荒城神社
明徳元年(1390)に創建され、元中7年(1390)に再建されている。三間社流造り、柿葺で、素木造り。本殿と棟札7枚が国の文化財に指定されている。
宮地鎮座の荒城神社は、延喜式神名帳にある飛騨国八社の一つである。祭神は天之水分(あめのみくまり)神(のかみ)・国之水分(くにのみくまり)神(のかみ)であるが、大荒木命を祀ったとの説もある。俗に荒城宮または河泊(かはく)大明神と呼ばれている。つまり川の神、水の神として地域の信仰をあつめてきた。
本殿は、明徳元年(1390)再建されたと伝えられている。その後、数度の修理をしたが、昭和7年の大修理を経て面目を一新した。三間社流造、杮葺(こけらぶき)、棟は箱棟とし妻飾豕叉首式(つまかざりいのこさすしき)、軒は二軒(ふたのき)繁(しげ)垂木(たるき)で母屋は円柱の上に雄健な舟(ふな)肘(ひじ)木(き)をおく。向拝の柱は方柱で9分の1の大面取り、この上に唐様(からよう)三斗(みつと)をおく。両端の木鼻の上には天竺様の皿斗(さらと)をつけた斗(ます)もみえる。
また向拝正面中央を飾る蟇(かえる)股(また)は、肩の巻込みの眼が痕跡だけとなり、しかも両肩に大きな耳をつけたものは室町期のものであるが、内側の繰抜きは宝珠を中心に若葉を相称形にした古い形式のものである。棟札には、 延宝6年午ノ3月吉日、再建立寛政4壬子載小春如意珠日など7枚がある。
参考文献『高山市史・建造物編』
資料集
019_023_荒城神社
小萱の薬師堂
中世北飛騨の領主江馬氏の菩提寺だった瑞岸寺の飛び地仏堂。古くから養蚕の守り本尊として広く信仰され、寝雑薬師と呼ばれる奇祭が毎年行なわれ、多くの信者が参拝に訪れていた。正式名称は「瑞岸寺安楽院薬師堂」といい、桁行3間(6.686m)、梁間3間(6.666m)、一重、入母屋造、こけら葺、国指定文化財。簡素ななかにも屋根の美しい曲線や、平面と立面の均整がとれていて、各柱は円柱からなり、柱頭には舟肘木をのせ軒は1軒、疎垂木で、垂木は強く反り上がっている。内部の改造がたびたび行なわれているが、外観は中世の様式を残している。
この薬師堂はかつて隣の野首村にあり、現在地に移築された。堂内に安置してある薬師三尊十二神将御正体に永仁7年(1299)の刻銘があるところから、薬師堂の創建は鎌倉時代に遡るとする説もあった。しかし、昭和49~50年にかけて実施された解体修理復元工事によって、鎌倉時代建立の前身堂の部材を一部利用して南北朝末期、もしくは室町時代初期に再建されたことが判明した。
薬師堂は養蚕の守り本尊として、また5月8日が縁日の「寝雑ぜ薬師、小萱薬師」の名で近隣に知られ、現在、臨済宗妙心寺派「瑞岸寺」に属する仏堂として管理されている。瑞岸寺は天文元年(1532)、江馬氏によって飛騨市神岡町殿の地へ移ったが、以前は上村台地(下小萱、野首、丸山、上小萱)の小丸山にあったとう。
参考資料 『神岡の文化財』3頁 神岡町教育委員会発行 昭和56年11月3日
動画資料
資料集
020_024_小萱の薬師堂(国重文)
阿多由太神社
昭和36年、国の重要文化財に指定されている。三間社流見世棚造柿板葺、桁行は2.76m、梁間は1.25m、向拝は0.96m、基壇は玉石で積まれている。素朴・優雅で技法が極めて優れ、優雅な感じのする建物である。延喜式や三代実録に記載された古い社で、木曽垣内・三日町・半田の一部の産土神として、江戸時代にはこの地方の総社として広く崇敬されてきた。主祭神 は大歳(おおどし)御祖(みおやの)神(かみ)、大物(おおもの)主(ぬしの)神(かみ)。
荒城川にかかる赤い欄干の橋の向うに社域の杜が見える。橋を渡って木造の鳥居をくぐり、階段の上が阿多由太神社の境内である。阿多由太神社の境内地は山裾の南面を切開いて南面した平坦地で、樹齢数百年の大樹が繁り、往昔より阿多由太の森と称されてきた。
本殿建物は様式、技法等から見て室町初期に建立されたものと考えられている。その後の修理年代についても記録がないため判然としないが、本殿は元禄以前より覆家がかけられていたが、江戸末頃に修理が行なわれ、昭和初年にも修理が加えられている。虫害及び腐朽は甚だしく、昭和41年10月からは9カ月の工期で全解体修理工事が進められた。
