古い町並(三町伝統的建造物群保存地区)
高山は、金森氏により商業経済を重視した城下町として形成され、城を取り囲む高台を武家屋敷、1段低いところを町人の町とした。この町人町の1部が現在の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)である。
町人地は武家地の1.2倍と広く、全国の城下町の平均が武家地7割、町人地3割であることから考えても町人地の広さに特色がある。商人の経済力を重視した金森長近の姿勢が現れている。城下町の中へは東西南北から街道が引き込まれ、飛騨における政治、経済の中心としての機能を持っていた。金森氏が治めた時代は107年間で、以後幕府直轄地157年間の時代が続く。
明治初期の高山は、周辺の村々が貧困にもかかわらず豪商を中心として栄え、人口1万4000人、岐阜県下1番の都市であった。しかし、都市化は他の地区より大幅に遅れ、昭和9年の高山線開通を機にようやく高山の近代化が始まったのである。
昭和30年代後半には観光客が目立ち始め、汚くなりつつあった宮川や町を、美しくしようという気運が高まった。川に鯉が泳いでいれば、大人は川にゴミを捨てないだろうと考え、子どもたちが宮川に鯉を放流し、それが市民運動へと発展していった。昭和41年、「上三之町町並保存会」が結成され、その規約には「会員が地域内において新築、改築する場合、前側だけでも町並にふさわしいよう自主的に創意工夫する」とされ、住民主導の町並保存の姿勢を示した。その後、昭和48年から49年にかけて奈良国立文化財研究所により高山市三町が調査され、昭和54年、同町は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
町並みがのこされた背景には、次のような要因がある。高山線開通を境に商業発展地域は別の町内に移り、三町はしもたやが増えた。サラリーマン家庭が増えるにつれ建替えの必要もないためか、建造物がそのまま現在も残った。例えば、造り酒屋など間口14間(1間=約1.82メートル)と広い建物が改築されないままであるため、周囲の建物もそれに合わせるような結果になったこともある。敷地割がキチンとしていて、母屋、中庭、土蔵の配置が使いやすく、昭和前半まで、当時としては、部屋数が十分であった。国産の良材を使って、しっかりと建てており、今では材料、資金面からとても同じようなものは建てられないから壊すのはもったいないというわけである。三町はこのようにして、極端な変化を好まない風潮の中に残されてきた。住民が建物の確かな良さと、町並みを守る誇り、三町景観の価値観を認識した結果といえよう。
道路に面した部屋をミセと呼ぶ。屋根高は4.5メートルと低い。建物の間口は3間から4間と狭く、奥に深い。この町並みの保存には、生活する上での苦労話も多い。現代のライフスタイルから考えれば当然かもしれないが、例を挙げれば、部屋数が少なく、子ども部屋の確保が大変であるとか、軒高が低くて2階の部屋が窮屈であるということなどである。また、採光出来る部屋がわずかで、冬は大変寒く、ほおかぶりしをして寝なければならないほどであること、土産品を販売している家にとっては、間口部が狭く商品販売に影響があることなどの話も聞く。だが一方、不便なことばかりではない。中に入って見上げてみると吹き抜けの天井は今にも通ずる空間を利用した建築手法である。息苦しい感じがせず、自然光のよさ、光の帯が差し込む様はすばらしいものがある。
伝建地区内には町並保存会が4団体あり、研修旅行、自衛消防隊の防火訓練、町並み保存に関する話合いなどが自主的に行なわれている。
伝建地区内は、高山市伝統的建造物群保存地区保存条例により規制をされているが、上一之町など伝建地区内の外側でも市街地景観保存条例により景観保存地区を定めて緩やかな規制を加えている。
様々な規制、課題は多いが、三町伝建地区は高山の人たちの誇りである。住民が実際に生活しながら町並保存を持続してゆく活力を持ち合わせている。
(引用:https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1001005/1001006.html)
建仁寺
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えます。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
(引用:https://www.kenninji.jp/)
祇園祭(八幡山)
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれる。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍にかわって昭和61年より十長生図の刺繍が用いられている。「十長生」とは不老長寿を意味する。前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したのである。見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦がある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られる。その他に美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵している。
The object of worship of the small Shinto shrine which located on this float is Hachiman, one of the most famous Japanese gods.
