一位一刀彫
木の細工に匠の技を極めたのは江戸在住の平田亮朝である。亮朝は文化6年(1809)に高山で生まれ、若くして江戸の根付彫刻の大家といわれた山口友親(寛政13年江戸生まれ、3代続いた)の門に入り、江戸で根付彫刻の大家として大成した。浅草橋付近に住み、江戸で有名な日本橋通塩町の小間物問屋「日野屋」の大事なお抱え根付彫師として活躍。しかし、38歳と若くしてその生涯を終えている。亮朝が江戸にいたとき、高山から江黒亮春(すけはる)、中村亮芳(すけよし)、松田亮長(すけなが)が弟子入りし、共に高山に帰って身を立てた。特に亮長は若い頃より彫物にすぐれ、写実的な小動物の彫刻を最も得意とした。材料も檜(ひのき)、なつめ、梅、竹などを使っていたが、のち一位材を用いて簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を完成させた。
旅好きであった亮長は、生涯全国各地を巡って見聞を深めて自己研鑽に努め、1年の半分を高山で過ごすことは希であったという。旅先は絵日記等によって知ることができ、各地の名勝地を遊歴し、彫工の名家を訪ね、古寺社の彫刻を研究するなどして心技を磨いた。
旅の途中で奈良人形を見て、その着色が非常に濃く、刀痕を塗り込めてしまい、技術の良し悪しがわからないので、自ら意匠を練って刀法を考え、彩色を施さずに飛騨の名木一位の天然の美しさを生かした簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を考案したとされている。
亮長の作品には写実的なものと、今日の一刀彫に見られる極限まで簡略化され面で構成された、単純ではあるが、良くその物の特徴をつかんだ作品の2系統がある。亮長は明治4年(1871)3月14日、下向町の自宅において72年の生涯を閉じた。
参考文献 『民俗文化資料』高山市 平成12年、『木つつき』江黒亮聲 平成9年)
『新・飛騨の匠ものがたり』112~116頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年

資料集
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dapro2018-04-24 13:39:532021-02-08 11:24:06一位一刀彫飛騨春慶塗
慶長年間(1596~1614)高山城下で、神社仏閣の造営工事に携わっていた大工棟梁、高橋喜左衛門が仕事中に、たまたま打ち割った材の批目の美しさに心を打たれ、その板を使って風雅な盆を作り、金森可重の子重近(金森宗和)に献上した。重近はその木目に感動し、御用塗師の成田三右衛門に木目の美しさを生かして漆を塗るよう命じた。三右衛門は素地を生かした透漆で、その盆を塗り上げた。
成田三右衛門義賢(晴正)は京都で塗師をしていたが、お抱え塗師として飛騨に入国して春慶塗を考案し、その子成田三右衛門正利(三休)もお抱え塗師となり春慶塗の改良に貢献した。飛騨が幕領になっても飛騨春慶塗は地場産業として存続する。
飛騨春慶塗という独特の漆器が生まれ育ったのは、飛騨が良材の産地であった背景と、伝統的に自然の樹木の美しさを知りつくし、木の魅力を引き出す木地師の優れた技があったからである。
春慶漆は、原料漆に透明度の高い日本産の漆を使い、精製するときに荏油などを混合することで光沢と透明度をより一層良くする。この透明度の高い透(すき)漆(うるし)が下地の表情を美しく魅せ、時を経るごとにその彩りを変化させながら、透明度をさらに増していく。木地は板物と、轆轤(ろくろ)による挽物(ひきもの)に分けられるが、飛騨春慶塗は板物の加工技術に特徴が見られ、「角物」と「曲物」がある。木肌の美しさを醸しだす木地師と、木肌の美しさを引き出す塗師の二者一体の共同芸術で成り立っている。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』109~111頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年

資料集
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dapro2018-04-24 13:37:102021-02-08 11:25:20飛騨春慶塗
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dapro2018-04-24 13:34:362021-02-09 15:59:42秋の高山祭 八幡祭
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dapro2018-04-24 13:31:462021-02-09 16:02:47春の高山祭 山王祭
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dapro2018-04-24 13:29:212022-06-18 11:45:16高山陣屋
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dapro2018-04-24 13:27:192021-02-09 14:34:37千鳥格子御堂
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dapro2018-04-24 13:22:572021-02-08 11:33:49熊野神社
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dapro2018-04-24 13:20:422021-02-08 11:34:57安国寺経蔵
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dapro2018-04-24 13:18:432021-02-08 11:36:34荒城神社小萱の薬師堂
中世北飛騨の領主江馬氏の菩提寺だった瑞岸寺の飛び地仏堂。古くから養蚕の守り本尊として広く信仰され、寝雑薬師と呼ばれる奇祭が毎年行なわれ、多くの信者が参拝に訪れていた。正式名称は「瑞岸寺安楽院薬師堂」といい、桁行3間(6.686m)、梁間3間(6.666m)、一重、入母屋造、こけら葺、国指定文化財。簡素ななかにも屋根の美しい曲線や、平面と立面の均整がとれていて、各柱は円柱からなり、柱頭には舟肘木をのせ軒は1軒、疎垂木で、垂木は強く反り上がっている。内部の改造がたびたび行なわれているが、外観は中世の様式を残している。
この薬師堂はかつて隣の野首村にあり、現在地に移築された。堂内に安置してある薬師三尊十二神将御正体に永仁7年(1299)の刻銘があるところから、薬師堂の創建は鎌倉時代に遡るとする説もあった。しかし、昭和49~50年にかけて実施された解体修理復元工事によって、鎌倉時代建立の前身堂の部材を一部利用して南北朝末期、もしくは室町時代初期に再建されたことが判明した。
薬師堂は養蚕の守り本尊として、また5月8日が縁日の「寝雑ぜ薬師、小萱薬師」の名で近隣に知られ、現在、臨済宗妙心寺派「瑞岸寺」に属する仏堂として管理されている。瑞岸寺は天文元年(1532)、江馬氏によって飛騨市神岡町殿の地へ移ったが、以前は上村台地(下小萱、野首、丸山、上小萱)の小丸山にあったとう。
参考資料 『神岡の文化財』3頁 神岡町教育委員会発行 昭和56年11月3日

動画資料
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dapro2018-04-24 13:14:182021-02-08 11:39:20阿多由太神社