龍門寺
神渕山 龍門寺
1308年、岐阜長良に輪番制の寺として、福光山龍門寺が創建されました。戦国時代に兵火により焼失しましたが、創建後150年ほど後に、当地に移転されました。現在は臨済宗妙心寺派の寺となっております。なお本堂は1830年に建築されたものです。
本尊 釈迦如来
お釈迦さまは仏教の開祖であり、紀元前500年ぐらいに実在した人物です。本名をゴーダマ・シッタールタと言いました。29歳で出家をして、修行に打ち込んだなかで真理を悟られます。以後、布教伝導の旅を続けられ80歳で亡くなられました。死後、現実の人格を超えて神格化が進み、礼拝の対象として釈迦如来となりました。お釈迦さまが説かれた「縁起(物事がお互いに関係し合っている四法印の教え」「四諦(苦の本質、苦の原因、原因の消滅、苦の原因を取り除く方法の八正道」の教えは今ここでも大切にされています。
当寺の本尊は因縁によって釈迦如来、脇に文殊菩薩、普賢菩薩、さらに観音菩薩、地蔵菩薩が安置されています。
開山 一山一寧国師
初代住職の一山一寧禅師は中国の方で、1247年に浙江省でお生まれになりました。1299年に渡来され、初め鎌倉幕府の執権北条貞時公に招かれ建長寺に住持されました。後に後宇多上皇の懇請に応じ南禅寺に就任され、1317年に遷化されました。そして花園天皇より「一山国師」と諡号されました。師は南宋朱子学の新注を日本に伝え、書画に巧みで、弟子を育成し五山文学の祖とも言われています。
開基 土岐頼貞公
頼貞公は1271年に土岐光定の7男として、誕生しました。母は執権北条貞時の娘だとか。若年時は鎌倉で過ごし、禅を学んでいました。夢窓疎石と親しかったようで、後に虎渓山永保寺を開いています。惣領をうけた頼貞公は、1333年に後醍醐天皇の令旨に応じて、足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒に功を挙げました。建武の新政で美濃守護に任じられ、以後200年は土岐氏が美濃を治めた時代が続きます。 失政が続いた建武新政府に対して不満を抱いた尊氏が挙兵すると、それに従い信任を得てさらに勢力を伸ばしました。
頼貞公は土岐氏の中興の祖と呼ばれ、美濃国守護としての基礎を築き、また、文武に秀でた武将としてその名を知られています。
左甚五郎と龍伝説
その昔、みすぼらしい工匠が寺にやってきた。座敷の襖に描かれた龍の墨絵を見て、太い材木をコツコツと彫り始めたという。見事に彫られたその龍は、まるで生きているかように横たわっていたそうだ。木彫りの龍は、総門に揚げられ寺の名物となった。しかし、この龍、夜になると抜け出して・・・。
近くには甚五郎桜という古木があり、春には「甚五郎桜まつり」として花見客で賑わいをみせている。
#左甚五郎
資料集
154_165_龍門寺
飛騨匠伝説(郡上・立花六角堂)
旧郡上街道地蔵坂峠に建つ立花六角堂は、由緒書きによると応長元年(1311)飛騨の大工匠頭肥前権守藤原朝臣宗康が御堂を建て直したとある。堂の再建をめぐる物語を紹介しよう。「旅の大工が地蔵坂峠で休んでいると、突然霧が立ち込め、それまで何もなかった広場にお堂と、寂しそうに佇む坊様が見えた。麓の寺の住職に聞けば昔、泰(たい)澄(ちょう)という坊様が堂を建て旅人の安全を願ったが坊様が亡くなると朽ち果てたという。
それを聞くと大工は明日の昼までに堂を立てると峠へ戻って行った。翌日住職が峠に行くと既にお堂は出来上がっている。そこへ別の旅人がやってきて、素晴らしいお堂に感嘆しきり。事の仔細を聞くとさらに驚き住職と二人、堂に入ってながめるうちに扉がしまり閉じ込められてしまう。旅人は彫り物師で手早く木っ端でカラスを彫り上げ隙間から外へ放つと堂の屋根で鳴きはじめた。その声に空が暗くなるほどカラスが集まり何事かとやってきた村の衆に二人は救い出された。住職は先の大工は飛騨の匠、彫り師は左甚五郎ではないかと思ったという。」
建て直した大工は飛騨の匠藤原宗康、泰澄は養老元年(717)白山山上に三所権現を祀り、六角堂から長良川を遡(さかのぼ)る郡上市白鳥に白山中宮長滝寺を建て白山信仰の基を開いた人だ。長滝寺は文永八年(1271)火災で焼失するが、大講堂再建に藤原宗康は棟梁として関わり、六角堂とおなじ応長元年に成し遂げている。旧郡上街道は明治まで旅人が行きかう要路であり、白山へ参る人もまた此処を通ったと思うと、朽ちた六角堂の建て直しを願った泰澄が時をこえて宗康の前に現れた気持ちがよくわかる物語である。
(参考:定本 日本の民話18 美濃の民話第1集・第2集佐が坂の六角堂 編集 赤座憲久 1999年5月31日㈱未來社発行・白山中宮長滝寺の歴史 白山中宮長滝寺発行・六角地蔵堂由緒))
■写真説明
立花六角堂への登り口
登り口の上には東海北陸自動車道、長良川鉄道の橋梁がみえる
道は狭い山道となる
同上、六角堂へは左側の暗い山道を行く
道端の道標
六角堂への階段
階段上から、右が六角堂、奥は広場になっている
広場側から見た六角堂
同上
石垣上に地蔵が並ぶ
六角堂近景
軒下部分
正面
地蔵後方から六角堂を見下ろす
同上
広場から里を見下ろす
六角堂脇にある由緒書き
#左甚五郎
資料集
131_141_飛騨匠伝説(郡上・立花六角堂)
日光東照宮
日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。家康公は、天文(てんぶん)11年(1542)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)でご誕生になり、幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立されました。そして、世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。家康公は、元和2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。(引用:http://www.toshogu.jp/yuisho/index.html)
