手力雄神社
社伝には5世紀末期ごろ中里(今の岐阜県各務原市那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座(いわくら)祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。
美濃國神明帳に、真幣明神(みてぐらみょうじん)のご神名が見られお祀りされていたご祭神がそれと見られる。 主祭神手力雄神は、古くは佐良木郷八ヶ村の山中に祀られていたのを、後に現社地に奉還され佐良木郷の産土神として崇敬されたと伝わります。 672年、壬申の乱で功績のあった村国男依が各務を領地として与えられ各務・鵜沼地区を支配したのち、各牟氏がこの地域を支配することとなります。 室町時代、佐良木郷八ヶ村の氏子を中心に崇敬を受け、薄田(すすきだ)源左衛門尉(げんざえもんのじょう)藤原祐貞(ふじわらすけさだ)が※梵鐘 文明7年(1475年)・狛犬 文明9年(1477年)を奉納し厚く崇敬したと伝わっています。(※現在、笠松無動寺所有 県重文指定) 戦国時代、永禄10年(1567年)織田信長公が岐阜城攻略のおり当社に戦勝祈願をし、祈願成就の後、各務野原近里(自衛隊岐阜基地、市役所周辺より尾崎団地までの現在の那加地区)1300町歩を社領に付しました。また、宝物等を寄進し社宝また文化財として今日に至ります。 江戸時代に入り旗本坪内氏や徳山氏等諸氏の崇敬も深く数百年来八ヶ村氏子等により神事・祭礼が変わりなく奉仕されてきました。社殿は1674年以修復・葺替を繰り返し今日まで三百年余前の姿を保っております。
本殿軒下の左右に配された寄木造りの彫刻です。向拝柱の間をつなぐ虹梁の両端が竜頭形の本 として立体的に強調されたものです。さらに胴体と四肢が主屋とをつなぐ海老虹梁に巻きつくように取りつけられています。
彩色は色あせていますが、彫りの勢いと鋭い顔つきの動態的で迫力のある姿は見事です。
今日伝わる龍の昔話には本殿龍の目に釘を打ったとありますが、実際には目に釘はありません。しかし、寄木を確実につなぐため(季節によって材木が肥大、収縮するため)に隠して大きな釘で固定してあり、正に生きる龍を釘で打ちつけていると言えます。
作者は不明 左甚五郎の作とも伝わる。(一説に左甚五郎は飛騨の匠の総称ではないかとも言われます)
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191_202_手力雄神社
瑞巌寺
正式名称:松島青龍山瑞巖円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ)
天長5年(828)、慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の古刹で、延福寺と呼ばれていました。延福の寺号は天台宗の総本山、延暦寺に由来します。正元元年頃(1259)臨済宗に変わり寺名も円福寺へと改名されました。
現在の建物は、慶長14年(1609)、伊達政宗公が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものです。建築にあたっては、諸国から名工130人を集めたほか、建材も熊野山中から取り寄せるなど、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。造営の縄張には政宗自ら縄頭を執ったことからも政宗が心血を注いだことが窺われ、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。
伊達家の菩提寺である瑞巌寺は、桃山時代の真髄を表している荘厳な建物です。特に唐戸や欄間、あるいは襖や床の間の豪華な絵画は日本の自然美を代表する人工美の極致とされています。
本堂は平成21年9月より平成の大改修をしておりましたが、平成28年4月5日より拝観を再開しました。
■本堂(方丈)
書院造りで入母屋造本瓦葺の本堂は、三方に広縁、落縁を廻らし、室中孔雀の間、仏間、上段の間、上々段の間など10室の部屋で構成されております。正面の幅は38メートル、奥行き24.2メートルです。京都・根来の大工衆が技を競いました。(国宝)
■上段の間
藩主の部屋で別名御成りの間。黒塗框の豪壮な床の間・火頭窓・違い棚・武者隠(帳台構)を備えた書院です。上段の間は仙台城本丸大広間にも設けた施設で秀吉の聚楽第と併び称された仙台城の豪華さを今に伝えています。
■欄間の彫刻
文王の間には「諫鼓の鶏」「鶴の巣籠り」、礼の間は「菊に尾長鶏」「紅葉に鹿」、松の間は「牡丹に金鶏」、「牡丹に孔雀」等、吉祥のモチーフが写実的手法で彫刻されています。
■庫裡(非公開)
禅宗寺院の台所。切妻造りの本瓦葺きで、屋根には入母屋造りの煙出しを載せ、唐草の透かし彫り等名工の腕が冴えた庫裡の傑作といわれています。
■参道
本堂へと続く参道は、両脇に鬱蒼たる杉木立が続き、その両側に江戸時代には、十二の塔頭がありました。 崖際には、修行僧が生活した場所、苔むした洞窟、石碑、石塔、石像群があり、静寂かつ厳粛な雰囲気があります。
正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとう せいりゅうざん ずいがん えんぷくぜんじ)」という。天長5年(828)に開創された奥州随一の古刹である。現在の建物は、慶長14年(1609)に伊達政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものである。奥州は地理的関係、気候の厳しさから、中央の文化を受け入れることが遅いと考えられている。しかし、これはあくまで一般論であって、時として中央文化を凌駕するものが現れることがある。例えば平安時代末の平泉文化で、その象徴が中尊寺金色堂である。伊達政宗の仙台城および城下町、瑞巌寺、大崎八幡社に代表される奥州桃山建築もこれに当たるものである。
これらの造営の中心になったのは、山城の梅村家一門及び紀州根来の鶴家一門である。そのなかでもこの奥州桃山建築の華を仙台にもたらしたのは、後に彫刻の名人「左甚五郎」のモデルとされる鶴家の鶴刑部左衛門国次であると言われている。
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189_200_瑞巌寺
浮島観音堂