The miniature shrine on the float is decorated with gold foil, and it is said to have been made in the Tenmei period, between 1781 and 1788.
(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)
祇園祭(鯉山)
山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝をのぼる鯉の奔放な勇姿をあらわしている。前面に朱塗鳥居をたて山の奥には朱塗の小祠を安置し素盞鳴尊を祀る。その脇から下がる白麻緒は滝に見立てられ、欄縁その他の金具はすべて波濤文様に統一されている。山を飾る前懸、胴懸(2枚)、水引(2枚)、見送は16世紀にベルギー・ブラッセルで製作された1枚の毛綴を裁断して用いたもので、重要文化財に指定されている。ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はホーマー作「イーリアス」物語の一場面で、トロイのプリアモス王とその后ヘカベーを描いたものといわれている。別に旧胴懸としてインド更紗のものがある。また、平成21年に前水引「金地果実文様」が、平成22年に後水引「金地花唐草文様錦」が新調された。
The theme of this float comes from a Chinese legend that if a carp (koi in Japanese) could swim up ryumon (a waterfall), it would become a dragon. The figure of the carp on this float is quite realistic, vivid and beautiful, as if a living carp is jumping up the waterfall. The shrine on this float is dedicated to Susano-o no Mikoto”, a powerful deity in Japanese mythology. The designs of most of the tapestries describe stories of the Trojan War in Greek literature. They were produced in the 16th century in Brussels, Belgium.
龍門の滝を登り切った鯉は、龍になるという中国の「登竜門」の故事を表現した山です。飛沫を上げながら滝を登る鯉の彫像は、左甚五郎の作と伝えられています。
また、前懸・胴懸・水引・見送はギリシャの英雄叙事詩『イーリアス』の名場面を描いた逸品です。欄縁を飾る金具は、激流を表現した波濤文様で立体感のある厚肉彫です。隅房掛金具も波を意匠しており、千鳥を一羽ずつ浮彫にしています。明治の名工・村田耕閑の作です。(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)
祇園祭(後祭)
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 – 16日・後祭:7月21日 – 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。
その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD)
資料
公益財団法人祇園祭山鉾連合会
祇園祭(月鉾)
鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。
真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。
鉾の名は鉾頭(ほこがしら)の新月型(みかづき)に由来し、真木(しんぎ)の中ほどの「天王座(てんのうざ)」には月読尊(つきよみのみこと)を祀る。元亀四年(一五七三)と正徳四年(一七一四)刻銘の二つの鉾頭を持つが、昭和五十六年から田辺勇蔵(たなべゆうぞう)寄進の十八金のものを着装。屋根裏の金地彩色草花図(きんじさいしょくそうかず)は天明四年(一七八四)円山応挙(まるやまおうきょ)の筆、天井(てんじょう)の金地著彩源氏(きんじちゃくさいげんじ)五十四帖扇面散図(じょうせんめんちらしず)は天保六年(一八三五)、町内の住人岩城九右衛門(いわきくうえもん)の筆である。破風蟇股(はふかえるまた)の彫刻は左甚五郎(ひだりじんごろう)と伝わる。軒桁貝尽(のきけたかいづく)しの錺金具(かざりかなぐ)は松村景文(まつむらけいぶん 一七七九~一八四三)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも山鉾の中でも最高の華麗さを誇る。天水引(てんみずひき)の霊獣図刺繍(れいじゅうずししゅう)は天保六年(一八三五)円山応震(まるやまおうしん)の下絵で、胴懸(どうかけ)はインドやトルコの絨毯(じゅうたん)。近年、下水引(したみずひき)に皆川月華(みながわげっか)の花鳥図を、見送(みおくり)も同作の湖畔黎明図(こはんれいめいず)を掛ける。なお、旧前懸(まえかけ)のインド絨毯(平成十二年復元)はその良好な保存状態から、世界でも稀な逸品とされる。
京 都 市
資料
祇園祭(前祭)
京都祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 – 16日・後祭:7月21日 – 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
資料
祇園祭資料
八坂神社
八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。
平安京遷都(七九四)以前より鎮座する古社で、「祇園さん」と呼ばれ親しまれております。