本殿の祭神は中央に大年御祖神、右脇間に熊野社家津御子神、左脇間に諏訪社建御名子神のほか、七軀の神像と二軀の随神像が祀られている。
(註1)『重要文化財阿多由太神社本殿修理工事報告書』重要文化財阿多由太神社本殿修理委員会 昭和42年発行
資料集
021_025_阿多由太神社
飛騨国分尼寺 高山市岡本町1丁目128番地辻ケ森三社境内地
奈良時代から10世紀後半頃まで飛騨国分尼寺が建てられていた場所である。昭和63年、辻ヶ森三社の社殿改築を機に発掘調査が実施され、飛騨国分尼寺金堂跡が発見された。規模は、基壇の大きさが正面幅110尺(32.78m)奥行66尺(19.67m)で、基壇上には桁行7間、梁間4間の礎石建物が建てられていた。飛騨国分寺の金堂寸法も、桁行7間、梁間4間と同じで、桁行の寸法も88尺と同じ大きさであることが分かり、両寺の強い関係が知られた。
敷地の形では南側正面1間分に壁が無く、床は石が敷かれ、この形態は、奈良の唐招提寺金堂の吹き放し廊下と同じ様式であった。また基壇の版築(ばんちく)は高さ120cmで、非常に硬く叩きしめられ、版築の上に穴を掘って設けられた礎石は安定して水平を保ち、礎石間の高低が発掘時でも2~3cmの誤差であった。凍結厳しい高山でも版築構造による基壇が堅牢であるかが知られた。遺物は、奈良時代から平安時代にかけての須恵器・灰釉陶器と瓦が出土し、灰釉陶器が基壇上の堆積土から出土、その年代から10世紀後半頃まで尼寺が存続していたと考えられている。
国分尼寺は全国的に見て、その位置や構造など詳しいことが分かっておらず、飛騨国分尼寺のように建物構造まで明らかになったのは珍しい。飛騨国における国分寺、国分尼寺の特定により、奈良時代において聖武天皇、持統天皇の悲願であった、諸国に国分寺、尼寺の位置が判明している。
参考文献
『高山市史・考古編』
資料集
022_026_国分尼寺
飛騨国分寺
現在の国分寺境内地は奈良時代の国分寺があった場所で、現境内地は東西70、南北92㍍、民地が入り組んでいて創建当時の寺域より、かなり狭まっていて、室町時代の国分寺本堂が建っている。
昭和27~29年、国分寺本堂を解体修理する際に本堂下が発掘調査され、9個の礎石と根石を確認した。この遺構は4×7間規模の建物跡と推定され、金堂跡と推定されている。
昭和61年、境内北側に貯水槽を造る際、高山市教育委員会により発掘調査がなされ、現況表面から130~150㌢下に瓦片が出土した。この面が奈良時代の生活面であり、広範囲の河川氾濫により、奈良時代の遺構が埋まってしまったものと考えられている。
本堂東側に玉垣で囲われた塔心礎石(国指定史跡)が据えてあり、礎石本体は創建当時のものと推定される。ほぼ方形で、上面に円柱を据える座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2㍍四方、地上高さ約1㍍。しかし過去に東方向から西に移動されて、原位置を保っていない。
奈良時代国分寺の屋根瓦は、高山盆地の西方山麓にある「赤保木瓦窯」で焼かれており、軒丸瓦は5個の蓮子をもつ中房の周囲に細形単弁八葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対称の唐草文を配する。
西方の国分尼寺(辻ケ森三社)と東西一直線に並び、この時代の条里型地割の痕跡も報告されていて、高山盆地における奈良時代の景観が知られる。
参考文献「角田文衛編集『新修国分寺の研究 第7巻 補遺』株吉川弘文館 平成9年発行
「第2飛騨」第2項飛騨の項・267~300頁田中彰
奈良時代の古代寺院 「飛驒国分寺跡」
JR高山駅の東方250mに所在し、創建時から現在まで法灯を保っている。室町時代創建の現存する本堂は5間×4間で、昭和42年に国の重要文化財に指定された。また境内地内の塔心礎は国の史跡に、大イチョウは国の天然記念物に指定され、本堂に安置されている。平安時代作の木造薬師如来像・観世音菩薩像も国の重要文化財に指定されている。
本堂の解体修理や防災施設等の工事に伴い、昭和27年以降、4次にわたり発掘調査が行なわれた。
