木谷白山神社 どぶろく祭り
白川郷では毎年、9月の終わりから10月にかけて、五穀豊穰・家内安全・里の平和を山の神様に祈願する「どぶろく祭」が盛大に行われます。
白川村の各地区の神社で、御神幸、獅子舞、歴史と民話にまつわる民謡や舞踊などの神事が繰り広げられる、歴史と伝統ある白川郷ならではの祭り。その名のとおり、祭礼に神酒として「どぶろく」が用いられ、人々にも振る舞われるのが最大の特徴です。
どぶろくの振舞
「どぶろく」は、古くから受け継がれてきた独特の技法をもって、雪に埋もれた1月下旬に神社酒蔵で造りこまれます。午後3時頃、神社に奉納する「どぶろくの儀」を終え、大きな酒樽から「きったて」と呼ばれるお酌用の容器に「どぶろく」が移されると、割烹着のおかみさんたちがいっせいに来客一人ひとりに「どぶろく」を盃についで回り、会場は芳醇な香りに包まれます。「どぶろく」は、和銅年間(約1300年前)頃から、すでに祭礼用として用いられていたと伝えられています。
白川村の民謡
奉芸殿では、子供大事(子大事)が転訛したものと言われている「こだいじん」をはじめ、「白川おけさ」「しょっしょ節」「白川わじま」など長い歴史とともに育まれてきた民謡が披露され、「どぶろく祭」は最高潮に達します。唄は各集落共通ですが、踊りがそれぞれ異なるのも見どころです。
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。
資料集
004_007_水無神社例祭_Part1
004_007_水無神社例祭_Part2
004_007_水無神社例祭_Part3
秋の高山祭 八幡祭
桜山八幡宮(高山市桜町)を中心に祭礼が毎年10月9、10日に執行される。
「八幡祭」はおよそ400年前から始まった。江戸時代、例祭には金森国主より奉(ぶ)行(ぎょう)正副2名が特派され、奉行祭の祭式は、飛騨が幕府の直轄となってからも続けられている。
一番古い古文書は、享保3年(1718)に高山陣屋の地役人上村木曽右衛門が書いた「高山八幡祭礼行列書」を、天明6年(1786)に写した柚原三省の日記である。御榊・出し・神楽のほか屋台4台、笠鉾2台等々、御輿を別にして48番の出しものが行列を飾り、総勢数百人におよぶ大行列であったという。
「四元略筆記(飛騨遺乗合符 第9巻)」では、正徳六年、祭の行列が御坊坂(別院と真蓮寺の間の坂)を上り、馬場町へと進み城坂を下って中橋を渡り、御役所(高山陣屋)前に至り、ここで代官にお目にかけ氏子区域へ帰ったとある。
祭を統率する最高指揮官は「年行司」で、その年の祭事一切を司る最高の権限を持っている。廻番で役が回る。春祭は「宮本」が最高指揮官である。
秋祭りの特色は、絢爛豪華な屋台である。高山祭の屋台はおよそ300年前に出来、神輿の行列に参加するようになった。11台が現存する。各組の屋台は競って他の屋台と構造装飾が異なるように工夫して造り上げている。どの部分を見ても、決して同じものがない。しかも屋台の持つ型をはみ出さず、曳そろえられて全体的に美しいという配慮があって特筆すべきものといえよう。布袋台のからくり奉納は桜山八幡宮の境内で行なわれ、糸が無いのに唐子が綾を渡ってゆくという精巧無比のからくりに観客は驚嘆する。
参考文献
日下部省三編纂『八幡祭と屋台』桜山八幡宮発行 昭和63年
資料集
013_016_秋の高山祭_Part1
013_016_秋の高山祭_Part2
013_016_秋の高山祭_Part3
春の高山祭 山王祭
日枝神社(高山市城山)を中心に祭礼が毎年4月14、15日に執行される。
春と秋の高山祭は、今から約400年前に始まった。江戸時代初めの飛騨国主「金森氏」は、城下町高山を整備する際、城の守護神として日吉(ひえい)神社(現在の日枝神社)を設け、氏子の区域は商人町の南側としている。また、城下町の北方には産土(うぶすな)神(がみ)として八幡宮を設け、商人町の北側区域を氏子とした。以来商人町の祭礼として発達し、日枝神社は春祭り、八幡宮は秋祭りの祭礼として、現在も厳かに続いている。
高山祭りの屋台は、祭礼を盛り上げる「出しもの」として、今から300年ぐらい前から曳かれるようになった。江戸時代の「組」という単位の区域で屋台が作られ、各組が美しさを競い合い、絢爛豪華な屋台が作られるようになった。
神様が氏子の家々をまわる「御巡幸(ごじゅんこう)」、豪華な「屋台」の曳(ひ)きそろえ、多くの人に感動を与える。
奈良・平安時代に、秀れた木工技術を持っていた飛騨の匠は、都の宮殿などを作りに出向いたが、その技術は屋台の建造技術にも生かされ、絢爛豪華な屋台を作りあげた。屋台には、谷口与(よ)鹿(ろく)を始めとする飛騨の匠の技巧を凝らした木彫彫刻がある。どれも目を見張る作品ばかりで、鳳凰や鯉、唐子など、今にも動き出しそうな躍動感ある彫りがみられる。
また、春祭には、能を外題(げだい)とした三つの「カラクリ」が奉納される。カラクリ人形の後方で綱方(つなかた)が数10本の糸を操り、樋(とい)の先の人形を動かしてゆくカラクリの妙(みょう)を見ることができる。屋台は春祭りが12基、秋祭りが11基あり、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
資料集
001_001_春の高山祭_Part1
001_001_春の高山祭_Part2
001_001_春の高山祭_Part3
013_016_春の高山祭_Part1
013_016_春の高山祭_Part2
013_016_春の高山祭_Part3
【セミナー】ひだの匠はいいもんだ(平成30年3月18日)
- 飛騨匠の通った道
講師:田中彰・三島信 - 飛騨の古墳の被葬者は
講師:牛丸岳彦 - 飛騨の匠のあしあと~今に残る飛騨の匠の足跡と伝説を求めて~
講師:家始義光 - 飛騨の匠が残した遺構を歩く~スマホで遺構を歩く~
講師:金井桂男 - 高山祭の彫刻の楽しみ方~予鹿彫刻を触発・開花させた諏訪の和四郎~
講師:野尻修二
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講師:本母雅博
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