国指定・高山陣屋
〈国指定〉昭和4年12月17日
昭和54年10月2日追加指定
昭和55年3月24日追加指定
平成元年1月9日追加指定
〈所有者〉岐阜県(陣屋前広場は高山市)
〈所在地〉八軒町1丁目5番地ほか
〈時代〉江戸時代(17世紀)
〈員数〉11,219.05㎡
八軒町1丁目3番地 305.32㎡
八軒町1丁目4番地 1,209.91㎡
八軒町1丁目5番地 2,419.83㎡
昭和4年指定
八軒町1丁目2番地2 53.09㎡
昭和54年指定
八軒町1丁目1番地1 180.73㎡
八軒町1丁目1番地3 1,411.63㎡
(1番地3のみ高山市所有で陣屋前広場の分)
八軒町1丁目1番地5 792.48㎡
八軒町1丁目6番地 2,475.41㎡
昭和55年指定
八軒町1丁目7番地1 1,244㎡
八軒町1丁目7番地2 1,126.65㎡
平成元年指定
現在遺構
御門 天保3年(1832)
切妻造杮(こけら)葺(ぶき)平家建
門番所 天保3年(1832)
切妻造熨斗(のし)葺平家建
御役所 文化13年(1816)
切妻造熨斗葺(一部杮葺)平家建
御蔵 慶長年間(1596~1615)
片入母屋造石置長榑葺平家建
御勝手土蔵 天保11年(1840)
切妻造熨斗葺2階建
書物蔵 天保12年(1841)
切妻造熨斗葺2階建
その他 供待所、腰掛、中門
天正14年(1586)、金森長近は秀吉の命により飛騨を平定し、領主に任ぜられた。以来、6代107年間にわたって藩政時代が続いたが、元禄5年(1692)徳川幕府は金森頼旹(よりとき)を出羽国上(かみ)ノ山に転封し、飛騨一円を幕府直轄領とした。
それ以来、明治維新に至るまでの177年間に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この御役所を「高山陣屋」と称する。
飛騨代官は関東郡代の兼任で始まり、金森家臣屋敷を会所としていたが、高山城の破却が始まる元禄8年(1695)、金森氏の娘が住んでいた、現在地の向屋敷に代官所を移した。その後4代から専任、7代から常駐となり、11代まで代官、12代から郡代に昇格している。この間、殖産振興に尽くす等善政もあったが、一方、飛騨一円を揺るがした明和・安永・天明の大原騒動、明治初年の梅村騒動の2大一揆もあり、数々の歴史がこの陣屋で展開した。
陣屋設置以来、享保10年(1725)、文化13年(1816)と数度にわたって改築がなされ、幸いにも火災を受けなかった。明治になると、主要建物はそのまま地方官庁として使用され、昭和4年には国の史跡に指定された。昭和44年12月、ここにあった飛騨県事務所が移転し、元禄8年から270余年続いた役所の幕を閉じた。この機会に全国50余カ所のうち唯一現存する史跡を保全するため、岐阜県教育委員会は、文化庁の指導を受けて昭和45年10月から58年12月まで2次にわたり、約7億円を費やして復元修理と復旧事業を行なった。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえり、現在岐阜県教育委員会が管理している。
内部は、玄関の間が文化13年改築のままで残り、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。式台も駕篭(かご)を乗りつけるため低くしつらえてあり、幕府の使者等、身分の高い来客専用であった。御役所大広間も非常に体裁を重んじた意匠となっている。吟味所、白洲はグリ石敷で屋根のあることが特徴的である。事犯の大半は幕府の裁決を仰いでいた。
御蔵は、高山城三之丸に米蔵として建てられていたものを、元禄8年現在地に移築したものである。軸部は慶長年間(1596~1615)のもので、良質のヒノキが使われ、仕上げも蛤刃手斧であり、年代、規模ともに全国有数の穀物土蔵である。壁面の傾斜(四方転び)や通風の隙間など、飛騨匠の手法が見られる。
また、平成元年1月には西に隣接する高山拘置支所が移転された。ここは役宅があったところで、復元整備するため、平成3年度に発掘調査がなされ、用水池跡1カ所、竃跡3カ所、地下式石室(いしむろ)跡1カ所、溝、井戸が発見された。それらを参考に、郡代役宅の復元工事が平成4~7年度にかけて進行中である。
