第2次平城宮
平城宮の第2次大極殿と内裏
神である天皇が起居する特別の宮殿が内裏。天皇と貴族および役人が儀式と政治を行なう場所が、大極殿である。掘立柱・檜皮葺き・白木造りの建物で構成される内裏が伝統的な生活様式に従っているのに対して、大極殿は礎石・瓦葺き・朱塗り柱という唐(から)風(ふう)の様式をとり、7世紀になってから加わった新式の宮殿。
つまり平城宮は和(わ)唐(とう)折(せっ)衷(ちゅう)の宮城なのである。奈良時代前半の大極殿は、唐の長(ちょう)安(あん)大明宮をまねて平城宮の中心部に造られ、他の宮跡に例を見ない単独の宮殿区画を形成している。奈良時代後半、旧大極殿の東側に造られた第2次大極殿では、ひと昔古い藤原宮式の宮殿配置が復活し、内裏と密接に結びついている。第2次大極殿の発掘では、建物の規模が小さな掘立柱建物が下層の同じ位置で発見され、奈良時代前半には内裏の前面に掘立柱の宮殿区画が展開していることが明らかになった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
第2次大極殿・朝堂院
地形や土壇の形によって、早くから推定されてきた大極殿院・朝堂院・朝集殿院は、その後の調査により、遷都当初のものでないことがわかり、第2次の呼称をつけて朱(す)雀(ざく)門内の第1次の区画と区別してきた。近年の調査では第2次大極殿院・朝堂院の下層から、規模が1まわり小さく、掘立柱、檜皮葺きの建物に木塀をめぐらした大極殿院・朝堂院に類似する施設が出現し始めた。創建年代は明らかでないが、第1次朝堂院地域の創建時には共存した可能性が強く、大極殿院類似遺構と、内裏を囲む木塀とがつながっており、2つの区画が強く結び付いていることがわかる。
このような施設を大極殿院・朝堂院そのものとし、同名の宮殿が宮中の2か所に存在したと考える人たちがいる。しかし、検出された遺構が和風の建築構造であり、規模が格段に小さいことからすれば、ただちには認められない。
後半期、恭(く)仁(に)宮から遷都した後に上層遺構の宮殿が建設され、それが平城宮の廃絶期まで存続する。いわゆる第2次大極殿院・朝堂院である。この時期、宮城の正門は朱(す)雀(ざく)門から東方の壬(み)生(ぶ)門に移り、拡大して整備した跡が遺構によって辿れる。
第2次朝堂院では、天皇の即位後、最初に行なう重要な儀式である大(だい)嘗(じょう)会(え)が3回行なわれていることが明らかになった。遺構は小規模な住宅様式をとる建物群で、平安時代に記録されている大嘗会の建物配置とよく一致している。しかし、現状では奈良時代のどの天皇の即位に当てはまるかということについては、まだはっきりしていない。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
2官8省
宮殿以外の地域は、通路や水路で縦横に区画して、官・省・職(しき)・寮(りょう)・司(つかさ)などの官庁を配置する。敷地は木塀や築地で囲み、独立した区画を形成する。中に正庁・付属屋・倉庫・作業場などを設けるが、官庁の格式の高低、執務内容の違いなどによって敷地の規模と場所、建物の配置や構造が決まるが、いずれの場合にも1官庁1基の井戸が設けられている。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
平城京の終(しゅう)焉(えん)
藤原京から平城京へ遷都した後と、長岡京から平安京へ遷都した後に、古い京域は都市区画である条坊地割りから、農地としての条里制地割りに変更されている。恭(く)仁(に)京も同じである。だが、平城京の場合には長岡京へ遷都したのちも条坊地割りが残り、15世紀まで条坊の呼び方で土地の売買がなされた。この地割りが現代にまで存続し、遺存地割りから平城京を復元する極めて有力な手がかりとなった。
平城宮の発掘では、平城上皇が825年頃に再興した平城宮が、旧の内裏、第2次大極殿・朝堂院地域を避け、第1次大極殿・朝堂院地域に建設され、宮域全体が9世紀の中頃まで保存されていた形跡がある。京内の発掘でも、長岡京期・平安初期に属する邸宅や住宅遺構があったことを確認している。一方、京内の家や宅地を売買した平安初期の記録もあり、京内のかなりの部分が民間の住宅として残っていた。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
資料集
084_091_第2次平城宮
第1次平城宮
平城宮の建設
