唐招提寺
・唐招提寺は天平宝字3年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建された。飛鳥時代に仏教が伝来して以来、戒律は概念として知られながらも、さほど重視されていなかった。奈良時代に入り、その重要性が知られ始めたが、日本には授戒を行える僧侶がおらず、授戒の体制整備が急がれた。鑑真和上は朱鳥2年(688)、中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家。21歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられていた。
そこで興福寺の栄叡(ようえい)と普(ふ)照(しょう)が唐へと渡り、南山律宗の継承者である鑑真に、伝戒師としての来日を要請。鑑真は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意、5度の渡航失敗の後、来日決意より10年後の天平勝宝5年(753年)、65歳でついに九州へと上陸を果たす。鑑真は5年間東大寺に座し、天皇や僧侶400人に戒律を授け、天平宝字3年(759年)、戒律を学ぶ為の道場である唐招提寺を開いた。律宗総本山としてその法灯を今に伝える。国宝金堂の背後には、教義を説く為の講堂が建てられている。
この講堂は、平城宮の東朝集(ちょうしゅう)殿(儀式に出席する臣下の控え室)であったものを、平城宮改修の際に下賜され、天平宝字4年(760年)頃に唐招提寺へ移築したものである。大幅な改修が施されているが、平城宮の唯一現存する宮廷建築として非常に貴重である。
参考資料『唐招提寺 リーフレット』
・平城宮展示施設に創建当時の東朝集殿が復元されている。この朝集殿は、屋根勾配は緩やかで、ゆったりとした印象である。柱はひとまわり太く、扉は厚板の板であった。
平城宮から移され、唐招提寺の講堂として生まれ変わった。そして宗教施設として大改造がなされ、建具が入り、屋根は切妻造りから入母屋造りに改められた。この講堂は鎌倉時代に大修理されている。
*平城宮跡 説明版より
・鑑真和上は759年に、新田部親王旧宅の地を賜って開創した。境内には現在、天平建築の金堂、平城京から移築された講堂、三面僧坊東室の後身とされる礼堂、元経堂と推定される鼓楼、創立当時からの校倉2棟、境内西部に石造戒壇などが遺る。山内には80件700点余に及ぶ国宝、重要文化財が遺存する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.1
資料集
029_034_唐招提寺
平城京
唐と新羅が再編成した東アジアで、日本が生き残るためには、強力な政府を建設する必要があった。政府は先進国の唐帝国を手本にして国を統治する律令制度を導入し、仏教の国教化を促進してゆく。飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮・難波(なにわ)京・藤原(ふじわら)京と都市建設の実験を繰り返しながら、710(和銅3)年3月、平城に遷都して都が完備された。国土の中心に天皇の政府が所在する都城を営み、地方には政府の意志を代行する国府(こくふ)をおき、その傘下に郡(ぐん)・郷(ごう)・里(り)を配置するという、壮大な構想であった。聖武天皇は天平12年(740)~天平17年(745)まで都を転々と移すが、天平17年~延暦3年(784)、再び平城京を都としている。
平城京は朱雀大路をはさんで西側を右京、 東側を左京という。条坊地割りによって区画された。朱雀大路の南端には羅城門、北端には朱雀門があり、朱雀門より中は1 km四方の平城宮となる。大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所、庭園がある。奈良時代前半、大極殿は朱雀門の真北にあった。しかし後半には、東側に第二次大極殿が建てられている。
平城京の一部建物は平安京への遷都後も長く継続し、官立の大寺である東大寺・興福(こうふく)寺・元興(がんごう)寺・大安(だいあん)寺・法華(ほっけ)寺・西大寺・唐招提(とうしょうだい)寺・薬師(やくし)寺などは移っていない。平安遷都後もこれらの寺院は奈良を南都と称し平安京政権の精神的な支えとなり、宗教的な都市となった。
参考文献 町田章編『古代史復元 8 古代の宮殿と寺院』㈱講談社 1989年
奈良文化財研究所発行 平城宮跡リーフレット
資料集
030_035_平城宮
飛騨町
飛騨町一帯には飛鳥、奈良時代、木工に秀でた多数の飛騨匠が飛騨から招集され、日本初の都城・藤原京造営のため長く住んでいたと伝えられている。
藤原京造営が終わったあとの天平勝宝8年(756)に、孝謙天皇が当地の「飛騨坂所」と呼ぶ領地を南都・東大寺に与えた。その書き付けが内閣文庫所蔵の東大寺文書として残っている。当時すでに「飛騨」の地名が定着していたことになる。
