愛宕神社
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、岐阜県郡上市(旧郡上郡八幡町)に鎮座する神社である。近代社格制度では村社。 境内を中心に愛宕公園が整備され、桜の名所である。公園内には円通閣(慈恩寺観音堂)、遍照殿(愛宕弘法堂)、宝暦義民碑などがある。
(引用:https://jinjamegurijapan.jp/detail.php?id=2363)
資料集
048_051_愛宕神社
慈恩禅寺
岐阜県郡上市にある慈恩禅寺は慈恩護国寺が正式名です。1606年八幡城主であった遠藤慶隆公により開基されました。明治26年に豪雨により山門以外は埋没したものの、明治29年に再建されました。また、山内一豊の妻である千代は郡上藩の遠藤家の生まれとされていて、ゆかりのお寺であり、遠藤家記はお寺で保存されています。またお寺の庭園は「てっ草園」とよばれ、室町様式で大変美しく、庭にある鉄琴窟の音色は素晴らしいと、リピーターも多く訪れています。(引用:https://loco.yahoo.co.jp/place/g-vpsiBP2zb8k/?utm_source=dd_spot&sc_e=sydd_spt_slo_n_p_ttl&lsbe=1)
資料集
047_050_慈恩禅寺
長敬寺
長敬寺(ちょうきょうじ)は、岐阜県郡上市にある浄土真宗大谷派の寺院。
慶長6年(1601年)に八幡城主遠藤慶隆は、古今伝授の祖といわれる東常縁の玄孫の正勧坊正欽が、飛騨高山の照蓮寺にいると聞き及び、これを招いて創建し、自らの菩提寺とした。
慶応4年(1868年)4月、江戸城開城に際し、郡上藩士45名が凌霜隊を組織し、会津藩の救援に向かい一緒に新政府軍と戦った。9月に会津藩が降伏すると同隊は郡上に護送され獄舎に入れられた。犠牲者が出るに及び、明治2年に城下寺院の嘆願により長敬寺に移され、明治3年に釈放された。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%95%AC%E5%AF%BA)
資料集
046_049_長敬寺
善光寺(釈迦三尊像)
「養老7年(722年)泰澄大師が加賀白山中宮の社坊として創立し、その後長滝寺として長く栄えてきたが真宗が盛んになるに従って衰微し、さらに明治初年の変革により廃寺にひとしくなっていた。その後、当院真誠の発願によりその子真静とともに明治25年に許可を得て私財で郡上八幡城跡の一部である現在の地を選んで堂宇を建て長滝寺の泰澄の作といわれる地蔵菩薩を受けて安置した。明治34年信州善光寺より分身体を勧請して郡上善光寺と称するようになった。昭和9年に改修を加えさらに24年岐阜県の許可を得て本堂、佛教会館を建てた。 同25年12月には京都総本山鞍馬寺より尊天毘沙門天の分霊を奉請して鞍馬山郡上別院と改めた。 総本山鞍馬山郡上別院 善光寺 」(説明版より)
資料集
045_048_善光寺(釈迦三尊像)
秋葉三尺坊悟竹院
「 悟竹院は、大永元年(1521)謹甫嵓公和尚の開基にして、永禄12年(1569)曹洞宗に改宗し、才應惣芸和尚を開山に、爾来4百有余年、この間盛衰ありといえども22代を数え現在に至っている。明治12年(1879)18世慧了一元和尚の時、郡上郡の火防守護所として遠州は、秋葉総本殿可睡斎より秋葉三尺坊大権現御分身を勧請し奉安している。例年、4月・11月に大祭が盛大に執り行われる。明治29年(1896)より1日に4度(朝5時・正午・夕6時・夜9時)火防の時の鐘を鳴らし続けている。」(引用:https://www.gifureki.com/gujyou/akiba.html)
資料集
044_047_秋葉三尺坊悟竹院
宗祇水