和銅元年(708)から、平城京の建設が本格的に始まった。2月、「まさに今平城の地は、四(し)禽(きん)図(ず)に叶(かな)い、三山鎮(ちん)をなす、亀(き)筮(ぜい)ならびに従う、よろしく都(と)邑(ゆう)を建べし」という詔(みことのり)が元(げん)明(めい)女帝から発布される。3月には閣僚の人事異動が発令され、左大臣石(いその)上(かみの)麻(ま)呂(ろ)・右大臣藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・大(だい)納(な)言(ごん)大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)らトップのもとに、造(ぞう)宮(ぐう)卿(きょう)として大伴手(て)拍(がしわ)が任命された。9月、多(た)治(じ)比(ひの)池(いけ)守(もり)が造平城京司の長官に併任され、10月になると伊勢大神宮に使者を送って造営の安全を祈願する。11月、平城宮予定地内に住む菅原の農民90余家を移転させ、12月になってようやく平城の宮地で地鎮祭を行なった。
和銅3年(710)3月、平城に遷都。藤原宮の留(る)守(すい)役(やく)を左大臣石上麻呂とし、遷都の実際的な経営は右大臣藤原不比等の手に委ねられたようだ。
<宮門と大垣>
平城宮の範囲は、精度の高い土木技術で設定された京の条(じょう)坊(ぼう)地(じ)割(わ)りによって決定された。その平面形は、約1,000メートル四方の正方形の東側に、東西約240メートル、南北約750メートルの長方形区画を付け足した逆L字形をとる。条坊道路と宮城との境には濠(ほり)(道路の側溝)・壖(ぜん)地(ち)(犬走り)があって、その内側に瓦葺きの築(つい)地(じ)大(おお)垣(がき)を築いて外囲いとする。土をつき固めて高い塀をつくる築地は、平城宮で初めて採用された新しい技術であった。
大路と条・坊間路に面して宮城門を開く。南面と西面では、それぞれ3門を配置し、南面中央門がもっとも大きく、正門の朱雀門である。東南の入り隅部に1門を開く。東面には2門を想定できるが、南側の門は変則的に藤原不比等の邸宅(のち法華寺)に面して開いたようだ。北面では中央門しか想定できない。
宮域を東西に区画する南北方向の基準線は、大路と坊間路の中軸線と同じである。南北に区画する東西方向の基準線は、南面大垣から533メートル(大尺1,500尺)北に位置する第1次大極殿南門、第2次大極殿南門の中心を結んだ線である。この東西の基準線に基づいて、宮内が大小の敷地に区画されるが、基準になる尺度として、大(たい)宝(ほう)令(りょう)で測地用の尺とされている大尺(小尺×1.2、0.3529メートル)が用いられている。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
第1次大極殿院・朝堂院
平城宮の南面に展開する朱雀大路と、二条大路の交差点は一種の広場であり、平城宮の役人と京の住民とで行なう歌(うた)垣(がき)のような行事、宮中の大(おお)祓(はら)いの儀式、あるいは、政府が主催するデモンストレーションの場であった。朱雀門の内側は、天皇・貴族・役人の世界だ。バラス敷きの道路が北上し、朝堂院南門に至る。一般には、これから先が平城宮の中枢部の区画である朝堂院と大極殿院であると考えられている。大極殿は天皇と貴族が中心になって行なう国家儀式の舞台であり、朝堂院は貴族が会合し、政治を論じ、儀式を行なう場所とされている。
朝堂院の区画は、初期には掘立柱塀、後期には築地で囲み、その東西の築地寄りに南北に長い大きな礎石建物をそれぞれ2棟ずつ配置し、中央部は広々とした広場となる。大極殿院は周囲を築地回(かい)廊(ろう)で囲み、壇(だん)の表面を塼(せん)を積んで化(け)粧(しょう)し、登壇のため左右の端に斜めの道を造る。壇上には基壇・礎石付きの壮大な大極殿を建て、後方に後(こう)殿(でん)を置く。
このような平面プランは、平城遷都の710年から恭(く)仁(に)宮へ遷都する天平13年(741)までの姿であり、さらに朝堂院は、大極殿院よりも遅れて715年以降に造営されたことがわかっている。初期平城宮における大極殿院・朝堂院の平面プランは、先に造られた前期難波(なにわ)宮や藤原宮に見られない独特の配置である。
大極殿を高い壇の上に配置し、その前面に広場(朝庭)を設ける方法は、中国の唐大明宮の含(がん)元(げん)殿に見ることができ、平城宮でそれを模(も)倣(ほう)したと考えられる。含元殿では、壇下の東西に南面する建物1棟があり、これが東西の朝堂である。平城宮では壇下で建物を発見していないが、大極殿の左右に広い空間地が残り、基壇・礎石付きの建物を想定することができる。つまり、藤原宮のように朝堂12堂・大極殿・内裏の区画を南から北へ向かう一直線上に配置するのをやめて、唐の制度をまねて東西2朝堂に変更したと考えるべきである。強いて言うならば、築地回廊の中に大極殿と朝堂院の機能を集約したのである。