浮島観音堂は平安初期の延歴14年(西暦795年)に観音不動昆沙門大師が創設し、その後、文明8年(1469年)に小海住真海師が本尊を再興。さらに天文3年(1534年)に御堂再造(改築)されましたが、老朽が甚だしく昭和59年5月にほぼ原型のまま新築されて現在に至ります。堂内には、日光東照宮にある有名な『眠り猫』をはじめ、各地で数々の彫刻を完成させた名匠・左甚五郎作と伝わる「浮島如意輪観音」が安置されています。
4月には浮島観音春祭りが、10月には吹割観音まつりが行われます。
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187_198_浮島観音堂
願成院本堂(愛染堂)
願成院本堂は、竹田市街地の西側の八幡山の中腹に建ち、愛染堂として親しまれている。この建物は、一重、宝形造、本瓦葺の三間堂で周囲に高欄をめぐらせており、組物を禅宗様三手先(みてさき)、軒を扇垂木(だるき)にするなど本格的な手法を取っている。
愛染堂は、JR豊後竹田駅から徒歩5分位です。観音寺の石段を上りつめたところです。
宝形造りの三間堂で、屋根は本瓦葺、外部様式は唐様、四面付斗供は二手先組、垂木は扇垂木にて肘木は繊麓を極む、軒下四隅に天邪鬼及び人面の木彫あり、天邪鬼はかって左甚五郎の作なりしを当時の工匠の持参して収めたるものと伝えられています。
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188_199_愛染堂
鳥追観音(如法寺)
如法寺(にょほうじ)は、福島県耶麻郡西会津町野沢字如法寺にある真言宗室生寺派の寺院。山号は金剛山。本尊は聖観世音菩薩。この寺には境内に観音堂があり、「鳥追観音」の名で知られる。会津ころり三観音のひとつ。鳥追観音如法寺は、仏都会津の祖・徳一大師が、千二百年前の平安初期大同2年(807)に、会津の西方浄土として御開創なされた屈指の観音霊場であります。
御本尊鳥追聖観音は、僧行基御作と伝え、衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、あの世は西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという御誓願と、子授け・安産・子育て・厄除け・健康・長寿の広大無辺なご利益から、老若男女の厚い信仰を集めております。
また、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所として、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫へ参る巡礼者が絶えません。
さらに、当地西会津は、霊峰飯豊山の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里であり、如法寺境内には、樹齢千二百年の高野槙が孤高に聳え立ち、春は桜と若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の趣きもまた格別で、まさに≪仏都会津の西方浄土・鳥追観音如法寺≫は、身も心も癒される≪命のふるさと≫と申せます。
口から入って西口に抜ける珍しい作りで、西方浄土へころりと安楽往生がかなうとされる。左甚五郎作「隠れ三猿」(難よりかくれ猿、難をのがれ猿、安楽に暮らし猿)を見つけると「福まさる」という。
日光東照宮の作品でも有名な左甚五郎が心を込めて刻んだと伝えられる、三匹の猿の彫刻です。それぞれ「災難より隠れ猿」「災難より逃れ猿」「安楽に暮らし猿」のいわれがあり、三匹目の猿は、牡丹の蕾に似せて隠し彫りされています。観音の大慈大悲に祈願してこの三猿を探し得れば、固いつぼみが花開くように幸運が開き「福マサル」といわれています。
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185_196_鳥追観音(如法寺)
北口本宮冨士浅間神社
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。 天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
時代は下って、平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになりました。富士講 初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1577)に登山しています。 富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大しました。
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。 主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。
貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。
●富士ゑびす
本殿の裏側という不思議な場所に祭られている「富士ゑびす」。富士山に向いているのでこの名があるそう。鯛を抱えているえびす様は、日光東照宮の彫刻で有名な左 甚五郎 の作と伝えられている。
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183_194_北口本宮冨士浅間神社
酒列磯前神社
『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に明治18年4月には国幣中社に「大洗磯前神社」と共に列されました。御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。
#左甚五郎
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184_195_酒列磯前神社
圓明寺
