近江大津宮跡
史(し)跡(せき) 近江(おうみ)大(おお)津(つの)宮(みや)錦織(にしこうり)遺(い)跡(せき)
西暦667年、天智天皇は新羅(しらぎ)・唐(とう)の連合軍と対戦した白村江(はくすきのえ)の戦いが敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移した。この近江に営まれた宮が大津宮である。天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたが、遷(せん)都(と)後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申(じんしん)の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまった。わずか5年5カ月の短命の都であった。
大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に明確にすることができなかったが、昭和49年にここ錦織2丁目で行なわれた発掘調査により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が13基発見された。この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになった。その後、昭和53年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、内(だい)裏(り)南門(なんもん)と宮の中心を囲う回廊(かいろう)とこれにつながる柵(さく)の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになった。
ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和54年に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定された。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も順次史跡に追加指定されている。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和54年7月2日指定
大津宮は『日本書紀』に、「浜台」「大蔵」「宮門」「朝廷」「殿」「漏刻台」「内裏西殿」「大蔵省第三倉」「新宮」「大炊」「大殿」などの建築物に関する記載がある程度で、その正確な位置や実態は長い間明らかではなかった。
ここ第1地点では、1辺140~170センチメートルの方形の掘方を持つ東西棟の建物(SB001)とそれに取り付く回廊(SC001)、さらに、回廊に直角に取り付いて北に延びる塀(SA001)などが見つかった。東西棟の建物(SB001)は内裏の南門、回廊(SC001)は複廊と考えられている。複廊は古代の宮殿において、その中心となる施設を囲む回廊に用いられる廊の型式で、格式の高いものと考えられている。
※説明板より
史跡近江大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたる。
この場所の2列に並ぶ柱は、内裏の入り口の門から東に延びる回廊の一部と考えられている。また、左手に見える1列に並ぶ柱は、回廊から北に延びる塀の一部と考えられている。
ここから北に約80メートルの地点では、内裏正殿の跡が見つかっている(第2地点)。
おそらく、正殿の南側は広場になっていて、第1地点と第2地点の間は、儀式などに使われる重要な場所だったと考えられる。※説明板より
錦織(にしこおり)の地名
古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部(にしこり)郷と呼ばれていた。錦部郷の地名は、機織(はたおり)関係の職務に携っていた朝鮮半島からの渡来人である錦部(にしこり)氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたことに由来する。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第2地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、内裏南門推定地(第1地点)の真北約80メートルの場所にあり、天智天皇が政(まつりごと)を執り行なった内裏正殿のあった場所、つまり大津宮の中心的位置だったと推定されている。
昭和57年(1982)の発掘調査では、建物の東南部分と考えられる10基の柱跡が見つかっている。建物の規模は、桁行5間・梁行2間の身舎(もや)の4面に廂が付く格式の高い大型建物で、東西7間・南北4間、東西が21.3メートル、南北が10.4メートルを測る。
この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第7地点と第9地点まで広がっていたと考えられる。※説明板より
大津宮錦織遺跡(第7地点)昭和59年7月3日追加指定
この場所は、まだ発掘調査が行なわれていないが、県道を挟んだ東側からは東西7間・南北4間(21.3メートル×10.4メートル)の四方に廂を持つ、建物と推定される遺構の一部が見つかっている。この遺構は、その位置・規模から、天智天皇が直接政治を行なった内裏正殿の跡と考えられており、建物西南部分はこの場所まで延びていると考えられる。※説明板より
