郡上おどり発祥祭
郡上おどり(ぐじょうおどり)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられる。
中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
1728年(享保13年)から17年間、飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した『濃州志』の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。これは飛騨の地で八幡のことを歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。なお、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。1840年(天保11年)に書かれた郷中盛衰記によると「延享時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野[1](そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていたようである。
資料集
055_058_郡上おどり発祥祭
動画資料
照蓮寺
合掌造りで有名な白川郷から高山城二の丸跡に移されたもので、浄土真宗の寺院では、日本最古の建物といわれます。書院造りの本堂は永正年間(1,500年頃)の建物で、一本の大杉をもって建てられたと伝えられ、屋根のゆるやかな曲線は室町時代の建築美を代表しています。
1253年(建長5年)、親鸞の教えを受けた嘉念坊善俊(後鳥羽上皇の子または孫と伝えられる)が美濃国長滝[注釈 1]から飛騨国白川郷鳩ヶ谷[注釈 2]に入り、正蓮寺を建立する。正蓮寺を中心に飛騨国の浄土真宗は一大勢力となる。
戦国時代、正蓮寺の僧、教信は還俗し三島将監を名乗り、弟の明教(後の正蓮寺第九世)とともに勢力を拡大する。 このころ以降、加賀一向一揆などの北陸の一向一揆の際、兵の派遣や協力を行っている。
やがて三島氏とこの地を治める帰雲城城主内ヶ島氏は勢力争いで対立する。
1488年(長享2年)、帰雲城城主内ヶ島為氏により正蓮寺は焼き討ちにあい、三島将監は戦死、明教はかろうじて逃げ延びるが、後に自害。
明教の子である正蓮寺第十世明心は、内ヶ島為氏と和睦し、1504年(永正元年)、飛騨国白川郷中野[注釈 3]に寺院を復興し、「正蓮寺」から「光曜山照蓮寺」に改称する。
内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺の勢力は拡大した。天正13年(1585年)、三木氏の後に飛騨国を治めた金森長近はこの力を利用し、家来の石徹白彦左衛門に命じて照蓮寺との間で起請文を交わし、天正16年(1588年)、高山城城下に光曜山照蓮寺を移転させた。
これにより、城主金森長近が留守の間、浄土真宗照蓮寺が高山藩を守っていた。 この功により、秀吉は安阿弥作の阿弥陀如来像立像を照蓮寺に下賜している。[1]
移転した照蓮寺が、後の真宗大谷派高山別院照蓮寺である。
1588年(天正16年)、光曜山照蓮寺の移転後も、正蓮寺開基善俊の墓と本堂が残り、「照蓮寺掛所心行坊」として存続する。
明治の初めごろに本山に改称を願い出て、「心行坊」から「照蓮寺」と公称する。
1961年(昭和36年)、御母衣ダムによる水没のため、飛騨国白川郷中野[注釈 4]から高山市堀端町に移転する。
移転した建物のうち、本堂は1504年(永正元年)頃の建立で、国の重要文化財である。中門は、1574年(天正2年)の建立。梵鐘は、「建武元年三月十二日(1334年4月16日〈ユリウス暦〉)」・「飛州安國寺」の銘があり、共に岐阜県重要文化財に指定されている。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E8%93%AE%E5%AF%BA)
関連資料
高山城址
高山市街の東方にあって標高686.6メートル、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。 金森入国以前は、「天神山(てんじんやま)城」と呼ばれた。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって、文安年中(1444年から1449年)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれたという。永正年間(1504年から1521年)には高山外記が在城していた。
