龍峰寺
龍峰寺(りゅうぶじ、龍峯寺)は岐阜県岐阜市奥にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は廣徳山。北方城主安藤守就の菩提寺である。
戦国時代に北方城主の安藤守就が、弟の湖淑を開山として一族の菩提寺として北方に建立した。正確な創建年は不明で、湖淑の法系も伝わっていない。その後、天正10年(1582年)に北方城が稲葉良通により攻められた際に城と共に兵火により焼亡した。湖淑は本巣郡の奥村まで逃れ、安藤守就の菩提を弔い寺院を再興した。湖淑和尚の没後は住持を欠くが、明暦年間に越前国報恩寺の別川和尚が住持となる。その法嗣、蜜外和尚は人里離れた山上から麓に寺を移した。天和3年(1683年)に乙津寺の鉄錐和尚を住持に招いたのちその法が受け継がれた。寺宝として湖淑和尚の肖像を所蔵し、安藤守就の墓が本堂裏手の山に建っている。
後背山栄昌院
栄昌院は、織田信長の妹であるお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹のうち、次女の常高院(初)の菩提寺です。
初は、近江の名門で若狭国(福井県)小浜城主となった京極高次に嫁ぎました。寛永十年(1633年)に江戸で亡くなり、法名を常高寺殿松厳栄昌大姉といいます。常高院の没後、その側近く仕えた侍女七人が小浜にそれぞれ寺庵を結び、全体を栄昌院と号して、常高院の菩提をとむらいつづけました。
明治維新をむかえたとき、尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移りましたが、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、常高院の位牌とともに尼僧が美濃国方県郡佐野村(岐阜市)へ来住し、栄昌院を復興したのです。
境内には常高院の供養塔とともに、寺を守ってきた歴代の尼僧たちの供養塔が建っています。
また、ドラマでも有名となった、三姉妹の三女の江から初にあてた手紙が見つかったことから栄昌院は一躍脚光を浴びました。
南禅寺
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜(ずいりょう)山大平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山(かめやま)上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)の法を継いだ無関普門(むかんふもん)(仏心(ぶっしん)禅師、大明(たいみん)国師)を招いて開山とした。門下の規庵祖円(きあんそえん)が第2世となってこの寺の基礎を築いた。1299年(正安1)亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちでとくに優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧(いっさんいちねい)、第5世約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世夢窓疎石(むそうそせき)、第15世虎関師錬(こかんしれん)、第39世春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が入山した。南禅寺の社会的な地位はきわめて高く、1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3・永徳3)に足利義満(あしかがよしみつ)が京都鎌倉五山十刹(じっさつ)の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれた。歴代の朝廷や足利、豊臣(とよとみ)、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝(いしんすうでん)が幕府の信任を受けて寺社関係の政策をつかさどり、1615年(元和1)寺社奉行(ぶぎょう)の前身である僧録司(そうろくし)となった。
諸堂伽藍(がらん)は1467年(応仁1)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂(はっとう)、方丈、勅使門など現存の建物は安土(あづち)桃山時代以後の建造物である。山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)大坂夏の陣に倒れた将士の菩提(ぼだい)を弔うため藤堂高虎(とうどうたかとら)によって再建されたもので、天下竜門といい、上層の楼を五鳳楼(ごほうろう)とよぶ。また歌舞伎(かぶき)の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門(ごえもん)の伝説で有名。方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。大方丈は1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町(おおぎまち)院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信(かのうもとのぶ)・永徳(えいとく)筆と伝える豪華な桃山式の襖絵(ふすまえ)がある。