位山
位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつであり、山域は岐阜県の「位山舟山県立自然公園」に指定されている。
資料
003_003_位山 周辺地域の自然
長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
美濃馬場 長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
動画資料
資料集
005_006_美濃馬場 長滝白山神社
白山文化博物館
一年を通して白雪の天衣をまとった白山は、農民たちから祖先の霊の宿る聖域、水を司る神の御座所と崇められてきました。白山が開かれたのは、717年(養老元)。平安前期には、加賀・越前・美濃の3つの禅定道と呼ばれる登拝のための道が開かれました。その中でも、郡上市白鳥町長滝白山神社を拠点とする美濃禅定道は、「上り千人、下り千人」といわれ、多くの参拝客で賑わいました。
資料集
004_005_白山文化博物館
合掌造り
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の叉首構造の屋根が大きな特徴となっており、とりわけ後の時代に建てられたものはその屋根が急勾配になっている[1]。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている[1]。現在見られる合掌造りにも切妻屋根のもの(白川村や五箇山に多い)、入母屋屋根のもの(旧荘川村に多い)がある[5]。残存している切妻屋根の家屋については、その方が屋根裏の作業スペースが多く取れるからと指摘されている[6]。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった[6]。世界の建築の一つとして国立民族学博物館には合掌造りの展示として、五箇山初の民宿「勇助」(ゆうすけ)の模型が展示されている。書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から「人」の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造であるとされる[。
合掌造りの葺き替え風景
合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている[7]。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
資料集
003_004_白川郷
映像資料
雪国の暮らし
和田家住宅(白川郷)
和田家住宅は岐阜県大野郡白川村萩町地区に位置しています。和田家は室町時代末期(天正元年:1573年)にこの地に土着した上層農家で、名主や牛首口留番所役人(白川郷に設置された番所は牛首口・小白川口・椿原口の3箇所で、寛政年間:1789~1801年以降和田弥右衛門家が代々管理運営し明治5年:1872年に宿駅制度廃止まで続けられました。)を歴任し苗字帯刀を許された家柄です。当時は白川郷の特産の1つ焔硝の取引も積極的に行い財を築いたとされます(焔硝の精製・販売は白川郷の主要産業の1つで和田家では高山陣屋から木製鑑札を発行してもらい特別な許可を取っていました。)。現在の主屋は江戸時代中期に建てられたと推定される建物で、桁行12間(22.3m)、梁間7間(12.8m)、木造3階建(1階は居住空間2階より上部は養蚕で利用)、茅葺、合掌造(左右両側と背面に庇が付属)、正面には式台付きの玄関(和田家は上層農家だった為、武士や幕府の役人との付き合いが多く、身分の高い人達専用の式台付きの玄関が設けられた。)、1階外壁は黒漆喰仕上げ(腰部は白漆喰)。和田家住宅は現在白川郷に残る上層合掌造り農家建築の中でも最大級の規模で質も高いことから土蔵(江戸時代中期建築、土蔵2階建、桁行6.1m、梁間5.3m、切妻、桟瓦葺)、便所(江戸時代中期建築、木造平屋建、切妻、茅葺、桁行7.3m、梁間4.3m)、土地(融雪用池・石組水路・防風林・石垣など)と共に平成7年(1995)に国指定重要文化財に指定されています。又、付属舎である板蔵と稲架小屋が昭和47年(1972)に岐阜県指定重要文化財に、和田家牛首口留番所文書が平成27年(2015)に白川村指定文化財にそれぞれ指定されています。
資料集
002_003_白川郷 和田家
動画資料
明善寺