これこそ、藤原不比等が決意した行政改革の狙(ねら)いではなかったか。
<内裏>
壬生(みぶ)門内にも、大宝大尺で区画された地割りがあり、南から朝集殿院・朝堂院・大極殿院、内裏と築地や築地回廊で囲まれた区画が串(くし)刺し状に並ぶ。
内裏は東西500大尺(約180メートル)、南北550大尺(約194メートル)の方形に近い平面形をとる。前半期(恭仁宮から平城宮に遷都するまで)はまわりを木(き)塀(べい)で囲み、初期には中央に並び堂形式の正殿を置き、前面を広場として後方に数棟の規格的な建物を配置するが、いずれも掘立柱の檜(ひ)皮(わだ)葺(ぶ)き建物である。天皇が寝起きする建物を正殿にあてるなら、天皇の生活空間だけに限定されているようだ。一方、初期の大(だい)極(ごく)殿(でん)院とは区画がはっきりと区別されていることから、天皇の国家的機能と家政的な機能をはっきりと分離しようとする意図がありありとうかがえ、これも不比等の創案によるのであろう。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
第1次平城京
和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部のこの地に都が移された。大(おお)路(じ)小路(こうじ)が碁盤目状に通る平城京の人口は、10万人程度と考えられている。平城京の中央北端に位置する平城宮は南北約1㎞、東西約1.3㎞の大きさで、天皇の住まいである内裏、政治や儀式を執り行なう大極殿と朝堂院、さまざまな役所、宴会の場となる庭園などが設けられていた。しかし、都は延暦3年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、平城京も宮(きゅう)も次第に土の中に埋もれていった。
現在、平城宮跡は国の特別史跡として大切に保存され、奈良文化財研究所が発掘調査を続けている。これまでの調査の結果、平城宮は四角形ではなく東側に張出し部を伴なっていたことや、政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西2ヶ所あったことなどが明らかになっている。こうした成果に基づき、遺跡の復原・表示を行なっている。
※説明板より
第1次大極殿
第1次大極殿は、奈良時代前半に、平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、天皇が様々な国家儀式を行なう施設であった。「大極」(太(たい)極(きょく))とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味する。大極殿は和銅8年(715)には完成していたと考えられる。
第1次大極殿の姿を直接的に示す資料は残っていない。復原に当たっては、大極殿が移築された恭(く)仁宮(にのみや)の大極殿跡の調査成果などを参考に、柱の位置が推定された。上部の建物については、現存する法(ほう)隆(りゅう)寺(じ)金堂(こんどう)や薬(やく)師(し)寺(じ)東塔(とうとう)などの古代建築をはじめ、平安時代の『年(ねん)中(ちゅう)行(ぎょう)事(じ)絵(え)巻(まき)』に描かれた平安宮の大極殿などを参考に調査研究を行ない、当時の姿が復原された。
大極殿は、二重構造の入(いり)母(も)屋(や)造りで、前面は扉のない吹放しの建物と考えられる。
大極殿の仕様
①大極殿の大きさ
東西長さ/約44.0m(9間)
南北長さ/約19.5m(4間)
高さ(棟高)/約27.1m(基壇高さ約3.4mを含む)
初重の柱 直径/約71㎝ 長さ/約5.0m 本数/44本
二重の柱 直径/約59㎝ 長さ/約2.4m 本数/22本
②木材
ヒノキ、ケヤキ(吉野・熊野地方を中心とする国内産)
③屋根瓦
約10万枚
④工期
平成13年/着工 平成22年/完成
※説明板より
高御座(たかみくら)
第1次大極殿の内部には、高御座と呼ばれる天皇の玉座が置かれていた。高御座は、皇位を象徴する重要な調度で、天皇は即位式や元日朝賀などの国家儀式の際に、大極殿に出(しゅつ)御(ぎょ)して高御座に着座した。貴族は、大極殿の南に広がる内庭(ないてい)に立ち並び、大極殿の天皇を拝した。