眠り猫(ねむりねこ)は、栃木県日光市の日光東照宮の回廊にある建築装飾彫刻作品。伝説的な彫刻職人左甚五郎の作品と伝承されている。日光東照宮の建物には、多様な動物の木彫像がみられることが多い。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、徳川家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。2016年11月28日、約60年ぶりに修復されたものが再び取り付けられた。
#左甚五郎
資料集
075_082_日光東照宮
上野東照宮
上野東照宮は1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社です。 東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山の他、全国に数多くございます。 当宮は出世、勝利、健康長寿に特に御利益があるとされ信仰されています。 金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されており、国内はもとより、海外からも多くの方がお参りされます。 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。 1646年(正保3年)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われています。この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。 幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されましたが幸いにも不発弾で社殿の倒壊は免れました。 明治時代には神仏分離令の為境内の五重塔を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、江戸時代と比べ境内地は縮小されましたが、江戸初期に建立された社殿が数々の困難を乗り越え現存することは奇跡的で、強運な神君の御遺徳の賜物と言われています。
春は牡丹・桜の名所として、秋は紅葉、ダリア展、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、出世、勝利、健康長寿などの祈願成就を願う方が後を絶ちません。
かつて江戸の人々の家康公への信仰の対象であったこの御宮は、江戸時代と変わらぬ姿で今もなお多くの方に心の安らぎを与えています。
御祭神:徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 (上野東照宮公式ページ http://www.uenotoshogu.com/より)
#左甚五郎
資料集
051_058_上野東照宮
久津八幡宮(くづはちまん)
1 概要
祭 神 應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
由 緒 仁徳天皇65年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし平治の乱(259)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永19年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建し天正9年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により次々に修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。
例大祭 4月第3土曜日試楽祭 4月第3日曜日本祭・神幸祭
重要 本殿(国指定)三間社流造、屋根こけら葺 室町時代初期の建造物
文化財 南妻蟇股の彫刻「鳴いた鴬」は飛騨の匠の作として有名
拝殿(国指定)入母屋造、屋根こけら葺 桃山時代の建造物
南面軒口の「水呼ぶ鯉」の作り物は飛騨の匠(左甚五郎)の作として有名
天然
記念物 夫婦杉(国指定)雄杉(上)雌杉(下)ともに周囲12.5米 樹齢1,500年
宝 物 木造高麗犬壱対(鎌倉時代作)木造神像壱体(平安時代作)書写大般若波羅密陀経100巻余(鎌倉時代)その他獅子頭、鬼神面太刀、槍、鰐口、神輿、扁額など30数点、久津八幡宮祭礼記録類18点(岐阜県重要民俗文化財指定)外 古文書古記録1,000余点
八幡様(應神天皇)は広く民衆を守る神様。また、應神天皇神功皇后は大陸の文化を積極的にとり入れ、古代日本における文化の向上、国家の発展につくした文化の神様である。
*説明版より
2 配祀御祭神
御 名 御 神 徳
倉(うか)稲(のみ)魂(たまの)神(かみ) 穀物の神・稲荷神
火(ほ)産(むす)霊(びの)神(かみ) 火の神
大(おほ)山(やま)袛(つみの)神(かみ) 山の神
須(す)佐(さ)之(の)男(をの)神(かみ) 医薬の神
事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ) 福神・夷子神