明善寺(白川郷)概要: 松原山明善寺は岐阜県大野郡白川村萩町地区に境内を構えています。明善寺の創建は不詳ですが延享5年(1748)、白川八幡神社(上白川郷18ヶ村・下白川郷23ヶ村の産土神)の別当だった仙光院の跡を継ぐ為、内ヶ戸から移ってきたのが始まりと伝えられています(延享元年:1744年に浄土真宗本願寺派の本覚寺から真宗大谷派として分派したとも)。現在の庫裏は江戸時代末期に建てられたもので高さ15m、建築面積100坪、萱面積108坪、白川郷を代表する合掌造建築として貴重な事から昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。鐘楼門は享和元年(1801)に飛騨の匠である加藤定七によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、一間一戸、2重垂木、上層部には下層部に比べ柱割が短く、壁は吹き放し、際には高欄が廻っています(当時の梵鐘は大戦中に供出となり現在のものは戦後中村義一氏によって制作されたものです)。鐘楼門は江戸時代後期に建てられた2重楼門建築として貴重なことから昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。本堂は文政6年(1823)から文政10年(1827)にかけて現在の高山市出身の宮大工水間宇助によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、桁行7間、梁間6間、正面には茅葺の大屋根切欠くように向拝が取り付いています。明善寺本堂は江戸時代後期に建てられた寺院本堂建築として貴重ことから昭和42年(1967)に白川村指定重要文化財に指定されています。境内にあるイチイは文政10年(1827)、本堂落成時に副棟梁だった与四郎が植えたと伝えられる大木で樹高約10m、根回り約2.6m、昭和49年(1974)に岐阜県指定天然記念物に指定されています。白川郷が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、その構成要素の一つに選定されています。山号:松原山。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。
資料集
004_007_水無神社例祭_Part1
004_007_水無神社例祭_Part2
004_007_水無神社例祭_Part3
飛騨支路・位山道
飛騨支路の概要
国の制度の中に日本国の道路が位置づけられたのは、701年(大宝元年)制定の大宝律令ができたときである。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。
奈良から東北へと通ずる道路であり、基本的には政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は30里が約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅家には馬10疋(ひき)が置かれた。
東山道は滋賀県から東へと進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。
戦略的にあるいは経済的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通った。自己の食糧を持参したため奈良まで上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え、飛騨匠が都へと通った重要な道であった
「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」を見てみよう。
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅 ⇒ 一之宮 ⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂 ⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂 ⇒ 初矢峠 ⇒ 乗政 ⇒ 夏焼 ⇒ 金山の渡し(金山町)⇒ 袋坂峠 ⇒ 武儀駅・下呂市金山町菅田辺り ⇒ 加茂駅・関市富加町辺り ⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町 ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県) ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市 ⇒ 清水駅・東近江市 ⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市 ⇒ 守山 ⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府 ⇒ 勢多駅・大津市 ⇒ 山科駅・山科 ⇒ 宇治 ⇒ 奈良