大津(おおつの)宮(みや)錦織(にしこおり)遺(い)跡(せき) 第8地点
昭和9年の発掘調査により、この第8地点の北に隣接する第1地点で内(だい)裏(り)南門跡(なんもんあと)が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認された。第8地点は、まだ発掘調査は実施されていないが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するものと考えられる。まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点である。
この第8地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当し、後世には西(にし)近江(おうみ)路(じ)と呼ばれた重要な交通路であった。この道を北へ辿ると、大津宮と同時代の遺跡である南(みなみ)滋賀(しが)町(ちょう)廃(はい)寺(じ)跡(あと)や崇福(すうふく)寺(じ)跡(あと)といった史跡がある。
※説明板より
白村江の敗北
朝鮮の白村江(はくすきのえ)において百済(くだら)・日本連合軍が、唐と新羅連合軍に大敗したのは天(てん)智(じ)2年(663)のことである。その惨状は、ベトナム戦争で敗れた南ベトナムとアメリカ軍が、洋上へ撤退した場面を思い出せば、理解しやすい。九州から大和まで瀬戸内海に沿って点々と築かれた山(さん)城(じょう)、飛鳥から近江の大津京への遷都。それら一連の事業は、大唐帝国と新羅に対する恐怖の産物であった。
しかし、唐と新羅が再編成した東アジア世界で、日本という国家が生き残るためには、行政改革を行ない、強力な政府を建設する以外に道はなかった。政府は法律によって国を統治する律令制度を導入し、仏教の国教化を促進する。改革の手本は先進国の唐帝国と定め、百済の遺民がブレーンとして加わった。
律令制度を演出する中央の舞台が都(と)城(じょう)であり、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮・難波(なにわ)京・藤原京と都市建設の実験を繰り返しながら、平城京にいたって初めて完備する。それは、国土の中心に天皇の政府が所在する都城を営み、地方には政府の意志を代行する国府を置き、その傘下に郡(ぐん)・郷(ごう)・里(り)を配置するという、壮大な構想の一環であった。それらの行政機関を幹線道路で連結することによって支配網が整う。さらに、大陸に門戸を開く北部九州に大宰府を設置し、東国のまつろわぬ人々を屈服させ、領土を北に拡大するために、多賀城とその出先の城(じょう)柵(さく)を設けた。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見されました。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるようになりました。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展しています。昭和54年7月に国史跡に指定されました。
昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門と想定され、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属しています。この門の北側が内裏、南側が朝堂院と考えられています。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿があります。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されています。
(引用:http://oumijingu.org/publics/index/112/)
資料集
066_073_都の移転・近江大津宮
長岡宮跡
長岡京
長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3(784)年11月11日に奈良・平城京から、山背(やましろ)の(城)国(くに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡村(ながおかむら)に遷された古代日本の都である。延暦13(794)年に京都の平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都であった。都の大きさは、東西4.3km、南北5.3kmと広大である。
当時の詔(みことのり)に「水陸(すいりく)の便(べん)有(あ)りて、都を長岡に建つ」とあり、地名に因(ちな)んで「長岡京」と名付けられた。長岡という地名は、古来より、向日(むこう)神社(じんじゃ)のある低い丘陵(通称 向日(むこう)丘陵(きゅうりょう))を中心とする一帯を指(さ)す。「長岡の」と墨書(ぼくしょ)された飛鳥(あすか)時(じ)代(だい)の土器(どき)が、出(しゅつ)土(ど)している。
<都の中心地・長岡宮>
