田谷神明神社
創立年代は不詳である。古老の口伝によると、椋椅(くらはし)某が此の地にきて田畑を開墾し、谷水を使った。地名も「田谷」といい、通称「田谷宮」と里人等に親しまれた。部落の名も「くらはし」から藏柱と改名されたのである。
承久年間より江馬家の領主の庇護により石浦・田谷(上・下)・沖田・かじや・下垣内の各集落に神社を建立し守護してもらった。
元禄七年大垣藩主戸田采女正の検地の際八畝二十歩の除地がある。後年になるが、年代も不明であるが、石浦宮を除いて田谷宮神明神社に合併合祀されている。棟札等に「天明三年、本宮再建氏子中、二滝より舟橋まで不残」とあり、天保三年の棟札に氏子は六十軒と記されている。
石浦宮の神鏡には明治四年田谷、森合祭とあり、このとき合併合祀されたのであろう。
石仏と奇岩群
大雨見山(おおあまみやま)(標高1336m)の北西麓にあたる蔵柱(くらばしら)川沿いに石仏という地名があり、そこにある高さ約12mの仏像に似た石柱が「石仏」である。その付近には“鏡岩”、“仏器岩”、“獅子頭岩”といった名前のついた奇岩と称する岩が山すそにある。いずれも大雨見山層群の宮川谷層に属する火山岩類のうち、比較的軟らかく風化作用を受けやすい凝灰岩からなる。見る方向によっていろいろな形状に見えることからそれぞれに名称がつけられたものである。
高山市国府町から県道76号で上宝町に向かい,大坂峠(通称十三墓峠)を越え2km程下ったところに濃飛バスの「石仏前(いしぼとけまえ)」バス停がある。
バス停の奥に,カラ松の間から高さ12cm程のまるで仏様のような形をした岩肌が突出している。これが地名の由来の「石仏岩」で,足元には小さな祠(ほこら)が建てられ祀られている。周囲にも点々と岩肌が露出し,屏風岩(びょうぶいわ),駒掛岩(こまかけいわ),鏡岩,箪笥岩(たんすいわ)等と名付けられ,全体が「石仏と奇岩群」として高山市の天然記念物に指定されている。
「石仏と奇岩群」は,どのようにしてつくられたのであろうか?
今から6600万年前~6000万年前の中生代白亜紀最末期から新生代古第三紀にわたり,現在の大雨見山(国府,丹生川,上宝町にまたがる山)を中心に,約100㎢にわたって流紋岩質マグマによる火山活動が起こった。このときできた溶岩や凝灰岩,火砕流堆積物を主体とする地層をまとめて「大雨見山層群」という。「石仏と奇岩群」の岩石の本体は,大雨見山層群の流紋岩溶岩である。この溶岩は,中に青灰色の玉ズイ(石英の微小な結晶の集まり)を含んでいて,「球顆流紋岩(きゅうかりゅうもんがん)」という。溶岩の一部は大坂峠近くにも露出し,風化した部分から数cm~こぶし大程の玉ズイの塊を見つけることができる。
石仏岩は,6000万年という長い年月をかけ,風化や侵食を受けた球顆流紋岩が,偶然にも仏様の容姿になって現れたものである。
引用:飛騨地学研究会 寺門 隆治様
曹洞院
下田市街地より県道下田南伊豆線で西に3km程行くと、山合いに第25番札所の曹洞院はある。周りを自然林に囲まれ、静かなたたずまい。シンプルな造りの山門は左甚五郎作と伝えられている。本尊は十一面観音。
幾度かの火災のため記録が焼失してしまっていて、詳細な沿革は不明となっています。かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山とも言われる真言宗の大刹でした。戦乱で焼失した後、1525年(大永5)に七堂伽藍を再建、その際に曹洞宗へと改宗しました。1593年(文禄2)に山火事で類焼しましたが、1596年(慶長元)に再建されています。
23.伝説「左甚五郎の山門」
大賀茂の林山、少林山曹洞院の山門は江戸初期の名匠、日光陽明門にある「眠り猫」の作者、左甚五郎の作と伝えられている。
此の山門は別名「響門」と呼ばれ、寺内にある「金剛水」は弘洪大師ゆかりの井水と共に有名である。
曹洞院は元禄年間に火災のため大部分の建物が焼失したが、響門(山門)は本堂から大部離れた森の中にあったので、幸い火災を免れた。
響門はクギ一本も使わない完全なクサビ門で、中ほどの敷居の上で拍手を打つと前方の山に響きが伝わって、鴬の声に聞えたり小鳥の声に聞えたりして響が伝わってゆくので、響門と呼ばれるようになったと云う。
四脚門の切妻造りで、現在は桟瓦葺であるが、昔は茅葺であったと云う。
斗供は出三斗、中央及び前後の梁の上に蟇股があり、蟇股の中に浮彫が施されている。両側の外部には椿及びぼたん。その裏側にはそれぞれ花菱と桐、中央の蟇股にはおもだかの紋様が刻まれている。おもだかは此の門を寄進した武士の家紋であろうと云われる。蟇股の浮彫をはじめ、虹梁・懸魚・こぶし鼻等
の紋様は、素朴であるが気品を持っている。棟札の銘によると「延宝九年(1681)此門新造」と記されている。
左甚五郎は「一生に同じものを二度と作らなかった」と伝えられるが、「ここの門と曹洞院の門とは同じものだ。嫁があったら尋ねてゆけ。」と誰かに云い残したという事だが、「こゝの門」がどこにあるのかはっきりしない。