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が、本尊阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基。創建時は和気海浜坂浪西山にあり「海岸山圓明寺」と称し、七堂伽藍を備えた大寺でした。後に弘法大師がこの地を巡錫した際、荒廃した諸堂を整備し四国第53番霊場とします。しかし鎌倉時代に幾度か兵火により荒廃、元和年間(1615〜24)に須賀専斉重久がその私財をもって現在地に再興。須賀専斉重久の名前をとり、須賀山 圓明寺と称します。山門から真正面にある境内中央にそびえる中門、そこをくぐると正面に本堂があります。その本堂内にある高さ約1m・幅4mの巨大な龍の彫り物は、欄間から頭を斜め下に飛び出し、躍動感に満ち溢れ凄絶で荘厳な魅力を放ちます。江戸時代初期に活躍した彫刻職人・左甚五郎作と言われ、妙技が物語ります。こころを見抜くような鋭い龍の目は、邪念を祓い参拝者をまっすぐな路に導いていることでしょう。そして本尊阿弥陀三尊仏像の両脇に侍立する観音・勢至の両菩薩像は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財です。
#左甚五郎
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182_193_圓明寺
西橋寺
天文年間、上舟岡に阿弥陀堂と称する草庵があった。関東18檀林の一つ武州鴻巣の勝願寺(埼玉県)の則伴頭を務め諸国を回っていた寂湛が、天正10年(1582)当所に一宇を造立した。現在の建物は享保5年(1720)造営のもの。切口8畳敷の欅1本で造られたといわれる。本堂向拝の上に左甚五郎作といわれる兎の彫刻がある。
本堂正面向拝の上に、左甚五郎作といわれる「波に兎」の彫刻があります。昔、田んぼの畦の豆を食べる兎が夜な夜な出没し、農家を困らせていました。その兎は西橋寺の兎に違いないとして、「波に兎」の彫刻に網がかけられました。正に生きた兎の彫刻は左甚五郎作のものであると言い伝えられています。
#左甚五郎
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173_184_西橋寺
出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
八足門は蛙股(かえるまた)の瑞獣や流水文などの彫刻が施され、左甚五郎の作と云われる。
#左甚五郎
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174_185_出雲大社
方広寺
方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。
豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。
のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。
現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。
なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる[1]。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。
木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。
秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。しかし、翌8月18日に秀吉は没した。
その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。
慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。
上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。
また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされた。この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。
また、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「馬塚」として遺る。
なお、当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお、「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)から採ったといわれ、また経典にかこつけて「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
だが庶民の間では江戸期を通じて「大仏」の名で親しまれた。長崎出島のオランダ人なども江戸参府のおりに訪れ、江戸幕府が朝鮮通信使を案内した際には「秀吉の寺」として拒絶反応を示されて対応に苦慮したことが記録に残る。江戸時代後期の天保年間(1830年 – 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興された。
1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となった。1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏は焼失した。
前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
基壇に使われた花崗岩の切り石の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に京都府により築造された6基の石造アーチ橋の建材に転用された。大仏殿のあった場所には明治になって豊国神社が建てられた。門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は大仏を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
この餅屋には石川五右衛門が住みこんでいたという伝説がある。鴨川河原まで通じる抜け道もあったという。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。
#左甚五郎
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175_186_方広寺