*参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
駅路の研究抄史とその経路
飛騨国の駅路に関する研究は江戸時代から行なわれている。体系的に整理され、現地比定をしている『岐阜県史』(文献1)では、岐阜県内の「古代の交通概説」の頃において、奈良時代の史料をほとんど見ることができないとし、続いて『延喜式』(文献2)に掲げられる駅を次のとおり記している。
東山道は不破駅-大野駅-方県(かたがた)駅-各務(かがみ)駅-可児(かに)駅-土岐駅-大井駅-坂本駅をへて、信濃国の阿智駅に向かい、神坂(みさか)峠を越える。
東山道から分かれる飛騨支路は、東山道から分かれて飛騨国府へと進む支路で、方県駅から東山道と分かれて飛騨支路となる。方県駅-武義駅-加茂駅-下留駅-上留駅-石浦駅をへて飛騨国府に致着する。
また、『岐阜県史』(文献1)「古代の交通」の項では、次のように記す。
小路であるため飛騨支路の駅馬を各五区、各郡の伝馬は五区と推定、駅鈴は下国であるから二口であろうとしている。
駅馬の制は、飛駅使によって中央と地方の急速な通信を確保することにあり、1日に10駅164Km以上の速度が確保できたという。飛騨支路の場合は、そんなスピ-ドはとても無理である。
また、上記目的以外に皇室など特殊身分の旅行者への便宜提供、特別の物資輸送の目的も混在していたが、これは輸送量を増加させ、駅制疲幣の原因ともなった。養老6年(722)には、飛騨を含む全国19カ所の国司が、朝集使として上京するときに駅馬に乗ることが許され、神亀3年(726)には国司が任国へ赴任するとき伝馬を使用できるようになり、飛騨国は食事も利用できた。
『斐太後風土記』(文献5)、『飛州志』(文献6)、『飛騨国中案内』(文献7)で記載されている官道は、飛騨川沿いであり、飛騨支路の道は集落をつなぐ道として在所を紹介しながらの記述である。
『飛騨の街道』(文献8)では『岐阜県史』とほぼ同じ内容、『飛騨の交通運輸』(文献9)では刈安峠の宮村側を紹介し、金森以前の街道だとし、また高山市の上岡本から下岡本にかけて苔川沿いに石畳の道が断続的に残っていたという。
飛騨支路の駅名
『延喜式』に掲げる飛騨支路の駅路は、加茂駅(駅馬4疋)→武義駅(駅馬五疋)→下留駅(駅馬5疋)→上留駅(駅馬5疋)→石浦駅(駅馬5疋)で、美濃国内は加茂、武義駅、下留から北は飛騨国となる。
各駅の位置は
東山道から分かれて飛騨支路に入り、
第1番目の駅は加茂駅で、関市富加町周辺と考えられている(文献11)。
第2番目の駅は武儀駅で、下呂市金山町の菅田地区辺りと考えられているが判然としない(文献11)。
加茂駅から武儀駅推定地は津保川沿いの道と思われ、平坦で今も在所がつながり、歩きやすい道であったろう。今は美濃方面からの金山街道として飛騨の人たちも冬季に利用する。
第3番目の駅は下留(しものとまり)駅で、音読するとゲロになり、現在の益田郡下呂町に比定される。武儀駅から下留駅へは、飛騨川を金山の渡しで対岸に渡り、下原を通って産地に入る。飛騨川沿いの国道41号ではない。火打峠、夏焼、宮地、初矢峠を越えて下呂市小川地区の解脱観音の所に出てくる。
第4番目の駅は上留(かみのとまり)駅で、元々伴有(とまり)駅であったのを、下留駅が置かれてから上留駅となった。現在の益田郡萩原町上呂である。下留に近すぎると思われるが、山間地であることから、また集落の位置に合わせての都合もあったのであろう。
第5番目の駅は、石浦駅で、現在の高山市石浦町とされているが、国府(高山市)の位置に近すぎるとの考えもある。大野郡宮村が石浦駅とも考えられるが、現在、確証はない。宮村とすると、宮村山下付近から山を越えて越後谷へ出るル-トが直線的であるが、これも、わざわざ急坂な道を設定する意味があるのかと、否定的な意見は多い。
駅の変更 ―上留駅と下留駅―
宝亀7年(776)、美濃国菅田駅(加茂駅か)と飛騨国伴有駅(とまりえき・後に上留駅となった)の間は遠く、山も険しいので、中間に下留駅を置いたとされる(文献3)。また『斐太後風土記』(文献5)第1巻13頁でも「続日本紀」を引用して伴有駅を分けたとしている。さらには伴有一村里を後世に上呂、萩原、中呂、下呂の各郷に分けたとある。
上留駅は現在の下呂市上呂と推定され、ここからは飛騨川右岸の尾崎地区を通って山地に入り、山之口、位山峠へと進んでゆく。上留は平地から山地に入る重要な駅であった。
金山の渡子(わたしもり)
金山(かなやま)町には麻生谷、麻生郷(金山町東部)があってその辺りに徭役を免除された渡子(わたしもり)が2人配置されており、飛騨匠丁の上京にも労役を提供していた(文献3)。「延喜式」民部省に「飛騨国金山河渡子」、三段(反)の給田記録がある。
飛騨支路と東山道の合流 ―方県駅―