参考文献
『高山の文化財』169~172頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-1-6 国指定・高山陣屋
高山陣屋 年表
陣屋説明文
179_18_陣屋朝市
資料集
006_215_高山陣屋
国指定・照蓮寺
〈国指定〉昭和31年6月28日
〈所有者〉照蓮寺
〈所在地〉堀端町8番地(城山公園内)
〈時代〉室町時代(16世紀)
〈員数〉1棟1枚
本堂(1棟)桁行7間(16.27m)、梁間9間(20.05m)、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺
棟札(1枚)「飛州白川光耀山照蓮寺住持云々 延宝六戊午 十月十九日 奉行三嶋宇右衛門 棟梁池守源五」
永正年間(1504~1521)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る真宗寺院最古の遺構である。荘川村中野にあって中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、昭和33年から35年にかけて現在地に移築された。延宝6年(1678)の棟札や小屋束の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことがわかり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。
杉柾目(まさめ)の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟(ふな)肘木(ひじき)、広縁内部の調和のとれた舞(まい)良(ら)戸(ど)と明(あかり)障(しょう)子(じ)など、仏壇構えの内陣とともに上品な雰囲気が漂う。
参考文献
『高山の文化財』10~11頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-5 国指定・照蓮寺
005_214_照蓮寺
資料集
005_214_照蓮寺
国指定・田中家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 冬頭町982番地)
〈時代〉江戸時代中期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造、東面1間庇付、板葺
この建物は、もと高山市の北部中切町にあったものを二之町薬種商田中屋の第4代田中大秀が買い、冬頭村の田舎(でんしゃ)として文化年間(1804~1818)に移築、手代茂七郎(庶子)に与えたという。1度移築を受けているが、内部は昭和の初めまで建設当初のままで土座形式であった。飛騨の石置板葺の民家の中で18世紀前半まで溯る代表的な建物の1つである。
平面は本来土座の「オエ」の上手に板の間の「デイ」「ブツマ」、裏手に板の間の「ネマ」と土間の「ニワ」、下手に「マヤ」を配したもので、さらに下手外側に下屋が付加されている。この形式は、飛騨地方でも高山市周辺から西は荘川、白川までの大野郡でこの平面形式の民家が見られる。ただし屋根が板葺になるのは高山周辺だけである。北の国府町でも一部この平面形式が見られるが、南の益田郡はこれと異なる。
後世の改造時期については明らかではないが、まず「ネマ」回りの改変があり、次いで「マヤ」回りや正面出入口および「オエ」南側が改造され、さらに昭和になってから「オエ」の土座や「ニワ」の土間に床板が敷かれ、東側の下屋も撤去された。
昭和46年9月、旧所有者田中秀茂氏が高山市に寄贈し、翌年12月「飛騨民俗村 飛騨の里」に移築するため解体工事に着手、昭和48年12月にすべての修理を完了した。
