自然-3 五色ケ原・シラビソコース(丹生川町)
コースは出合い小屋を起点に比較的なだらかな谷間を前半は登り後半は下って時計回りに一周して出合い小屋に戻る。一番標高が低い布引滝が1360m、最高地点のシラベ沢口が1640mで高低差は約280m。植生の垂直分布では本来なら山地帯上部でブナ、ミズナラを中心とした夏緑広葉樹が生息するような標高だが、コース全体でシラビソ、オオシラビソ中心の亜高山性の針葉樹林が広がるのは環境の厳しさによる。
このコースでは季節や降水によって満水と枯渇を繰り返す不思議な4つの池、渇水期にもごうごうと水量豊富な沢上沢。湧き水を集め苔生した岩の間を軽やかに流れるシラベ沢など乗鞍岳の恵みが織りなす変化に富んだ水風景が印象的である。
コース最期には轟音を響かせ流れ落ちる横手滝と、伏流水が崖にかかってそのまま滝になる姿が圧倒的な存在感を持つ布引滝が迫力ある景観を見せてくれる。
五色ヶ原の森の開設にあたっては、自然を破壊して利用するのではなく、自然の循環の中で持続的な保護と利用の両立が図られる仕組みを目指し、横浜国立大学の宮脇昭名誉教授の指導のもと、「元手を食いつぶさず、利息で食いつなぐ」をコンセプトに、入念な植生調査やルート調査を行った。また、整備にあたっては偽木やコンクリートなどを使用せず、現地の倒木や石により整備した歩道や、マイクロ水力発電で発電した電気を使用し、汚水はバイオマス浄化槽で処理し、一切外部に排出しないトイレを備えた山小屋など、自然環境への負荷を最小限に留める配慮を行っている。
シラビソコースの出発地点は案内センターから車で30分ほど走った山の中に建つ出合い小屋。途中車止めのゲートを抜けるとその先は一般車両進入禁止で、その日のツアー参加者だけが入山できる五色ヶ原の広大な森が広がる。
資料
⑥自然-3 五色ケ原・シラビソコース(丹生川町)
自然-2 五色ケ原・ゴスワラコース(丹生川町)
ゴスワラコースの出発地点は岩魚見小屋。シラビソコースの中間地点近くにあたる場所で、案内センターからは車で約45分移動した深い山の中である。
このコースの大部分は約9000年前の乗鞍岳最後の大規模な火山活動の際に権現池の火口から流れた溶岩流が埋めた大地の上に広がる森を通る。シラビソコースがある同じ谷をより乗鞍岳に近づいた場所になるが、受ける印象はより荒々しく、連なる溶岩の岩塊は巨大で高さ10mを超えるような巨岩がそこかしこに見られる。
標高は岩魚見小屋の1620mから最高地点は1920m。高低差約300mを前半は登り、後半は下って谷を大きく周回して出発地点の岩魚見小屋に戻る約6.4㎞のコースである。
標高の低いエリアはかつての伐採後に成立したシラビソの二次林が中心であるが、標高の高い最奥のエリアは森の様相が異なる原生林が広がる。 この距離は一日コースの中では一番短く、実際に歩く時間もやや短いが自然環境の厳しさもあって、登山道は他のコースと比べて歩きにくい箇所も目立つ。五色ヶ原の中では最も難路と言ってよく、特に終盤の急な下り道には注意が必要である。
乗鞍山麓五色ヶ原の森(のりくらさんろく ごしきがはらもり)は、中部山岳国立公園の南端にある約3,000ヘクタールの広大な森林地帯である。山地帯から亜高山帯に分布する植生は、ブナ・ミズナラ・サワグルミなどの広葉樹林やシラビソ・オオシラビソ・コメツガなどの針葉樹林、可憐な花を咲かせる希少な山野草の植生が確認されている。また、多くの渓流と滝、池、湿原のほか、様々な野生動物や野鳥・昆虫が生息し、四季折々の表情を見ることができる。
この五色ヶ原の森を保全しながら、さらに自然生態系の質を高める努力をし、自然環境に無理のない遊歩道に最低限の休養・避難施設を整備するとともに、来訪者に五色ヶ原の森の動植物・地形・地質などや、自然の過去・現在・未来展望など、また昔からの周辺地域と人のかかわり合いなどについて、現場で正しく理解できる様、きめ細かいガイドがなされている。