小方丈は旧伏見(ふしみ)城の遺構で、狩野探幽(たんゆう)筆と伝える襖絵『水呑(みずのみ)の虎(とら)の図』は名高い。大方丈南面の庭園は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水(かれさんすい)庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」とよばれる。北側には宗〓(そうへん)流の茶室不識庵(ふしきあん)があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣といわれる。寺宝には、亀山天皇宸翰(しんかん)禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相(ちんぞう)大明国師像』、『釈迦(しゃか)十六善神画像』、『薬山李〓(やくさんりこう)問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨(だるま)像』(祥啓筆)などの絵画、彫刻では木造聖観音(しょうかんのん)立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(ぼたんもようこうごう)(以上、重文)などがある。
塔頭(たっちゅう)は現在、金地(こんち)院、天授(てんじゅ)庵、帰雲(きうん)院、光雲(こううん)寺、聴松(ちょうしょう)院、真乗(しんじょう)院、高徳(こうとく)庵、法皇(ほうこう)寺、慈氏(じし)院、正因(しょういん)庵、正的(しょうてき)院、南陽(なんよう)院の12院がある。金地院には『渓陰小築(けいいんしょうちく)図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)などや、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓(はっそう)席(重文)がある。また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地といわれている。
伊那部宿
伊那部宿(いなべじゅく)は、三州街道(伊那街道)の宿場町。現在の長野県伊那市西町に相当する。
街道は天竜川右岸段丘の東端を通っており、宿場の南端からは春日城跡に続く道が分かれ、宿場の北方にある「坂下の辻」から天竜川を渡って高遠城下や杖突峠につながる杖突街道(現在の国道152号)も分岐していた。江戸時代中期には権兵衛街道(現在の国道361号)が開削され、中馬の道として木曽谷への米の輸送で賑わい、当地から「伊那節」が生まれたとされる。
宿場は南北に約3町で、両端に桝形が配置され、中央に長桂寺がある。往時は宿場の中を門川が流れ、両脇に並木があった。問屋場は南寄りの東側にあり、名主役4軒が交代で本陣を兼ねた問屋役を勤め、公用人馬の継立てをしていたが、のちに井沢家が単独で本陣を勤めるようになった。文化5年(1808年)には家数が42軒、のち旅籠は20軒を占め、その他に医者や様々な商家があった。
町並みは天保年間に2度の火災に罹災したが、現在も江戸時代からの看板を掲げた家が残っている。本陣井沢家住宅は平成11年(1999年)に伊那市の有形文化財に指定された。
「稀代の名工」守屋貞治の石像
「稀代の名工」守屋貞治
高遠石工の中でも特に優れた腕を持ち、「稀代の名工」と謳われたのが、守屋貞治(もりやさだじ)です。貞治は、優れた石仏を数多く彫像したことから石仏師ともいわれました。生涯において350体にもおよぶ作品を残しました。
ふっくらと滑らかな曲線、柔らかく弛む衣、優しげな表情―――まるで石とは思えないような彫刻がされています。機械のない時代に手作業で、しかも、一度削ってしまえば修正のきかない石材に、表情豊かに美しく繊細な彫刻が施されており、貞治の技術の高さをしっかりと物語っています。
守屋貞治の生涯
貞治は、明和2年(1765年)高遠藩藤沢郷塩供村(現、高遠町長藤)で、守屋孫兵衛の子として生まれました。藤沢郷は高遠藩領内でも多くの優れた石工を輩出した地域で、貞治の生家も代々石工の家系でした。そうした環境で育った貞治が、石工を志したのはごく自然なことだったのでしょう。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831年)に、自身がこれまでに彫り上げた石仏を「石佛菩薩細工」(通称「貞治の細工帳」)に書き記しています。これによると貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでおり、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。細工帳に記された336体の石仏のほか、記載されていない石仏なども見つかっているため、貞治の作品は350体にもおよぶとされています。
弁財天橋
弁財天河原付近に架かることに由来する。対岸の多町に向かって藤沢川との合流点付近の三峰川に架けられている。下流方面には弁天岩(弁財天岩)が見える。付近は弁財天河原と呼ばれる。現在の橋は、昭和14年(1939)に架け替えられた。
