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久津八幡宮(くづはちまん)
1 概要
祭 神 應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
由 緒 仁徳天皇65年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし平治の乱(259)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永19年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建し天正9年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により次々に修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。
例大祭 4月第3土曜日試楽祭 4月第3日曜日本祭・神幸祭
重要 本殿(国指定)三間社流造、屋根こけら葺 室町時代初期の建造物
文化財 南妻蟇股の彫刻「鳴いた鴬」は飛騨の匠の作として有名
拝殿(国指定)入母屋造、屋根こけら葺 桃山時代の建造物
南面軒口の「水呼ぶ鯉」の作り物は飛騨の匠(左甚五郎)の作として有名
天然
記念物 夫婦杉(国指定)雄杉(上)雌杉(下)ともに周囲12.5米 樹齢1,500年
宝 物 木造高麗犬壱対(鎌倉時代作)木造神像壱体(平安時代作)書写大般若波羅密陀経100巻余(鎌倉時代)その他獅子頭、鬼神面太刀、槍、鰐口、神輿、扁額など30数点、久津八幡宮祭礼記録類18点(岐阜県重要民俗文化財指定)外 古文書古記録1,000余点
八幡様(應神天皇)は広く民衆を守る神様。また、應神天皇神功皇后は大陸の文化を積極的にとり入れ、古代日本における文化の向上、国家の発展につくした文化の神様である。
*説明版より
2 配祀御祭神
御 名 御 神 徳
倉(うか)稲(のみ)魂(たまの)神(かみ) 穀物の神・稲荷神
火(ほ)産(むす)霊(びの)神(かみ) 火の神
大(おほ)山(やま)袛(つみの)神(かみ) 山の神
須(す)佐(さ)之(の)男(をの)神(かみ) 医薬の神
事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ) 福神・夷子神
磐(いは)長(なか)姫(ひめの)神(かみ) 延命長寿の神
久(く)々(ぐ)能(の)知(ちの)神(かみ) 木の神
菅(すが)原(はら)道(みち)真(ざね)公(こう) 学問の神
*説明版より
3 拝殿 国指定重要文化財 国指定重要文化財
拝殿は桃山時代、三木自綱の再建によるもので、単層入母屋造りの柿葺で4本の囲い柱による内陣は全国でも類例がなく国指定重要文化財になっている。
天正9年(1581)益田の国領主三木大和守自綱は普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥治右衛門、内気喜助を任命し、桜洞の名匠桂川孫兵衛を棟梁として拝殿を建立した。鯉は、嘉永7年(1854年)大修理の際、取り付けられた水を呼ぶ鯉で、今なお当時の姿のまま保存。
*説明版より
4 水を呼ぶ鯉(萩原のむかし話より)
ずっと昔、毎年雨の降るたび、益田川の水が荒れ狂う水に削られて川がどんどん久津八幡様の方へ押し寄せて来たそうな、村人達は心配のあまり川を眺めて「なんとかせにゃどもならん、こりゃどえらいことになる」、長老の弥作じいがおみたちの心配する気持ちはようわかるどしてみとがこっちへくるかって事よ、ありゃ拝殿のひさしに彫り込んだ鯉よ、あいつが水をよぶんやぞ、とにかくあの鯉を作らはった和田様に聞いてみるが一番ええ
次の朝、じいは高山の和田様を訪ねた 事の次第をうなずきながら聞いておられた和田様は、しばらくお待ちくだされ、白装束を身につけて 仕事部屋に行き、なにやらトントン木を刻む音が聞こえてきた すると和田様は彫り刻んだ矢を手に現れ、この矢を鯉に向けて取り付けてくだされ、それからというものは まったく大水の心配は無くなり、村は安らかになったという。
*説明版より
5 久津八幡宮本殿
室町時代の応永19年(1412)、白井太郎俊国が祈請し、家臣山下作右衛門友貞を普請奉行とし飛騨の匠の流れをくむ美濃の国の名匠武澤茂右衛門利久を召し、棟梁として本殿の再建に着手完成に至る。
本殿は、丸柱総素木造りで、正面向拝に流れる屋根の曲線が優美。南妻にある「鳴き鶯」は拝殿の軒口の「水を呼ぶ鯉」とともに飛騨の匠の神技を伝えている。宝物として鎌倉時代の狛犬1対、正和2年清峯寺道仙の筆書による大般若経が100巻余り保存されている。境内の夫婦杉は国指定天然記念物。