入山規制や入山時におけるガイドの同伴、一日当たりの最大利用人数の制限、利用料金制などを高山市の条例で義務付けた、国内でも先駆けといえる本格的なネイチャートレイルエリアである。平成13年に五色ヶ原一帯の調査、平成16年から利用が開始された。
資料
⑥自然-2 五色ケ原・ゴスワラコース(丹生川町)
自然-1 十二ケ岳からの山岳眺望(丹生川町)
じゅうにがたけ・1326.6m
高山市丹生川町にある十二ケ岳は360度の山岳景観が楽しめ、農耕祈願の神社がまつられている登りやすい山である。
車で、瓜田集落から大規模林道を少し上って標示に従い、右へ曲がる。小尾根を巻きながら迂回し四㎞ほど行ったところに八本原方面との林道の分岐点がある。まだ林道は続くがここに車を止めて歩いた方が良い。
ここから十二ヶ岳中腹を横切って林道を少し歩いた、右手に登山道の入り口がある。ここからは昔の登山道を登る。しばらく登ると山頂に着く。
頂上から一旦下った東側に展望台地があり、乗鞍岳や穂高連峰の大展望が楽しめる。北方には北ノ俣岳、黒部五郎岳、さらに遠く奥大日岳。西方には白木峰、金剛堂山、加えて人形山、三ヶ辻山。西南方向には船山、位山、川上岳、その遠くに白山連峰。加えて南方には小秀山、白草山、六郎洞山、御前山、そしてその左には乗鞍岳を展望する。
また、折敷地側からも登ることができ、こちらは林道登山口から100分の表示があるが、それ以上の時間がかかるだろう。
<豊蚕信仰の山>
十二ヶ岳というのは、山麓の集落、折敷地(おしきじ)、大萱(おおがや)、瓜田(うりた)にまたがって尾根や谷が複雑に入り込み、十二のヒダを作ることに由来すると言われる。また十二の山岳が眺められるからだとも言う。
山頂の神社は宇迦之御魂(稲荷神)が祭神であり、笹山神杜という。家内安全、農業養蚕の神である。この神社は瓜田、大萱、折敷地の山界にあるが、祭りは折敷地集落の人々によって執行されている。7月31日に登山し、8月1日が祭日であった。現在は7月31日の前夜祭は行なわれず、8月1日の本祭りのみとなっている。
丹生川町は幕末から明治・大正・昭和にかけて養蚕が盛んで、農耕養蚕の里として十二ヶ岳までの道は不便で遠くても、多くの信仰を集めてきた。養蚕の大敵であるねずみの通路に笹山神社の床下の敷石を借りてきて、蚕室におけば不思議とねずみ控除になったという。しかし返却しないと祟りがあったという。また借りてきた石は倍にして返したという。
資料
⑥自然-1 十二ケ岳からの山岳眺望(丹生川町)
行事-3 飛騨の塩ぶり市
<塩ぶり市>
公設市場で毎年12月24日(土日祭日の関係でずれることもある)に、飛騨の塩ぶり市が行われる。氷見や青森、北海道でとれて塩漬けにされた塩ブリの競り売りが行われ、年末の高山の風物詩になっている。
競りは1㎏あたりの単価で競られる。例えば1万貫は現在の1,000円(1㎏の単価)、
3万貫は3,000円(1㎏の単価)で、10㎏のぶりを3万貫で落札すると3万円の買値になる。ぶりの重さは、塩漬けする前の重さで、骨を含めた3枚セットになっている。
<江戸時代の肴問屋「川上氏」>
富山県の氷見港などでとれたブリは、「佐平鰤」、「かね松鰤」などと網持ち荷主の名で呼ばれ、越中街道を通って飛騨の川上肴問屋に入った。高山の問屋から、改めて出荷するときには「飛騨鰤」という名前に変わり、野麦峠を越えて信州へと旅をしていった。信州の人は、鰤が飛騨で獲れるものと思っている人もいたほどである。
信州から飛騨鰤の買い付けに商人が来ている。直接市場で買うことができないので仲介を通したが、よい鰤が出るまで高山の宿に泊まり、それを松本、高遠へと運送した。宿帳に名前が記録されている。
氷見では米1斗⇒ブリ1匹、信州では米1俵⇒ブリ1匹というほど、遠隔地では高価になり、金持ちでないとなかなか食すことができない高級魚であった。
<越中街道の道筋>
