砂山
宮古島の西岸にある白砂の海岸で、砂に覆われた丘(砂山)の先にある砂浜であることから砂山ビーチと呼ばれる。砂浜の延長は短いが、背後に迫る砂山に加え、砂浜の左手には天然の岩のアーチがあり、独特の景観を呈する。
岩のアーチは波の浸食によって形成されたもので、宮古島観光の象徴的な存在である。従来から落石が見られたため、アーチの上側を金網で覆っていた。この金網が劣化したため調査を行った結果、金網では不十分と判断され2018年度にも支柱で支える工事を行うことが検討されたが、その後、実施は見送られており、落石や崩落の危険があるため2018年10月上旬から岩の手前に防護柵を設けて周辺は立入禁止とされている。今後の対策は具体化しておらず、立入禁止は当面継続される見込みである。
宮古神社
由来記等によると「昔、宮古島志里満の里の首里大屋子、平良が、首里へ貢納品を納めての帰路、遭難。八年後に帰国することができた。 故国の神に感謝し、波上宮の神を宮古へ勧請して祀った(1590年)。」と記されている。慶長十八年(1611年)の先島検地の折、 薩摩藩の進言により琉球王府は瓦葺の社を造営し「宮古熊野三所大権現」と称した。
大正十四年、平良町では西里一番地に町社・宮古神社を創建。与那覇恵源、仲宗根玄雅を祀ると共に公認の神社を目指していた。 しかし、昭和に入っても長らく認可が下りないまま白蟻や台風の被害を受け、宮古権現堂と共に修繕が望まれるに至る。
昭和十五年、二つの神社を合わせた新・宮古神社 の建立が決定し、奉賛会を組織。同年、すでに神社明細帳に登録されていた権現堂を 「宮古神社」へ改称し、旧宮古神社の豊見親二柱を増祀。昭和十八年、西里五番地に新社殿が竣工し、翌十九年本殿遷座祭を斎行するが、 戦禍に遭い終戦を迎える。やむなく御祭神は張水御嶽に一時遷祀することとなった。
昭和二十四年「宮古神社復興期成会」が組織される。昭和三十一年に目黒盛定政を増祀。本土復帰の昭和四十七年、西里一番地に仮社殿を建立し、 宗教法人格を取得。その後も神社復興が進められ、昭和五十五年に社殿が竣工。同年、遷座祭を斎行した。
平成に入り、宮古神社は社殿の老朽化が顕著であり、また宮古島市誕生といった歴史的節目を迎え、「宮古神社を発祥の地へと移転し、 我が国最南端の神社に相応しい社殿を復興すべし」との気運が高まっていた。平成十八年「宮古神社御造営奉賛会」が組織され、奉賛活動を開始。 平成二十二年六月二十五日、西里五番地の新社殿にて新殿祭・正遷座祭が斎行され、平成の御造営が完遂した。
ニコライ・A・ネフスキー之碑
宮古島市の漲水御嶽の近くに、「ネフスキー通り」 と呼ばれる長さ約 90mの石畳の坂道があります。 石畳の路を上っていくと、通りの終わりの右側にネフスキーの宮古島についての研究を称える石碑、「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキーの碑」 があります。 石碑があるだけでなく、通りの名前にもなっている ニコライ・A・ネフスキー (Nikolai Aleksandrovich Nevsky) はどこの国の人で、宮古島にとってどのような働きをした人なのでしょうか? ニコライ・ネフスキーとはロシア人の言語学者で、日本旅行から後に留学し、宮古島の方言のほか、アイヌ語などを研究しました。特に宮古島方言については第一人者とのこと。それでこの顕彰碑が建てられたそうです。 ネフスキーは生涯を通じて宮古島にこだわり続けたのですが、それはこの島の文化風習が、日本のどこよりも古来の伝統を維持していたからだと記しています。 言語学者でもあったネフスキーは、宮古島の古語と日本の古語がによく似ていることを指摘し、特に宮古島の人々が虹をティンパウと呼んでいたことに着目しました。もともと宮古島ではティン(太陽)を母神、パウ(蛇=ハブ)を父神とする伝説があり、その二つが組み重なり立ち上るものが「天の蛇」、すなわち「虹(にじ)」というわけのようです。 そしてネフスキーはこの「蛇」と「虹」という漢字の類似性に着目し、日本語の「虹」が宮古島の「天の蛇」に由来すると結論しているのです。 15年に渡る日本滞在後、ネフスキーはソビエト連邦共和国となった祖国に帰国。しかし1937年、日本のスパイである疑いを掛けられ、国家叛逆罪で銃殺刑に処されました。 ニコライ・ネフスキーは方言に興味をもって調査した研究者ですが、宮古島と世界を繋いでくれた功労者でもあります 漲水御嶽や宮古神社など周辺の見所に行った際に、興味のある人は寄ってみてください。 宮古島の歴史を感じることができると思います。
沖縄の伝統菓子 あまがし
あまがしとは押し麦・緑豆・黒砂糖で作る沖縄のぜんざいの一種で、旧暦5月4日、5日の沖縄の年中行事「ユッカヌヒー」や「グングヮチグニチ」に食べられる伝統菓子である。
押し麦から出るとろみが独特の味わいを生み、緑豆は口の渇きを抑える作用や清涼感があり、暑い沖縄の夏によく合った菓子である。現在は黒砂糖などの甘みを使用するが、以前は麦粥に米麹を入れ、2~3日発酵させた甘酸っぱい発酵食であった。
ユッカヌヒー(四日の日)とは、昭和初期ごろまでは年に一度那覇市首里で大規模なおもちゃ市が開かれ、子どもたちが好きなおもちゃを買ってもらえる日であった。グングヮチグニチ(5月5日)は、現在の子どもの日(端午の節句)にあたる。
ユッカヌヒーやグングヮチグニチには子どもたちの健康を祈願してあまがしが作られ、昔は「疫病を払う」と言い伝えられてきた菖蒲の茎や葉を添え、箸やスプーン代わりに食べられていた。
