壷屋焼
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋で主に生産されている陶器です。焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっています。
壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされています。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたと言われています。
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
やがて1682年(天和2年)、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。
沖縄の海洋保全 軽石
【軽石の被害】
気象庁は2021年8月13日に小笠原諸島の付近の海底にある火山「福徳岡ノ場」噴火したと発表(気象庁)。この噴火で生まれた大量の軽石が「黒潮反流」という西向きの海流に乗って1,400キロ離れた沖縄・奄美地方に漂着して深刻な被害が出た。「福徳岡ノ場」は小笠原諸島・硫黄島の南約50キロの海底火山で、噴火は2010年2月以来11年ぶりだった。
海面を埋めた軽石が黒潮反流に乗って西に流れ、10月4日に沖縄県の北大東島と南大東島に漂着。11日に鹿児島県の奄美大島、13~14日には沖縄本島でも確認された。鹿児島県喜界町では10日に東海岸で軽石の漂着を確認。23、24日にはボランティアが一部の海岸で軽石の撤去を始めた。
軽石による被害は、養殖用のいけすで魚がエサと間違えて軽石を摂取したことで大量死する被害や、船舶のエンジンの故障の恐れから漁業者やフェリーの運航ができない日が何日も続く被害、リゾートホテルのビーチが一面軽石に覆われるなどの被害が連日報じられた。
【沖縄県読谷村長浜の養殖場付近の被害】
撮影場所は沖縄県読谷村長浜の養殖場付近で、海水面は軽石で茶色く濁り、砂浜にも軽石が堆積し、軽石が養殖の現場まで広がっている様子が見られた。
資料(メタデータ)
沖縄の海洋保全_軽石
沖縄の生活文化 備瀬のフクギ並木
沖縄では年中海からの風が吹いている。特に、古くからの住まい(古民家)に台風等の強風が直接あたることを防ぐための工夫として、「建物をサンゴ石灰岩の石垣で囲む」と「防風林を植える」が挙げられる。
防風林には沖縄独特のフクギという木がよく使われてきた。フクギは根を深く張り、幹も丈夫で、台風などの大風が吹いても倒れにくい。また、分厚い葉が密に付くことから風害や塩害にも強い。
沖縄県北部地区の国頭郡本部町備瀬には、数百年のフクギの木々が立ち並ぶ「備瀬のフクギ並木」がある。この集落には樹齢300年以上の樹木もあり、家々を囲むように植えられ、入り組んだ白砂の道の左右から高く伸びた枝葉は頭上で合わさり、トンネルになっているところもある。フクギ並木は海に隣接しているこの集落を暴風雨や台風から守り続けてきた。
フクギの鮮やかな緑や、この木がつくる木陰は古き良き沖縄らしい町並みの風景ともいえ、観光スポットしても有名である。並木の間をゆっくり徒歩で散策したり、レンタサイクルでサイクリングしたり、牛車乗りも体験できる。
フクギの並木は、シュノーケリングも楽しめる備瀬崎の海までの約1kmにわたって続いていて、ゆったりとした島時間が流れている。
資料(メタデータ)
沖縄の生活文化_備瀬のフクギ
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③御茶屋御殿
吉屋チルーは17世紀頃に存在したといわれている琉歌人で、幼いときに遊廓へ売られ、ある男性と恋仲になるが裂かれ18歳で自死したと伝えられている。
御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)はかつて琉球王府の別邸で、国王が遊覧し冊封使などを歓待した場所であった。御茶屋御殿を主題とした吉屋チルーのものとされる琉歌がある。
(琉歌)拝(う)で拝(うが)んぶしゃ首里天加那志(しゅゆゐてぃんじゃなし)遊(あそん)で浮(う)ちゃがゆる御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)
(意味)拝顔すると去り難いのは首里の国王様であり、宴席で去り難いのでは御茶屋御殿である。
「御茶屋御殿」は1677年に作られ、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われ、敷地内には望仙閣・能仁堂・茶亭が並び、周辺には築山や池、石造物が配されるなど、独特の意匠を凝らした庭園造りがなされていた。敷地の北側(現在は城南小学校が所在する場所)には菜園が広がり、そこでは様々な薬種の栽殖が行われていた。
御茶屋御殿の建造物は第二次世界大戦で全て破壊され、現在はカトリック首里教会および付属幼稚園、一部城南小学校が建ち、当時の面影を感じることはできない。私有地のため、教会入り口には「御茶屋御殿見学の際は教会事務所へ一声かけるように」との注意書きがある。
2000~2005年度に御茶屋御殿周辺の発掘調査を沖縄県立埋蔵文化財センターが実施し、報告書(沖縄県埋蔵文化センター 2003『御茶屋御殿跡遺構確認調査報告書』)を公開している。
第二次世界大戦によって破壊された「御茶屋御殿」の玄関前約40mの岩陰にあった石獅子は、1979年に戦前の写真をもとに修復され、1986年に那覇市指定文化財(有形民俗文化財)「御茶屋御殿石獅子」として登録されている。その後、石獅子のあった岩陰ががけ崩れの恐れが生じたため、現在は、御茶屋御殿より450m先、徒歩6分程度の「雨乞御嶽」付近に移さえている。石獅子と「雨乞御嶽」周辺は首里が一望できる展望台を備えた「首里崎山公園」として整備されている。
資料(メタデータ)
沖縄の歴史上人物_吉屋チルー③御茶屋御殿跡
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー②仲島の大石
吉屋チルーは琉球王国の遊女で、琉歌の歌人でもある。「吉屋チル」「よしや」「吉屋」とも表記する。
吉屋チルーは読谷山(ゆんたんざ;今の読谷村)の貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳で那覇の仲島遊郭へ遊女として売られてきた。よしやは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿とよばれる金持ちに身請けされたため、添い遂げられず悲嘆にくれ、食を絶って18歳で亡くなったといわれている。
吉屋チルーの代表作のひとつに以下の歌がある。故郷を後に遊郭へ向かう中、大きく深い川(比謝川)にかかる橋を渡る不安と恨みを込めて詠んだ歌といわれている。
(琉歌)恨む比謝橋や情きねん人ぬ 我ん渡さと思て掛きてうちぇさ
(意味)恨めしい比謝橋は情けのない人が私を渡そうと思って掛けておいたのだろうか。
また、仲島を詠んだ歌もある。
(琉歌)仲島ぬ花と美らさ咲ちなぎな 詠だる琉歌数に心くみて
(意味)仲島の花と美しく咲きながら詠んだ歌の数々に心を込めて
仲島の大石は沖縄県立図書館と那覇バスターミナル、商業施設の複合施設の裏手、朝夕と多くの人が行き交う場所に位置している。
17世紀後半、仲島の大石のあった仲嶋村(仲島村)には首里王府によって遊郭が公的に設置されていたとされている。
沖縄県立図書館、沖縄県立博物館・美術館には1770年頃の古地図が現存しており、デジタルマップ「沖縄・首里那覇港図屏風展」として公開されている。この屏風絵にも仲島の大石は描かれているようである。