先年、曹洞院住職伊藤仁重老師(昭53.8亡)を尋ねて、「響門」の話を伺った時、先代の臼井祖猛師が片瀬の竜渕院の山門が「こゝの門」を指しているのではないか、というのを聞いたことがあると話された。
響門は名工の作として、今日でも柏手を打てば妙なる響を伝えてくる。
下田市の民話と伝説 第2集より
デジタルアーカイブ研究所資料集(飛騨高山編)
はじめに
平成29年度に文部科学省の私立大学研究ブランディング事業の「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」で採択され、3年間にわたりこれまでに本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指し事業を展開してきた。
その中でも「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ」は、以下の点に注力して研究を進めてきた。
①伝統文化産業(飛騨春慶・一位一刀彫等)を多視点でデジタルアーカイブし、歴史的な視点を総合的にまとめ、匠の “こころ”をオーラルヒストリー等により「知の増殖型サイクル」を構成し、これらの一部を海外へ発信することにより伝統文化産業の振興を図る。
②伝統文化産業における匠の技とその歴史的な背景をまとめてデジタルアーカイブ化することで、伝統文化産業の理解と継承が容易になる。さらに、継承の過程で生まれた新しい知見を「知的創造サイクル」で取り込み、その利活用によって地域社会の振興を支援できる。
③フィールドにおける効果検証をするためのデジタルアーカイブ研究として捉え、解の見えない地域課題の解決をするための地域資源デジタルアーカイブとそのメソッドを確立する。
これらにより、地域の知が適切に循環・増殖することで新たな価値の創造と、これらを実践できる高度な専門的な知識を持つ人材の養成による雇用の創出を促進し、その結果として「知的創造サイクル」としてデジタルアーカイブの効果が認められ、さらにデジタルアーカイブの新たな展開が期待できる。また、これにより大学は地域に開かれた「知の拠点」となりうる。
この「デジタルアーカイブ研究所資料集(飛騨高山匠の技編)」は、本学が展開しているデジタルアーカイブの最新成果であり、これらの研究の拠点となるデジタルアーカイブ研究所では、大学が大学としてのアイデンティティを確立するためにも、「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的な大学デジタルアーカイブを構築することを支援している。今後は継続してデジタルアーカイブ研究に取り組むとともに新たな養成カリキュラムを構築することが本学として社会的な責務と捉えている。
2023年10月 デジタルアーカイブ研究所長 久世 均
岐阜女子大学 デジタルアーカイブ研究所
資料集(飛騨高山匠の技編)
発行年月日 2023年10月
発 行 所 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
〒500-8813
岐阜県岐阜市明徳町10番地 杉山ビル4階
印 刷 所 有限会社 青山印刷
高山市長との協議
1.日程 11月15日(水)9:00~14:00
2.高山市長との協議
3.参加者
一般財団法人 飛騨高山大学連携センター
①六角センター長
②木岡副センター長
岐阜女子大学
③松川学長
④久世 4名
4.内容
1.岐阜県私立大学地方創生推進事業について
2.飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集
(上)(中)(下)(左甚五郎編)
3.資料の活用について(協議)
4.その他
資料
南禅寺
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜(ずいりょう)山大平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山(かめやま)上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)の法を継いだ無関普門(むかんふもん)(仏心(ぶっしん)禅師、大明(たいみん)国師)を招いて開山とした。門下の規庵祖円(きあんそえん)が第2世となってこの寺の基礎を築いた。1299年(正安1)亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちでとくに優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧(いっさんいちねい)、第5世約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世夢窓疎石(むそうそせき)、第15世虎関師錬(こかんしれん)、第39世春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が入山した。南禅寺の社会的な地位はきわめて高く、1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3・永徳3)に足利義満(あしかがよしみつ)が京都鎌倉五山十刹(じっさつ)の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれた。歴代の朝廷や足利、豊臣(とよとみ)、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝(いしんすうでん)が幕府の信任を受けて寺社関係の政策をつかさどり、1615年(元和1)寺社奉行(ぶぎょう)の前身である僧録司(そうろくし)となった。