都は、宮域と京域に分かれる。宮域は、都の北部中央に位置し、天皇が政治を司(つかさど)る大極殿や天皇の住まいである内裏、国儀大礼をおこなう朝堂院、各役所など、国家(こっか)の中(ちゅう)枢(すう)部(ぶ)が所在(しょざい)したところである。長岡京の時代、「長岡(ながおか)宮(きゅう)」と呼ばれ、そのほぼ全域が向日(むこう)市(し)に含まれる。京域は、宮域を取り囲む街区(がいく)(道路に囲まれたブロック状の区(く)画(かく))である。中央に朱雀大路を配し、大(おお)路(じ)と小(こう)路(じ)を縦(じゅう)横(おう)に通して碁(ご)盤(ばん)の目状に区画されていた。区画内には、貴族の邸宅や役所に勤務する役人の住宅街、東西の市などが置(お)かれ、立派な都市空間を形成(けいせい)していた。
<史跡 長岡宮跡>
昭和36(1961)年の発掘(はっくつ)調(ちょう)査(さ)により確認された大極殿跡が、昭和39(1964)年に「長岡宮跡」として、国の史跡に指定された。以後、長岡宮跡に関する重要な遺跡が発見されるたびに、同一名称で追加指定が行なわれてきた。 ※説明板より
大極殿のルーツ
約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞(かすみ)ヶ(が)関(せき)のように国の役所が建ち並んでいた。
大極殿と朝堂院は、その最も重要な施設である。長岡宮では、回廊(通路のある塀)や築地(土塀)に囲まれた大極殿院と朝堂院を南北に配し、瓦葺きの立派な建物が建てられていた。
大極殿は、天皇が政治を司る場所である。「大極殿」の名は、中国の宮殿の正殿(せいでん)「太極殿」に由来する。「太極」は、万物の根源、天空の中心たる北極星を意味する。日本の天皇は、中国の天文思想に習って、世界を支配する中心として、地上に「大極殿」を建てた。
建物の中心には、儀式や謁見の際(さい)に天皇が着座する「高御座」(玉座)が、南向きに据えられていた。長岡京遷都の翌年、延暦4(785)年正月の元旦朝賀が行なわれたと記録にあり、いち早く建設を進めなければならない重要な施設だった。
飛鳥時代以来、歴代の都では、天皇の住まいである内裏の南に連結して大極殿を設けていた。長岡京に都が遷されると、大極殿は内裏から完全に独立し、「朝堂院の正殿」としての性格が強まった。
大極殿は、主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになった。
※説明板より
大極殿の規模
東西(桁行)9間、南北(梁間)4間の瓦葺きの四面庇建物である。長岡京の廃都後に耕作などにより削られていたため、柱の規模は明確には確定することはできないが、建物の土台となる基壇が発見されている。
基(き)壇(だん)は東西42.8m(約145尺)、南北21.6m(約73尺)、面積約924㎡(約280坪)で、高さが2.4m(約8尺)であったと考えられている。南面に3つの階段、北面に2つの階段と後殿(こうでん)につながる軒廊(こんろう)(屋根付きの渡り廊下)がある。北側の公園の中央まで、コンクリートで1段高くなった部分が基壇を表わしている。
※説明板より
後殿(こうでん)
大極殿の真北に建てられた、東西(桁行)7間(27.9m)、南北(梁間)2間(12.8m)、面積357㎡(約108坪)の瓦葺きの建物である。基壇は、大極殿より低く約1.1mの高さと考えられている。
※説明板より
宝幢(ほうどう)
大極殿の南の前庭に、元旦朝賀(正月の儀式)の際、東西6m間隔に正確に配列された宝幢と呼ばれる7本ののぼり旗が立てられた。長岡宮の宝幢は、元旦の使用例を示す日本で唯一の遺構である。
長岡宮の大極殿・朝堂院の特徴は、奈良時代の難波宮(大阪市)を解体して移築された点である。それは、一刻も早く平城京(大和)の地を離れ、新しい都を建設するためであった。しかし、一方で、平安京の大極殿や内裏の配置に繋がる特徴も持つ、奈良から平安時代への過渡期の遺跡として長岡宮跡は歴史上重要な遺跡である。
※説明板より
京都府向日(むこう)市鶏冠井(かいで)町にある宮殿跡。京都盆地の西端を南流する桂川の右岸、淀川との合流点に近い向日丘陵に位置する。長岡京は桓武天皇の命により、784年(延暦3)に平城京から遷都し、平安京に移るまでの10年間、都であった。従来「幻の都」とされてきたが、1955年(昭和30)に朝堂院(ちょうどういん)の門跡が、1962年(昭和37)には大極殿跡が発掘されたところから、1964年(昭和39)に国の史跡に指定された。大極殿跡は周辺の石敷、凝灰岩の痕跡などにより、基壇は東西40.3m、南北21.6mと認められ、南面中央と東西に3ヵ所の階段の跡があった。小安殿跡は大極殿跡の北に接し、東西31.55m、南北15.25mの基壇上に桁行7間、梁行2間の建物があったと推定される。その後、築地跡や礎石建物である8つの朝堂の規模も明らかになり、1997年(平成9)には旗飾りのための宝幢(ほうどう)遺構3基が検出された。遺構は長さ約2.1m、幅約1.2m、深さ約0.8mの柱穴で、大極殿の南端から約30m南の位置に、3m間隔で計画的に配置された7基のうちの、東側3基と考えられる。平城宮の大極殿前庭で検出された同様の遺構は、天皇の即位式に際して建てられたものと考えられているが、長岡宮では即位式が行われなかったので、この宝幢は朝賀にともなうものとみられた。付近の向日市文化資料館では出土品と大極殿・朝堂院の復元模型が展示されている。
(引用:https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%AE%AE%E8%B7%A1-1444604)
資料集
067_074_長岡宮跡