天正13年(1585年)7月、金森長近は秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。城地として最初は大八賀郷の鍋山城を考えたようであるが、後、灘郷の天神山古城跡を選定した。飛騨のほぼ中央に位置し、開けた盆地があり、しかも東西南北の街道が交差するこの古城跡が最も適所と考えられたのである。築城は天正16年(1588年)から始まり、慶長5年(1600年)までの13年で本丸、二之丸が完成し、以後可重(ありしげ)によって更に3年で三之丸が築かれ、慶長8年までに16年かかって完成したとされる。高山城は、織田信長が築城した安土城の直後に構築され、軍事的機能を最優先させた造形とは本質的に異なっている。御殿風の古い城郭形式をもち、外観2層、内部3階の構造をもつ天守をそなえているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置付けられる。
高山城の各曲輪は、本丸が東西57間に南北30間、南之出丸が東西15間に南北22間、二之丸が東西97間に南北84間、三之丸が東西120間に南北93間の広さがあった。(『飛騨鑑』『斐太後風土記』『飛州志』)当時の絵図が金沢市立図書館にあるが、それによると次のようなことがわかる。
本丸には最高所に(あ)本丸屋形、その東方1段低い所(A)に(い)13間櫓、(う)10間櫓(え)太鼓櫓、(か)横櫓等があり、東北に(き)搦手一ノ木戸のある(B)腰曲輪が連なる。本丸から南へ下ると途中に大手の(く)三ノ門、(け)二ノ門をへて(こ)岡崎蔵へ(さ)大手門のある(C)南之出丸に至る。本丸の北方二之丸に下る途中には(し)中段屋形が建つ(D)曲輪と、その西方には(す)塩蔵その他の土蔵が建つ(E)曲輪がある。二之丸は東西に大きな曲輪が並んでいるが、(F)西側の曲輪には(せ)二之丸屋形、(そ)黒書院を中心に西方に(た)唐門、(ち)屏風土蔵(つ)10間櫓等があり、東側の曲輪との境には(て)玄関門(と)中ノ口門がある。一方(G)東側の曲輪には(な)庭樹院殿屋敷を中心に、東北隅に(に)鬼門櫓、東南に(ぬ)東之丸長屋に続いて(ね)裏門、西方には(の)横櫓大門がある。(は)大門を西方に下った(H)曲輪には、(ひ)桜門の西側に(ふ)炭蔵、東側に(へ)荷作り蔵、(ほ)料紙蔵等があり、その東北方に連なる(I)曲輪には2棟の細長い(ま)土蔵が建つ。(J)三之丸には(み)勘定所と8棟の(む)米蔵があり、水堀が東側と北側をくの字形に囲んでいる。大手道は南之出丸西側の大手門から大洞谷を下って桝形橋に通じている。
この中で、二之丸は東と西に平地をもち、東側は庭樹院(頼ときの母)の住んだ屋形であった。現在は二之丸公園となっている。西は城主の屋形で、跡地に昭和35年荘川から照蓮寺が移築されている。三之丸には現在飛騨護国神社が建ち、三之丸にあった御蔵は高山陣屋へ移築されている。
城下町は、城の北方に延びる通称空町と呼ばれる高台と、その西方の低地一帯で、西側を南から北へ流れる宮川と、東側を南から北、途中で西側へ折れて流れる江名子川に囲まれた東西約500メートル、南北約600メートルの範囲内に建設された。城郭の築城とともに武家屋敷の地割が行なわれ、飛騨の各地から寺院や町家が移されたが、町割は武家地と町人地がはっきり区分された。
武家地は城の大手筋にあたる大洞谷から中橋に至る宮川の右岸に階段状に配され、また空町一帯から江名子川ぞいに城の西・北・東の三方を取巻く形で配置された。町人地は宮川と空町の間の低地に一番町、二番町、三番町と南北に道路が走り、東西の道路は南北の大通りと食い違って交差する横丁が多くあった。社寺地は東山山麓に大雄寺が天正14年(1586年)に建てられたのを始めとして、天照寺、雲龍寺、素玄寺、宗猷寺、法華寺、また城の東南に大隆寺と、金森家の由緒の寺院が相次いで建立された。またこれらの寺院群とは別に城と向かい合った場所に照蓮寺が建てられ、周囲に寺内町が形成された。(『高山城発掘調査報告書1.、2.』1986、1988年高山市教育委員会)
元禄5年、金森6代頼ときは突然出羽国(山形県)に移封となり、金森氏転封後は金沢藩が城番を勤めた。しかし、元禄8年幕府の命により高山城は完全に破却され、廃城となった。後、城山として町民の憩いの場として花見などに使われてきた。
高山城跡は大正8年内務省の史跡指定を受けて以来、法の変遷により昭和31年9月7日岐阜県の史跡として指定され、その面積は11.4ヘクタールに及ぶ。また、高山城跡を中心とした城山公園一帯は、「高山城跡及びその周辺の野鳥生息地」として昭和31年6月14日、高山市の天然記念物に指定され、鳥獣保護区特別保護地区でもある。1部は都市計画上の急傾斜地防災地区に指定される。海抜は、本丸頂部で686.1メートルあり、空町駐車場(高山市馬場町2丁目)580メートル、旧高山町役場(高山市神明町4丁目)575メートルと比べ約100メートル高所にある。