資料(メタデータ)
沖縄の伝統菓子_あまがし
「沖縄おぅらい」デジタルアーカイブ
「沖縄おぅらい」は、岐阜女子大学の地域資源デジタルアーカイブを用いた、高校生のための沖縄への修学旅行に特化した学習材です。
沖縄県外の高校生が多様な沖縄の文化を8つのカテゴリーから知ることができるよう、構成しています。WEBコンテンツとリフレットがあり、リフレットのQRコードからもWEBコンテンツにアクセスできます。
URL:http://www.gijodai-okinawa.jp/ohrai/index.html
「沖縄おぅらい」デジタルアーカイブ 目次
カテゴリー1沖縄の観光
▶ Contents1 沖縄美ら海水族館
▶ Contents2 国際通り
▶ Contents3 道の駅かでな
▶ Contents4 玉泉洞
▶ Contents5 アメリカンビレッジ
▶ Contents6 海中道路
カテゴリー2平和への願い
▶ Contents1 平和祈念公園
▶ Contents2 ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
▶ Contents3 旧海軍司令部壕
カテゴリー3沖縄の世界遺産
▶ Contents1 今帰仁城跡
▶ Contents2 座喜味城跡
▶ Contents3 勝連城跡
▶ Contents4 中城城跡
▶ Contents5 首里城跡
▶ Contents6 園比屋武御嶽
▶ Contents7 玉陵
▶ Contents8 識名園
▶ Contents9 斎場御嶽
カテゴリー4沖縄の生活文化
[衣]▶ Contents1 芭蕉布
[衣]▶ Contents2 花織
[衣]▶ Contents3 琉球絣
[衣]▶ Contents4 ミンサー
[衣]▶ Contents5 紅型
[食]▶ Contents1 料理
[食]▶ Contents2 食材
[食]▶ Contents3 菓子
[食]▶ Contents4 果物
[住]▶ Contents1 琉球村
[住]▶ Contents2 中村家
カテゴリー5沖縄の自然
▶ Contents1 万座毛
▶ Contents2 古宇利島
▶ Contents5 辺戸岬
▶ Contents6 大石林山
▶ Contents7 八重山諸島
カテゴリー6沖縄の伝統文化
▶ Contents1 琉球舞踊
▶ Contents2 組踊
▶ Contents3 エイサー
▶ Contents4 獅子舞
▶ Contents5 琉球音楽
▶ Contents6 わらべ歌
▶ Contents7 沖縄空手
カテゴリー7沖縄の産業
▶ Contents1 焼物
▶ Contents2 琉球漆器
▶ Contents3 琉球ガラス
▶ Contents4 三線
▶ Contents5 織物
▶ Contents6 農業
▶ Contents7 水産業
カテゴリー8沖縄の離島
▶ Contents1 川平湾
▶ Contents2 唐人墓
▶ Contents3 アンガマ
▶ Contents4 竹富島伝統的建造物群保存地区
▶ Contents5 離島をつなぐ橋
▶ Contents6 ふばかり石(人頭税石)
沖縄の離島[石垣島] アンガマ
石垣島地方に受け継がれるお盆の行事。あの世から面を被ったウシュマイ(お爺)とンミー(お婆)が花子(ファーマー)とよばれる子孫と現れ、新築の家など招かれた家々を訪れる。仏壇の前で、八重山方言による問答やニンブジャー(念仏踊り)、家人を含めたモーヤー(カチャーシー〔手踊り〕)を踊り、祖先の霊を供養する。
「沖縄おぅらい」とは
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沖縄の離島[宮古島] ふばかり石(人頭税石)
宮古島の近世史において、薩摩の沖縄侵略(1609年)後からの重税の要求に対し、琉球王府は財政に困窮し、1637年宮古・八重山諸島に重い人頭税を課していた。数え15~50歳までの男女に税が課せられ、男は粟、女は布を納めたとされている。
この税は明治になっても続き、1888(明治21)年の大飢饉を機に人頭税の廃止の訴えがはじまったが、命がけの抗議や陳情は何度も弾圧された。1893(明治26)年、代表団が上京し帝国議会に直接請願したの結果、1903(明治36)年ようやく廃止され、266年に及ぶ苦しみからの解放された。
人頭税という税の名称は人間の頭を図って納める税を決めることに由来しており、身長がこの石の高さ(143㎝)であれば頭の周囲をワラで図り、その大きさの稲束を供出したとされている。しかし、島ではふばかり石を超える身長の島民に人頭税が課せられたといいい伝えもあるが、人頭税の史実とは無関係のようである。
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沖縄の離島[宮古島] 離島をつなぐ橋
宮古島は主な離島と大橋でつながっている。北の池間島と結ぶ池間大橋(1,425m)、南西の来間島(くりまじま)と結ぶ来間大橋(1,690m)、西の伊良部島と下地島を結ぶ伊良部大橋(3,540m)の3橋である。宮古島の海は宮古ブルーとよばれ、独特の美しい青色をしている。いずれの橋も海を感じながらドライブできる。
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沖縄の世界遺産 首里城復興