主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)はあらゆる災いを祓う神様として信仰されており、境内には数多くの神様をお祀りしております。
全国約二、三〇〇社鎮座する八坂神社、祇園信仰神社の総本社です。
八坂神社の創祀は平安京遷都以前まで遡り、古来より都の疫病除けの神社として信仰されてきました。 千年以上続く「祇園祭」は、信仰の念が篤き町衆達によって守られ、幾多の苦難を乗り越えながら、人々の安寧を願い続けています。 また護り継がれてきた本殿や社殿・建物は国宝・重要文化財を冠し、国の宝となっております。 当社の歴史は氏子崇敬者との歩みの証しでもあります。
(引用:https://www.yasaka-jinja.or.jp/)
京都国立博物館
文化財保護法に規定する有形文化財を収集し、保管して皆様にご覧いただき、あわせてこれに関連する調査研究及び事業を行うことにより、貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を図ることを目的としています。
明治22年(1889)5月 図書寮附属博物館を廃し、帝国博物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置する官制が定められる。
明治23年(1890)10月 七条御料(旧恭明宮址)に敷地が決定され、仮事務所が置かれる。
明治25年(1892)6月 片山東熊博士の設計による陳列館(本館)の建築に着工する。
明治28年(1895)10月 陳列館の建築が竣工する。
明治30年(1897)5月 開館式が挙行される(公開展示のはじめ)。
養源院
豊臣秀吉の側室 淀殿が父 浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に建立される開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(1594年)である
養源院の寺院名は浅井長政公の戒名そのものである その後程なくして火災にあい焼失するも、元和七年(1621年)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室、お江により伏見城の遺構を用いて再建される 以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌をまつる寺院となる 現在の本堂(客殿)は再建時のものとなる
平成二十八年二月に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂等が国の重要文化財に指定された (引用:https://yougenin.jp/)
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建された。養源院とは浅井長政の院号であり、浅井氏の菩提寺である。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)で、秀吉が寺領300石を寄進している。この後、毘沙門堂の脇門跡となっている。元和2年(1616年)5月7日、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠正室の崇源院(江、淀殿の妹)によって、昨年の慶長20年(1615年)5月に大坂夏の陣で自害した淀殿とその子・豊臣秀頼の菩提が弔われている。元和5年(1619年)、落雷により焼失したが、元和7年(1621年)に崇源院の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所ともなった。廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使った「血天井」として有名である。本堂の襖12面、杉戸8面の絵(重要文化財)は俵屋宗達の作品である。第11世住職等順は、東叡山寛永寺護国院第13世から信濃国善光寺別当大勧進第80世に就いた時に、天明3年(1783年)の浅間山大噴火や天明の大飢饉において民衆救済に尽力したことで知られ、お血脈、善光寺本堂での御開帳の由来である。寛政9年(1797年)11月7日には光格天皇に三帰戒及び十念を授け奉り、養源院住職時代は皇族に尽くした名僧である。元々は天台宗であったが、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に浄土真宗遣迎院派に改宗した。
本堂(重要文化財) – 元和5年(1619年)に破却された豊臣秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされる。特に「牡丹の間」は秀吉の学問所であったという。本堂左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。また、秀吉が伏見城に祀っていた大聖歓喜天を安置している。
血天井 – 関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下2,000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたといわれ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある。
鶯張廊下 – 日光東照宮の眠り猫で有名な江戸時代初期の大工・彫刻師である左甚五郎が作ったものと伝わる。
襖絵と杉戸絵 – 俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麒麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さでも知られている。2010年(平成22年)、この唐獅子図の隣りに、江戸時代よりたった一軒続いてきた唐紙屋となる唐長の唐紙師・トトアキヒコによる「星に願いを」が奉納された。また同氏は、俵屋宗達の重要文化財である金地着色松図の唐紙修復も手がけている。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E6%BA%90%E9%99%A2)