市街地にある自然公園としても貴重で、高山市民は春の花見、秋の紅葉を楽しむなど生活領域の1部として、密接なふれあいをもっている。遊歩道を歩くと、スギの幹をリスが走り、80種に及ぶ野鳥が出迎えてくれる。自然植生の植物も豊富で、昭和56年にはササの新品種「ヒダノミヤマクマササ」が発見された。また、裏日本種と表日本種のササが混在する珍しい現象も確認されている。
このように、市街地に近接しているにもかかわらずたくさんの野鳥が生息し、自然植生が保たれ、史跡が保存されている例は稀であろう。
城山山頂部に位置する本丸は、城跡の最高所である。現在は樹木にさえぎられて、四方とも展望はきかないが、かつては360度の展望が開けていて、東は長野、北は富山、西は白川村、南は下呂、美濃へそれぞれ通ずる街道が見渡せる位置にある。
昭和60年、61年に本丸周辺の発掘調査をし、本丸屋形礎石、玄関、本丸南側石積根石を発掘、また、本丸周辺の部分測量を実施してその成果がまとめられている。
(引用:http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000954/1000969.html)
資料集
153_164_高山城址
飛騨の家具
「飛騨の匠」の記述が現存する史料に初めて現れるのは、今からおよそ1300年前のことです。養老2年(718)に制定された養老令(賦役令)に斐陀国条が定められ、斐陀からは1里(50戸)につき10人が1年交代で都へ出役することが義務づけられましたが、その前の大宝律令(701)でも同様であったと考えられています。飛騨国は優れた木工集団「飛騨の匠」を派遣する見返りとして、租・庸・調のうち、庸・調という税が免ぜられたのです。これが律令政治による、飛騨から都へ人材を派遣するという「飛騨の匠」制度の始まりです。
当時の飛騨は10里程度と推察され、徴用された人数は100人を基準とし、工事の状況で増減され多い時には200人あまりが都に上りました。以後平安末期までの500年間に亘って、延べ人数は4万とも5万とも言われています。仕事は年に330日以上350日以下と定められ、この日数に達しなければ飛騨に帰る事が許されませんでした。厳しい労役に耐え、真摯で並はずれた腕を誇った彼らの技は絶賛され、いつしか「飛騨の匠」と賞賛されるようになり、薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営に活躍して日本建築史の黄金時代の一翼を担ったのでした。現在も奈良の橿原市に飛騨町がありますが、高山の町並みを思わせる小ぎれいな木造家屋が軒を連ね、また大和路には飛騨と共通する地名が多い事から、飛騨から上京した人たちが現地にとどまり土着化したものとも考えられます。(引用:https://kitutuki.co.jp/hidanotakumi)
資料集
152_162_飛騨の家具
最勝寺
最勝寺は、親鸞聖人に帰依して直弟となった専修により開基され、関東の処々に布教し転々と移住したあと、1489年(延徳元年)に、九代目専宗が郡上の市島村に堂宇を建立、1624年(寛永元年)十三代目専勝が郡上八幡城主から寺領を与えられ現在地へ移りました。
また、大野最勝寺の末寺として創立されたという別伝もあります。
資料集
054_057_最勝寺
日吉神社
創建時期は不明。安土桃山時代以前よりこの地には小さな祠が存在していたという。
天正年間、郡上八幡城城主遠藤慶隆が戦勝祈願、城の鎮護のために、この祠に安久田村(後の相生村。八幡町を経て現・郡上市)の日吉社を勧請合祀し、社殿を造営する。
一時衰退するが、正保2年(1645年)に再興される。以後歴代郡上八幡城城主により保護される。
資料集
053_056_日吉神社
願蓮寺
所在地:岐阜県郡上市八幡町島谷825
宗派:浄土真宗大谷派
御本尊:阿弥陀如来
創建:明応3年(1494)
開山:石神兵庫(正専坊)
中世に東氏は山田庄地頭として来郡した。その家臣石神兵庫は八幡腰細村に居住。
蓮如上人が越前吉崎に滞在の時、石神兵庫は弟子となり、法名を正専と授けられた。
明応3年(1494)に、願蓮寺を創立。八幡城主遠藤慶隆により城下の現在の地へ移転し現在に至る。
資料集
052_055_願蓮寺
鎌倉大仏殿高徳院
鎌倉大仏
「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています。
※ 小石川伝通院の住職を務めた後、増上寺第36 世法主を拝命した高僧
高徳院の宗旨