難波宮跡
後期難波宮
後期難波宮模型(大阪歴史博物館)
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。
延暦3年(784年)[4]、桓武天皇により長岡京に遷都[7]された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
『日本書紀』や『続日本紀』に記された難波宮の所在地は、昭和29年(1954)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、現在の史跡指定地にあることが明らかにされました。
その後の調査により、2時期の宮殿遺構があることがわかり、それを前期難波宮、後期難波宮と呼び分けています。前期難波宮の遺構には火災痕跡があり、朱鳥元年(686)に焼失した天武天皇の難波宮にあたり、その創建は「大化改新」ののち、孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられています。一方、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮です。史跡公園内には復元された後期難波宮の大極殿基壇や前期難波宮の八角形建物などが立体的に遺構表示されています。また、大阪歴史博物館の地下には前期難波宮の倉庫群の遺構が保存され、一般公開されています。
(引用:http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/naniwamiyaatokouen.html)
資料集
068_075_難波宮跡
平安京跡
平安京
延暦13年(794)、桓(かん)武(む)天皇の命により長岡京から遷(せん)都(と)された平安京は、京都盆地のほぼ中央に東西約4.5km、南北約5.2kmの規模で建設され、現在の京都市の市街地の原型はこの時より形づくられていった。
右図は、平安京を北方上方から南を見て復原したイラストで、上方右に廃(はい)都(と)された長岡京が見えている。手前(下方)には、建都の際に測量の基準になったとみられる船岡(ふなおか)山があり、平安宮北西(手前右)には、桓武天皇ゆかりの常住(じょうじゅう)寺(じ)(野(の)寺(でら))が見えている。
平安京北方には北山や船岡山(玄(げん)武(ぶ))がひかえ、東に鴨川(青(せい)龍(りゅう))、西には桂川と西国への街道(白虎(びゃっこ))が通り、遥か南方には巨(お)椋池(ぐらいけ)(朱(す)雀(ざく))がある。いわゆる四(し)神(しん)相応(そうおう)の地である平安京は1,000年以上にわたって我が国の首都として、政治・文化・経済の中心をなし、日本の歴史の舞台となった。
平安京は、九条大路にあった正門の羅(ら)城(じょう)門(もん)をくぐると幅80m以上もある朱(す)雀(ざく)大路が南北に通って、天皇の住居である内裏や、政治の中枢施設があった平安宮(大内(だいだい)裏(り))へ続いていた。
朱雀大路の左右には邸宅が並び、公設市場である東・西の市、外国からの賓客をもてなす東・西の鴻(こう)臚(ろ)館(かん)のほか、退位した天皇の後院である朱(す)雀院(ざくいん)や、広大な園池を有した神泉苑などがあった。
平安時代、この駅前付近は柳並木のある朱雀大路が南北に通り、すぐ北方には平安宮の正門である朱雀門が見え、天皇や貴族、庶民のほか外国使節など多くの人達が、輿(こし)や牛車(ぎっしゃ)に乗り、あるいは徒歩でここを往来していたのである。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安宮
平安京の北方中央には、大内(だいだい)裏(り)とも呼ばれる平安宮があり、天皇の住まいである内(だい)裏(り)や、現在の国会議事堂に相当する朝(ちょう)堂院(どういん)のほか、饗(きょう)宴(えん)場である豊(ぶ)楽院(らくいん)や二官八省(神(じん)祇(ぎ)官・太(だい)政(じょう)官・中(なか)務(つかさ)省・式(しき)部(ぶ)省・治部(じぶ)省・民(みん)部(ぶ)省・兵(ひょう)部(ぶ)省・刑(ぎょう)部(ぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮(く)内(ない)省)など、国家の重要な政治機構が集中した場所であった。
その規模は、東西約1.14km、南北約1.35kmで、北は現在の一条通(一条大路)、南は二条通(二条大路)、東は大宮通(大宮大路)、西は御前通(西大宮大路)となる。
平安宮の中央に位置する朝堂院は、八(はっ)省(しょう)院とも呼ばれ、その正殿が大極殿(だいごくでん)で、屋根は美しい緑(りょく)釉(ゆう)瓦(がわら)で縁取りされていた。ここでは天皇の即(そく)位(い)式(しき)や、正月に天皇が出御して百官と共に祝う朝(ちょう)賀(が)の儀式、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事が行なわれた。
この朝堂院は、東西約200m、南北約470mもある大規模なもので、正門が応天門、その内部には東西に朝集(ちょうしゅう)堂があり、さらに会(かい)昌(しょう)門をくぐって南北に広い内廷に入ると、各官庁の官人の座が設けられた12の堂があった。さらに、北方の一段高くなった龍(りゅう)尾(び)壇(だん)の左右には華麗な楼閣(ろうかく)が設けられ、最も奥には豪壮華麗な大極殿が聳(そび)えていた。