高御座は、国家儀式の際に天皇が着座した玉座である。奈良時代の高御座の構造や意匠に関する記録はなく、詳細は不明である。ここに展示した高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献史料を参照して製作した実物大のイメージ模型である。細部の意匠や文様は、正(しょう)倉(そう)院(いん)宝物(ほうもつ)などを参考に創作された。
※説明板より
資料集
083_090_第1次平城宮
藤原京
藤原京成る
大宝元年(701)正月、文武天皇は藤原宮の大(だい)極(ごく)殿(でん)に出御し、群民の賀正の礼を受けた。『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』はその様を「その儀、正門に烏形の憧(しょう)を樹(た)つ。左に日像・青竜・朱(す)雀(ざく)の幡(ばん)、右に月像・玄(げん)武(ぶ)・白虎の幡。蕃(ばん)異(い)の使者左右に陳列す。文物の儀ここにおいて備(そなわ)れり」と特筆している。
天武天皇によって計画され、その死後夫の遺志を継いだ持(じ)統(とう)天皇によって完成した藤原京は、持統8年(694)12月の遷都以来、和銅3年(710)3月の平城京遷都まで、持統・文武・元(げん)明(めい)3代の宮都となった。
それまで歴代遷宮を繰り返していた宮都が、わずか15年ほどの短い期間とはいえ、3代にわたって藤原京に定着したことは、その条坊制による京の施行と、瓦葺き宮殿の採用とともに画期的なことであった。
そして、それはそれまでの「倭京」を「新に益す(拡張する)」形で営まれたものとして、「新(あら)益(ましの)京(みやこ)」と呼ばれたのである。
藤原京は岸(きし)俊(とし)男(お)によると、大和平野を南北に走る2つの古道、中ツ道と下(しも)ツ道をそれぞれ東・西京極とし、横大路を北京極、阿部・山田道を南京極とする東西4里(約2,120メートル)、南北6里(約3,186メートル)の地域を、東西方向の条大路と南北方向の坊大路によって12条8坊に区画された条坊制都城であった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
藤原宮の構造
藤原宮は、北を二条大路、南を六条大路、東西を東西2坊大路で囲まれた東西4坊、南北4条、合わせて16坊の広さを占める。宮域は掘立柱塀からなる大垣で画され、東西南北の各面に3か所ずつ、合計12の宮城門を開く。また、大垣の両側には内堀、外堀が設けられ、外堀と宮の周囲の条坊道路との間には、幅の広い外周帯が設けられている。宮城の規模は、東西大垣間が925.4メートル、南北大垣間が906.8メートルで、東西にやや長い。宮域内には中心線上に12堂を擁(よう)する朝(ちょう)堂(どう)院(いん)と、大極殿を囲む大極殿院とが南北に接して並び、大極殿院の外側には、おそらく内裏を区画すると考えられる外郭大垣が、めぐっている。この中(ちゅう)枢(すう)部分の東西には、諸官衙が配置されていた。
これら宮城内の区画地割りや京内条坊道路などは例外なく大尺=高(こ)麗(ま)尺(じゃく)(35.4センチメートル)を基準尺として設定されている。
京内条坊道路では、朱(す)雀(ざく)大路が路面幅50大尺(17.7メートル)・側溝幅20大尺(7.1メートル)に設定されており、以下六条大路が50.10(大尺、以下同じ)、東二坊大路が50.5、四条大路が40.5、三条大路が20.5となっていて、大路の規模は少なくとも5段階に区別されており、小路は15.5の設定寸法であったと考えられている。
藤原京の朱雀大路は空前の大路であったが、平城京・平安京になると、路面幅はさらに拡大して約70メートルになり、単なる道路機能を越えている。朱雀大路や六条大路など宮城周辺道路は、律令制国家の威信を内外に誇示する儀式場であり、人々の集まる広場であった。それぞれの等級に応じて、京を碁盤目状に整然と区画する道路の存在こそ、まさに条坊制都城の特色であり象徴であった。
こうして、藤原京は4つの古道に規制されながら、予想外に整然と計画されていることが明らかにされたのである。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
隋・唐都市建設の輸入
すでに大化前代において隋・唐と通交を持った日本は、推古天皇31年7月条の帰朝した大唐学問僧・学(がく)生(しょう)らの発言が示すように、「法式備定の珍国」である隋・唐の律令制度の移入に力を注いでいる。隋文帝が582年に建設した大興城は、唐の建国とともに長(ちょう)安(あん)城と改称され、唐都となったが、宮城・皇城と京城が一体となったその壮大な都城制は、留学生・留学僧らに強い感銘を与えたと思われる。彼らが大化改新のブレーンとして難波遷都や長柄豊碕宮の造営に参画した時、唐長安城の都城制を想起したことは想像に難くない。