昔より、こんこんと湧き出る泉があり、夏は冷たく、冬は温かいところから、周辺住民の「生活の水」として使用されていました。清らかな水が湧き出ることから清水(しみず)と呼ぶこともありました。宗祇水の名の由来は、連歌の宗匠として知られた飯尾宗祇が文明年間この泉のほとりに草庵を結んで、この清水を愛用したところから名付けられたものです。以来宗祇水は史跡として、また住民の生活の水として守られてきており、市史跡文化財、県の史跡文化財の指定も受け、毎年8月20日には、縁日(宗祇水神祭)と定め、狂俳、連句の奉納のほか文芸祭などの文化活動が盛んです。昭和60年宗祇水は、全国名水百選の一番手として環境庁の指定を受け、名実ともに、「水の生まれる町」郡上八幡の名勝となりました。
(引用:https://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kankyo/shizenhogo/c11265/s-water1.html)
資料集
043_046_宗祇水
山内一豊と妻の像
山内一豊の妻「千代」は、弘治2年(1556)、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時がはじまります。やがて千代は、縁あって尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。その影には、千代の内助の功があったといわれています。信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」の逸話は有名です。
賢夫人として名高い山内一豊の妻千代については近江国坂田郡、若宮喜助の娘という説が定説とされています。しかし、郡上では古くから初代八幡城主・遠藤盛数の娘と伝えられていました。郡上には東家系図・遠藤家 系図などゆかりの寺院・家に伝わりその中には明らかに遠藤盛数の娘・慶隆の妹が山内対馬守(一豊)室(奥様のこと)と記されていました。
千代の母・友順尼は東家十三代常慶の娘であり、夫・盛数死去の後、関城主永井隼人氏と再婚、不幸にも信長により関落城の後、近江を流浪したのです。友順尼は、生家より伝えられていた東常縁直筆の古今和歌集を守り持ち続けていました。娘・千代が一豊と結婚した頃、友順尼は乗性寺(現美並町)で余生を送りました。一方、千代の兄・遠藤慶隆や一豊たちは小牧・長久手の戦いに参加し、秀吉の越中攻めと同じ陣営で生死を共にしています。最近陣立表の現物が発見され、慶隆と一豊の親戚関係が証拠立てられたのです。さらに、一豊の妻とされていた近江の若宮マツは、一豊の家臣である五藤為重に嫁いでいたことが古文書や五藤家の墓によって明らかにされました。千代は京都において元和三年(1617)、死去しましたが、友順尼により千代に渡った篠脇城主東常縁直筆の古今和歌集などが遺品として山内家へ渡されたのです。その後、古今和歌集は、徳川幕府へ献上されたことが山内家家史にも徳川幕府の記録にもはっきり記されています。以上のような調査史料から、千代が古今伝授の東家の血筋を引く女性であったということをより鮮明にしています。
(引用:http://castle.gujohachiman.com/history/chiyo)
資料集
042_045_山内一豊と妻の像
郡上八幡博覧館
郡上八幡博覧館(ぐじょうはちまんはくらんかん)は、岐阜県郡上市八幡町にある博物館。
郡上八幡の様々な資料、伝統工芸などを展示紹介する施設であり、「博覧館」は「博物館」と「博覧会」を合わせた合成語である。
資料集
041_044_郡上八幡博覧館
岸劔神社
祭神は素戔嗚尊・伊奘册尊・伊奘諾尊・菊理姫尊などである。気良村(奥明方村)字鳥居宮で、ある年連日の旱魃に神主が再三雨乞いをしたが霊験はなく、ついにこの村の氏神の御神体の宝劔を取り出して2間手村(奥明方村)の境の川岸で劔を洗ったところ、急に雲がわき起こり雨が激しく降りだした。その劔を岩上に置きなお祈祷を続けていると川水が急に増し劔を押し流してしまった。(以後この岩を神流岩という)数日後山田荘八幡城下の吉田川の岸(現在の宮ケ瀬橋の下)の岩間に劔のかかっているのを清水彦右衛門がみつけ自分の家に持ち帰った(現在この岩をかかり岩という)。郡上城主遠藤慶隆はそのことを聞き、慶長19年(1614)城下本町の宮ケ瀬橋の近くに社殿を建立し、この劔を祭り岸劔神社と名付け清水彦右衛門を神職とした。明治19年に現在の社殿の南側の低地に移転し、同40年2月無格社白山神社と合併し、3月27日神饌幣帛供進神社に、同41年12月26日には神社会計規定適用神社に指定され、昭和17年に現在の境内に移った。境内は97坪あり、神明造りの本殿(間口3間・奥行2間)・入母屋造りの幣殿(間口3間・奥行2間)・同拝殿(間口5間・奥行5間)・狛犬・燈篭などがあり、また文政4年に建立した大燈篭(高さ約2間)がある。