この大極殿跡は、ここより北方約850mの千本丸太町交差点の北寄りにあり、発掘調査で判明した場所のいくつかを明示し、また、交差点北西の内野児童公園内には大極殿遺址の石碑がある。なお、岡崎公園にある平安神宮は、明治28年に、この朝堂院の十二堂部分を省略し、約8分の5で再現されたものである。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安宮 朱(す)雀門跡(ざくもんあと)
朱(す)雀門(ざくもん)は、平安宮(大内(だいだい)裏(り))の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城十二門の中で最も規模が大きい。
朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅(ら)城(しょう)門(もん)、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。
平安時代の終わり頃に描かれた国宝『伴大(ばんだい)納(な)言(ごん)絵(え)詞(ことば)』には、炎上する応天門へ急ぎ駆けつける群衆とともに朱雀門が描かれている。その姿は、壇(だん)上(じょう)積(づみ)基(き)壇(だん)の上に建てられた壮大な瓦葺き朱塗りの門で、五間戸の前面には階段が敷設されている。
朱雀門の造営当初の具体的な規模や、その後の変遷(へんせん)については、発掘調査例がなく不明である。ただ、千本通りで実施した朱雀門跡推定地における立会調査で、平安時代の整地層が確認されている。
なお、朱雀門の前面は広い儀礼の場となっており、毎年恒例の6月と12月の大(おお)祓(はらえ)とともに、斎内親王(さいないしんのう)(斎宮(さいくう))の伊勢(いせ)群行(ぐんこう)や大(だい)嘗(じょう)祭(さい)などに伴う臨時の大祓などが朱雀門前で行なわれた。また、寛弘4年(1007)の藤原道長による有名な金(きん)峯(ぶ)山(せん)参詣の折りにも、土(つち)御(み)門第(かどだい)から朱雀門大路に出て祓(はらえ)(身を清める神事)を行ない、羅城門(跡)から平安京を出立している。このほか、承和2年(835)9月には回転式の新型大(だい)弩(ど)(固定式の大弓)の試し打ちを、朱雀門前から朱雀大路にむけて発射しており、朱雀門前の広さを物語るエピソードとして興味深い。
このように、平安宮の象徴的な門である朱雀門も、承元2年(1208)9月に火災に遭い、翌年再建されたが、構造的欠陥からか建暦元年(1211)に自然倒壊し、以後は二度と再建されることはなかった。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
朝堂院(ちょうどういん)
朝堂院は八省院とも言われ、現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設である。正門の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が建ち並び、それぞれに役人の座が設けられていた。12堂の北側には、身分差を表す龍尾壇が設けられ、広場の東には青龍楼・西には白虎楼があった。この交差点の北側に平安宮最大の建物で、屋根には緑釉瓦が葺かれた正殿の大極殿がそびえていた。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
内裏(だいり)跡
天皇の居所(きょしょ)である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、内側を内郭回廊と呼び、築(つい)地(じ)を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士(えじ)らが厳重に警(けい)護(ご)していた。
発掘調査では、下立売(しもだちうり)通の北と南側で内裏西面内郭回廊跡の西・東辺の一部が見つかり、凝(ぎょう)灰岩(かいがん)で構築された回廊基(き)壇(だん)石や河原石を敷き並べた雨落溝(あまおちみぞ)を検出、さらに南面内郭回廊跡では、内裏内の水を外へ排水するための暗渠(あんきょ)跡も見つかっている。
内郭回廊の基壇は、調査の結果から幅が10.5mと判明し、内裏の南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)よりも狭いことが分かっている。現在、当該地は国の史跡に指定され遺構が保存されている。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安京(へいあんきょう、たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、かつて日本の首都であった都市。桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として山城国に建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。平安京は現在の京都市街にあたる山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は羅城門の左右を除き造られなかったと考えられている。この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。平安京の範囲は現在の拡大した京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった[2]。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC)