諸堂伽藍(がらん)は1467年(応仁1)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂(はっとう)、方丈、勅使門など現存の建物は安土(あづち)桃山時代以後の建造物である。山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)大坂夏の陣に倒れた将士の菩提(ぼだい)を弔うため藤堂高虎(とうどうたかとら)によって再建されたもので、天下竜門といい、上層の楼を五鳳楼(ごほうろう)とよぶ。また歌舞伎(かぶき)の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門(ごえもん)の伝説で有名。方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。大方丈は1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町(おおぎまち)院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信(かのうもとのぶ)・永徳(えいとく)筆と伝える豪華な桃山式の襖絵(ふすまえ)がある。小方丈は旧伏見(ふしみ)城の遺構で、狩野探幽(たんゆう)筆と伝える襖絵『水呑(みずのみ)の虎(とら)の図』は名高い。大方丈南面の庭園は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水(かれさんすい)庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」とよばれる。北側には宗〓(そうへん)流の茶室不識庵(ふしきあん)があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣といわれる。寺宝には、亀山天皇宸翰(しんかん)禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相(ちんぞう)大明国師像』、『釈迦(しゃか)十六善神画像』、『薬山李〓(やくさんりこう)問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨(だるま)像』(祥啓筆)などの絵画、彫刻では木造聖観音(しょうかんのん)立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(ぼたんもようこうごう)(以上、重文)などがある。
塔頭(たっちゅう)は現在、金地(こんち)院、天授(てんじゅ)庵、帰雲(きうん)院、光雲(こううん)寺、聴松(ちょうしょう)院、真乗(しんじょう)院、高徳(こうとく)庵、法皇(ほうこう)寺、慈氏(じし)院、正因(しょういん)庵、正的(しょうてき)院、南陽(なんよう)院の12院がある。金地院には『渓陰小築(けいいんしょうちく)図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)などや、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓(はっそう)席(重文)がある。また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地といわれている。
日輪神社
鎮座地 丹生川町大字大谷宇漆洞五六二番地
祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ 稲荷)・火武主比大神(ほむすびのおおかみ 荒神)・奥津日子大神(おきつひこのおおかみ 荒神)・奥津比女大神(おきつひめのおおかみ 荒神)・菅原道真公(すがわらみちざねこう 天神)
由来 当社は創立年代は不詳であるが山そのものが御神体として崇敬が暑く第百二代後花園天皇の永享年間(皇紀二〇八九~二一〇〇、西暦一四二九~一四四〇)小八賀郷の領主斯波氏が再興し、社嶺を奉献した。中古以来「日輪」と称し、寛永元年再建し、宝暦四年には現本殿を再営した。明治四十年には区内の稲荷・天満・荒神の三社を合祀した。
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