*説明版より
6 鳴いた鶯(萩原の昔話より)
ずっと昔の事やった、旅の男が夏の太陽が照りつける中を、歩いておったと 久津の八幡様の森のなかに涼しく流れる清水を見つけ、口をうるおし、大杉の木陰で汗をぬぐいひとやすみしとった。境内はとても静かな所で木々を吹き抜ける風に、小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる、その中にひときわ美しいウグイスの鳴き声も聞こえたそうな、男は疲れのせいか 眠気がさしてきたんやと、そんでもいざ寝るとなると鳥のさえずりがやかましい。男は小石を拾って森の方へ石を投げつけたと、小鳥の声はぴたりと静まったが、ホーホケキョホーホケキョと鳴くウグイスの声だけはいっこうに鳴きやまん 男は、その声のする方へ近づいていったと、けどな不思議な事もあるもんよ、声は本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくらさがしてもウグイスは見あたらん、ただ目に付いたのは、軒下に木彫りのウグイスがあってな、いまにも鳴き出すように活き活きと彫ってあったとよ、まさかこの彫り物が。気のおさまらんままに足下の小石を拾って彫り物の鳥めがけて力いっぱい投げつけたとよ するとなウグイスの鳴き声は、ぱったりとやんでしまったと、ただ木の葉を渡る風音だけが 聞こえておったと、男はあわてふためいて境内を飛び出し村人達にこのできごとを話したと。このときからや、軒下の2羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ばれ出したのは。
*説明版より
7 久津八幡宮緑地環境保全地域
面積(ha)3.42 S52.9.30 指定
スギ、ヒノキ、サワラ、シラカシ等の良好な緑地
久津八幡宮は、産土神として地元の人々の信仰の対象となっている。社叢は、国の天然記念物である夫婦スギをはじめ、スギ、ヒノキなどの針葉樹やサクラ、シラカシなどの広葉樹の大径木からなり、神社の深遠さを保ち霊気をかもしだしている。岐阜県では、この地域を訪れる人々にやすらぎと潤いを与えるため、この社叢を緑地環境保全地域に指定して保全につとめている。
*「岐阜県自然環境保全条例」に基づき、自然環境保全地域のほか、市街地及び集落地並びにこれらの周辺地を対象に、緑地環境保全地域を16地域(654ha)指定している。緑地環境保全地域は、市街地等にある樹林地、水辺地、その他、これに類する自然環境を有する土地であって、自然環境を保全することにより、地域の良好な生活環境の維持に資することを目的としている。緑地環境保全地域は社寺林が多くなっている。
岐阜県庁6階 環境生活部 環境企画課が担当課
*説明版より
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。その後室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。
文化財 国指定重要文化財 本殿1棟 拝殿1棟
天然記念物 夫婦杉
#左甚五郎
資料集
040_045_飛騨八幡八社・久津八幡宮
若宮八幡神社
鎮座地 高山市石浦町字向町3204番地
銀幣社 (旧社格 村社)
1.祭神
おうじん にんとく
主神 応神天皇 仁徳天皇
合祀 諏訪神社・天満神社2.由緒
創建の年代は詳らかでないが、相伝に「仁徳天皇六十五年(西暦377)勅命を奉じて難波根子武振熊命が、両面宿儺討伐の時この地石浦(延喜式兵部省云、飛騨国駅馬云々、石浦五匹と見ゆ、上古よりの駅舎也)に屯軍して、先帝と今上の尊霊を奉祀して戦捷を祈念ありし斎場の遺跡ならん。」(『斐太後風土記』)とあり、また、『飛州志』には「一宮の棟札云長木は石浦若宮之杉本也々。享禄二年若宮上葺」とある。
若宮は「新宮」・「別宮」とも言う例があり、一の宮水無神社の若宮であるといわれる。
神社は深い緑に包まれ、古来より石浦地区の産土として崇められてきた。
戸田釆女正による元禄検地で、境内除地一町歩を賜わった。
明治四年九月村社に列し、同四十一年三月、神饌幣帛料供進の指定を受けた。
昭和二十一年官制廃止後は神社本庁に所属し、岐阜県神社庁より銀幣社の指定を受けた。
3.祭祀
例祭 9月22~23日
祈年祭 3月中
新嘗祭 11月下旬
なお二十二日の試乗祭には、本宮より神璽を奉遷し、例祭当日は、氏子内を神輿渡御がおこなわれ、神賑として獅子舞・鶏闘楽・槍踊りがある。祭典終了後は直ちに本宮に遷記する古例となっている。
4.建造物
前宮本殿 (流造 4坪)
渡殿 (平棟造 6坪)
拝殿 (神明造 16坪)
絵馬殿 (平棟造 12坪)
社務所 (平棟造 30坪)
神與庫 (土蔵造4坪)
奥宮本殿 (神明造 1坪)