資料集
065_072_平安宮跡
【報告書】デジタルアーカイブinぎふ郡上 ~白山文化はいいもんだ~
日 時:平成31年2月23日(土)
時 間:13:00~16:30 受付12:30
場 所:郡上市総合文化センター(〒501-4222 岐阜県郡上市八幡町島谷207-1TEL:0575-67-1555 FAX:0575-65-2584)
参加費:無料
主 催:岐阜女子大学 共催:郡上市・郡上市教育委員会
後 援:デジタルアーカイブ学会・日本デジタルアーキビスト資格認定機構
郡上ケーブルテレビ放送センター
定 員::200名
内 容:(敬称略) 受付(12:30~13:00)
1.伝統文化芸能実演(13:00~13:30)
・「白鳥の拝殿踊」(国選択無形民俗文化財)
2.挨 拶(13:35~13:50)
松川 禮子氏(岐阜女子大学学長)
日置 敏明氏(郡上市長)
3.基調講演(13:55~14:45)
「文化遺産と記録」 佐々木正峰氏(国立科学博物館顧問・元文化庁長官・元文部科学省高等教育局長)
基調講演佐々木
文化遺産と記録
4.シンポジウム(15:00~16:30)
「デジタルアーカイブで地域の課題を解決できるか~白山文化を事例として~」
(パネリスト)
「白山芸能とデジタルアーカイブ」 曽我孝司氏(郡上市文化財保護審議会委員)
1パネリスト曽我
白山芸能とデジタルアーカイブ
「美濃馬場の文化財とその保存活用」 藤原 洋氏(郡上市教育委員会社会教育課)
2パネリスト藤原
「美濃馬場の文化財とその保存活用」
「加賀馬場と文化の再発見」 小阪 大氏(白山市教育委員会文化材保護課)
3パネリスト小阪
加賀馬場の文化の再発見
「越前馬場と文化財の保存活用」 宝珍伸一郎氏(勝山市教育委員会世界遺産推進室)
4パネリスト宝珍
プレゼン1
「地域資源デジタルアーカイブと地域活性化」 長丁 光則氏(東京大学大学院特任教授)
5パネリスト長丁
DAPCONパイロット事業
(コーディネータ)
久世 均氏(岐阜女子大学教授)
0シンポジウム
デジタルアーカイブinぎふ郡上報告書
H30_デジタルアーカイブinぎふ郡上
目次
基調講演
0シンポジウム
1パネリスト曽我
2パネリスト藤原
3パネリスト小阪
4パネリスト宝珍
5パネリスト長丁
白山の里にようこそ
年譜出典
関連資料
白山の里にようこそ
「白山文化はいいもんだ」デジタルアーカイブinぎふ郡上 平成31年2月23日
東寺
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の仏教寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、真言宗全体の総本山である。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」[6]という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA)
資料集
064_071_東寺
【講座】高校生のためのデジタルアーカイブクリエータ資格取得講座
日 時 平成30年12月12日(水)
会 場 富山国際大学付属高校(〒930-0175 富山県富山市願海寺水口444番地)
主 催 岐阜女子大学 後 援:富山国際大学付属高校(予定)
受講対象:高校生
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デジタルアーカイブに興味を持っている高校生
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デジタルアーカイブクリエータ資格の取得を希望する高校生
定 員:40名 (定員になりしだい締め切らせていただきます。)
募集期間:平成30年10月12日(金)~11月30日(金)
受講料:無 料
-
デジタルアーカイブクリエータ資格を取得希望者は別途認定料(高校生\2,500)が必要になります。
申込方法:Fax(裏面用紙)058-229-2222 または Email pfe01173@nifty.com
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(1)開催日, (2)会場名, (3)郵便番号, (4)住所, (5)氏名(フリガナ) , (6)所属(学校名), (7)資格認定希望の有無 を明記のうえ、お送りください。後日受講表を送付いたします。
高校生のためのデジタルアーカイブクリエータ資格取得講座(会場:富山国際大学付属高校)
【講座】準デジタルアーキビスト資格取得講座
日 時:平成30年12月~平成31年2月(全5回)
会 場:郡上市歴史資料館・郡上市産業プラザ・郡上市総合文化センター(2月23日)
定 員:20名
対 象:県及び市町村のデジタルアーカイブの担当者・一般
高校生(DAC資格取得者)
主 催:岐阜女子大学 共催:郡上市・郡上市教育委員会・郡上ケーブルテレビ
後 援:NPO法人デジタルアーキビスト認定機構・デジタルアーカイブ学会
デジタルアーカイブ研究会
内 容:
