冨士社社殿
松田太右衞門による神社建築
元々は日枝神社の本殿として、寛延元(1748)年に建てられた、松田太右衞門による現存数が少ない神社建築です。流造りに千鳥破風、軒破風を取り入れた屋根形態で、珍しく極彩色が施されています。
昭和10 (1935)年、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13(1938)年に新本殿を建てました。旧本殿は破損箇所を修理して、末社殿として移築し、富士社となりました。平成7(1995)年に外観の極彩色の修理が行われ、当初の美しい色彩が蘇りました。「富士社社殿附棟札」として県指定重要文化財になっています。
(引用:https://www.hidatakayama.or.jp/watch/32-%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E7%A4%BE%E7%A4%BE%E6%AE%BF%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%BA%E7%94%A3%E6%A7%8B%E6%88%90%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%EF%BC%89/)
富士社は、元々は日枝神社の本殿として1748年(寛延元年)10月に飛騨の名工と誉れ高かった松田太右衛門以治が棟梁となって建立されました。屋根は、流造りに千鳥破風と軒唐破風を取り入れた構造となっています。1935年(昭和10年)の豪雨で裏山が崩れ、倒壊しましたがその後修理され、現在の場所に移築され、富士社となりました。なお現在の日枝神社の本殿は、1938年(昭和13年)に再建されたものです。富士社は平成7年の補修が行われ、極彩色の美しい姿になっています。「富士社社殿 附棟札」として県指定重要文化財になっています。
この富士社には、富士神社(祭神:木花之佐久夜毘売命 = コノハナノサクヤビメ、妻の守護神、安産の神、子育ての神)、金刀比羅神社(祭神:大物主命と崇徳天皇)、恵比須神社(祭神:八重事代主神)が合祭されています。
慈光寺
慈光寺(じこうじ)は、埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院である。山号は都幾山。院号は一乗法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三観音第9番札所。
左甚五郎の持つノミは勢いよく彫り進み、2日3日と過ぎていくうちに、太い丸木は馬の頭になり足になり、尾になっていきました。甚五郎は目を入れるときふと荒々しい気持ちになりました。甚五郎は「この馬は、気が荒いようだ。」とつぶやきました。
この馬は夜になるとそっと抜け出して付近の畑の作物を荒しまわりました。
あるときは二里も三里も遠方まで駆けていくこともありました。百姓たちは不思議に思いましたが、まさか、この名馬の仕業とは思いませんでした。しかし幾日かすると誰言うとなく、あの名馬が夜になると姿をあらわすといいました。
そこで百姓たちは相談して、夜になるのを待って2、3人ずつが分かれて、思い思いの方面にいって隠れていました。名馬はそれとは知らずに、その夜ものそりのそりとやってきました。
「やっ、確かにあの馬だ。しかし不思議なことだ…。」百姓たちはあっけにとられました。
こうしたことがいくたびも続きましたので、百姓たちもおこって、その尾を切ったり、鉄鎖で口元をしっかり縛ったりして、観音堂の上に納めてしまいました。
歓喜院
歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院である。日本三大聖天の一つとされる。一般的には山号に地名を冠した「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)」と呼称され、公式でも主にその名で案内される。 また、「埼玉日光」(国宝に指定される前は「埼玉の小日光」[2] )とも称されている。参拝客や地元住民からは「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている。
寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された(埼玉県内における国宝建築物としては、初めての指定で、2021年現在唯一である)。
聖天堂(本殿)
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は妻沼の名工林兵庫正清で幕府作事方棟梁の平内政信の子孫に当たり、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にわたる二十数年をかけて再建されたものである。奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。
奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等を華麗にほどす装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とも伝承されるが実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。彫刻にはそれぞれ中国の故事にちなむ主題が見られ、唐破風下に「三聖吸酸」及び「司馬温公の瓶割り」など、拝殿正面唐破風下には「琴棋書画」がある。2003年から2010年にかけて屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定
泉福寺
泉福寺(せんぷくじ)は、埼玉県桶川市にある天台宗の寺院である。山号は東叡山。院号は勅願院。房号は円頓房。本尊は阿弥陀如来および地蔵菩薩。
泉福寺の正門にある竜の彫刻は左甚五郎の作といわれております。むかしこの村は非常な旱魃(ひでり)にあって、田畑の作物が枯死寸前となり、村人たちは困ってしまいました。すると村の長老が、「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」と、言いましたので、どんな雨乞いもきかなかったときのことだけに、村人たちもそろって賛成し、さっそく竜を門からおろして、池にはなしてやりました。
彫刻の竜は、雨乞いの村人たちの目の前で、まるで生きもののように泳ぎ出しました。雨乞いの祈りも忘れて、目を見張る村人たちの頭上が、にわかに曇って、その黒雲の流れの早いこと、見る間にあたりはうす暗く、風雨も強くなりました。
雷鳴がとどろき、大暴風雨となり、池はあふれ、たちまちのうちに荒川もいっぱいになり、とうとう大洪水となってしまいました。
あまりのことに驚いた村人たちは、雨乞いもやたらと出来ないと語り合い、あの竜をどうしたものかと相談することになりました。
竜を放そうと言った長老が、「この先、あばれすぎて、何が起こるか知れん。すぐにでもあの竜を動けないようにしなくてはならない」と、言いました。
それには、どうしたらよいかとみんなで知恵をしぼって考えました。村人たちが総出で、竜の爪を切りおとして、今まで納まっていた寺の門へ、かねのくさりで、しっかりとしばりつけることになりました。
それからは、村に大洪水はなくなったということです。
本掲載内容は、桶川市史「第11章 口頭伝承・民俗知識」の一部
泉福寺の正門の竜の彫刻は左甚五郎の作という。昔、大変な旱魃があり、田畑の作物は枯死寸前となった。すると村の長老が「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」といった。
どんな雨乞いも効果がなかったので、村人たちは皆賛成し、早速竜を門から下ろして、池に放った。彫刻の竜は皆の前でまるで生き物のように泳ぎ出し、村人たちは雨乞いも忘れて目を見張っていた。そうしているうちに黒雲が流れ出し、雷鳴が轟き、大暴風雨となった。
たちまち荒川があふれ、大洪水になってしまった。あまりのことに驚いた村人たちは、やたらと雨乞いはできないと語り合い、竜の爪を切り落し、寺の門へ鎖でしっかりと縛りつけることにした。それからは村に洪水はなくなったという。
『桶川市史 第六巻 民俗編』より要約
泉福寺の正門の竜の彫刻は左甚五郎の作という。昔、大変な旱魃があり、田畑の作物は枯死寸前となった。すると村の長老が「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」といった。
どんな雨乞いも効果がなかったので、村人たちは皆賛成し、早速竜を門から下ろして、池に放った。彫刻の竜は皆の前でまるで生き物のように泳ぎ出し、村人たちは雨乞いも忘れて目を見張っていた。そうしているうちに黒雲が流れ出し、雷鳴が轟き、大暴風雨となった。
たちまち荒川があふれ、大洪水になってしまった。あまりのことに驚いた村人たちは、やたらと雨乞いはできないと語り合い、竜の爪を切り落し、寺の門へ鎖でしっかりと縛りつけることにした。それからは村に洪水はなくなったという。
『桶川市史 第六巻 民俗編』より要約
稲爪神社
兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する神社です。式内社「宇留神社」および「伊和都比賣神社」を当社に比定する説があります。
当社の由緒について、江戸時代の地誌『播磨鑑』の引く「或記」に概ね次のように記しています。
推古天皇の御代、異国から「鉄人」が八千人の兵を率いて日本へ侵略しに来た。
そこで伊予国の「小千益躬(オチマスミ)」なる人物が命を受け、九州へ赴いたが、「鉄人」のあまりの猛威のため降伏し日本を案内することとなった。
益躬らは九州から播磨の室津まで船で移動し、そこから馬で案内した。
明石に着いた時、三島大明神が益躬の陣中に顕れ、「鬼指」という矢を隠し持ち、この矢で「鉄人」の足裏を指し通し、鉄人が馬から落ちたところを益躬の随臣らが遂に討ち取った。
この神威に感謝し大蔵谷に三島大明神を勧請したのが当社である。
細部で異なる点はあるものの、現在もほぼこのような由緒が伝えられています。
また一説に、三島大明神が顕れた際に稲妻が発生したので当社は元は「稲妻大明神」と称したとも伝えられています。
当社の由緒に登場する「鉄人」のような、全身が金属で覆われた武将が猛威を振るうも体の一ヶ所(当社社伝では足裏)に弱点があり、ここを突かれて退治される伝説は全国に分布しています。
当社では「鉄人」は単なる敵として登場するものの、各地で語られる伝説は必ずしもそうでなく、当初は英雄として活躍する例も多く見られます。
大林太良氏の『本朝鉄人伝奇』によればこうした「鉄人」伝承には、