【資料集】飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集(中)
平成 29 年度に文部科学省の私立大学研究ブランディング事業の「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」で採択され、3年間にわたりこれまでに本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指し事業を展開してきた。
その中でも「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ」は、以下の点に注力して研究を進めてきた。
①伝統文化産業(飛騨春慶・一位一刀彫等)を多視点でデジタルアーカイブし、歴史的な視点を総合的にまとめ、匠の “こころ”をオーラルヒストリー等により「知の増殖型サイクル」を構成し、これらの一部を海外へ発信することにより伝統文化産業の振興を図る。
②伝統文化産業における匠の技とその歴史的な背景をまとめてデジタルアーカイブ化することで、伝統文化産業の理解と継承が容易になる。さらに、継承の過程で生まれた新しい知見を「知の増殖型サイクル」で取り込み、その利活用によって地域社会の振興を支援できる。
③フィールドにおける効果検証をするためのデジタルアーカイブ研究として捉え、解の見えない地域課題の解決をするための地域資源デジタルアーカイブとそのメソッドを確立する。
これらにより、地域の知が適切に循環・増殖することで新たな価値の創造と、これらを実践できる高度な専門的な知識を持つ人材の養成による雇用の創出を促進し、その結果として「知の増殖型サイクル」としてデジタルアーカイブの効果が認められ、さらにデジタルアーカイブの新たな展開が期待できる。また、これにより大学は地域に開かれた「知の拠点」となりうる。
この「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ資料」は、本学が展開しているデジタルアーカイブの最新成果であり、これらの研究の拠点となるデジタルアーカイブ研究所では、大学が大学としてのアイデンティティを確立するためにも、「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的な大学デジタルアーカイブを構築することを支援している。今後は継続してデジタルアーカイブ研究に取り組むとともに新たな養成カリキュラムを構築することが本学として社会的な責務と捉えている。
2022年1月 デジタルアーカイブ研究所長
はじめに
目次
国指定・国分寺大イチョウ ……………………… 1
国指定・飛騨国分寺塔心礎 ……………………… 5
国指定・松本家 …………………………………… 7
国指定・田中家 …………………………………… 14
国指定・照蓮寺 …………………………………… 19
国指定・高山陣屋 ………………………………… 23
国指定・重要文化財 荒川家住宅(母屋・土蔵) …31
史跡 堂之上遺跡 ………………………………… 38
国指定・吉真家 …………………………………… 42
国指定・若山家 …………………………………… 44
国指定・田口家 …………………………………… 49
指定天然記念物 治郎兵衛のイチイ …………… 55
旧大戸家住宅 ……………………………………… 61
史跡江馬氏館跡公園 国史跡江馬氏城館跡 下館跡 67
国指定・荻町(白川村) ………………………… 72
県指定・新井家 …………………………………… 75
県指定・中薮家 …………………………………… 80
県指定・西岡家 …………………………………… 84
県指定・野首家 …………………………………… 87
県指定・セイロ倉 ………………………………… 91
県指定・前田家 …………………………………… 95
県指定・富田家 …………………………………… 99
県指定・加藤歩簫墓 ……………………………… 105
県指定・赤田臥牛墓 ……………………………… 107
県指定・東山神明神社絵馬殿 …………………… 109
県指定・法華寺本堂 ……………………………… 113
県指定・大雄寺鍾堂 ……………………………… 117
荏野文庫土蔵 ……………………………………… 119
県指定・田中大秀墓 ……………………………… 122
県指定・飛騨東照宮 ……………………………… 125
県指定・三重塔 …………………………………… 129
旧三島家住宅 ……………………………………… 132
重要文化財 円空作仏像(聖・千手・龍頭) …… 140
県指定・荘川桜、御母衣ダム …………………… 143
県指定・赤保木遺跡 ……………………………… 155
高山市指定文化財(建造物)宗猷寺本堂 ………… 158
高山市指定文化財(建造物)宗猷寺鐘堂 ………… 167
雲龍寺鐘楼門(市指定文化財) …………………… 170
大雄寺山門(県指定重要文化財) ………………… 174
法華寺番神堂(市指定文化財) …………………… 178
高山市指定文化財(史跡)山岡鉄舟父母の墓 …… 181
素玄寺本堂(市指定文化財) ……………………… 183
津野滄洲墓 市指定史跡 ………………………… 187
市指定・加藤光正墓 ……………………………… 189
森宗弘墓 市指定史跡 ………………………… … 192
川上別邸史跡公園 高山市指定文化財 ……… … 194
木地師の集団墓地 ………………………………… 198
東照宮境内遺構 …………………………………… 200
市指定・東照宮本地堂 …………………………… 205
市指定・国分寺鐘楼門 …………………………… 208
国分寺表門 ………………………………………… 210
わらび粉小屋 ……………………………………… 213
旧八月一日家住宅 ………………………………… 216