東山道から飛騨支路への分岐駅である方県駅は、現在の岐阜市長良、または合渡(ごうど)に比定される。どちらかと言えば、大野駅(揖斐郡大野町)と各務駅(各務原市鵜沼)の中間にあたり、各務駅との利便性から長良を有力視し、飛騨支路につながりのよい合渡は薄いといわれる(文献3)。
方県駅が長良とすると、長良支段見あるいは古津で東山道本路と別れ、東北に進み、合渡ならば各務原の北部から東北または北上することになる(文献4)。
志段見は雄総の東にあり、古代方県郡思淡郷の遺称地。東に隣接して古津(厚見郡)がある。
現存する飛騨支路の遺構
山国飛騨は森林率92.5%で、道路を設けることは飛騨の住民にとっては悲願である。江戸時代の領国藩主金森氏は、東山道飛騨支路のル-トとは別に、飛騨川沿いの街道を整備した。蛇行しても、平らな道が物資流通にも適していると考え、現代までの幹線として発達をとげてきた。その分、古代の道は忘れ去られてゆき、当時のル-トがわかりにくい。
その中で、大野郡宮村側の刈安峠には、石敷の道路が残存している。角のとれた山石を貼り、通行を容易にしている。他地区でも、たんねんにさがせば、多くある林道に混じって当時の古道が発見できるかもしれないが、平地になると拡幅や整備が進んでいて、ほとんどわからない。
文献1 「古代の交通」 『岐阜県史・通史編古代』 岐阜県 昭和46年
文献2 『延喜式』藤原時平、忠平が醍醐天皇の命により編集。延長5年(927)完成
文献3 『岐阜県の地名』㈱平凡社1989年
文献4 阿部栄之助編 『濃飛両国通史上・下巻』 岐阜県教育会 大正12年上巻、 大正13年下巻、<昭和51年1月覆刻 大衆書房>
文献5 富田禮彦編 『斐太後風土記』 明治6年(原典)〈昭和5年再刊 蘆田伊人編 『大日本地誌大系 斐太後風土記上・下巻』、昭和43年再刊 雄山閣〉
文献6 長谷川忠崇著 『飛州志』 一陽校訂浄書 文政12年 〈明治42年住広造活字原本発行、昭和44年復刻 岡村利平編・解説、岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会刊行〉
文献7 上村木曽右衛門 『飛騨国中案内』 延享3年 〈昭和45年増補完本 (株)創研社制作、刊行 岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会〉
文献8 『飛騨の街道』 飛騨運輸(株) 昭和47年
文献9 『飛騨の交通運輸』 飛騨運輸(株) 昭和42年
文献10 一志茂樹著 『古代東山道の研究』 信毎書籍出版センタ- 平成5年
文献11 木下良監修 武部健一著『完全踏査古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道』(株)吉川弘文館発行 平成17年 第4刷
位山官道の由来(山之口村誌による)
天正14年(1586)金森長近、飛騨国主となる。長近は軍事上、経済上の必要から、河内街道(高山・小坂間)の大改修を行ない、京街道の本通りを位山街道から河内街道に移した。しかし河内街道は洪水等で不通の時は、位山街道が利用された。
くらいやま 位山
下呂市萩原町・高山市一之宮町
位山は今の位山ではなく乗鞍(のりくら)岳の旧名との説もある(岡村御蔭:位山考)。位山は古くから霊山として尊崇されており、山腹には古代巨石文化遺跡と推定される祭壇石その他の巨石群があり、飛騨一宮水無(みなし)神社の御神体山とも伝えられている。両面宿儺(すくな)を山の主とする伝説がある。一位笏木献上史料初見は平治元年で以後水無神社よりの献上が今日まで続き、近世初頭まで飛騨と京を結ぶ唯一の官道位山道が麓を通っていたことなどにより、位山が広く知られるようになった。高山盆地からは隣の舟山とともに、そのゆったりとした山容が眺められる。夏に雨が多く植物が豊富で、北面にイチイの原生林が残る。なおイチイは岐阜県の県木(宮村史)。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
萩原町山之口から位山峠を超えて宮村へ出る位山街道のことを、往古都に工匠として召され奉仕した飛騨の匠たちの通った道として、その哀歓に思いを込めて「位山古道」と呼んでいます。位山道は、東山道飛騨支路として敷設され、現代に至る道です。
東山道飛騨支路は美濃の方県駅で「東山道」から分かれて飛騨支路になります。今も所々に残っている石畳の街道は、都から飛騨へと文化をつたえ飛騨の文化をはぐくみ育てた道です。石畳は、平安時代頃のものと推定しています。
日本の古代の道路が国の制度の中にはっきり位置づけられたのは、大宝元年(701)に制定された「大宝律令」という法律ができたときです。当時の東山道飛騨支路である位山古道の道筋は、現在の国道41号線ではなく、宮地域から刈安峠、位山峠を越え上呂へ抜ける道であったと考えられます。