江戸時代の越中街道は富山の太田口から上二之町の川上魚問屋までをいう。延長20里余で、1日8里を歩くとすると、2日半の行程となる。尾張方面と比べて越中へは近い。
里数(高山~富山まで) 東街道 → 20里27町
中街道 → 22里25町
西街道 → 24里23町
<出世魚 氷見のブリ>
「鰤」日本で作られた漢字。中国では「魚師」と書いて「大きな魚」を意味する。
モジャコ (小さいとき)
→ツバイソ(体長10㎝程の1才魚)、
→大きくなるにつれてコズクラ(15㎝程)
→フクラギ(30㎝程の2才魚)
→ガンド (50~60㎝程の3才魚)
→コブリ (65㎝以上の4才魚、体重4㎏以上)
→オオブリ(体長1m以上、体重10㎏以上)
産卵は3~5月に九州辺りで行なわれ、稚魚(モジャコ)は流れ藻とともに北上する。8月頃ツバイソになり、その後成長を続け、潮の流れに乗ってカムチャッカ半島から台湾までの海を回遊しながら成長し、北の荒海でもまれて成長して、11月から12月にかけて富山湾に入ってくる。ブリは富山湾を回遊し、定置網で漁がされる。
<「年取り」のぶり>
年取りは、飛騨で12月31日に家族水いらずで行う、神聖な行事である。夕方、皆、風呂に入り、仏壇にまいる。そして、御馳走が並んだ食卓につき、今年1年を振り返り、来年の幸を祈るのである。12月31日の日の夜に祝うのは、1日の始まりは夜からという、日本古来の民俗の考えが踏襲されていると思われる。
旅(よそ)の大学や、勤めに行っている子供たちも戻ってきて、親たちにとって誠にうれしい日でもある。
この年取りの食卓には、ブリが乗っていて、これがまたすごくおいしい。11月頃から富山湾に回遊してくる油の乗りきったおいしいブリを、江戸時代から年取りに食べていた。
ブリが買えないときは、煮イカを代用したが、これもまた年取りのときの、おいしい食彩でもあった。正月、元旦は豆、栗、干し柿、スマシ汁の雑煮ぐらいで、大晦日の年取りに力が置かれている。
元旦は、何もしないのが原則で、元旦にやったことは1年続くといい、何か仕事をすると1年忙しい目に合わなければならないという。元旦は、ゾウニを煮るためのカマドの火をつけたり、雨戸を開けたりするのは男の役目であった。儒教の国、韓国でもそういう風習があり、正月3ケ日の行事は、儒教の影響もあろう。仕事初め、事初めは2日からであった。
飛騨以外で12月31日の年取り(歳取りとも書く)行事を行なっているところがまだ残っている。特に魚が取れるところは、残存が顕著と思われる。長野県松本市の年取り魚には、サケ、ブリ、イワシ、サンマ、コイ、マスなど10種類以上があった。
資料
⑤行事-3 飛騨の塩ぶり市
行事-2 丹生川のくだがい神事
管粥神事(くだがいしんじ)は高山市丹生川町旗鉾にある伊太祁曽神社で600年前から続く伝統神事で、高山市無形文化財に指定されている。
令和2年1月14日午後1時より行われ、神事後には、参拝者にもお粥が配られ、これを食べると一年間無病息災で過ごせると言われる。
約6cmの麻ガラ(麻の茎)に、農作物の作況・気象・社会景気・プロ野球ペナントレースなど約140項目の占い事を記した木札をつけ、粥の材料となる米・大豆・小豆等と一緒に大釜で煮立てる。
釜揚げし神前にお供えしたあと、麻ガラを一つずつ切り開き、粥の入り具合で一年の吉凶を占う。
資料
⑤行事-2 丹生川のくだがい神事
行事-1 二十四日市
高山では、野菜を中心にした朝市のほかにも市がある。
旧暦を使っていた江戸時代から明治時代の初期までは、「歳の市」として、上二之町で12月24日に開かれていた。田中大秀は『飛騨年中行事記』に、二十四日市では、「こぶ・みかん・はごいた・たつくり・数の子など正月用品が売られていた」と記している。明治5年(1872)に新暦に切り替えられても、正月を今まで通りの日に行なう家があり、新暦の2月1日(旧暦では正月にあたる)に正月行事を行なった。そのため、二十四日市は新暦の1月24日に行なわれても「歳の市」としての性格を持っていた。