東大寺領はその後、幾多の変遷を遂げながらも鎌倉時代の後期まで領有が続くが、室町時代の後期に至って当地の豪族・越智氏の支配下に入ってゆく。
江戸時代の初めごろから「飛騨村」と呼ばれた当地は、幕府や郡山藩などの領域となったあと、延宝7年(1679)に再び幕府領となった。
明治22年に鴨公村の大字となった同地が、昭和31年の橿原市発足により飛騨町となった。上飛騨町の区域は、東西約450m、南北約560m。飛騨町は上飛騨町の西側に隣接、東西約260m、南北約460mである。上飛騨町区域の北端に国指定史跡の藤原京朱雀大路跡がある。
奈良における「飛騨」の地名は、古代朝廷に全国の各地から動員された人々が、出身地国名を奈良の居住地名に使った名残である。(引用:橿原市公式ホームページより)
資料集
031_036_飛騨町
寿楽寺
『日本書紀』朱(しゅ)鳥(ちょう)元年(686)の記事に、大津皇子謀反事件に関与したとして、新羅の僧・行(こう)心(じん)(幸甚)が飛驒国伽藍へ流された事件がある。行心は死罪を免じられ、飛騨国の寺院に流された。大津皇子は天武天皇の第3皇子で、文武に優れた人物であった。異母兄弟の草壁皇子が皇太子であるのに対し、大津皇子は太政大臣となり、政治的野望を持つ者が大津皇子の下に集まった。天武天皇の死後、大津皇子は謀反の疑いで捕えられて自害している。行心が流された飛騨国伽藍は寿楽寺廃寺で、行心は子隆観を伴って配流された。16年経って免罪されて隆観は都へ戻ったが、行心の生死については明らかではない。
寿楽寺跡地は道路改良に伴い、岐阜県教育文化財団が平成10~12・15年度の4次にわたり発掘。結果、講堂基壇跡と回廊遺構が発見された。また回廊西に接して礎石建物跡、さらに西には竪穴建物跡群も確認している。礎石建物は僧坊、竪穴建物群は周辺集落と推定された。なお、伽藍中枢部は現在寿楽寺本堂の建っている場所と考えられ、本堂背後に地表面が盛り上がる区画があって、金堂と塔跡の可能性がある。
硯(すずり)、鴟(し)尾(び)、瓦類、「高家寺(たかや)」の墨書がある須恵器など寺院と深くかかわる遺物が出土。瓦では飛鳥時代の瓦7種が出土し、尾張元興寺跡で出土している単弁六葉忍冬蓮華文軒丸瓦と簾状押引四重弧文軒平瓦がセットで出土している。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』(協)飛騨木工連合会発行 平成14年
『高山市史・考古編』
資料集
032_037_寿楽寺
法隆寺
607年(推古15年)、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)が父・用明天皇のために創建した。聖徳太子は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、「斑鳩宮」の建造に着手、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。法隆寺の東院の場所が斑鳩宮の跡地である。
法隆寺の境内は全体が築地塀に囲まれ、西院と東院に大きく分かれる。寺の中心である西院伽藍には国宝の建物群、五重塔と金堂が並び、中門と大講堂をつないで回廊が囲む。東に向かって東大門を抜けると夢殿のある東院伽藍が広がる。国宝・重要文化財の建築物は55棟に及ぶ。また、仏教美術品の数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点にもなる。
法隆寺西院伽藍は現存する世界最古の木造建築群であるが、聖徳太子(622年没)在世時の建物ではなく、創建時の伽藍が天智天皇9年(670年)に焼失した後に再建されたものであるということが発掘調査、年輪測定によって明らかになった。
国宝釈迦三尊は金堂の本尊で、光背の裏面に銘文が刻されている。この光背銘によれば、釈迦三尊像の作者は、司馬鞍首止利仏師(鞍作止利)である。止利は鞍作多須奈の子で、司馬達等孫。達等は『日本書紀』によれば継体天皇の時代に渡日した漢人で、止利は渡来人の子孫ということになる。一族は「鞍部」(鞍作)を称し、鞍などの馬具製作の技術者集団だったようで、その金工技術を仏像製作に応用したものと考えられている。
釈迦三尊⇒釈迦如来像を中尊とし、その左右に両脇侍(きょうじ)像を配した造像・安置形式を釈迦三尊と称する。脇侍は寺伝では薬王菩薩・薬上菩薩と称している。
鞍作止利(鳥)⇒光背銘 文字面33.9cm四方に、196字を14行、各行14字で鏨彫りしている。1行の字数と行数を揃える形式は日本で唯一のもの。
大意は「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた」である。