鳥居 (石造)
若(わか)宮(みや)八(はち)幡(まん)神(じん)社(じゃ)は、仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の御(み)代(よ)、両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)征(せい)討(とう)の命(めい)を奉(ほう)じた武(たけ)振(ふり)熊(くまの)命(みこと)がこの地に今上の尊(そん)霊(れい)を奉(ほう)祠(し)して戦(せん)捷(しょう)を祈(き)願(がん)した斎(さい)場(じょう)であったと言われている。その時(とき)、命(みこと)は石(いし)を蹴(け)って捷を占(うら)なったので「石(いし)占(うら)」と呼(よ)ぶようになったと郷(きょう)土(ど)誌に記(しる)してある。また斎場に美(み)事(ごと)な岩(いわ)があって、いつも清(し)水(みず)を湛(たた)え、この水で口(くち)を潤(うるお)し、身(み)を清(きよ)めることによって士(し)気(き)が漲(みなぎ)ったとも言われている。
*説明版より
お手水鉢の由来
昭和9年の頃、国鉄高山線敷設の時、二之瀬(本社の南方)の河原の岩は殆(ほとん)ど石(いし)工(く)によって打(う)ち割(わ)られたが、なかば砂(すな)に埋(うず)もれた一(ひと)つの岩だけは石工たちも気(き)が進(すす)まないと言って鑿(のみ)を打たなかった。たまたま、ただ一つ残された巨(きょ)岩(がん)を不(ふ)思(し)議(ぎ)に思(おも)い、里(さと)人(びと)たちの言い伝(つた)えもあって、これがその昔(むかし)、清水を湛えていたという岩ではないかと好(こう)奇(き)心(しん)のあまり掘(ほ)り起(おこ)すと、美(うつく)しい凹(くぼ)みのある岩であった。この水鉢、昭和12年(1937)2月石浦町地内・若宮(奥宮の森)の200m上流二之瀬谷入口の宮川本流の中央川底より当境内神前に運ばれた。
二之瀬谷出口の宮川の真ん中の平な大岩には、大昔より下に手の届かぬ深い「魚の寝床」が在ると言い伝えて居た。鉄道建設当時附近の岩石は悉く利用されたが、此の岩は残っていた。昭和11年秋過ぎ、此の大岩が“神社の水鉢”にと掘起しが決まった。当時重機は無く滑車と梃子と鶴嘴で苦労の末掘起した。
歳明けて2月、「大持引」で石浦の住人が総出で境内へはこぶことを決めた。川越えのため、長靴は駄目で草鞋履にとした。
街道へ引上げて北進、歩危、踏切、川越えも無事に通過し参道坂へ。坂を上り、全員力を合せたが、大持ちの重量が勝り後退する。日没になったので本日はこれまでとし、各人石浦に有縁の人々に沙汰し、明日の応援を願う事、役の人はシヤチ等を整備し明日正午当所に集合のこととした。各人は近郷有縁の人々へ連絡に走る。翌2日午前7時、寄せ鐘と共に有縁の人々が大集合し、正午、無事到着して喜びと共に神前に供覧をした。
*説明版より
資料集
041_046_飛騨八幡八社・若宮八幡神社
【報告書】飛騨一之宮ものがたり
飛騨一之宮は、この地域に名高い位山の麓に広がり、水・木・道・祈りなどをくらしのより所としながら、豊かに里の歴史を積み重ねてきました。
飛騨の人々の生活に深くかかわる宮川が流れ出すこの地域には、水温が年間14℃前後の清流にのみに育つバイカモ(梅花藻)が見られ、この地のシンボルの一つともなっています。 [水]
この地域の山々や里のところどころに巨木(大きな木)が残されています。国指定天然記念物の樹齢2000年の大いちい、樹齢1100年の大幢寺の臥龍桜などみごとです。 [木]
時代とともに、日本各地の文化が位山分水嶺の峠を越えて、高山町や北飛騨全体のくらしの礎(もとになるもの)を伝えてきた歴史があります。古くは刈苅安峠を越えた位山古道、新しくは宮峠を越えた国道41号線やJR宮トンネルがあります。 [道]
都でも尊い(とうとい)と歌われた位山の麓であるこの地には、古代より飛騨一宮水(み)無(なし)神社がまつられ、飛騨はもとより富山県などの人々の厚い信仰は、今も長くたえることなく続いています。[祈り]
遅い飛騨の春、一之宮の人たちは、桜の里の花がいっぱいに咲くのを楽しみにしながら、水に恵まれた米作りや豊かな山林の木々の伐りだしの仕事に精を出すなど、長い歴史の時を生きてきたのです。 [くらし]
タイトルにある「ものがたり」ですが、これは「おはなし」という意味ほかに、フランスのことばで「歴史」という意味も込められています。これからも皆さんは、飛騨一之宮でいろいろなことを体験するでしょう。
そのものがたりの一つひとつは、飛騨一之宮の歴史になります。いままでの飛騨一之宮のものがたりを知り、それを糧として、これからも飛騨一之宮のものがたりが続いていくことを願い、このタイトルを名づけました。