木挽小屋・杣小屋 ………………………………… 219
立保神社拝殿舞台 ………………………………… 224
市指定・松倉観音 ………………………………… 227
市指定・天然記念物 法正寺の枝垂桜 ……… … 233
田上家住宅(市指定文化財) ……………………… 236
旗鉾伊太祁曽神社 ………………………………… 241
高山市指定文化財 千鳥格子御堂 …………… … 246
江馬輝盛の墓 高山市指定文化財 …………… … 249
下呂市天然記念物 位山八幡神社の社叢 ……… 253
旧山岸写真館 ……………………………………… 256
飛騨民俗村山岳資料館 …………………………… 258
山桜神社火の見櫓 ………………………………… 263
天狗総本店 ………………………………………… 269
お美津稲荷 ………………………………………… 273
棲霞山 歓喜寺 …………………………………… 277
大桑城 ……………………………………………… 280
美濃土岐氏、多治見の大畑時代 ………………… 291
名古屋城 …………………………………………… 297
飛騨高山の城主 金森長近 ……………………… 306
岐阜城 ……………………………………………… 312
越前大野城跡 ……………………………………… 323
金森左京家 ………………………………………… 336
安土城下の金森屋敷跡 …………………………… 342
本能寺跡 …………………………………………… 348
松倉城 ……………………………………………… 350
高山城 ……………………………………………… 357
照蓮寺本堂(国指定重要文化財) ………………… 367
伏見城 ……………………………………………… 374
小田原合戦 ………………………………………… 383
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の金森氏布陣場所 393
関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所 …………… 404
大坂の陣・金森氏の配置場所 …………………… 416
駿府城下の金森屋敷 ……………………………… 433
金森氏第 4 代頼直の菩提寺・大隆寺 ………… 443
金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼 ………447
飛騨から山形へ国替え …………………………… 453
金森家累代供養塔-金森家殉死者の墓 ……… … 458
金森長近の美濃市城下町 ………………………… 461
金森氏 6 代頼旹、第 7 代頼錦の郡上八幡城下 471
金森氏第 6 代頼旹、第 7 代頼錦の菩提寺 … … 485
岩手県盛岡の金森氏遺構(第 7 代頼錦の菩提寺) 491
金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配 …… 505
守山市の矢嶋町などの史跡と琵琶湖 …………… 510
江戸・桜田門通りの金森屋敷跡 ………………… 522
江戸・芝の金森屋敷跡 …………………………… 537
日光東照宮ほか 2 件の金森寄進の灯篭 … …… 547
京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院) …… 556
京都天寧寺(金森宗和の菩提寺) ……………562
武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構 … 565
金閣寺・夕佳亭宗和の茶室 ……………………… 576
越中街道 ……………………………………… 583
飛騨鰤 …………………………………………… 597
平湯~高原道、中尾峠、安房峠 ………………… 607
岐阜、尾張、京都街道、東海道 ………………… 622
郡上白川街道 …………………………………… 643
江戸街道 … ……………………………………… 654
乗鞍岳 … ………………………………………… 677
乗鞍山麓-五色ヶ原の森 ………………………… 687
御嶽山 …………………………………………… 692
笠ヶ岳 …………………………………………… 702
古川祭屋台 ……………………………………… 712
高山祭屋台の祖型となった山車 ……………… 719
高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻 … 735
山岡鉄舟(静岡の史跡) ………………………… 745
田中大秀翁 ……………………………………… 750
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡 755
大津京・近江神宮(飛騨匠の都造り) ………… 758
法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立 … 761
鶉田神社 ………………………………………… 764
加太春日神社 …………………………………… 768
西光寺 …………………………………………… 772
三十三間堂 ……………………………………… 775
目次
※それぞれの項目のWebに資料集の内容が添付してあります。
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集(中)
発 行 年 2022年1月 初版
制 作 デジタルアーカイブ研究所
監修:久世 均(デジタルアーカイブ研究所長)
編集:大木 佐智子(上級デジタル・アーキビスト)
記録:木幡智子, 井上透, 谷里佐, 林知代,櫟彩見
三宅茜巳, 熊﨑康文,加藤真由美
加治工尚子(デジタルアーカイブ専攻)
刊 行 岐阜女子大学
〒501-2592
岐阜県岐阜市太郎丸80番地
℡ (058)229-2211(代)
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