西光寺
西光寺 寛文二年(1662年)本願寺第十三世良如上人より木仏(阿弥陀如来像)と寺号(西光寺)を下附されたと伝わる。当初しばらくは現在の大阪府八尾市にある恵光寺の末寺であったらしい。堂内正面にある鳳凰の欄間には、泉州貝塚左 […]
文部科学省 私立大学研究ブランディング事業
西光寺 寛文二年(1662年)本願寺第十三世良如上人より木仏(阿弥陀如来像)と寺号(西光寺)を下附されたと伝わる。当初しばらくは現在の大阪府八尾市にある恵光寺の末寺であったらしい。堂内正面にある鳳凰の欄間には、泉州貝塚左 […]
第2回~繋がるキャンパス~飛騨高山学会での発表 『繋がる』をコンセプトに、飛騨高山をはじめとした飛騨地域を共通のキャンパス(フィールド) として調査・研究活動を実践している大学や大学生、地元の高校生、そして地域住民が集い […]
飛騨高山匠の技探訪「飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ」 ■ 本資料について 本資料は、高山市教育委員会をはじめ、多くの機関のご協力のもとに、岐阜女子大学デジタルアーカイブ専攻並びに岐阜女子大学大学院デジタルアーカイブ専攻 […]
加太春日神社 加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が神寳二種を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の […]
鶉田神社 宝亀二年創祀。天武天皇の第三皇子一品舎人親王の孫権中納言式部卿秀重、宝亀二年鶉の森を拓き、鶉の郷と名付け、郷内天王森に鎮守の祠を建て(素盞鳴尊を祀れり。弘安四年蒙古来寇の時、御祈願の為勅使参向あり。平定の後、皇 […]
法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立 法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、三井(みい)という土地の名によって三井寺とも呼ばれています。 三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起 […]
近江神宮 天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。 太平洋戦争の終戦後である […]
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡 国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂 単層入母屋造、銅板葺 四方廻縁 桁行12.4メートル 梁間8.66メートル 向拝3.33メートル 奈良時代当時、七重搭、金堂、仁王門 […]
田中大秀翁 田中大秀翁は、安永6年(1777)8月、高山一之町の薬種商に生まれた。現在、下一之町鍋島茶舗になっている場所である。 幼少より学問に長じ、25歳の時、伊勢松阪の本居宣長に入門し国学を研究した。国学とは、江戸中 […]
山岡鉄舟(静岡の史跡) 補陀洛山鉄舟禅寺 鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ1,300年の昔、推古天皇の時、国主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期行基菩薩が中興せられた。当時坊中360、衆徒1, […]
高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻 <立川和四郎の「五台山」の獅子彫刻> 春の高山祭の屋台「五台山」の獅子彫刻は、長野県諏訪(下諏訪町、諏訪市)の立川和四郎(たてかわわしろう)が彫った。天保8(1837)年、与鹿1 […]
高山祭屋台の祖型となった山車 <田安門をくぐった江戸の屋台> 江戸の神田祭、山王祭は、かつて屋台が江戸城内に入って天覧の栄を受けた。その経路が分かっていて(次ページ図)、伸縮の仕組みがある屋台であった。この構造が高山の […]
古川祭屋台 古川祭は毎年4月19日、20日に開催される気多若宮神社の例祭。「神輿行列」、「屋台行列」、「起し太鼓」という、“静”と“動”の3つの行事からなる。「古川祭の起し太鼓・屋台行事」の名称で国の重要無形民俗文化財に […]
笠ヶ岳 <生い立ちを秘める山体の縞模様> 高山市街地から北アルプス方面を眺めると、乗鞍岳の左側に蓑傘を伏せたような三角形をした山がみえる。これが山頂を他県と共有しない岐阜県の最高峰、笠ヶ岳(標高2,898ⅿ)である。 […]
御嶽山 <山容が語る生い立ち> 御嶽山は、信仰の山として知られ、昭和54年(1979)10月28日未明には突然長い眠りからさめて水蒸気爆発を起こし、有史以来の活動として多くの人を驚かせた火山である。 御嶽火山の活動は30 […]
乗鞍山麓 五色ヶ原の森 高山市乗鞍山麓五色ヶ原の森は、北アルプス乗鞍岳の北西山麓に広がる、中部山岳国立公園の南端にある約3,000㏊の広大な森林地帯で、山地帯から亜高山帯にわたる植生は、ブナ・ミズナラ・サワグルミなどの広 […]
乗鞍岳 <雄大な火山地形をみせる複成火山> 標高2,700ⅿ付近まで自動車で登れる乗鞍岳は、三つの火山体が重なりあってできている山の総称で、23個にもなる標高2,500ⅿを越える高峰が南北に延々数㎞も連なっている。 […]
江戸街道 飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337キロメートル)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6キロメートルは古い街道の姿をよく残し、史跡に指定 […]
郡上白川街道 向牧戸城跡 向牧戸城は、寛正の初め(1460)、将軍足利義政の命を奉じた内ヶ島上野介為氏が、信濃国松代から白川郷に入り、当地に城を築き、白川郷はもとより川上郷、小鳥郷、さらには越中国砺波までを領する勢力の拠 […]