最初は弁天橋と命名されたが、弁天の正式名称の弁財天をとって弁財天橋に改名した。
かつては現在の天女橋の位置に架けられていた橋をいった。さらにその前は千人橋と言われたいう記録がある。
「べざいてんばし」とよむ。
高遠石工と高遠石
高遠町の方なら知っている弁天岩は、藤沢川と三峰川の合流点にあります。弁天様は弁財天ともいい、昔から財宝、商売繁盛、芸術、水などの神様として衆生の信仰を集めてきました。日本3大弁天というと、神奈川県江ノ島、広島県宮島、琵琶湖就航の歌で知られる滋賀県竹生島を指し、しかも七福神のなかでもただひとり女性の神様として人気の弁天様です。大きな岩の上に祀られている、ここ藤沢川合流点の弁天様は、暴れ天竜の元凶である三峰川を鎮めるために建てられものと推測されます。
さてさて、弁天様はさておいて、実はこの弁天岩周辺の岩質のことが今回のテーマとつながります。普段は薄緑色の岩は、雨や淡雪などで濡れると、少し青みがかかった美しい色になります。地質学的な表現をしますと、弁天岩周辺の岩石は、火山活動によって、地中深くゆっくりと冷えて固まってできた「輝緑岩」と呼ばれる岩です。ここの輝緑岩は別名、「青石」とも「高遠石」とも呼ばれ、マグマが地下の深いところで時間をかけて冷えたために硬い性質をもっています。高遠町で産出する硬い岩は、ほかにも安山岩があって、藤沢川上流から得ることができます。
石に関してもう少し話をしますと、あまり知られていませんが、三峰川では日本で一番多くの種類の石を探すことができます。一説には、日本全国の石のうち70から80パーセントの石を拾うことができると言われています。それは三峰川の流れる、南アルプスの成り立ちに理由があります。
標高3,033メートルの仙丈ヶ岳に源を発する三峰川は、まず四万十帯(しまんとたい)という地層を南に流れます。四万十帯は砂岩や粘板岩を主にした地層です。流れは石灰岩層の秩父帯(ちちぶたい)を北流し、さらに緑色岩、礫岩の三波川帯(さんばがわたい)、中央構造線に沿ってさらに三峰川は美和ダムに向かって流れています。そして美和ダム付近からは西へ向い、高遠町にかけては、領家帯(りょうけたい)の地層となりますが、このあたりでは花崗岩やマイロナイト、輝緑岩、領家変成岩などが見られます。そのほかにも三峰川流域では、変成作用をうけたチャートや蛇紋岩、アンモナイトなどの化石も見られ、まさに石の宝庫なのです。
この日本の「石のデパート」のような三峰川流域で、2014年9月27日(土曜日)から30日(火曜日)にかけて日本ジオパーク全国大会が予定されています。日本ジオパークは、2008(平成20)年、糸魚川・有珠山・山陰・島原などともに、国内で初となる日本ジオパークとして「南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク」として認定されました。ジオパーク(GEOPARK)とは、「大地の公園」と表現し、地球の成り立ちや、大地のでき方を知ることができる場所、つまり公園をさします。地球活動の遺産を知ることでできる、いわば「地質遺産」で、ユネスコの管轄に所属しています。国内では、2013年9月現在で32ヶ所となっています。そのほかにも準会員16カ所、関心を寄せている地域が11カ所と全国200近い市町村が関わりをもっています。9月末にはたくさんのみなさんが高遠町・長谷を訪れる予定です。
ところで先ほどの「青石」・「高遠石」は、なぜ輝緑岩ではなく「高遠」という固有名詞がつけられているのでしょうか?もちろん明治時代以前には、輝緑岩や蛇紋岩、花崗岩、変成岩、チャートといった専門的分類の表現はなく、ごま石やまだら石、青石、黒石など色や模様による表現や、火打ち石、ろう石、砥石など生活のなかから生まれた名前で呼ばれていました。そうしたなか、わざわざ「高遠石」と地域を表す名称にはどのような歴史があったのでしょうか?それは中世からその名を知られ、江戸は内藤家の時代となって、全国にその名を馳せた技術集団、「高遠石工」の存在です。特に元禄年間以降は、石工たちは全国に散らばり、石仏であれば、精巧にして芸術性の高い作品を残しています。石工たちは狛犬や鳥居も造り、また石臼・石垣など、石に関わる仕事は、高い信頼を行き先々で得ながら評判をよび稼いでいたようです。その範囲は、長野県内はもとより、山梨県・群馬県・栃木県・東京都・神奈川県・愛知県・三重県や、遠くは山口県や福島県・宮城県・山形県にも及んでいます。もちろん駒ヶ根や飯島、箕輪などの上伊那地域にも広く高遠石工の作品は分布し、諏訪地方にも、双体道祖神で人気の安曇野あたりにも多く残っています。そして、日本各地を旅して稼いだ高遠石工たちは、いまの高遠にある、北原・守屋・柿木・保科・藤沢・清水・池上などの姓なのです。
高遠石工は江戸高遠石工といえば守屋貞治、その父親の孫兵衛、祖父にあたる貞七の、いわゆる「守屋三代」が有名です。守屋貞治の生まれたのは明和2年(1765)、教科書でお馴染みの「田沼意次の賄賂政治」その粛正を図った松平定信の「寛政の改革」の時代の頃です。守屋貞治の代表作は、高遠町から長谷に三峰川を渡る「常盤橋」のたもとに佇む「大聖不動明王」や高遠町建福寺に数多くある作品のなかでも有名な「願王地蔵菩薩」、「如意輪観音」などが知られています。ちなみに貞治は生涯340体ほどの石仏を彫ったとされています。