– 目 次 –
ⅰ わたしたちの飛騨一之宮
1.土地と気候
2.飛騨一之宮の生い立ち
ⅱ 水
1.宮川の源流と分水嶺
(1)水のふるさとを訪ねて
(2)水のあるくらし
2.川のゆくえ
(1)源流から日本海
(2)川の移り変わり
3.宮川と昔話
(1)覆河原と座禅石とあじめ
(2)三本松
4.「あじめ」を守る
ⅲ 木
1.ツメタの大イチイ
2.水無神社の大杉
3.臥龍桜
4.松
(1)刈安峠の松
(2)ヌクイ谷の赤松
ⅳ 道
1.位山古道
(1)位山古道の整備
(2)位山古道の地図
(3)位山匠の道
(4)位山古道散策マップ
2.JR
3.国道41号線
(1)宮峠
(2)宮トンネル
ⅴ 祈り
1.飛騨一宮水無神社
(1)起源と祭神
(2)歌碑
(3)歴史
(4)笏木の献上
(5)例祭神事
2.飛騨一之宮の祭り
(1)神事芸能の伝承
(2)飛騨生きびな祭り
(3)闘鶏楽
(4)神代踊
(5)獅子舞
3.大幢寺
4.巨石
ⅵ くらし
1.むかしのくらし
(1)縄文時代の遺跡
(2)両面宿儺
2.一之宮の伝統と技
(1)わたしたちの町の伝統工業
(2)飛騨の宮笠(一位笠)
(3)伝わる技術とささえる条件
(4)伝える技術と問題点
◆飛騨一之宮の地図 (付録)
冊子
01目次 02私たちの飛騨一之宮 03水 04木 05道 06祈り 07くらし
千光寺
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には7堂伽藍19の院坊があったと伝える。永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第24世法印*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
観音堂 棟札 員数 1棟
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なった。その2年後の慶長3年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬治2年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
昭和44年12月11日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
宿儺堂 員数 1棟
慶長3年(1598)建立。当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。両面宿儺は、日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最期は大和朝廷と戦って敗れる。
平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長3年の建立と判明した。
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に、当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が、1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なっている。
平成15年6月16日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
弁天堂 員数一棟
永禄年間の武田軍による焼き討ち後、再建されたと伝わる。
弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記される。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。
平成15年6月16日指定 *説明版より
極楽門(仁王門)
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には七堂伽藍十九の院坊があったと伝える。永禄7年(1565)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。
平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第二十四世法印
高野山傅燈大阿闍梨 大圓敬曰*説明版より
高山市指定史跡 四国八十八カ所霊場札所
明治20年(1887)、当山住職三蔵祐圓法師の時に、新四国霊場を草創し、巡礼運動を展開したのが、現今の道場である。
巡礼者は、身に白衣をまとい、笈摺(おいずる)を負い、金剛杖をつきながら歩き、真言宝号とご詠歌を唱え、施主の報謝を受けつつ巡拝する。巡拝中種々の霊験を蒙(こうむ)ると、古今に伝説が多い。巡拝は四季絶えないが、特に春季が多い。