資料集
040_043_岸劔神社
安養寺
安養寺(あんにょうじ)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある浄土真宗大谷派の寺院。山号は遠郷山。郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯における真宗大谷派の中心的な寺院である。間口、奥行き共に16間(約29メートル)の本堂は岐阜県下で最大といわれる。
佐々木高綱の三男・高重が出家し西信を名乗って近江国蒲生郡に「安要寺」として創建する。その後安要寺6世仲淳の時に美濃国安八郡に移転し、蓮如より「安養寺」と名を改められる。その後越前国穴馬(現・福井県大野市)、美濃国大島村野里(現・郡上市白鳥町)へ移った。戦国時代には朝倉氏の郡上侵攻に参戦してこれを撃退したほか、10世乗了の時には石山合戦に参加しており、その際に足利氏・武田氏・朝倉氏や本願寺と交わした文書が現代に伝わり、岐阜県指定有形文化財として指定されている。また、この頃に一時的に白川(現・岐阜県白川村)に寺を移しているが、当時の郡上領主である遠藤慶隆が安養寺の要請で一時的に武田方に寝返ったものの、後に織田方に帰参した事情と関連しているとする見方もある[1]。
1588年(天正16年)、稲葉貞通が郡上領主になったとき八幡中坪村園野へ移る。1661年(寛文6年)に院家、1838年(天保8年)に御坊分となった。
明治時代、本堂が焼失したのを機として1881年(明治14年)に八幡城三の丸跡地(現住所)に移転、1890年(明治23年)に本堂を再建した。その後、1919年(大正8年)の郡上大火で焼亡するも、1936年(昭和11年)に再建され現在に至っている。
岐阜県指定文化財として絹本著色阿弥陀如来像、絹本著色親鸞聖人御影、絹本著色十五尊像、紙本墨書蓮如上人名号、石山合戦関係文書及び安養寺文書、紙本墨書本願相応集、紙本墨書後世物語及び香炉台を有し、岐阜県指定重要有形民俗文化財として金森内室化粧道具を所蔵している。その他郡上市指定重要文化財を複数点有し、安養寺宝物殿で公開している。
かつては郡上八幡大寄席という落語会が開かれていたほか、現在では郡上八幡上方落語の会や郡上踊りむかし踊りの夕べなど各種催し物が開かれている。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E5%AF%BA_(%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82)
資料集
039_042_安養寺
勝山城博物館
勝山城博物館は、勝山市の名誉市民第一号に選ばれた多田清さん(明治38年1905~平成3年1991)が平成元年から3年の歳月をかけて建設し、平成4年7月に開館いたしました。同時に財団法人多田清文化教育記念財団が設立され運営にあたってまいりました。財団は平成25年度よりさらに公益性の高い公益財団法人として認められ、現在にいたっています。
江戸時代、小笠原氏が治めた勝山藩には天守はありませんでした。早い段階で建設計画はあり、幕府の認可も降りていましたが、財政が苦しく実現しないまま明治を迎えました。昭和も後半に入ると勝山藩や勝山城の遺構は次々と失われていきました。多田さんは勝山にかつて一つの藩が確かに存在したということを、博物館建設という形で実現し、現在の勝山市の新たな顔の一つとしてこの博物館を築きました。
資料集
038_041_勝山城博物館