上宝の信仰と東山寺院群 ~ 東山寺院群その2 ~
東山寺院群の中ほどには東山神明神社があり、境内地に絵馬殿がある。この絵馬殿は高山城二之丸にあった月見殿が移築されたものである。その北方向の墓地には、金森氏墓、大原彦四郎墓がある。さらに北方向には大雄寺、雲龍寺と連なる。
雲龍寺の参道は若達町1丁目から上がるが、古い石段を踏みしめてその先にある鐘楼門を目指す。古都高山らしい景観なので多くの海外観光客がここを訪れている。
この鐘楼門は1638年(寛永15)の建築材(年輪年代法による)が創建時に使われている古い建物で、高山城内の「黄雲閣」という建物を賜わり、鐘楼門になったと伝わる。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕を留めただけで焼け残った。
建物の外観を見ると、緩やかな曲線を持つ屋根の頂部に、露盤(四角の台)と宝珠(火炎が燃え上がっている形をした玉)をのせている。上層の外廻りには戸溝があり、中央通路の両側に三方を板で囲われた場所があることなどから、寺院の鐘楼門として建てられたものではないと考えられている。
雲龍寺の草創は古く、奈良時代の初めに泰澄大師(白山を開山)が白山社(現在の東山白山神社)を開山し、別堂として妙観寺(現雲龍寺の場所)を建立したと伝わる。後に天台宗に属していたが、幾世紀を経て寺は無住になってしまった。
応永2年(1395)、能登の総持寺4世・竹窓智厳(ちごん)和尚が荒廃を嘆いて妙観寺跡に寺を再建した。智厳は師である了堂真覚禅師を開山に招いて海蔵山雲龍寺と改称、曹洞宗に改めた。現在も総持寺の門末になっている。
金森長近は飛騨入国後、長子忠次郎長則の菩提寺として雲龍寺を修営。長則は天正10年(1582)の本能寺変に際し、二条城において19歳で戦死している。
高山城内にあった建物は次の寺社に払い下げられたと伝わる。雲龍寺鐘楼門、素玄寺本堂、法華寺本堂、東山神明神社絵馬殿、高山陣屋御蔵である。
このように東山寺院には高山城の古い建物が移築されて大事にされている。