旧青山別邸
青山家は明治・大正を通じ、にしん漁で巨万の富を築き上げました。その三代目、政恵が十七歳の時、山形県酒田市にある本間邸に魅せられ大正六年から六年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸です。
旧青山別邸は平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です。
青山留吉、政吉の親子二代に亘り財を成し、青山家最盛期の大正6年、二代目政吉が娘夫婦の民治・政恵と共に、別荘の建設にとりかかりました。
当時、にしん大尽と呼ばれた政吉は、美意識が高く、一流好みでした。 その為元場とは違う芸術的な建築物を目指し、約6年半の歳月を要して完成させました。
三代目政恵は17歳の時、山形県酒田市の本間家邸宅に幾度となく招かれ、その豪勢な建物に魅せられていました。 当時、本間家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われる程の日本一の大地主でした。 父政吉が別荘の建築にとりかかった時に、政恵は「あの本間邸以上のものをこの祝津に建ててやろう」と決心したのでした。
にしん御殿(旧青山別邸)建築費三十一万円、当時、新宿の有名デパートの建築費が五十万円ほどと言いますから、この別荘の豪邸ぶりがおわかりいただけると思います。
政吉は、山形県酒田から宮大工の棟梁 斎藤子之助、石垣清治郎、土門市太郎を呼び寄せ、その指揮の下、左官頭 佐藤朝吉、 建具頭 西野岩吉、瓦師頭新家長松、石工頭 福田喜太郎、佐藤丑太郎をはじめ総勢五十数名の職人たちが技を競い合いました。
材料は酒田より欅を大量に運ばせました。 積雪の多い北海道では珍しい瓦葺き屋根、軒下はすべて手彫りによる彫刻が施されました。 また、床や柱は欅の春慶塗り、漆くい壁、神代杉の幅広天井、うぐいす張りの廊下、端から端まで継ぎ目のない一本物の長押し。 紫檀、黒檀、タガヤサン、白檀を使った書院づくりの床の間。 ふすまの引き手は七宝焼(当時は宝石と同価値)。 欄間は、竹、紫檀、白檀に彫刻が施されている。 建物の三方に庭があり、家族だけが見るために造った池泉庭、松と石を組み合わせた、趣深い枯山水の中庭など数え上げるときりがありません。
また、狩野派の流れを汲む日本画の絵師たちが競って描いたふすま絵、書も見事なものです。
高山市街地
高山市(たかやまし)は、岐阜県の北部(飛騨地方)に位置する市。全国の市町村で、最も面積が広い。
旧高山市時代から飛騨の中心都市[1]であり、平成の市町村合併の一環として2005年に近隣9町村と合併[2]。新しい高山市は面積2177.61平方キロメートルと、大阪府や香川県よりも大きく、東京都全体にもほぼ匹敵し、日本で最も広い市となった[3]。合併後の高山市は飛騨地方を東西に横断して東で長野県や富山県と、西で石川県や福井県と県境を接し、東西が約81キロメートル、南北が約55キロメートルに達する[2]。市の東側には飛騨山脈、西側には両白山地がそびえ、中心市街地は険しい山に囲まれた高山盆地にある。
国際会議観光都市に指定されており、伝統的な街並みのほか数多くのスキー場や温泉地を有し、中京圏や関西圏、さらに近年では首都圏や外国からの観光客が増えている。地理的に近い富山県との結びつきも強い。
野麦峠 政井みね氏
政井 みね(まさい みね、1888年2月3日 – 1909年11月20日)は、日本の労働者。日本近代化を陰で支えた労働者の一人であり、かつて野麦峠を越えた女工を語る際に欠かせない人物である。岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)の農村部に生まれた。当時はまだ貧しい農村部では、自らが出稼ぎに出る事で実家の食費を浮かし、家計を助けるという「口べらし(=口減らし)」が一般に行われており、みねも家計を助けるために信州の岡谷へ出稼た。明治政府による富国強兵のもと、外貨獲得のために日本の近代化を支えたものは水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業であり、みねを始め多くの女性が野麦峠を越えて出稼ぎに出た。
辰次郎に背負われるみねの像(野麦峠にて)
みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳になった1903年(明治36年)2月。交通の難所として知られていた野麦峠でも厳冬期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である(後に雪が赤く染まる理由は女工達の着物の染料だと分かったが、恐らくその中には女工の血液も含まれていた)。また、足を踏み外して谷に滑落する者、峠の宿(お助け茶屋)に入りきらずに外で一夜を明かす者もいたという。
明治時代では労働基準法など存在せず、勤務先の製糸工場である山一林組は、蒸し暑さや悪臭などが漂う劣悪な環境での15時間にも及ぶ長時間労働に加え、工女の逃亡を防ぐため工場に鉄製の桟が張られているという他雇部屋にも近い状態であったが、みねを含め多くの工女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できる事を信じ、歯を食いしばって耐えた(当時の製糸業が実家の農作業に比べ比較にならない高収入であったことや、同じ工場の男性労働者よりも賃金が高かったこと等の背景もある)。
やがて、みねの仕事が高く評価されて工女の模範となり年収が百円を超えた(通称、百円工女、当時の百円は現在の三百万円前後:当時の小学校教員の初任給程度)。
しかし、1909年(明治42年)11月、政井家に「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報が届き、兄・辰次郎は角川から岡谷まで夜通し2日間歩いた[1]。辰次郎は松本で入院する事を勧めたが、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。辰次郎はみねを背中に背負って帰路についたが、5日目の11月20日午後2時頃に野麦峠に辿り着いたところで、みねは「あぁ、飛騨が見える」と呟き息を引き取った。辰次郎はみねを背中に背負ってさらに4日がかりで角川に帰着し、住民は手を合わせて迎えたという。みねの墓所は飛騨市河合町角川の専勝寺にある。
その後、山本茂実が明治40年前後の製糸工場の様子について女工数百人から聞き取りを行い、1968年(昭和43年)にルポルタージュ『あゝ野麦峠』にまとめた[1]。このルポルタージュやその映画化(1979年)、テレビドラマ化(1980年)を通して有名になった。なお『あゝ野麦峠』の映画化の計画は1969年(昭和44年)に一度出ており、内田吐夢監督、吉永小百合主演(政井みね役)の予定であったが実現しなかった[1]。現地を何回か訪れていた吉永は野麦峠に「政井みねの碑」を寄贈している。