飛驒国分寺跡では、遺構として金堂及び塔を確認している。本堂の建て替えに伴って、現在の本堂下に原位置を保つ5石の礎石と11カ所の根石などを確認し、4間×7間の礎石建物の存在が判明した。都で技術を習得した飛騨匠の秀れた建物であったろう。柱間寸法は桁行中央3間が14尺、両脇が12尺、庇は11尺であり、梁行は身舎2間が12尺、庇は11尺とである。昭和27~29年の調査当時は建物跡の性格は不明とされていたが、昭和63年に調査された国分尼寺跡金堂と建物規模・柱間寸法が類似するため、金堂跡と推定されるに至った。
また、平成9年に本堂東側で版築の痕跡を確認し、金堂基壇に伴う版築と考えられた。周辺一帯では、現地表下1.2mほどで瓦が出土する層を確認している。その下面が奈良時代の生活面と考えられており、金堂礎石との比高差約1mが基壇の高さであろう。本堂より東20mには塔心礎が残っている。過去に移動しており、原位置を保っていない。心礎の形状は方形で、上面に円柱座を造り出し、中心に仏舎利孔と考えられる円形の穴が開く。
遺物は瓦・須恵器等を確認している。軒瓦は、軒丸瓦2種・軒平瓦4種が確認され、全て国史跡の赤保木瓦窯跡(高山市赤保木町)で焼成したことが分かっている。
参考文献 田中彰編集『高山市史・考古編』高山市教育委員会発行 平成28年3月
資料集
023_027_国分寺
飛騨一宮水無神社
飛騨一円を崇敬者とし、除夜祭・歳旦祭は飛騨一円を始め県内外からの参拝者が多い。例祭は5月2日、ひなまつりは4月3日で日本唯一の「生きびな祭」として有名である。 創立年代は不詳、祭神は水無(みなしの)大神など、位山を「神体山」としている。
第38代天智天皇の8年(669)、位山の櫟(あららぎ)材で作られた笏を朝廷に献上してから、櫟(あららぎ)に一位の樹名を賜わり、山は位山と称するようになった。第45代聖武天皇の天平12年(740)、天皇の仮宮殿において、近江国の新羅楽・飛騨楽が奏された。いま一之宮に「神代踊」として伝存する。第46代孝謙天皇の天平勝宝年中(750~)、飛騨国造高市(たけち)麿(まろ)が上奏して、当神社は国の「一宮(いちのみや)」と定められた。第60代醍醐天皇の延長5年(927)には延喜式が出来、神祇官神名帳に飛騨国8座の首班に列し、国の総社をも兼ね、国司は毎月巡拝して幣帛(へいはく)を奉(たてまつ)ることとなる。第76代近衛天皇の仁平元年(1151)、大江朝臣橘助高卿が一宮の神主に補任(ぶにん)され、神主家としてしばらく続いた。第96代後醍醐天皇の建武2年(1335)、国司姉小路家綱卿より、位山一位の御笏を献上し、天皇より御冠・袍・笏等の下賜があり、一宮に納める。天正13年金森長近が飛騨に攻め入り、三木・一宮・山下の神主家の主流が討たれたが、子孫が継続して神主家をつないでいる。
参考文献 『飛騨の神社』
(一之宮町一の宮)
古くから飛騨の人たちに崇敬されてきた神社で、飛騨一之宮として知られる。今でも初詣ではまず水無神社にお参りし、その後に地元の産土神(うぶすながみ)にお参りする風習が続いている。
毎年四月三日に「飛騨生きびな祭り」「養蚕祭」、五月一、二日には例祭が挙行され、例祭時には「水無神社の神事芸能(県指定重要無形民俗文化財)」が奉納され、最近ではどぶろくがふるまわれるようになった。
神社の脇から上がる宮峠(一之宮町、久々野町山梨)は一之宮町と久々野山梨の間にあり、太平洋と日本海の分水嶺である。標高七八二メートル、名前の由来は一之宮町に水無神社があることによる。金森氏によって開かれた峠である。
*説明版より
絵馬殿(拝殿)の由来
〈所在地〉一之宮町字石原5323番地
〈時 代〉明治13年5月再建
〈員 数〉1棟 絵馬殿入母屋流造、高床、四方吹抜
絵馬殿はもと拝殿と称して建治年中に再建され、慶長12年(1607)飛騨国主金森長近がこれを改築した。更に明治3年の社殿改築に当たり、高山県知事宮原積の命令と称して氏子の反対が強かったにもかかわらず、2〜3人の者しきりに不必要 を主張して遂に一旦これを取りこわした。
それを明治11年12月に至って、位山村宮組の氏子253戸総代大江久兵衛外数名が連署の上 氏子負担を以て再興を願い出、建築の許可が出て建築に着手し、明治12年11月に地鎮祭を行ない、翌13年5月落成した。