母親が妊娠中に鉄を食べてしまう。
その結果生まれた子供は全身鉄張りであるが、ただ一ヵ所だけ鉄張りでないところがあった。
この鉄人は成人後、武名を轟かせるが、ふつう悪玉と考えられている。
ある英雄がこの鉄人を討とうとするも難渋していたとき、英雄は女(多くの場合、鉄人の母あるいは愛人)から鉄人の弱点がどこにあるかを知る。
英雄が鉄人の弱点を攻めてこれを退治する。
の五つの特徴があることを指摘しています。
当社の社伝はこの内の1.および2.が欠如しており、また鉄人に弱点があることを教えたのは女でなく三島大明神となっている点に脚色があると言えましょう。
谷川健一氏は『鍛冶屋の母』において、こうした「鉄人」伝承は鍛冶師や鋳物師など金属に関する漂泊民らによって伝播されたのではと推測しています。
社伝に登場する「三島大明神」とは伊予国一宮である「大山祇神社」(愛媛県今治市大三島町宮浦に鎮座)の神で、「小千益躬」の「小千」とは「越智」すなわち今治市から芸予諸島東部にかけての一帯を示す地名(伊予国越智郡)です。
「大山祇神社」は一般に海の神もしくは社名の通り山の神として信仰されており、金属に関する信仰があったかは定かではありません。
ただ、伊予国越智郡で製鉄を行っていた集団が当地へ移住していった可能性は考えられるかもしれません。
いずれにしても人々の移住など伊予国との何らかの縁により「大山祇神社」の神が勧請されたのが当社だったのでしょう。
現在の当社は「大山祇神」に加えて神代七世の神である「面足(オモダル)神」「惶根(カシコネ)神」の二柱も配祀しています。この二柱が祀られている理由ははっきりしません。
江戸時代中期の国学者、度会延経は『神名帳考証』で式内社「宇留神社」は当社ではないかとしているもののその理由は不明。
また『神社覈録』は式内社「伊和都比賣神社」は大蔵谷中庄村の「岩屋明神」に比定しています。中庄とは明石川の河口左岸側の地名で、現在は「岩屋神社」が鎮座しており、恐らくこの神社を指しているのでしょう。ただその地は大蔵谷ではないため当社と混同している可能性があります。
また何故か(明石郡でなく)赤穂郡の方の「伊和都比賣神社」を当社に比定する説もありますがこれは荒唐無稽と言うべきでしょう。
このように当社を式内社とする、或いは式内社を合祀しているとする説があるものの、一般的にはあまり認められていません。
「鉄人」伝承に基づき古い時代に伊予との関わりの中で創建された神社であるとの認識が根強く、現在は明石市東部の有力な神社として人々に親しまれています。
左甚五郎作の彫刻
素戒鳴尊、八岐大蛇退治をモチーフとしたもので左甚五郎作と伝わります。
左甚五郎は明石の和坂生まれという地元伝承があり彼の作品と伝わる山門や木像などが何ヵ所か明石市内にもありますが、この門は一般に知られる左甚五郎の作品の可能性が高いといわれています。
稲爪神社には文化財指定を受けている複数の神事が伝承されています。兵庫県指定無形民俗文化財の大蔵谷の獅子舞は京へ上る途中だった秋月種実が大蔵谷宿で宿泊した当日が稲爪神社の宵宮で秋月家の先祖大蔵氏時代から伝わる獅子舞神楽を奉納したのが始まりと伝わるもの。牛乗りと大蔵谷の囃口流しは明石市指定無形文化財となっています。神事の模様や詳細は稲爪神社のホームページで御確認ください。
稲爪神社(稲爪濱えびす)
稲爪神社の楼門には、江戸時代に活躍した明石出身の伝説的な彫刻職人「左甚五郎」作と伝わる『素戔嗚大神の大蛇退治』の彫刻が施されている。
中部国際空港(国際線)にデジタルサイネージを設置
知識基盤社会においては、様々な正確で良質な知識の集合体の整備が重要であるが、知識循環型社会の実現においては、様々な知的資料を集積した知識の集合体をどのように利活用するかが重要になる。また、様々な利用者が活用するためには結果よりも作業のプロセス情報が必要となる。意思決定結果より、意思決定のプロセスのほうが必要となる。即ち、知識循環型社会おいては結果のアーカイブよりプロセスのアーカイブが必要となる。
デジタルアーカイブについても、最終的な作品より作品を作成しているプロセスのデジタルアーカイブが重要となる。今回、飛騨高山匠の技DAについては、一位一刀彫や飛騨春慶塗の製作過程をデジタルアーカイブしている。このように、デジタルアーカイブする対象についても、知識基盤社会と知識循環型社会とは異なり、利活用することにより、新たな知識を創造する社会(知識循環型社会)に対応したデジタルアーカイブをする必要がある。
知識循環型社会においてデジタルアーカイブした飛騨高山の匠の技データベースが、2万件近い情報を非公開長期保存型データベースに保管している。この地域資源デジタルアーカイブを交通・観光に活用するために、デジタルサイネージへの展開を考えた。
デジタルサイネージは、一般に「サイネージ」と呼ばれることもありるが、「電子看板」、「電子広告」などとも呼ばれている。主な用途としては、紙に代わる新しい情報伝達媒体として利用されており、画像や動画などデジタルコンテンツとディスプレイを組み合わせて、紙のポスターやお知らせを置き換えて使われることが多い。
今回、飛騨高山匠の技DAした8万点の情報から知の増殖型サイクルのプロセスを抽出しデジタルコンテンツとして作成し、中部国際空港の国際線のブースに設置した。
地域文化デジタルアーカイブを用いた地方活性化のための交通・観光施設での広報活用