。城山を散歩しながら、高山の文学と人物顕彰を知る事ができる。
伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷因獄へ移転までの江戸の牢獄であった。
面積は2,600坪余。大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かった。
大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。
<飛騨の百姓が収監される>
安永2年(1773)4月下旬、飛騨の大原騒動の首謀者嫌疑により大沼村久左衛門、町方村治兵衛に江戸への出頭命令がきた。2人は江戸に着くとすぐに伝馬町牢屋に入れられてしまう。同年6月8日、町方村治兵衛牢死。8月8日には町方村治兵衛が牢死した。そのようなことがあってか、後安永5年には百姓専用の牢が設置された。
二人の死亡後、北品川の宿では飛騨の百姓たちが駕籠訴の相談をしている。安永2年7月26日、江戸で駕籠訴が決行されている。