しかし、1月1日に正月行事が行なわれるようになるにつれて、二十四日市で売るものの内容が変化し、正月用品は姿を消した。現在1月24日に売られているものは、桶類・竹製品・一位笠など、数・種類ともに旧来のものが少なくなり、現代的な物の店が多くなった。場所も本町へと変わった。当日は、近郊から目当ての商品を求めて、あるいは特に欲しいものがなくても、その雰囲気を味わおうと、訪れる人で大変賑わう。朝市と同様、何か目ぼしいものはないかと見学して歩くのは楽しいものである。
二十四日市と言うと雪が降ることが多く、「やはり雪が降ったか!」という挨拶が飛び交う。伝統工芸のショウケ、江名子バンドリ、宮笠、有道シャクシの店も出店していて、訪れる市民、観光客のお目当ての店となっている。出店している店はさまざまで、魚貝類から花餅、鈴カステラ、お好み焼、タコ焼など多種多様である。
二十四日市の場所は本町1~4丁目で、その地区の商店もこの日は自分の店の前にコマ台を置いて販売する。
二十四日市は、近郷の人たちが出かけてくる年中行事であり、歩いていると何人もの知人と出会い、「まめなかな(元気でしたか)」という飛騨弁があちこちで聞かれる、誠に微笑ましい冬の風物詩である。
資料
⑤行事-1 二十四日市
史跡-10 吉野朝時代の伝説地
高山市滝町集落の中程に小さな丘があり、その頂上に古い4基の五輪塔(写真)が残っている。ここには昔、遍照寺(へんしょうじ)という寺があり、その寺は滝町に住みついていた和田氏の菩提所であった。五輪塔は和田氏累代の墓と伝わっている。
そばには「大楠公師瀧覚御坊遺跡地」と刻まれた石柱があり、京都・真言宗総本山東寺の管長であった松永昇道(丹生川町町方出身)が書を書いている。そのほか、周辺には和田屋敷、西南に離れて塔洞屋敷跡など、ゆかりの地がある。
和田氏は先祖に和田義盛という武将がいて、鎌倉幕府侍所の重要な別当職にあった。北条義時の謀略にかかって北条氏を襲撃(和田氏の乱)してしまい、敗れて和田氏は滅亡した。和田氏の一族は各地に流れて高山の滝町や朝日町上ヶ見(あげみ)に移り住んだと伝わっている。
和田義盛の孫で、和田氏の乱でも活躍した和田朝盛の四男に朝正という人がいた。幼少の頃、滝町の遍照寺で修行をしている。後に瀧覚坊(ろうかくぼう)と名を変え、京都に上って後宇陀院に仕え、河内国観心寺中院の総務となった。その時に瀧覚坊と少年時代の楠正成(幼少の時は多聞丸といった)との歴史的な出会いがあった。正成は8から15歳まで観心寺中院で学んだ。
瀧覚坊は正成に弘法大師の『心地観経(しんじかんぎょう)』の中にある四恩(しおん)の教えなど四書五経、宋学、国史を教えた。
四恩とは、父母、衆生(しゅじょう・多くの人々)、国王、三宝(仏、教典、僧)のことで、天皇のために一命を捧げて忠誠を尽くした正成の生き方は、この四恩の教えによるといわれている。正成の生き方は、後に、「忠孝」の祖として坂本龍馬ら明治維新の志士たちの拠りどころとなってゆく。
瀧覚坊は高山ではあまり知られていないが、観心寺では非常に重要な高僧として扱われ、墓も楠正成の首塚のそばにつくられている。昭和12年、大阪の「大日本楠公会」冨賀鹿蔵らが、観心寺の瀧覚坊は高山市滝町の出身だと研究成果を発表し、地元滝町の人々に教えてくれた。滝町の人たちは、和田氏の伝承地と瀧覚坊がつながったことに大変驚いた。
〈和田氏の乱〉
和田義盛は鎌倉幕府の創設以来、重要な職にあった。源頼朝の死後、執権となった北条義時の計略にはまって、建保元年(1213)に北条氏打倒の兵を挙げたが、敗死し、以後義時は幕府の中で最高の地位をかためていった。
資料
④史跡-10 吉野朝時代の伝説地
史跡-9 石工高原忠次郎
