名工・川尻治助(日下部、田上家)
名工・川尻治助(日下部、田上家)
川尻治助の生い立ち
.川尻治助の建てた建築で著名なのは大新町の日下部家、丹生川町の田上(たうえ)家、同町の大谷家、下二之町の柴田家である。
川尻治助という大工はどんな系譜を持っていたのであろうか。治助は高山市川原町に住んでいた。川原町は阪下一門などの大工職人が多く住んでいた町である。
治助は、天保6年(1835)に大工、川尻佐兵衛の二男として生まれ、大正4年(1915)に没した。
父佐兵衛は三代目助五郎を名乗る木匠で、谷口与三郎延恭に師事をしている。寺社建築を手がけた谷口一門は、特に彫りものに才能を発揮し、ひいては屋台の彫刻に秀れた技術が見られる。その谷口一門の彫りもの技術が、父佐兵衛を通じて治助へと流れたのであろう。治助は一刀彫にも非凡な才能があり、亮之と号している。柿本人麿像や亀、根付の作品が日下部民芸館に展示してある。
日下部家は明治8年の大火で焼失したが、明治12年に治助を棟梁として再建した。江戸時代の町家様式を基本に置きながら、軒を高く、内部空間も巨大に、豪壮にまとめあげている。
間取り、1・2階の建具使い分け配置、小屋組構造等は基本的に江戸時代と同じであるが、太い柱や梁を思いっきり飛ばしているところがすばらしい。隣家の吉島家を建てた西田伊三郎の建築方法とは、いかにも対象的である。
江戸時代の町家、農家は身分制度もあって軒高の低い建物(川原町・松本家等)が多かったが、明治になると経済的に恵まれた家では名工に存分力を発揮させた。明治という時代の流れは、飛騨の建築に多大な推進力を与え、民家建築史の扉を大きく開いた。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
田上家
丹生川村の田上家は、明治15年から12年もかけて完成させた豪壮な農家である。家主は田上太郎四郎であり、日下部家と外観の雰囲気が似る。根本的に違うのは、農家と町家の間取りの違いであり、また、大屋根下の雲形持ち送りの意匠である。小庇にも一つおきに持ち送りがつき、彫ものに造詣が深い治助ならではの技量であろう。
江戸時代の町家、農家は身分制度もあって軒高の低い建物(川原町・松本家等)が多かったが、明治になると経済的に恵まれた家では名工に存分力を発揮させたのである。明治という時代の流れは、飛騨の建築に多大な推進力を与え、民家建築史の扉を大きく開いた。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
日下部家の評価 宮大工 丹羽陽一の見方
川尻治助は、なかどーじの正面に第一の牛梁を吹き抜け一杯に通している。大黒柱は管柱としてその下に取り付け、その牛梁に順に梁を架けている。
その架け方は必要な部分に架ける合理性がある。しかも全体にバランスが計られ美しさと堅牢さが見える組み方となっている。
➂ 牛梁と通し大黒柱の仕口はホゾ込み栓打ちとなっている。堅く太い部材に込み栓穴をつける仕事は至難の技である。まして機械のない時代では途方もない仕事である。丁寧な仕事といえる。
梁の表現の仕方は日下部家住宅のほうが自然に見え美しい。高山地域では大きな腰梁を牛梁と呼んでいる。上面に比べて下面を狭く仕上げる。すると、当然太鼓腹は斜め下向きとなる。大きな松の腹部分を下からよく見える工夫と考えられる。お寺の虹梁の仕事を転用したとも思われる。
大工の眼から思うと、吉島家より日下部家の方が構造的によく考えられている。木組みが理にかなっていて、丈夫さもあると思う。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より
日下部家の評価 1級建築士、加藤達雄の見方
正面 正面に第一の牛梁を見せる
木組み 梁組み、束は合理的に組む
吹抜 力強い松牛梁の存在が印象的
同 縦長
吉島家住宅
正面 正面に棟まで届く大黒柱を見せる
木組み 梁組み、束は一間間隔立体格子
吹抜 縦束が採光による陰影を作り
印象的
同 横長
*床面積は日下部家の方が広い。
吹抜面積は、ほぼ同じ。
川尻治助の作風
① 横軸を主体とした空間構成である。正面に牛梁を見せ主役とする技法をとっている。この技法は柴田家および田上家も同じである。正面の牛梁はゆるやかな弧をえがき、美しさと力強さを見せておる。その下に大黒柱を管柱としてやや左手に据える。
➁ 吹抜の大空間の木組みは大胆かつシンプルな構成美を表現している。牛梁の配置と木作りに工夫が見られる。圧迫感を与えず、全体のバランスを配慮し、美しくみせる工夫である。
➂ 対比する両角に耐力壁を配置している。(地震に強い構造)
④ 木部、土壁と腰板付障子との組み合わせがよく考えられて、吹抜大空間が天窓の明かりに照らされて居心地のよい空間に作られている。
田中彰編『高山市史・建造物編』高山市教育委員会発行 平成26年3月より