明治初年、官祭と民祭が分離され、拝殿であっ たこの建物が絵馬殿として転用されてきたが、入母屋造り、高床、四方吹抜けの様式から、拝殿として建てられたものである。やや小型であるが益田郡の久津八幡社拝殿(国指定重文)が様式手法共、同形で比較される。
飛騨では稀な大規模な入母屋流造りの社殿で、いくつかの騒動を経、王政復古で官祭から 民祭へと流れが変化することを識る歴史上民俗学上貴重な建物である。
一、慶長12年(1607)飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営。 (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永7年(1778)百姓一揆が安永2年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた。
一、明治3年(1870)高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた。その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した。
一、明治12年(1879)氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和29年(1954)10年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
*説明版より
神馬二体
市指定‐美術工芸品(彫刻)
白馬は安永9年(1780)再製され寄進されたと代情山彦集、宮村史にある。作者は武田の万匠とされている。元は黒馬であり数回塗り替えられているようで、この馬が稲喰い馬でないかと記されている。
黒い馬は眼がくり抜かれたようになっているが鞍掛馬と記されている。昔から語り継がれて現存する。水無神社の例祭(毎年5月2日)にはお旅所から帰る神輿を迎えに引き出される。
*説明版より
伝説の木 ねじの木
樹種 ヒノキ 胸高直径 1.5m
水無神社境内の絵馬殿の傍らにあったもので、自然の作用で、ねじまがった珍しいヒノキ。このねじの木に似せた、「こくせん」という飛騨の伝統的な駄菓子がつくられ、お正月参拝者のお土産になっている。
第1話 その昔、ヒノキの大樹が日陰になるので里人達が伐って普請に使おうと相談した。一夜のうちに幹はもとより、梢までねじ曲がってしまった。里人は、神のたたりを恐れあやまったといわれている。
第2話 今からおよそ200年前宮川が氾濫し、高山の中橋が流された。時の代官大原彦四郎は、神社の大ヒノキに着目し橋材として差し出すよう命じた。困った神社側は、一計を案じ、このねじの木を示し、神意で一夜のうちにねじれてしまったと、説明したところ、ほかの杜の木も切ることが取りやめになったと伝えられている。
*説明版より
白川神社
霊峰白山(2,702m)の飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は、合掌造りの里として世界遺産に登録されている。白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和32年(1957)御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。平成15年12月吉日、玉垣を改修。
*説明版より
島崎正樹 碑
きのふけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里 正樹
水無神社元宮司島崎正樹翁は文豪島崎藤村の父で、小説夜明け前の主人公青山半蔵その人なり。明治7年11月より同10年12月、木曽馬籠宿より単身赴任さる。
翁は幕末はやく平田国学の人として維新の運動に身を挺し、のち皇政復古の志もむなしくこの里で多くの歌をものした。ここに自筆の一首を刻し没後100年の追慕となすなり。 昭和57年11月2日
*説明版より
稲喰神馬(黒駒)
作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。
祈晴の神馬(白駒)
元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」 左甚五郎作