岐阜、尾張、京都街道、東海道 ① 尾張街道の概要 尾張街道は、その名の通り尾張方面へ行く道で、金森時代になって整備されたが、時代によって、また、古絵図、地図によって街道名が違っている。高山が所属する郡は大野郡であったが、 […]
平湯~高原道、中尾峠、安房峠 平湯街道 ① 平湯街道の概要 江戸時代における飛騨国の国境は、標高が三千メートルもある山脈の屋根上にある。厳しい山脈に四方を囲われている飛騨だが、東の江戸へ、南の尾張へ、西の越前へ、北の越中 […]
飛騨鰤 越中からのブリ 1,ぶりで年取りをする行事 高山では毎年、12月31日の大みそかの夜に「年取り」という行事をする。12月31日に一つ年を取るということを祝う行事である。昭和30年代までは、「数え年」で年齢を数え、 […]
桐生町万人講 桐生町1,456番地 昭和30年11月7日 高山市指定文化財 延宝3年(1675)、数万の餓死者をここに埋めたもので、万人坑と呼び、後万人講と書くようになった。元和元年(1681)、盲人色都が餓死者の供養 […]
金閣寺・夕佳亭(宗和の茶室) 金閣寺 鹿苑寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このこ […]
武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構 武野紹鷗 文亀2年(1502)~弘治元年(1555) 大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは北 […]
京都天寧寺(金森宗和の菩提寺)、宗和の茶室・真珠庵庭玉軒 天寧寺 山号は萬(ばん)松(しょう)山(ざん)と号し、曹洞宗に属する。 当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の […]
京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院) 龍源院 大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、大徳寺南派の本庵である。 文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(現在の石川県)の領 […]
日光東照宮ほか2件の金森寄進の灯篭 光東照宮、上野東照宮、亀戸東覚寺の燈籠 ① 日光東照宮内・陽明門下方の中神庫前に金森重頼寄進の灯籠が並ぶ。 金森重頼寄進の灯籠の右に中神庫、左に上神庫がある。 金森重頼寄進の灯籠銘文 […]
江戸・芝の金森屋敷跡 太政官布達公園 日本で最も古い公園の一つ 芝公園 公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近 […]
江戸・桜田門通りの金森屋敷跡 正保年中(1644~1647)の江戸城下図 東京の国立公文書館に江戸の城下絵図が何点かあり、その中に金森氏の屋敷が見られる。第Ⅰ期・桜田通りの金森屋敷、第Ⅱ期・桜田通りと芝の両方にあった金森 […]
守山市の矢嶋町などの史跡と琵琶湖 金神社由緒 金神社(金大明神) 祭神 金山毘古神(かなやまひこのかみ) 境内神社 日吉神社 祭神 大山咋命(おおやまくひのみこと) 稲荷御崎神社 稲荷金高神社 祭神 宇賀御魂神(うかのみ […]
金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配 金森左京家 白崎陣屋址 ここは金森家の分家である金森左京家の陣屋址である。金森家の初代である金森長近は信長・秀吉・家康に仕えた戦国武将で、信長の時代には越前大野を支配する大名となり […]
岩手県盛岡の金森氏遺構(第7代頼錦の菩提寺) 金森兵部の碑 金森兵部は少(しょう)輔(ゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)38,000石の藩主であったが、宝暦8年(1758)に領民騒(そう)擾(じょう)の […]
金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺 慈恩寺 当寺は、八幡城主遠藤慶隆が開基で、大本山妙心寺から半山禅師を迎えた。境内には遠藤慶勝らの霊廟や、金森左京(可英(ありひで)・第4代)の墓、金森頼錦(よりかね)(台近(よりち […]
金森氏6代頼旹、第7代頼錦の郡上八幡城下 山形から郡上へ国替え ①頼旹から頼錦(よりかね)へ (①は『金森史』一三四~一三七頁より) 元禄十年(一六九七)六月、幕府は金森頼旹(よりとき)に出羽国上山から、美濃国郡上八幡へ […]
金森長近の美濃市城下町 最初の美濃国の姿 美濃市の町並みは国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。東西方向の2筋の街路と南北方向の4筋の横丁からなる町並み。「目の字通り」といわれる。 金森長近は関ヶ原の戦い […]
金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓 京都へ改葬された金森家の墓地跡に立つ供養塔の左右に、主君に殉死した家臣の墓石が集められている。 向かって左の内側の2基は、元和元年(1615)閏6月3日没した金森家第2代可重(ありしげ […]
飛騨から山形へ国替え 金森氏第六代頼旹が転封を命ぜられたのは、元禄五年(一六九二)七月二十八日。同年八月十八日、関東郡代伊奈半十郎が飛騨代官兼務となった。高山城在番を命ぜられたのは金沢藩主前田加賀守綱紀で、在番奉行を永井 […]
金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼と城山の銅像 金龍神社 金龍神社は、芝郡代が長近の法号にちなむ「金龍権現」の神号を得て、東照宮境内に勧請したのが始まりと言われる。 昭和17年(1942)森高山市長、東照宮社司、氏子諸 […]
金森氏第4代頼直の菩提寺・大隆寺 妙高山大隆寺の歴史 ○承応2年(1653)、第4代金森頼直が創立、開山は京都紫野大徳寺前住「禅海宗俊」。京都金龍院の末寺となる。臨済宗としての大隆寺である。 ○第3世乾舟妙一も大徳寺の前 […]