建物の外観は素朴な板葺石置屋根で、勾配が緩く棟高が低くて荷重が軽いため、雪国にしては梁が細く数も少ない。入口を入るとL字形の「ドウジ」、「マヤ」がある。奥にはそれぞれ炉をもつ「オエ」と「ニワ」が広い土座を形成し、「オエ」には深さ60㎝程の「ムロ」がつくられる。「デイ」、「ブツマ」は板敷となり、東西2室の「ネマ」は板壁で囲まれて窓もなく、閉鎖性をもっている。各室とも天井を張らず、屋根裏がむき出しになり、柱は土間回りに栗、部屋に赤松が使われ、土間と外回りは杣ハツリ、部屋回りは丸刃釿(ちょうな)が多い。鴨居は溝を掘らず、付(つけ)樋(ひ)端(ばた)(付(つ)け溝(みぞ))にしてある。小規模な家だが、高山を代表する古い農家である。
参考文献
『高山の文化財』14~16頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-4 国指定・田中家
004_213_田中家
資料集
004_213_田中家
国指定・松本家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上川原町125番地
〈時代〉主屋、米蔵は江戸時代後期、漬物蔵は文政9年(1826)
〈員数〉3棟
主屋(1棟)桁行10.8m、梁間14.5m、2階建、切妻造、鉄板葺
米蔵(1棟)土蔵造、桁行7.9m、梁間5.8m、2階建、切妻造、南面庇付、鉄板葺
漬物蔵(1棟)土蔵造、桁行5.2m、梁間4.2m、2階建、切妻造、東面庇付、南側蔵脇土間付属、鉄板葺
附 主屋漬物蔵間通り土間(1棟)桁行9.5m、梁間2.8m、両(りょう)下(さげ)造(づくり)、南面流し場付属、鉄板葺
明治8年(1875)、二之町で出火した火災は三町、寺内町、八幡町、鉄砲町などに延焼し1,032戸を焼失した。桜山八幡宮、別院など寺院や多くの町家が類焼したが、松本家住宅は火災を免れた。市内の町家の中では最も古く、改造があまりされていない貴重な建物である。
漬物蔵の化粧裏板に「文政9戌年(1826)5月18日屋根棟上」、窓(まど)框(がまち)に「文政9年戊4月27日出来」の墨書が見られることから、主屋の建設年代もその頃と推定される。米蔵の化粧裏板には「嘉永元申年(1848)4月日 大工八賀屋平吉 清助」とあり、建設年代かあるいは屋根修理時の墨書である。
松本家は現在の松本町の出身で、弘化年間(1844~1848)に高山町に分家し、以後蝋燭(ろうそく)、煉(ねり)油(あぶら)商を営んだ。松本吉助の代には、他に明治30年代は煙草製造卸、同40年代には金貸業も営み、明治45年に薬(やく)種(しゅ)商(しょう)原(はら)屋(や)三(さん)右衛門(えもん)、屋号「原三」の家(本建物)を譲り受けたという。上一之町から上川原町へ移ってからは、この建物を居住用に使用し、原三時代の主屋、土蔵、薬行商人宿泊所などを、大改造せずそのまま残したのである。原三は、文化年間(1804~1818)には益田街道沿いであるこの上川原町で商いをしており、松本吉助に売却後は安川通りで原三薬店を開いた。
この住宅は主屋のほか、裏の中庭に面して米蔵、漬物蔵が連なる。主屋の「通りドジ」を裏へ進むと漬物蔵の庇、米蔵の庇とコの字状に庭を囲んでいる。近世末高山の標準的町家の屋敷構えが完存している。
主屋は切妻造2階建で、正面には「のれんかけ」を下げるむくり屋根の小(こ)庇(びさし)や2階の連子窓、1階の出格子などが見られ、高山の町家の典型的な外観を示す。玄関大戸は無双窓の形式になっていて、中桟(なかざん)を動かすと縦の格子戸になる。夕方は大戸を閉めて小さい潜(くぐり)戸(ど)から出入りする。
大戸から「ミセ」の脇の「ドジ」(土間)を抜けると、中は「オエ」から「ダイドコロ」へ続く広い空間になる。梁から小屋組まで吹抜けを見せた空間が意匠的に扱われている。奥の部屋は表側に「オクミセ」続いて「カズキ」「ブツマ」「ザシキ」と4室並ぶ配置で、前後の部屋に1間の食違いを生じさせている。2階には広い座敷や、奥に茶室が設けられている。
南隣りの家屋は浅野氏の居宅であったが、平成元年に市が購入した。もともと原三の商家であり、内部調査の結果、主屋よりも古い建物であることが判明し、保存修理をして管理棟に使用している。
米蔵には松本家の商売用具、生活用品、装飾品などを展示し、漬物蔵には漬物桶や台所用具を展示している。松本家から寄贈された文化財指定建物は、高山の標準的な商家としてその価値は高く、また土蔵内一括資料、民具も明治から昭和にかけての生活を知る上で貴重である。