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。
#左甚五郎
資料集
024_028_水無神社
飛騨支路
日本国の道路が、国の制度の中に位置づけられたのは、大宝元年(701)制定の大宝律令できたとき。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。奈良から東北へと通ずる道路で政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅には馬10疋(ひき)が置かれた。
この東山道は東へ進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。戦略的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通り、自己の食糧を持参したため上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え育んだ道でもあった。 「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅⇒ 一之宮⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂⇒ 初矢峠⇒ 乗政⇒ 夏焼⇒ 菅田駅・金山町菅田⇒ 袋坂峠⇒ 武儀駅・賀茂郡七宗町加淵⇒加茂駅・賀茂郡富加町か⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井⇒ 不破関⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市⇒ 清水駅・東近江市⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市⇒ 守山⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府⇒ 勢多駅・大津市⇒ 山科駅・山科⇒ 宇治⇒ 奈良
参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
西大寺
西大寺は、奈良時代天平神護元年(765)に創建された。官大寺を総称する「南都七大寺」の1つに数えられ、2015年に創建1250年を迎えた。奈良時代、聖武天皇・光明皇后の後を継いだ娘帝の称徳天皇が「常騰を開基として鎮護国家」の思いを込めて開創し、東大寺などと並び称される寺格を誇っている。当時は広大な寺域に多数の堂塔が建ち並び、東大寺と共に栄えていたが、承和13年(846)以後数多の火災にあい、創建当時の建物はほとんど焼失した。
天平神護元年、飛騨国大野郡大領の飛騨国造高市(たけち)麻呂(まろ)が造西大寺大判官に任命されている。高市麻呂は天平勝宝元年(749)、飛騨国分寺に知識物を献じたことで外正七位下から外従五位下に叙せられた人物で、西大寺に大野郡の墾田を寄進している。西大寺の造営には高市麻呂のもと、高市麻呂の故郷の飛騨匠が動員されたことであろう。
中世・鎌倉時代には、稀代の高僧・叡尊(えいそん)が出て、密教において戒律を重視した教え(後の‶真言律〟)を広め、「興法(こうぼう)利生(りしょう)」をスローガンに独自の宗教活動を推進している鎌倉時代に叡尊により復興されたが、戦国時代には再び火災で焼失した。現在残っている本堂(重文)、愛染堂(重文)、四王堂(重文)などは江戸時代中期に建てられたもの。叡尊が始めた「大茶盛」の寺としても有名である。現在の寺域は約1万坪と広い。
奈良時代に本願称徳天皇(女帝、退位後再び即位して孝謙天皇)の「鎮護国家」の願いによって創建された。鎌倉時代に叡尊(諡号は興正菩薩)上人の「興法利生」の場として復興された。
鎌倉時代の律宗の僧。律宗中興の祖。字は思円。西大寺で受戒し,戒律によって非人,乞食の救済を志し6万人余に授戒したという。著書に『梵網古迹文集』 (10巻) ,『感身学正記』 (3巻) などがある。弘安4 (1281) 年の蒙古来襲時に神風を祈願したことでも知られている。
資料集
025_030_西大寺(奈良時代)