鞍作鳥は飛鳥大仏も作った ⇒飛鳥大仏像の完成は、『元興寺縁起』による609年完成説が定説。当初、像には脇侍像があったと記され、坐像の下方にある石造台座に両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったらしい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.3.5
資料集
033_038_法隆寺(飛鳥時代)
飛鳥大仏
重要文化財1940年指定、名称「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」、像高は275.2cm
『日本書紀』や『元興寺縁起』に見える「鞍作鳥(止利仏師)」作の本尊像で、後世の補修がある。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊「釈迦三尊像(623年作)」の作者でもあり、法隆寺の像の光背銘には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)とある。
飛鳥大仏像の完成は、『元興寺縁起』による609年完成説が定説で『縁起』によると、当初、像には脇侍像があると記される。現在、大仏坐像の下方にある石造台座には両脇侍像用とみられる枘穴が残る。鎌倉時代の建久7年(1196)の落雷のための火災で甚大な損害を受た。奈良国立文化財研究所は昭和48年(1973)に坐像の調査を行ない、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。2012年7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが行った調査結果によると、現存像の大部分が造立当初のものである可能性が高いとした。また鋳造専門家の調査でも銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法と推定している。
『日本書紀』によれば完成後、丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。
資料集
034_039_飛鳥大仏
月ヶ瀬 飛騨匠の碑
帰化人である鞍部多須奈が用材を求めて飛騨入りし、天生山中の月ヶ瀬(飛騨市河合町)に住む九郎兵衛の娘「忍」と結ばれて子供を授かった。生まれた子は鳥のような首をしていたので「鳥(とり)」と名付けられたという。その後、鳥は17歳で大和へ旅立ち、父多須奈に技術を習って彫刻師となって法隆寺の釈迦三尊像など数々の名作を刻み、止利仏師として名を残している。また、飛鳥寺(法興寺)の日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏、釈迦如来像(606年)も止利の作といわれる。「日本書紀」は、止利仏師の父を鞍部多須奈、祖父を鞍作司馬達等と記している。司馬達等は大陸からの渡来人といわれる。
飛鳥時代1番といわれる仏師であることは美術史の通りであるが、飛騨市河合町には、止利仏師の生誕地としての伝承が長い年月にわたって伝えられてきた。それを実証する確かな史料は残っていないが口伝えにより、河合町の月ヶ瀬には飛騨匠の碑が建ち、近くを流れる小鳥川には多須奈淵、忍岩、神女の泉などの名がつく場所がある。また、天生には多須奈が飛騨入りした際に山が荒れるのを鎮めるため、聖徳太子像を祀ったという聖徳太子堂跡の碑も建てられた。天生峠の匠堂では匠祭りが行なわれ、止利仏師生誕伝説を今に伝える勇壮な匠太鼓があり、止利仏師生誕伝承による飛騨の匠発祥の地として認識されている。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』45~47頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
035_040_月ヶ瀬村 匠の碑
桜山八幡宮
<祭神>応神(おうじん)天皇・熱田(あつたの)大神、香椎(かしいの)大神
末社 稲荷(いなり)神社、天満神社、秋葉神社、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくまの)命など
<由緒> 桜山八幡宮の創建は、遠く仁徳天皇の御代にさかのぼる。
飛騨の両面宿儺を攻めた難波根子武振熊命は、飛騨への侵攻にあたって道沿いに八幡社を祀って戦勝祈願をした。八幡社は先帝(御父君)応神天皇の尊霊を祭神とする。
元和9年、高山の国主金森重頼は、江名子川から発見した御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに、応神天皇の御神体として奉安した。そこで早速社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定めて神事を管理し、高山城下町の総鎮守社とした。