参考文献
『高山の文化財』16~19頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-3 国指定・松本家
003_212_松本家
資料集
003_212_松本家
国指定・国分寺大イチョウ
〈国指定〉昭和28年3月31日
〈所有者〉国分寺
〈所在地〉総和町1丁目83番地
〈樹齢〉推定1,200年
〈員数〉1本
イチョウ(1本)目通り約10m、高さ約37m
飛騨国分寺の本堂と鐘楼門との間に位置し、樹齢およそ1,200年の雄株で、枝葉密生し、樹間の所々に乳を垂れ、樹勢は盛んである。
由来については往昔行基菩薩の手植と伝えられる。俗に乳イチョウの名がある。乳の出ない母親にこの樹膚を削り与える時は乳がよく出る、といわれている。根元に石像が祀ってある。
昔から、国分寺のイチョウの葉が落ちれば雪が降る、とも言い慣らされている。
参考文献
『高山の文化財』218~219頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-1 国指定・国分寺大イチョウ
資料集
001_210_国分寺大イチョウ
和佐谷橋
和佐谷橋は、手取川を能美市和佐谷と白山市鶴来今町の間で結ぶ全長184mの歩行者専用の吊橋である。吊橋は昭和7年(1932)である。昭和9年(1934)年8月9日の手取川大洪水により流されたがその後復旧した。現在の橋は、昭和40年(1965)に架橋された。以前は、車の往来も可能であったが現在は人のみの通行である。架橋以前は、舟渡しがあった。舟1艘、水夫2名が常駐し、対岸を縄でつなぎ、縄をたどりながら舟が行き来した。鶴来今町の護岸には、当時の舟付き場の舟に乗船するための階段遺構が現存している。和佐谷集落は、手取川左岸に位置している。平安時代後期には、文献にみえ、義経記では、東国落ちた義経と弁慶が舟渡しで渡河し、対岸の白山本宮と、金剣宮に参詣する場面が描かれている。集落は、能美市市に所属しながら、行政サービスでは対岸の白山市鶴来地区に関係が深く、明治39年以降、小学校の通学区は白山市鶴来地区の朝日小学校で現在も変わらない。
特色
昭和7年に架橋され対岸の白山市鶴来地区との地域関わりを持つ重要な橋
メタデータ
和佐谷橋
資料集
084_088_和佐谷橋
美濃禅定道
美濃禅定道は、美濃馬場の中宮である郡上市長滝にある長滝白山神社、長滝寺から、石徹白地区にある白山中居神社を経て、三ノ峰、別山を経て白山山頂(御前峰)に至る信仰の道。総延長は約36㎞に及ぶ。
歴史の道 白山禅定道(はくさんぜんじょうどう)の一部として、平成8年に文化庁より歴史の道100選に選定されている。
メタデータ
美濃禅定道
資料集
083_087_美濃禅定道
比楽駅
比楽駅(ひらかえき)は、平安時代前期に見える古代の駅であり実態、場所は不詳である。「三代実録」には貞観11年2月23日の条に「加賀国比楽河置半輸渡子廿五人」と書かれ、古代の平楽河を渡河するために25人の人夫を置いていたことがわかっている。また、延喜式には、湊として名称が出てきており越前国(加賀国の誤記カ)の国津として出てくる。現在、比定地は不詳であるが、白山市美川地区平加(ひらか)町の安産神社(やすまろじんじゃ)から白山市立美川図書館のあたりが有力である。ここは、砂丘地の先にあり、古代の比楽河が東側に面していたと推定される。古代の比楽河は、平安時代の手取川の本流であり、平楽駅、湊が平安時代において北陸道沿いの重要な交通起点であったと想定される。
特色
古代駅の推定地として有力な地勢であり、将来的に発掘調査等で確認されることが期待される。
平楽駅推定地
メタデータ
比楽駅
資料集
082_086_比楽駅
白峰伝統的建造物群保存地区