安置仏88堂の左側に弘法大師、右側に如来・観音・菩薩像等の札所本尊仏を祀っている。
平成15年6月16日指定 *説明版より
資料
002_002_千光寺
位山
位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつであり、山域は岐阜県の「位山舟山県立自然公園」に指定されている。
資料
003_003_位山 周辺地域の自然
長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
美濃馬場 長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
動画資料
資料集
005_006_美濃馬場 長滝白山神社
白山文化博物館
一年を通して白雪の天衣をまとった白山は、農民たちから祖先の霊の宿る聖域、水を司る神の御座所と崇められてきました。白山が開かれたのは、717年(養老元)。平安前期には、加賀・越前・美濃の3つの禅定道と呼ばれる登拝のための道が開かれました。その中でも、郡上市白鳥町長滝白山神社を拠点とする美濃禅定道は、「上り千人、下り千人」といわれ、多くの参拝客で賑わいました。
資料集
004_005_白山文化博物館
合掌造り
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の叉首構造の屋根が大きな特徴となっており、とりわけ後の時代に建てられたものはその屋根が急勾配になっている[1]。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている[1]。現在見られる合掌造りにも切妻屋根のもの(白川村や五箇山に多い)、入母屋屋根のもの(旧荘川村に多い)がある[5]。残存している切妻屋根の家屋については、その方が屋根裏の作業スペースが多く取れるからと指摘されている[6]。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった[6]。世界の建築の一つとして国立民族学博物館には合掌造りの展示として、五箇山初の民宿「勇助」(ゆうすけ)の模型が展示されている。書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から「人」の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造であるとされる[。
合掌造りの葺き替え風景
合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている[7]。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
資料集
003_004_白川郷
映像資料
雪国の暮らし
和田家住宅(白川郷)
和田家住宅は岐阜県大野郡白川村萩町地区に位置しています。和田家は室町時代末期(天正元年:1573年)にこの地に土着した上層農家で、名主や牛首口留番所役人(白川郷に設置された番所は牛首口・小白川口・椿原口の3箇所で、寛政年間:1789~1801年以降和田弥右衛門家が代々管理運営し明治5年:1872年に宿駅制度廃止まで続けられました。)を歴任し苗字帯刀を許された家柄です。当時は白川郷の特産の1つ焔硝の取引も積極的に行い財を築いたとされます(焔硝の精製・販売は白川郷の主要産業の1つで和田家では高山陣屋から木製鑑札を発行してもらい特別な許可を取っていました。)。現在の主屋は江戸時代中期に建てられたと推定される建物で、桁行12間(22.3m)、梁間7間(12.8m)、木造3階建(1階は居住空間2階より上部は養蚕で利用)、茅葺、合掌造(左右両側と背面に庇が付属)、正面には式台付きの玄関(和田家は上層農家だった為、武士や幕府の役人との付き合いが多く、身分の高い人達専用の式台付きの玄関が設けられた。)、1階外壁は黒漆喰仕上げ(腰部は白漆喰)。和田家住宅は現在白川郷に残る上層合掌造り農家建築の中でも最大級の規模で質も高いことから土蔵(江戸時代中期建築、土蔵2階建、桁行6.1m、梁間5.3m、切妻、桟瓦葺)、便所(江戸時代中期建築、木造平屋建、切妻、茅葺、桁行7.3m、梁間4.3m)、土地(融雪用池・石組水路・防風林・石垣など)と共に平成7年(1995)に国指定重要文化財に指定されています。又、付属舎である板蔵と稲架小屋が昭和47年(1972)に岐阜県指定重要文化財に、和田家牛首口留番所文書が平成27年(2015)に白川村指定文化財にそれぞれ指定されています。
資料集
002_003_白川郷 和田家
動画資料