第1回 会場:郡上市歴史資料館
平成30年12月18日(火)19:00~21:00
地域課題解決とデジタルアーカイブ 久世 均氏(岐阜女子大学・教授)
白山文化遺産とデジタルアーカイブ(仮) 曽我孝司氏(郡上市文化財保護審議会委員)
第2回 会場:郡上市歴史資料館
平成31年1月15日(火)19:00~21:00
デジタルアーカイブ社会の実現と国の動向(仮) 井上 透氏(岐阜女子大学・教授)
郡上白山文化遺産のアーカイブの方法(仮) 曽我隆行氏(郡上市景観保全審議会委員)
第3回 会場:郡上市産業プラザ
平成31年1月29日(火)19:00~21:00
郡上デジタルアーカイブの実践とその活用 稲葉秀章氏(郡上ケーブルテレビ・社長)
郡上によるデジタルアーカイブの試み 稲葉光紀氏(郡上ケーブルテレビ)
第4回 会場:郡上市総合文化センター
平成31年2月23日(土)10:00~12:00
デジタルアーカイブ概論 三宅 茜巳氏(岐阜女子大学・教授)
準DA試験 櫟 彩見氏(岐阜女子大学・准教授)
第5回 会場:郡上市総合文化センター
平成31年2月23日(土)13:00~17:00
■伝統文化芸能撮影実習(13:00~13:30)
・「白鳥の拝殿踊」(国選択無形民俗文化財)
■基調講演(13:55~14:45)
「文化遺産と記録」 佐々木正峰氏(国立科学博物館顧問・元文化庁長官・元文部科学省高等教育局長)
■シンポジウム(15:00~16:30)
「デジタルアーカイブで地域の課題を解決できるか~白山文化を事例として~」
「白山文化遺産とデジタルアーカイブ」曽我孝司氏(郡上市文化財保護審議会委員)
「美濃馬場の文化財保護とその活用」 藤原 洋氏(郡上市教育委員会社会教育課・主査)
「加賀馬場と文化の再発見」 小阪 大氏(白山市教育委員会文化材保護課・主幹)
「越前馬場と世界遺産」宝珍伸一郎氏(勝山市教育委員会世界遺産推進室・室長兼主幹)
「地域資源デジタルアーカイブと地域活性化」 長丁 光則氏(東京大学大学院・特任教授)
司会 久世 均氏(岐阜女子大学・教授)
準デジタルアーキビスト資格取得講座(郡上市歴史資料館)
光寿庵跡
飛騨の古代寺院・光寿庵跡
光寿庵跡 こうじゅあんあと
所在地 岐阜県高山市国府町上広瀬屋舗 こくふちょうかみひろせやしき
立地環境 宮川の右岸に位置し、国府盆地の南端、石橋廃寺のさらに南側にある。当遺跡が所在する上広瀬は、南向きの日当たりがよい緩斜面が広がり、現在桃の良好産地である。小規模な谷が開けた平坦地の奥に立地する
発見遺物 過去に採取された線刻絵画瓦(図1-1~3)、四重弧文軒平瓦が、地元諏訪神社に所蔵される。
年代 7世紀後半~8世紀
遺跡の概要 以前、礎石の一部が遺存していたという。線刻絵画瓦は有名で、役人(?)、鳥、人物の足が描かれる。四重弧文軒平瓦は石橋廃寺、名張廃寺からも出土している。
石橋廃寺との距離は近く、両寺院との関係が注目される。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』147頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年出典文献
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
飛騨国府シンポジウム資料『古代の飛騨 その先進性を問う』国府町1988
光寿庵跡出土瓦(県指定重要文化財) 諏訪神社所有
光寿庵跡は、諏訪神社裏の山中に位置し、付近からは軒丸瓦・軒平瓦・平瓦が採取されている。
軒平瓦は四(よん)重(じゅう)重(じゅう)弧(こ)文(もん)で宮川下流約1.5キロメートルにある国府町広(ひろ)瀬(せ)町(まち)の石(いし)橋(ばし)廃(はい)寺(じ)跡から出土した軒平瓦と同様で、奈良時代のものと推定される。
平瓦には、膝をついた男子像などが描かれた人物戯画瓦と鳥と鳥籠が描かれた絵瓦があり、県の重要文化財に指定されている。
人物戯画瓦の男子の服装などから当時の都の様子がうかがうことができ、当時の飛騨地方と都とのつながりを示している。
*説明版より
高山市国府町上広瀬の諏訪神社北方の山中、上広瀬字屋舗一体を光寿庵跡といいます。長野県王滝村資料館にある鰐口の銘文に、光寿庵のことであると思われる記載があることから、永享8(1436)年まで現存していたことが立証されています。遺物では、人物戯画が線刻された平瓦や円面硯、飛騨地方で初の出土となった畿内産土器などが知られます。畿内産土器とは、日本各地の官衙や寺院などから出土する都で作られた土器のことで、都と地方との関係を示しています。石橋廃寺跡の塔心礎と出土品は、高山市指定文化財となっています。字屋舗では、後世の寺院関係の遺構ともいえる土門や古道が発見されています。光寿庵跡からは、古くは礎石が1つ発見され、軒丸瓦、軒平瓦及び白鳳期の戯画瓦などの遺物が採集されています。上広瀬地区は、越中街道の西街道と東街道の分岐点にありました。奈良時代、山麓の石橋廃寺跡は下寺、光寿庵跡は上寺の関係だったと思われます。
(引用:http://nihonisan-hidanotakumi.jp/cultural_heritage/03.html)
資料集
062_069_飛騨の古代寺院(光寿庵跡)
石橋廃寺
飛騨の古代寺院・石橋廃寺 いしばしはいじ
所在地 岐阜県高山市国府町広瀬町石橋 こくふちょうひろせまちいしばし
調査年 1986、1987、1988、1989年