石工高原忠次郎は、日枝神社の狛犬や玄興寺の親鸞聖人像の石像など多くの作品を残している職人である。忠次郎は明治25年生まれで吹屋町に住み、石工職人を使って石工の請負業をしていた。29件の作品がわかっている。
高忠と刻んである石像は狛犬が9対、石像等が7体、灯篭が7対、石碑等が3か所、その他3か所、合計29件となっている。
日枝神社の北側入り口に設置されている狛犬は、台座も含めて高さ3㍍余りで、その表情には力強さと独自性がある。重々しさ、優れたデザインに感銘を受ける。忠次郎が36歳の時に製作し、台座には「昭和4年 還暦記念田近房太郎 石工高原忠次郎」と刻まれている。
狛犬は他に護国神社、日枝神社内富士社、新宮神社、大八賀神社、辻ケ森三社、萩原諏訪神社、桜ケ丘八幡神社、生井白山神社にある。また石像は宗猷寺の観音像と布袋像、玄興寺の祖師(親鸞聖人)像、東等寺の聖徳太子像、国分寺の弘法大使像、一之宮町大憧寺の地蔵様、安房峠の地蔵様がある。灯篭は護国神社、日枝神社、大八賀神社、辻ケ森三社、一本杉白山神社、杉箇谷神明神社内秋葉神社にある。そのほか、山王公園にある富田豊彦の短冊を模した歌碑も作製している。
神社の狛犬や灯篭、寺の石像は境内の風景に溶け込んでいて、優れた石の造形として個別に拝見しないことが多いが、足を止めて石を楽しんでほしい。
資料
④史跡-9 石工高原忠次郎
史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)
〈 甚兵衛流罪の年譜〉
江戸永代橋(通常、帆船で10日)→ 品川沖 → 浦賀(神奈川)→伊豆下田 → 新島 →
前浜に上陸 → 島役人の改め → 7日間の寺入り(長栄寺の下寺東要坊)→
年寄又右衛門の組下彦三郎組へ預け → 名主青沼元右衛門の隠居所預け → 2間9尺の小屋
当時 新島には360戸、1800人の島民が居住。
甚兵衛流罪(1775) 15年 中風(1790) 8年 死亡(1798)
勘左衛門渡島(1791) 8年 離島(1799)
安永2年(1773) 6月 甚兵衛(60) 江戸へ呼び出され手錠宿預け
安永3年(1774) 2月 甚兵衛(61) 江戸より高山に移され入牢
安永3年(1774)12月27日 甚兵衛(61) 江戸へ護送
安永4年(1775) 3月22日 甚兵衛(62) 新島へ
寛政2年(1790) 4月 甚兵衛(77) 中風で倒れる
寛政2年(1790)12月 勘左衛門(42)江戸へ向かう
寛政3年(1791) 4月 勘左衛門(43)新島で父と再会
寛政10年(1798) 8月19日 甚兵衛(85) 生涯を閉じる
寛政11年(1799) 8月19日 勘左衛門(51)は父の一周忌法要
寛政11年(1799) 9月22日 勘左衛門(51)は新島を離れる
寛政11年(1799)10月20日 勘左衛門(51)江戸に着
寛政11年(1799)11月10日 勘左衛門(51)流人の身分を解かれる
寛政12年(1800) 1月26日 勘左衛門(52)高山に帰り歯骨で葬儀
寛政12年(1800) 3月 8日 勘左衛門(52)荘川一色村に帰る
天保 3年(1832)12月28日 勘左衛門(84)死す
〈 流人船〉
安永4年(1775)(新島送り) 上木屋甚兵衛 宮村・治八 宇津江村・三郎右衛門(船牢で死亡)
〈新島の史跡、記録〉
史跡
・長栄寺 開祖日英上人は日蓮宗を布教、長栄寺を建立。日英は飛騨国の海老島で亡
くなったと歴祖次第に書かれている。現 海元上人。甚兵衛の位牌がある。
・甚兵衛の墓 文字は長栄寺日養上人
・勘左衛門自刻像 石工石松の助けで完成した。
・治八の墓 宮村往還寺に生まれ、内木家を継ぐ。大工の心得あり。
・十三神社の門 寛政7年の棟札に治八の名がある。
・前田長八胸像
・旧郷土館
・句碑
・天佑法印墓
記録
・新島流人帳
・『三松山長栄寺歴祖次第』東京都重文
流人の身で 次第に名が載るのは天佑法印と甚兵衛のみ
・長栄寺過去帳 甚兵衛の名がある。