この時、長柄豊碕宮と一体となった「京師」の建設が企図されたと思われ、長柄豊碕に遷都してから長柄豊碕宮の建築に着手するまでの5年余の期間は、「京師」建設のための基盤整備に充てられたのではなかろうか。
前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮が条坊制に基づくか否かはともかく、難波「京」と呼べるものが存在していたのか否かは、いわゆる大化改新の評価に多大な影響を与えるだけでなく、我が国都城制の形成過程、ひいては我が国の古代国家の形成過程を考える上で、避けられない論点になっていると言えよう。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
特別史跡 藤原宮跡
史跡指定 昭和21年11月21日 特別史跡指定 昭和27年 3月29日
藤原(ふじわら)京(きょう)は、持(じ)統(とう)天皇8年(694)から和銅3年(710)まで、持統・文(もん)武(む)・元明(げんめい)天皇3代にわたる都であった。藤原(ふじわら)宮(きゅう)はその中心部にあり、現在の皇居と国会議事堂、および霞(かすみ)ヶ(が)関(せき)の官庁街とを1か所に集めたようなところである。大きさはおよそ900m四方、まわりを大垣(おおがき)(高い塀)と濠(ほり)で囲み、各面に3か所ずつ門が開く。中には、天皇が住む内裏、政治や儀式を行なう大極殿(だいごくでん)と朝(ちょう)堂院(どういん)、そして役所の建物などが建ち並んでいた。
大極殿は、重要な政治や儀式の際に天皇の出(しゅつ)御(ぎょ)する建物である。赤く塗った柱を礎石の上に建て、屋根を瓦で葺くという、日本では最初の中国風の宮殿建築であった。建物の柱間は正面9間(45m)、側面4間(20m)、基(き)壇(だん)を含めた高さは25mを超え、藤原宮では最大である。現在は基壇の跡だけが残り、「大宮(おおみや)土(ど)壇(だん)」と呼ばれている。昭和10年(1935)に、日本古文化研究所がこの土壇を発掘調査し、藤原宮解明の端緒となった。 説明版より
大極殿院閤門
大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)は、大極殿院と朝(ちょう)堂院(どういん)を区切る門である。日本古文化研究所の調査により基(き)壇(だん)最下段の石材が部分的に確認されている。規模は不確定ながら、正面約30m、側面役15mと朝堂院南門と同規模と想定されている。平成19年(2007)には、奈良文化財研究所により再調査が実施されている。
なお、列柱は閤門(こうもん)より南30mの場所に設置し、再現表示している。
説明版より
藤原京のその後
藤原京は、和銅3年(710)の平城京遷都の後、しだいに農村となり、中心にあった藤原宮(ふじわらのみや)の場所さえわからなくなってしまった。
昭和9年(1934)から始まった日本古文化研究所の発掘調査により、藤原京は長い眠りから覚め、1,200年ぶりにその所在が確認された。戦争で調査はしばらく中断したが、昭和41年(1966)に宮殿を囲む大垣(おおがき)跡が発見されたこと契機(けい(き)に、昭和44年(1969)からは奈良国立文化財研究所によって継続的な調査が開始され、現在では橿原市教育委員会などが加わって、発掘が続けられている。
藤原宮資料館・説明版より
資料集
085_092_藤原京
飛鳥浄御原宮(板蓋宮を含む)
板蓋宮
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。643年(皇極天皇2年)4月、遷る。
板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。この日、蘇我入鹿が刺殺され、これにより皇極天皇は同月12日(14日)に退位し、軽皇子が即位した(孝徳天皇)。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた(難波長柄豊碕宮)。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。当時、大陸から伝来した最新様式を反映している寺院は瓦葺きであったが、それ以外の建築物への普及は進まず、平安時代以降の貴族の居宅である寝殿造も檜皮葺である。本格的な瓦葺きの普及は江戸時代以降である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