調査主体 国府町教育委員会
立地環境 宮川の右岸に位置し、国府盆地の南端にある。日当たりが良く、周辺からは古墳時代の住居跡群が多く確認され、遺跡の濃い一帯である。東北側は山裾がせまり、宮川に沿った細長い平地にあり、堆積層の厚みは、高山盆地と比べると格段に厚い。
発見遺構 礎石列の一部等を発見。伽藍配置は十分に把握されていない。
発見遺物 出土している瓦は、単弁十弁蓮華文軒丸瓦、重弁八弁蓮華文軒丸瓦、重圏文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦、二重弧文軒平瓦、線刻絵画瓦(ヘラによって人物、鳥、唐草などを描いた平瓦)。
年代 7世紀後半~8世紀後半
遺跡の概要 当寺跡は、江戸時代嘉永2年に大坪二市が記した『廣瀬日記』に、「経堂ノマイジリ石在 鐘堂ノサウバン 堂ヤシキ今ニアリ」とある。経堂ノマイジリ石とは、塔心礎を舞尻石と考えたのであろう。他の礎石も遺存していたらしく、堂ヤシキとして確認できる状況であったと考えられる。
塔心礎は、国府町広瀬町の岡村利右衛門宅の庭に保管された。
後、1958年、水田区画整理により礎石が移動されたと考えられる。また、その時に大量の瓦が出土した。
1986年から国府町教育委員会により発掘調査が行なわれ、礎石列が確認されたが、その性格は明らかではない。
重弁八弁蓮華文軒丸瓦は、名張廃寺でも出土しているが、新羅の様式を取り入れた飛騨で唯一の型式である。また、重圏文軒丸瓦は、大阪難波宮式で、石橋廃寺は8世紀後半まで存続したとされている。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』144頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
『国府村村史全』吉城郡国府村役場1959
飛騨には、14箇所以上と全国屈指の密度で古代寺院がありました。これは、古代に木工技術者を都へ派遣することで税を免除された、全国唯一の制度である「飛騨工制度(ひだのたくみせいど)」が成立する背景となりました。
国府地区は、その中でも特に多く古代寺院が見つかっている地区です。石橋廃寺はそのうちの一つで、桜野の地に造られた奈良時代前期の寺院です。塔心礎は広瀬町岡村健守の庭園にあり、手水鉢に利用されていたものです。礎石が見つかっており、塔心礎上面の柱座は長径1.2m、短径0.8mで平坦化し、中央に直径27cm、深さ9.5cmの舎利孔があります。礎石の大きさから、三重塔がそびえ建っていたものと思われます。現在は寄贈を受け、広瀬古墳の横に移設されています。石橋廃寺跡と光寿庵跡では、共に都で働く官人を描いた瓦が出土していることからも、飛騨匠と都とのつながりがわかります。
(引用:https://www.tabido.jp/ja/article/647/)
資料集
063_070_飛騨の古代寺院(石橋廃寺)
石舞台古墳
石舞台古墳の解説
この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されている。すでに古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっている。被葬者は不明だが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれている。
昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行なわれ、その結果、玄室の長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2,300tという大規模な古墳であることが判明した。
羨道長は約11.5メートル、幅約2.2メートルあり、玄室から羨道にかけて排水溝が設けられている。石室内からは凝灰岩片が出土していることから家形石棺が安置されていたものと推定される。
<参考文献> 石舞台古墳説明版、拝観リーフレット、明日香村資料ほか
石舞台古墳
『石舞台』の名の由来については、一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もある。石舞台古墳の東に設けられた展望台からは、なだらかな棚田地形の中に築造された国内最大級の方墳跡を一望できる。また、隣接する祝戸地区には、大和三山を背景に広がる飛鳥古京を望める展望台や、奥飛鳥の見事な棚田風景を一望できる展望台が設けられ、飛鳥有数の展望スポットとなっている。
石舞台地区から奥飛鳥方面には、馬子の父の墓との説がある都塚古墳、中大兄皇子に縁があると考えられる飛鳥稲淵宮殿跡、また、子孫繁栄や農耕信仰に関係するマラ石などがあり、飛鳥の歴史文化に親しむことがでる。
<参考文献> 石舞台古墳説明版、拝観リーフレット、明日香村資料ほか
6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力である。また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。周囲は芝生広場になっており、春は桃やサクラ、秋は彼岸花が咲く。
(引用:http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/04stone/03east_area/ishibutaikofun/)