・深山世婦子鳥 船を待つ間、和歌48首を集めたものに、挿絵を描いた。
「さくらばな つらなる枝も散りぢりに 風はいずこの土と消ゆらん」などがある。
・『天明水滸伝』 75巻にわたる長編小説
・「くもの巣にかかりて二度の落葉かな」 甚兵衛
・「こればかり残る涙や石の露」 勘左衛門
・他の流人 折敷地村・喜平次、宇津江村・三郎右衛門、中ノ宿村・十右衛門
・『新島追慕編』『伊豆七島風土細覧』『白川年代記』『飛騨白川記』『白川奇談』『新島和歌だより』
・「新島見聞記」『飛騨春秋』昭和43年
・「新島紀行-義民配流の島へ」丹生川町正宗寺原田道一師手記、昭和48年。打江村三郎右衛門の子孫
・「新島墓参紀行-先人のふところの温み」上木礼子、昭和53年
・児童向け小説『新島の飛騨んじい』赤座憲久、昭和51年
・版画集『わたしたちの飛騨んじい』新島小学校卒業記念、昭和52,53年
・『流人』江馬修
・『海鳴り』高山市民劇場が平成5年に上演
〈参考文献〉
林格男執筆 荘川村教育委員会編集 『義民甚兵衛と孝子勘左衛門』大野郡荘川村発行 平成7年
資料
④史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)
史跡-7 寺と神社の桜(高山地域)
高山の桜の開花は遅い。雪が3月まで残り、4月上旬にも雪がぱらつくこともある。梅も桃も同時期に開花する。
臥龍桜(一之宮町)
宮川緑地公園
西光寺(清見町)
青屋神明神社(朝日町)
浅井神明神社(朝日町)
荘川桜(荘川町) 2016.4.24
荘川桜(荘川町) 2020.5.1
天満神社(朝日町)
宝蓮寺(朝日町)
薬師堂(朝日町)
資料
④史跡-7 寺と神社の桜(高山地域)
嘉念坊善俊、雪の白川村
<鳩谷の嘉念坊善俊上人(白川村)>
・嘉念坊善俊は奥深い山地に浄土真宗の教えを布教しようと、宝治年間(1247~49)、鳩谷の地に入った。
善俊は鳩谷に嘉念坊道場を建てて布教したが、弘安5年(1282)3月3日に白川村鳩ケ谷の地で亡くなった。毎年4月3、4日の2日間、御忌法要が鳩谷法蓮寺で行なわれている。
<嘉念坊上人の御火葬・旧墓地遺跡>
善俊上人は、この場所で火葬にされ、埋葬されたと伝えられる。その後、永正元年(1504)第10世明心の時代に至って、荘川町の旧中野村に照蓮寺を再興した際に、ここにあった善俊上人の御墓も移された。
老杉の根元に埋もれ周囲をめぐらしている、わずかばかりの石積みの遺構に往時の霊地をしのぶことができる。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
<嘉念坊善俊上人の道場遺跡>
諸国行化の後に飛騨白川郷に入り正嘉2年(1258)44歳の頃にこの地に道場を創建。終生この道場を本拠として広く御化導につとめ、飛騨における真宗教団発展の端緒を開いた。遊場号を嘉念坊と称した。
この道場は、第三世善教の時代に飯島に移って正蓮寺と称するようになった。当時の道場の規模は礎石の現況から推測するに、ほぼ11m(約6間)四方程であり祖師親鸞上人の御意志に従い簡素なものであった。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
※1嘉念坊善俊→後鳥羽天皇(1180~1239)の第12皇子、「道伊」といい承久の乱で父は隠岐(島根の沖合い50㎞)流罪。皇子らは連座して配流、出家をした。善俊は園城寺に出家した。
※2寛喜3年(1231)、善俊(18歳)は箱根で親鸞に出会い、弟子となった。
※3その後大津の園城寺(三井寺)を出て白鳥へ、その後、白川村へ。
<豪雪の白川村>
白川村の合掌造り建物の雪下ろしは大変で、特に棟の雪を降ろさないと棟が傾いて破損するので早めに降ろす必要がある。高所のため、業者に委託することが多くなった、降ろした雪はすぐ下の池に落ち、消雪される。
資料
④史跡-6 嘉念坊善俊、雪の白川村