栗林公園
栗林公園の平庭部の広さは、東京ドーム3.5個分にあたる約16.2ヘクタール。これだけでも大名庭園の中では最大級ですが、背景となっている紫雲山を含めた面積は、なんと東京ドーム16個分の約75ヘクタールにも及び、文化財に指定された庭園の中では日本一の大きさを誇ります。
国の特別名勝に指定されている庭園の中で最大の広さをもつ栗林公園は、歴代藩主が百年余りの歳月をかけて完成させた大名庭園。松の緑濃い紫雲山を背景に、6つの池と13の築山を巧みに配し、江戸時代初期の回遊式大名庭園として、すぐれた地割り、石組みを有し、木石の雅趣に富んでいます。また、春のウメ・サクラ、夏のハナショウブ・ハス、秋のカエデ、そして冬のツバキと四季折々の風物にも恵まれ、ここに咲く花々は、一歩一景といわれる変化に富んだ美しさを一層醸し出します。全体にかけて生み出す美しい風景が、明治時代に発行された高等小学読本には、「日本三名園」(水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園)よりも「木や石に風雅な趣がある」と記されているほど。
栗林公園の歴史や文化の紹介、伝統的工芸品の展示を行っている商工奨励館のほか、美しい景色を眺めながら抹茶や煎茶がいただける掬月亭などもあります。
旧青山別邸
青山家は明治・大正を通じ、にしん漁で巨万の富を築き上げました。その三代目、政恵が十七歳の時、山形県酒田市にある本間邸に魅せられ大正六年から六年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸です。
旧青山別邸は平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です。
青山留吉、政吉の親子二代に亘り財を成し、青山家最盛期の大正6年、二代目政吉が娘夫婦の民治・政恵と共に、別荘の建設にとりかかりました。
当時、にしん大尽と呼ばれた政吉は、美意識が高く、一流好みでした。 その為元場とは違う芸術的な建築物を目指し、約6年半の歳月を要して完成させました。
三代目政恵は17歳の時、山形県酒田市の本間家邸宅に幾度となく招かれ、その豪勢な建物に魅せられていました。 当時、本間家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われる程の日本一の大地主でした。 父政吉が別荘の建築にとりかかった時に、政恵は「あの本間邸以上のものをこの祝津に建ててやろう」と決心したのでした。
にしん御殿(旧青山別邸)建築費三十一万円、当時、新宿の有名デパートの建築費が五十万円ほどと言いますから、この別荘の豪邸ぶりがおわかりいただけると思います。
政吉は、山形県酒田から宮大工の棟梁 斎藤子之助、石垣清治郎、土門市太郎を呼び寄せ、その指揮の下、左官頭 佐藤朝吉、 建具頭 西野岩吉、瓦師頭新家長松、石工頭 福田喜太郎、佐藤丑太郎をはじめ総勢五十数名の職人たちが技を競い合いました。
材料は酒田より欅を大量に運ばせました。 積雪の多い北海道では珍しい瓦葺き屋根、軒下はすべて手彫りによる彫刻が施されました。 また、床や柱は欅の春慶塗り、漆くい壁、神代杉の幅広天井、うぐいす張りの廊下、端から端まで継ぎ目のない一本物の長押し。 紫檀、黒檀、タガヤサン、白檀を使った書院づくりの床の間。 ふすまの引き手は七宝焼(当時は宝石と同価値)。 欄間は、竹、紫檀、白檀に彫刻が施されている。 建物の三方に庭があり、家族だけが見るために造った池泉庭、松と石を組み合わせた、趣深い枯山水の中庭など数え上げるときりがありません。
また、狩野派の流れを汲む日本画の絵師たちが競って描いたふすま絵、書も見事なものです。
百済寺
百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 – 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる[3]。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。
金剛輪寺
金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。本尊は聖観音菩薩(秘仏)。地名から松尾寺ともいう。創立者は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。現在は「血染めのもみじ」と呼ばれる有名な紅葉の名所となっている。
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば聖武天皇の勅願で奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848年 – 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。また、石垣で作られた多くの僧坊の跡も残っている。
本堂は、元寇の戦勝記念として近江守護佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる。
鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。
天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
江戸時代以降は次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。
慶応4年(1868年)1月8日、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て当寺で赤報隊が結成された。
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都市伏見区深草にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は単立神社となっている。
旧称は「稲荷神社」。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。
京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する。平安時代、東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守神となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与したという。
明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。
祭神
祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。主祭神である[10]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている。
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) – 下社(中央座)
佐田彦大神(さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) – 上社(南座)
田中大神(たなかのおおかみ) – 下社摂社(最北座)
四大神(しのおおかみ) – 中社摂社(最南座)
稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった[11]。
田中大神および四大神について
摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている。
下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。
中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。江戸時代の国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメの御子神であり、四季を表す神とも考えられる。
白山神社(京都)
加賀国(現・石川県)の白山権現(現・白山比咩神社)の第八社で、平家の武士達が乱暴狼藉を働いた。これに怒った白山権現の僧徒達は、治承元年(1177年)に3基の神輿を担いで京の内裏まで強訴に押し寄せた。が、護衛の武士に蹴散らかされてしまい再び神輿を担いで加賀国に引き上げることにした。しかし、神輿の担ぎ棒が僧らの肩に食い込み、ついに麸屋町通り押小路辺りで神輿の1基が動かなくなってしまうと、僧らは神輿をその場(現在白山神社がある場所)に放置して加賀国へ帰っていった。神輿が野ざらしになっているのを見た付近の住民は、社を建立してその場所で祀ることとした、これが当社の始まりである。なお、白山権現から担いできた他の2基の神輿もこの付近に放置されたままであったが、間もなく八坂神社に移された。
江戸時代、後桜町天皇が歯痛を起こした際、女官が白山神社から持ち帰った「神箸(長寿箸)」と「神塩」を歯に付けたところ歯痛が治った。その礼として天皇は白山神社に御紋付提灯を寄進している。それ以来、当社は歯痛の神様として知られるようになった。
天明8年(1788年)の天明の大火で全焼し、再建されたが、元治元年(1864年)7月の禁門の変の兵火により再び全焼した。しかし、後に復興されている。
平和への願い ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期、米軍のガス弾攻撃によって亡くなった多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者を弔うため、1946年4月5日、真和志村民らによって伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑である。
「ひめゆり」の名前の由来は、当時沖縄県立第一高等女学校が「乙姫」、沖縄模範学校女子部が「白百合」と名付けられていたことから、その両方の名前を合わせて「姫百合」となった。その後、戦後になってひらがなで「しらゆり」となったと伝えられている。
1983年1月、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示し、戦争の悲惨さを後生に伝えるため、元ひめゆり学徒隊(団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会)は、資料館建設期成会を設置した。その後1989年6月23日、ひめゆりの塔の隣地に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。
館内には6つの展示室と多目的ホールがあり、平和で希望に満ちた学生生活の様子や、そこから一変して戦争に巻き込まれたひめゆりの学生たちの様子や証言を写真や映像とともに見学することが出来る。
また、資料館には戦争によって焼け焦げてしまった当時の生徒の持ち物や医療器具なども展示されており、どれほど恐ろしく、そしていかに一般市民を巻き込んだ戦争であったのかを知ることが出来る。
資料(メタデータ)
平和への願い_ひめゆりの塔・ひめゆり祈念資料館
沖縄の歴史 首里金城町石畳道
首里金城町石畳道は、1964年(昭和39年)5月1日に文化財(県指定史跡・名勝)に指定された。
尚真王時代(1477~1526年)、首里の街の中、首里と各地方を結ぶための道が整備され、1522年ごろ、首里金城町石畳道は首里と島尻地方を結ぶ道筋として整えられた。
首里金城町石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4㎞総延長10㎞の官道であり、真珠道の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造がはじまった。
第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊されたが、金城町に現存する238mの区間は、琉球石灰岩が敷かれた当時の石畳道の姿を現在に伝えている。
日本の道100選にも選ばれた景勝地でもあり、沖縄県指定文化財である。首里城公園の南側斜面に位置し、14~19世紀にかけて栄えた琉球王朝時代の石畳古道である。
参考:那覇市観光資源データベース,https://www.naha-contentsdb.jp/spot/662(2022/12/3アクセス).
資料(メタデータ)
沖縄の歴史_首里金城町石畳道
平和への願い 戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー(仲本 實 氏)
「戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー 仲本實氏」は、沖縄戦の戦中・戦後に小学生であった仲本實先生に、米軍の上陸前後あら収容所までの戦争体験を子どもの視点でオーラルヒストリーとして聞き取りしたデータをもとに、本学が制作・公開しているWebサイトである。
聞き取りをしたデータから教材として適する話しを抽出して作成している。
沖縄戦では多くの人々が犠牲となり、現在も沖縄の人々の心に深い悲しみとして残っている。沖縄本土復帰50年が経ち、戦争体験者の高齢化が進み、戦争体験者の話を直接機会が少なくなりつつある現在、次世代への継承の重要性が課題とされている。
URL:http://www.gijodai-okinawa.jp/ohrai/nakamoto_oral_201309up/index.html