球王国誕生以来,琉球文化・歴史の象徴であり,沖縄県民の誇りであった首里城正殿を含む建物8棟が,2019年(令和元年)10月31日未明に発生した火災により焼損した。火災により焼け落ちていく首里城の姿は,県民のみならず,多くの国民や世界各国の人々に大きな喪失感を与えた。
国と沖縄県は首里城正殿等の復元に向けて,正殿をはじめとした「首里城復元」,復元の現場や過程を一般へ公開・発信する「段階的公開」,それらの実施をとおした「地域振興・観光振興への貢献」の三本柱を掲げて取組みを進めている。
特に「首里城復興」については「見せる復興」をテーマに,首里城復旧・復元作業を進めている。そのため,昨年から始まった正殿工事に伴って施設跡地や御庭(うなー)には木材倉庫が設置され,北殿側の城壁沿いに全長110メートルの仮設デッキを新たに整備された。
他にもガラス張りの見学エリアが2021年10月1日にオープンし,10月末からは一般公開され,再建に向けた作業の様子を見学できるようになった。首里城復興展示室では,火災前まで首里城正殿の屋根上に設置されていた獅子瓦や首里城正殿を彩っていた小龍柱や石獅子,石高覧等の石彫刻の残存物などを展示している。
すでに首里城正殿再建のための木材加工場や原寸場は完成し,2023年度は正殿を屋内で作れるように巨大な素屋根が作られ,2026年秋には正殿が完成予定である。
焼失した首里城復元への活用を目的とした「沖縄県首里城復興基金」には令和4年3月末日までに55億2,994万円余りが国内外から寄せられた。
古来から復元や復興の際は様々な儀式や行事が各地でおこなわれ、首里城の完成をみんなで見守ってきたことがわかる。
メタデータ
沖縄の世界遺産_首里城復興
https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2024/06/9ffd8f2018b545a4a75ba7d613515943.pdf
関連情報
■岐阜女子大学デジタルミュージアム デジタルアーキビスト学習資料「沖縄 歴史的遺産」国営沖縄記念公園(首里城公園)
http://dac.gijodai.ac.jp/db/sozai/08_okinawa1/i_syurij/album09.html
■岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所,沖縄地域文化資源デジタルアーカイブ,沖縄の世界遺産 首里城跡
https://digitalarchiveproject.jp/information/%e6%b2%96%e7%b8%84%e3%81%ae%e4%b8%96%e7%95%8c%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%80%e9%a6%96%e9%87%8c%e5%9f%8e%e8%b7%a1-2/
沖縄の世界遺産 首里城跡
首里城は1429年に成立した琉球王国の政治,外交,文化の中心で,1879年に最後の国王尚泰が明治政府に明け渡すまで栄えた。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に,王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また,各地に配置された神女たちを通じて,首里王府が運営する祭祀のネットワークの拠点でもあった。さらに,首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ,美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあった。
諸説あるが築城は14世紀半ばから後半とみられ,丘陸の地形を巧みに利用して造られている。首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ,内郭は15世紀初期に,外郭は16世紀中期に完成している。東西約400メートル,南北270メートル,総面積約4万6千平方メートル。那覇港を見下ろし,海外貿易に駆け巡った東シナ海を望んで,西向きに建てられている。
1879年,首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後,首里城は日本軍の駐屯地になったり,各種の学校等として使われた。現在でも首里城の地下には、第2次世界大戦中、アメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために作れた壕群(第32軍司令部壕;5本のトンネルが1本の中心トンネルから枝分かれする構造)が遺構として残っている。






























































































































































































































































































