高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(1133 ~ 1212 年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院です。法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。人は誰しも「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と称えれば、その御加護に与ることができ、臨終に際しては極楽浄土に迎え入れていただける。これが法然上人の説かれた浄土宗の教えです。
(引用:https://www.kotoku-in.jp/about.html)
資料集
147_157_鎌倉大仏殿高徳院
長谷寺
往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、正式には「海光山慈照院長谷寺」と号します。
開創は奈良時代の天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた鎌倉有数の古刹です。本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18m)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる当山は、東国を代表する観音霊場の象徴としてその法灯を今の世に伝えています。
緑深い観音山の裾野から中腹に広がる境内は、四季を通じて花が絶えることのない「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれ、花木の彩りがご来山者の心を和ませます。
諸堂のほか鎌倉の海や街並みが一望できる見晴台があり、さらに眺望散策路に上がると遠く相模湾の眺望と共に梅雨に映える40種類2500株のアジサイが織り成すその風情が、鎌倉でも有数の景勝地と謳われています。
(引用:https://www.hasedera.jp/)
資料集
148_158_長谷寺
円覚寺
開山
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
名前の由来
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。無学祖元禅師の法灯は高峰顕日禅師、夢窓疎石禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
歴史
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。 室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師が僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。 明治時代以降、今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。
(引用:http://www.engakuji.or.jp/about.html)
資料集
149_159_円覚寺
建長寺
寺の開創
建長7年(1255)2月に造られた梵鐘(国宝)に「建長禅寺」とあるように、当寺はわが国で最初に”禅寺”と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場である。およそ、中世を通じての寺院は、1か寺で天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったから、建長寺のような1寺1宗という浄刹はたいへん珍しかったといえる。
しかし、寺が建てられる前の寺域は、地獄谷とよばれた罪人の処刑場になっていたと伝えられていた。この谷に地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という仏堂が建っていたが、建長寺を開創するにさいし、時頼によって堂は巨福呂坂に移され、現在は横浜三渓園に移設されている。その本尊と伝える地蔵菩薩坐像が、千体地蔵にかこまれて建長寺仏殿内に安置されている。
開山の周辺
開山蘭渓道隆禅師は、寛元4年(1246)33歳で来朝しているから建長寺入山は40歳頃と思われる。師は中国宋朝の禅風をそのまま導入し、大変な意気込みで百人余に及ぶ修行僧たちを指導している。自筆の国宝「法語規則」により、厳しい修行の内容が知ることができる。