白峰伝統的建造物群保存地区は、手取川の源流左岸の河岸段丘に位置する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2メートルを超える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕、製炭および焼畑による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230メートル、南北約960メートル、面積約10.7ヘクタールの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘上に形成される。敷地が限られていたため、主屋が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。 主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造で、年代の古いものは、下屋や軒庇を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪の搬入口として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2センチメートルから3センチメートルの木の枝を使用し、非常に厚い。これらの特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴をよく示している。
特色
白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業に即して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致をよく残し、我が国にとって価値が高い。
市街地全体の伝統的建造物保存地区としての価値が認められ平成24年7月9日に国指定となった。
白峰の冬景色
メタデータ
白峰伝統的建造物群保存地区
資料集
081_085_白峰伝統的建造物群保存地区
白山比咩神社
白山比咩神社・白山本宮・加賀一の宮
(白山市三宮町)
古くから加賀の人たちに崇敬されてきた神社で「白山(しらやまさん)」と呼ばれる。霊峰白山(標高2707m)をご神体とし、伊弉諾、伊弉波、菊理姫を祀る。
白山山頂に奥宮がある他、大汝峰(標高2684m)、別山(標高2399m)にも祭神を祀る。
神社口伝によると創建は崇峻3年(BC91)で舟岡山に創られたと伝わる。その後、応神28年(318)に手取川畔に遷座したという。霊亀2年には、社地が崩壊したため、東南の地(現古宮公園)の地に遷宮したと伝わる。文明12年(1480)、鶴来今町からの出火により類焼し、その後社地を三宮に遷座する(白山荘厳講中記録)。明治2年神仏判然令により、白山寺惣長吏澄遥は三神直藤原澄遥と改名し、神職となる。その後、本地堂、釣鐘堂は取り払われた。本地堂は、解体され、木津町の須郷白山神社として再利用されている。明治4年(1871)白山本宮から白山比咩神社と改称され、国幣小社に列する。
特色
加賀白山信仰の中心的な施設
メタデータ
白山比咩神社
資料集
013_016_白山比咩神社
白山山頂遺跡
いにしえから山岳信仰のメッカとして栄えた白山の山頂部には、平安時代から江戸時代まで使用されていた仏堂跡や宿(しゅく)と呼ばれる宿泊所跡が遺跡として残されている。白山の山頂は、御前峰(ごぜんほう 標高2702m)、大汝峰(おおなんじがみね 標高2684m)、別山(べつさん2399m)から成る。この三峰には、社祠があり白山の諸神を祀る。もともとこの社祠には白山の本地仏(ほんちぶつ)が平安時代から祀られており、明治7年(1874)7月まで安置されていた。明治7年に当時の政府によって推進されて廃仏希釈により仏像が下された(「白山下山仏」という)。御前峰が十一面観音、大汝峰は阿弥陀如来、別山は聖観音である。この周辺には、祈祷の場所として遺構も残る。この存在を初めて確認したのが、昭和60年に國學院大學の考古学研究室が実施した確認調査である。調査の結果、10世紀中頃から16世紀まで使用された祭祀遺物(鏡・経石・懸仏・刀子、経筒、銅銭、陶磁器等)が濃厚に残存していることが判明した。また、かつての噴火口に近い六地蔵堂などでは石垣や明治の廃仏稀釈で破壊された石仏が残存していることが確認されている。」
特色
歴史遺産価値が高く、文化財としての保護措置が求められている。
メタデータ
白山山頂遺跡
資料集
080_083_白山山頂遺跡