磐(いは)長(なか)姫(ひめの)神(かみ) 延命長寿の神
久(く)々(ぐ)能(の)知(ちの)神(かみ) 木の神
菅(すが)原(はら)道(みち)真(ざね)公(こう) 学問の神
*説明版より
3 拝殿 国指定重要文化財 国指定重要文化財
拝殿は桃山時代、三木自綱の再建によるもので、単層入母屋造りの柿葺で4本の囲い柱による内陣は全国でも類例がなく国指定重要文化財になっている。
天正9年(1581)益田の国領主三木大和守自綱は普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥治右衛門、内気喜助を任命し、桜洞の名匠桂川孫兵衛を棟梁として拝殿を建立した。鯉は、嘉永7年(1854年)大修理の際、取り付けられた水を呼ぶ鯉で、今なお当時の姿のまま保存。
*説明版より
4 水を呼ぶ鯉(萩原のむかし話より)
ずっと昔、毎年雨の降るたび、益田川の水が荒れ狂う水に削られて川がどんどん久津八幡様の方へ押し寄せて来たそうな、村人達は心配のあまり川を眺めて「なんとかせにゃどもならん、こりゃどえらいことになる」、長老の弥作じいがおみたちの心配する気持ちはようわかるどしてみとがこっちへくるかって事よ、ありゃ拝殿のひさしに彫り込んだ鯉よ、あいつが水をよぶんやぞ、とにかくあの鯉を作らはった和田様に聞いてみるが一番ええ
次の朝、じいは高山の和田様を訪ねた 事の次第をうなずきながら聞いておられた和田様は、しばらくお待ちくだされ、白装束を身につけて 仕事部屋に行き、なにやらトントン木を刻む音が聞こえてきた すると和田様は彫り刻んだ矢を手に現れ、この矢を鯉に向けて取り付けてくだされ、それからというものは まったく大水の心配は無くなり、村は安らかになったという。
*説明版より
5 久津八幡宮本殿
室町時代の応永19年(1412)、白井太郎俊国が祈請し、家臣山下作右衛門友貞を普請奉行とし飛騨の匠の流れをくむ美濃の国の名匠武澤茂右衛門利久を召し、棟梁として本殿の再建に着手完成に至る。
本殿は、丸柱総素木造りで、正面向拝に流れる屋根の曲線が優美。南妻にある「鳴き鶯」は拝殿の軒口の「水を呼ぶ鯉」とともに飛騨の匠の神技を伝えている。宝物として鎌倉時代の狛犬1対、正和2年清峯寺道仙の筆書による大般若経が100巻余り保存されている。境内の夫婦杉は国指定天然記念物。
*説明版より
6 鳴いた鶯(萩原の昔話より)
ずっと昔の事やった、旅の男が夏の太陽が照りつける中を、歩いておったと 久津の八幡様の森のなかに涼しく流れる清水を見つけ、口をうるおし、大杉の木陰で汗をぬぐいひとやすみしとった。境内はとても静かな所で木々を吹き抜ける風に、小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる、その中にひときわ美しいウグイスの鳴き声も聞こえたそうな、男は疲れのせいか 眠気がさしてきたんやと、そんでもいざ寝るとなると鳥のさえずりがやかましい。男は小石を拾って森の方へ石を投げつけたと、小鳥の声はぴたりと静まったが、ホーホケキョホーホケキョと鳴くウグイスの声だけはいっこうに鳴きやまん 男は、その声のする方へ近づいていったと、けどな不思議な事もあるもんよ、声は本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくらさがしてもウグイスは見あたらん、ただ目に付いたのは、軒下に木彫りのウグイスがあってな、いまにも鳴き出すように活き活きと彫ってあったとよ、まさかこの彫り物が。気のおさまらんままに足下の小石を拾って彫り物の鳥めがけて力いっぱい投げつけたとよ するとなウグイスの鳴き声は、ぱったりとやんでしまったと、ただ木の葉を渡る風音だけが 聞こえておったと、男はあわてふためいて境内を飛び出し村人達にこのできごとを話したと。このときからや、軒下の2羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ばれ出したのは。
*説明版より
7 久津八幡宮緑地環境保全地域
面積(ha)3.42 S52.9.30 指定
スギ、ヒノキ、サワラ、シラカシ等の良好な緑地
久津八幡宮は、産土神として地元の人々の信仰の対象となっている。社叢は、国の天然記念物である夫婦スギをはじめ、スギ、ヒノキなどの針葉樹やサクラ、シラカシなどの広葉樹の大径木からなり、神社の深遠さを保ち霊気をかもしだしている。岐阜県では、この地域を訪れる人々にやすらぎと潤いを与えるため、この社叢を緑地環境保全地域に指定して保全につとめている。
*「岐阜県自然環境保全条例」に基づき、自然環境保全地域のほか、市街地及び集落地並びにこれらの周辺地を対象に、緑地環境保全地域を16地域(654ha)指定している。緑地環境保全地域は、市街地等にある樹林地、水辺地、その他、これに類する自然環境を有する土地であって、自然環境を保全することにより、地域の良好な生活環境の維持に資することを目的としている。緑地環境保全地域は社寺林が多くなっている。
岐阜県庁6階 環境生活部 環境企画課が担当課
*説明版より
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。その後室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。
文化財 国指定重要文化財 本殿1棟 拝殿1棟
天然記念物 夫婦杉
#左甚五郎
















































































