明治25年には飛騨国中随一の大神輿が造られ、昭和43年には屋台会館が造られた。昭和51年には総桧造りの社殿を改築。
<祭祀> 例祭には金森国主より奉行正副が特派され、神事を管理せられた。奉行祭は幕府直轄となってからも復活し、祭日には代官所が休庁となり、郡代自ら幣帛を捧げて参拝した。例大祭は金森時代には3年に1度、享保の頃は毎年8月1日に行なわれていた。
例大祭・試楽祭10月7日午後7時、引き続いて屋台順番抽籤祭・年行司順番抽籤祭。献幣祭(例大祭)は10月9日午前10時。屋台曳き揃えは9日表参道、宵祭9日午後6時半より、御神幸祭10日午前8時、御旅所祭同正午、還御祭同午後5時。試楽祭10月7日。例大祭10月9日。御神幸祭10月10日。八幡宮の屋台は現在11基ある。
参考文献
『飛騨の神社』388~391頁 飛騨神職会発行 昭和62年11月3日
1 概 要
仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命(ちょくめい)を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。
その後、聖武天皇の御代(8世紀)諸国に八幡信仰が栄え、往古は数百本の桜樹が花を競い境内はいっそう整えられたとも言われる。
大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱の時代が続き境内は一時荒廃した。
元和9年(1623)高山領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。以後高山北部を氏子と定め、例祭には奉行を派遣して神事を管理した(奉行祭)。
飛騨が幕領となり、氏子を初め代々の郡代は篤く崇敬して奉行祭を継承し境内を整えた。神仏混淆の一時期、別当は八幡山長久寺であったが、明治の神仏分離により長久寺を離れる。明治8年高山の大火ににあい、末社秋葉神社を除きほとんど消失したが、同年33年までに境内復興が完了する。かつて奉行祭と呼ばれた例祭(秋の高山祭)が全国に知られる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
2 桜山八幡宮境内地の史跡、末社など
①大原代官寄進の石燈籠(安永7年奉納)
②大石段(19段が各1枚の石)
③大手水鉢
1つの大きな石から彫られている。明治10年(1877)建造。
④飛騨の国学者田中大秀筆の築庭碑
文化2年(1805)神苑整備され、記念としてこの築庭碑が建立された。
⑤逆さ桐の燈籠
魔除けに1ヶ所桐の紋が逆さになっている。
⑥長谷川代官寄進の石鳥居と青銅の扁額
享保15年(1730)社殿再建に伴い代官長谷川忠崇によって寄進された。
⑦高山祭屋台会館
高山祭に曳きだされる屋台(国重文指定)を展示している博物館相当施設。
2012年ミシュラン2ツ星を頂く。
⑧乃木将軍の日露戦争忠魂碑
日露戦争の翌年、乃木将軍が高山へ来て揮毫。
⑨末社 秋葉神社・狂人石
秋葉神社:飛騨が天領の時代に陣屋の鬼門の方向にあたることから、火防鎮護の神と して崇敬されてきた。安永7年(1778)建立。石段80段も含めて市指定 文化財。
狂人石:神社神域を汚すもの、この石に触れると狂人になると伝えられる石。
⑩東郷平八郎元帥の社号碑
⑪天満神社と筆塚
学業成就の神。傍らに筆塚があり、筆供養をすると書道が上達すると言われている。
⑫稲荷神社
五穀豊穣・商売繁盛・養蚕・各種産業の神。例祭日は団子撒きで賑わう。
⑬琴平神社
海上安全の神。社殿の天井に天狗の絵があり、それに口で噛んだ紙を投げつけ、天井につけば病気が全快するという言い伝えがある。
⑭照埼神社
両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神。武勇の神・歯の神。
*説明版より
3 大石段
19段全部が各1枚の石で造られ、当櫻山八幡氏子の人々は「一枚石の段々」と言って誇りをもって伝えている。(長さ3.3m)上の境内には櫻山八幡宮本殿を始め末社の照前・菅原・稲荷・琴平の各社あり。大原騒動時の代官大原彦四郎が寄進した石燈籠一対がある。
*説明版より
4 大原代官寄進の燈籠
大原彦四郎紹正は飛騨の国が天領になってから、第12代目の代官で明和3年(1766)この高山に着任して飛騨一円の統治にあたった。
安永2年(1773)幕府の苛酷な検地命令に反対して幕府の老中へ直訴嘆願や集会など農民一揆が起こり大原代官は、郡上藩の援助をうけ、これを鎮圧し農民は死罪流罪に処せられた。これを大原騒動という。大原代官は再検地の強行で飛騨国を増石した功により、郡代に昇格した。彼も敬神の念篤く、安永7年(1778)八幡神社に石燈籠一対を寄進した。