弘長2年(1262)師は京都建仁寺に移り、そのあとに中国僧兀庵普寧が2世に迎えられたが翌年開基時頼公が没すると二年後の文永2年母国宋へ帰ってしまった。これにより開山禅師は再び建長寺に住することとなった。いわゆる蒙古襲来の折には間諜の疑いを持たれたらしく2度にわたり甲斐等に流されることもあった。
弘安元年(1278)には三度建長寺に住したが、同年7月24日、開山は建長寺で示寂する。大覚禅師を思慕した北条時宗が、中国から無学祖元(仏光国師)を招請して円覚寺を建立したのは建長寺開創から29年後のことである。無学和尚の活躍で鎌倉禅は一層の発展をみたのであった。
諸堂の整備
建長寺は建長5年に落慶され、建長7年には梵鐘が鋳造されたが大規模な伽藍の整備にはさらに長期の歳月が必要とされた。例えば総門と法堂の創建は仏殿建立から20年後、当初から計画されていたとされる三門は、仏殿造営から28年後の弘安4年(1281)と考えられている。
この往古の荘厳な姿を今に偲ばせているのが元弘元年(1331)につくられた「建長寺指図」(設計図)の写しである。総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物がほぼ直線上にならび、庫院(庫裏)と僧堂(修行道場)とが三門から仏殿に達する回廊の左右にあり、浴室と西浄(東司)も三門前の左右に造られるなど、左右対称の大陸的な配置法であったことはわかる。中国杭州にある五山第一の径山万寿禅寺を模して、これを鎌倉の地に写しだそうという伽藍配置だったのである。
ただし、現在の諸堂の配置は創建当初の姿をそのまま伝えておらず、堂の位置が変わったり縮小されたりした形跡が最近の発掘調査でも確認されるところである。
災害と復興、そして近現代
建長寺の開創は、鎌倉時代の鎌倉を、禅宗の創立と禅宗文化の発進の地として、最もさかんで活気に満ちあふれた町を現出することになった。因みに、建長寺が最も盛んだったころの様子は僧侶約1000人、寺領も膨大で末寺も400以上、塔頭49院を数えた。しかし荘厳な伽藍をかまえた建長寺も、永い歴史を刻む間、たびたびの罹災で古い建物はことごとく焼失した。それでも建長寺は数多くの被災に見舞われながらも鎌倉幕府の強力な支援のもとに相応の復興をみていたが、大檀那である北条氏(鎌倉幕府)が元弘3年(1333)に滅亡すると大きな痛手となった。それでも室町幕府の鎌倉府がそれなりに機能を果たしていた室町初期頃は再興するだけの余力を残していたが、室町末期には伽藍の復興もできなかったようである。
天正19年(1591)徳川家康は寺領約400石を寄進したが、その額は円覚寺・東慶寺などよりも少なく、最盛期の建長寺の状態とはもはや比較することができなくなっていた。それでも江戸幕府の禅宗政策は室町幕府の施策を踏襲したこと、家康に重用された金地院の以心崇伝(本光国師)が大覚禅師の法系につらなる僧であり、また建長寺の住山に入ったこともあって江戸幕府の保護のもと五山第一の寺格にふさわしい景観がいじされた。そして、再嶽元良・海門元東・万拙碩宜・真浄元苗ら諸師を始めとする江戸時代に建長寺住持に任じられた多くの禅僧たちの努力も特筆されるものである。
現在の大本山建長寺は平成に入り大庫裏・得月楼、そして僧堂大徹堂などの再興を果たし、その姿を今に伝えている。(冊子 建長寺より)
建長寺開山大覚禅師
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため 諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いて からは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来 迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏 むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年 (1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、 その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから 書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが 叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。
禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。
(引用:https://www.kenchoji.com/about/)
資料集
150_160_建長寺