① 城下の歴史
風光明(ふうこうめい)媚(び)な伏見は、平安貴族たちの別荘地として知られ、その後、太閤秀吉による伏見城築城によって一躍脚光を浴びるようになった。
築城に際して作られた道路や外堀は、江戸期以降にも活用され、伏見は水陸交通の要衝として発展を遂げている。城下町から宿場町となった伏見では、さまざまな産業とともに、酒造りも次第に本格化してゆき、明暦3年(1657)には83軒もの蔵元が15,000石余の酒を生産するようになった。
② 伏見・御(ご)香(こうの)宮(みや)神社
この神社の南側に金森長近の屋敷があった。明治以降、伏見の清酒は東海道線をはじめとする鉄道の開通によって、関東から全国へと広がってゆく。築城以来の面影が残る伏見は、「灘」とともに現在日本の二大酒どころとして有名である。
③ 伏見城下図
秀吉時代の伏見は、伏見城下に全国の大名を集めた、まさに「武将の町」で当時の城下の様子を知る史料に「豊公伏(とよこうふし)見ノ図(みのず)」がある。徳川家康が伏見幕府を開いた時代の大名配置と錯綜しているが、この絵図をもとに町割の特色を見ると、秀吉の幕閣(ばっかく)の五奉行の上(かみ)屋(や)敷(しき)は城内に定められ、次に前田、島津、毛利、伊達などの強豪大名、秀吉側近の大名は城の近くや城下の要衝に上屋敷が定められた。
大名に必要な物資を調達するため、各地から多くの商人や職人が集まり、わずかの間に伏見は日本有数の都市となり、全国各地の人や物資で賑わった。
① 長近の屋敷
金森長近の屋敷は豊臣期の伏見城下を描いた『伏見桃山之古図』には「金森法印」と記述されている。
※金森長近の法号は「金森法印(ほういん)」で、「金森出雲」は金森氏第2代可重の号である。
城下図で金森長近の屋敷が特定できるのだが、「法印」でなく「金森出雲」が町名になった経緯は分からない。
② 可重の屋敷
深草大亀(ふかくさおおかめ)谷(だに)金森出雲町に可重の屋敷があった。金森氏第2代可重の号「金森出雲」のまま、町名になっている。
『伏見桃山之古図』には、城の北西に位置する土塁と堀の角に東西に長い可重の「金森出雲屋敷」が確認でき、通りは現在の伊達街道に面している。
薮地として金森出雲屋敷跡地が江戸期から明治期以後も残されており、江戸期と明治期の各伏見の地図には「出雲(いずも)丁(ちょう)」が見え、「金森出雲町」の町名は今も残され伝えられている。