*説明版より
5 末社 稲荷神社
祭神 倉稲魂(うかのみたまの)神(かみ) 配祀 猿田彦神・松尾大神
例祭 3月2・午の日
江戸時代の始め衣食住の大祖「万民豊栄の神」として深い信仰を受け、ご神威の高い伏見稲荷神社のご分霊を勧請して奉祀した。
そのご神徳は稲生り『生命の根』と讃え、又祓いと導き人の心を和める徳が混和統一されて福徳の信仰が生まれ五穀豊穣・商売繁盛の守り神として崇敬されている。祭典の日は米の粉で作った「団子」を供え撒いたり氏子に配る。
*説明版より
6 末社 照前神社
祭神 難波根子武振熊命(なのわねこたけふるくまのみこと) 例祭 4月24日
祭神の武振熊命は武勇の誉れ高く仁徳天皇の御代に飛騨山中深く両面宿儺と言う兇賊を討伐された時この地で戦勝を祈願された後、命の勇猛さを慕って尚武剛健の守護神とされている。
又、一説には歯の神様とも言われ自分の年令の数だけの煎り豆や穴あき石を供えて祈願すれば、歯が丈夫になると伝えられている。
*説明版より
7 末社 天満神社と筆塚
祭神 菅原道眞公 例祭 7月25日
古くから学問の神様として、受験合格を祈願したり勉学にいそしむ人々に崇敬されている。菅公は弘法大師・小野道風と共に筆道の三聖と称されている。この筆塚に使い古した筆を捧げ、その筆でこの塚の字をなでると書が上達すると伝えられている。
*説明版より
8 秋葉講火消用具及び秋葉神社社殿 附石灯籠・石段・棟札
秋葉講火消用具(江戸時代後期~明治時代)高山市指定文化財(有形民俗文化財)
〈員数〉纏2点、秋葉講元旗1点、秋葉講装束161点
享保、天明、天保年間の50年毎の大火と度重なる火災から人々を守るために天保3年(1832)に秋葉講が結成され、纏や火消装束等が現在まで大切に保存されている。桜山八幡宮所蔵文書によると、装束は天保6年(1835)、纏は天保10年(1839)には製作されていた記録がある。
現在でも秋葉講による、祈願祭並びに、秋葉山本宮秋葉神社(静岡県)への参拝が毎年行なわれている。
秋葉神社社殿 附石灯籠・石段・棟札
〈員数〉社殿1棟、石灯籠4基、石段80段、棟札1枚
秋葉神社社殿は、急な石段80段を上がった所に西面して覆屋内に建つ。社殿は一間社、切妻造、銅板葺、向拝付で、三方に板縁、高欄を廻らし、奥端に脇障子を立てる。正面木階五級、濱床を有する。本柱と向拝柱を海老虹梁で繋ぎ、向拝柱上部には繰型の手挟を備える。妻面は虹梁の上に笈形付きの太瓶束を建て棟木を支える。向拝正面は二重虹梁で下の梁の木鼻は左が獅子鼻、右は獏鼻であり、左右の木鼻の形が異なるという珍しい形となっている。なお、これら木鼻の上にはいずれも皿斗を置き、二つ斗二段の組物を受けている。
棟札から、社殿の建築年代は安永7年(1778)、大工は「高山壱之町住藤原朝臣日川原甚三郎重季」であることが分かる。ちなみに社殿の左右手前に建つ一対の石灯籠にも「安永七年」の銘がある。また、社殿下の平地にある2基の石灯籠は、慶応元年(1865)の年代と町年寄らの名前があり、神社の維持等に町年寄が関わっていたと思われる。
*説明版より
資料集
036_041_飛騨八幡八社・桜山八幡宮
両面宿儺
両面宿儺は高山市丹生川町が出生の地と伝わり、丹生川町の千光寺や出羽が平(現在の飛騨大鍾乳洞近辺)、日面の善久寺、武儀の日龍峰寺などに伝承がある。『日本書紀』では大和朝廷に背いた朝敵として扱われているが、飛騨や美濃の伝説では、宿儺は武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあった。
『日本書紀』に両面宿儺の戦の記述があり、仁徳天皇65年(377年)、飛騨に攻め入った大和朝廷の最強の正規軍である難波根子武振熊に滅ぼされた。書記では宿儺を不具者として扱い、つづいて「掠略」(盗人)すると述べている。これに対して宿儺は飛騨の統領として相当に強大な力を持ち合わせて戦った。
当時の大和朝廷の支配は、畿内中央の最高首長が各地の有力な首長と同盟・連合の関係を結びながら、内外の軍事・外交活動を主宰し、各地の首長に貢納・奉仕を強要する形で勢力を結集していた。朝廷は宿儺に対して、飛騨の人々を引きつれて大和に参上するように求めたのであろうが、宿儺は拒否して戦ったのである。
千光寺ではその開山を両面宿儺とし、飛騨一之宮水無神社では「位山の主は両面宿儺である」と伝えている。また日面地区の善久寺には宿儺菩薩が畏敬の念をもって祀られる。また、関市下ノ保の日龍峰寺には「蛭なし川の伝説」があり、両面宿儺が当山に住む悪龍を退治した時、悪龍の血が滝のように流れ、
農民の血を吸った蛭がこれを吸って蛭は全部死んでしまったといい、今も蛭はいないという。
参考文献 丹生川村史編集委員会編集『丹生川村史 通史編一』丹生川村発行平成12年