このように高遠石工のすぐれた作品の材料となったのが、高遠で産出された輝緑岩や安山岩であり、石工の名声とともに「高遠石」として知られていったわけです。高遠石工の技術と、彼等が使った石材には「高遠」の固有名詞がつけられたのです。現在の花畑地籍、高遠ダム直下には、優良な材料として輝緑岩の採石場がありました。松倉や片倉にも材料に適した、安山岩の産出場があり、三峰川流域その支流、藤沢川流域は高遠石工の活躍するバックグラウンドが展開していたわけです。
菩薩像傍の石仏、道祖神、庚申塔、甲子塔、お墓の石塔や城の石垣、馬頭観世音、石の祠、神社の狛犬と鳥居、常夜灯、道しるべ、そして生活にあった石臼など、高遠町には自然のなかから生まれた石に、数々の手を加えた作品は数多くあります。藤沢川の谷から高遠の街にかけてのたくさんの野仏には、遠く、土俗で素朴な人々の姿や声が聞こえてくるかのよう錯覚すら覚えます。とりわけ、私の好きな建福寺の願王地蔵菩薩によせて、にごりのない微笑みと気品は何度も足を運びたくなる、高遠石工の傑作といえる作品です。
春、あたたかくなったら、ぶらりぶらりと、ふきのとうでも探しながら野仏たちを訪ね歩こうかなと考えています。
「清流」 まほら伊那市民大学 平成26年度修了記念文集 掲載 伊那市長 白鳥 孝 より引用
建福寺
建福寺(けんぷくじ)は、長野県伊那市高遠町西高遠にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
伝承によれば文覚上人(1139年~1203年)が独鈷池付近に開創。 康元元年(1256年)蘭渓道隆(大覚禅師)が立ち寄り、鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を興した。 のち、武田信玄の帰依により、静岡市の臨済寺から東谷宗杲禅師を招いて中興開山とし、妙心寺派となった。 貞享2年(1685年)、喝道和尚中興、明和3年(1765年)3月24日類焼、安永4年(1775年)少山和尚がさらに中興するも、嘉永4年(1851年)正月19日焼失、安政3年(1856年)に再建した。
武田勝頼が高遠城主の時、武田家菩提所とし、母諏訪御料人を埋葬して乾福院殿という。 さらに次の藩主、保科氏も菩提寺とし、大寶山建福寺と改名。 寛永13年(1636年)保科正之が会津若松藩主となり、移封する際に、鉄舟和尚が供奉して会津にも建福寺 (会津若松市)を創建した。
法界寺
【寺 歴】
伝えによると法界寺は現在の南箕輪村久保にある西念寺(文亀元年<1501>飯田 西教寺末寺として開山)が前身であり、江戸時代の寛永16年(1639)に時の飯田城主脇坂淡路守の知行地であった木下村の陣屋に勤めていた家臣達の関わりで、もともとあった御堂「法界堂」と合寺して「法界寺」になったといわれています。(西念寺は合寺の後、一時廃寺となったが天保2年<1831>に再建され、以降、法界寺の末寺となる) 中興察誉上人代の時、文政元年(1818)に浄土宗総本山「知恩院」の直末寺院となったほか、表門、鐘楼の建立・高遠の石工、守屋貞治作「佉羅陀山地蔵菩薩」の石仏建立がされるなどお寺の整備がすすみましたが、安政7年(1860)の火災により本堂、庫裡、庚申堂など境内の建物の多くを焼失してしまいました。その後、近代になった大正9年(1920)になって現在の本堂が建てられました。
本堂は過去の教訓から防火対策として同宗の満光寺(伊那市高遠町)の本堂を範とした土蔵造りになっています。
【法界寺の地蔵尊】
○箕輪町指定有形文化財
○指定年月日 昭和53年 1月23日 文政12年(1829)、高遠の名工、守屋貞治の晩年の作で、石材は、すべて大泉所の ものを用いている。貞治は、信仰心が厚く制作に当たっては常に念仏を唱えながらノミを振るったと言われる。右手をほほにあて、いかにして迷える衆生を救おうと物思いに耽っているかのような地蔵尊の姿に、仏にこめた貞治の心が感じられる。面長で、端正 な顔や流れるように淀みない衣のひだ、など円熟した作者の手わんがうかがわれる。 貞治は生涯に336体の石仏を造ったといわれ、3年後の天保3年に行年67才で没した。尚、祭典は毎年4月23日~24日に行われる。 (箕輪町教育員会資料より)
住 所:〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町大字中箕輪11986
貴船神社
この神社は高遠第2・3保育園北に鎮座しています。山間部の閑かな集落の氏神様で、入口に立つと境内の隅々まで見渡せるので開放的な感じが強く、境内は左側に大きく開かれています。鳥居の奥に唐破風付き入母屋造りの拝殿、大きな鞘堂内に市指定文化財・一間社流造の本殿が建立され、木鼻や目抜き、脇障子等に彫刻が施されています。又、縁下には面白い狛犬も見られます。
御祭神:高龗神
祭礼日:4月・例祭
境内社:山王神社、山王神社他多数
由緒:貴船神社は山城国(京都府)愛宕郡貴船より、藤沢郷の総鎮守として永禄の終わり(~1569)から天正の初め頃(1573~)勧請され、水神である高オカミ神を祀り、祈雨の神として、御堂垣外、荒町、殿垣外の三集落の住民から厚い崇敬を受け、又、保科氏や鳥居氏など代々の高遠藩主の信仰も厚く、社殿の修築や寄進などを受けていたと伝えられます。