史跡 伝飛鳥板蓋宮跡 昭和47年4月10日国指定
推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまだ確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、主に橿原考古学研究所によって発堀調査が続けられてきた。
その結果、掘立柱列で囲まれた東西約156m、南北約197mの長方形の区画(内郭)と、その南半では中軸線上に位置する5間×2間の門と、7間×4間の建物、北半ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。また内郭の東南に接しては、9間×5間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の県道沿いには、これらの遺構を囲む外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。
建物はすべて掘立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺跡と推定されるが、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。
*板蓋宮跡説明版より
資料集
086_093_飛鳥浄御原宮(板蓋宮を含む)
豊浦宮
1 豊浦宮(とゆらのみや)
小墾田宮おはりだのみや遷都前の推古天皇の皇居。奈良県明日香村豊浦にあったと推定される。593年、推古天皇豊浦宮にて即位する。以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中した。飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。603年、北に小墾田宮(おはりだのみや)をつくり、豊浦宮は蘇我氏に賜って豊浦寺になったと伝えられる。
明日香村豊浦の向原寺一帯には往時の礎石が残っており、また、1957年以来数度におよぶ発掘調査により、豊浦寺の遺構が確かめられ、遺跡の保存がはかられてきた。1985年、向原寺庫裡の改築に伴い発掘調査を実施したところ、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。さらに、その下層からは石敷を伴う掘立柱建物跡が掘り出された。建物は南北3間(5.5m)以上、東西3間(5.5m)の高い床張りである。飛鳥の宮殿は建物のまわりに河原石を敷いて舗装するのが特徴であり、ここ豊浦にあった推定「豊浦宮建物跡」は、飛鳥における最初の宮殿遺構として価値が高い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
2 豊浦寺跡
603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦佛(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。
*説明版より
3 伎楽伝来の地 豊浦寺境内
『日本書記』612年に、百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本に伝えるや、聖徳太子が桜井に学校を設け、それを伝授させた旨がみえる。その『桜井』が、韓国の李應壽の調査研究(日本演劇学会紀要47)により、新たにこの付近に比定されたので、碑を建て、韓国と日本の演劇交流の始原を記憶するものとする。
*説明版より
4「盟神探湯 (くがたち)」 豊浦寺境内
盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法である。「日本書紀」によれば允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行なったと伝えている。
現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」としてその形を保存・継承している。「立石」と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほか、村内の岡・上居・立部・小原などにも残っている。
*説明版より
資料集
087_094_都の移転・豊浦宮
難波長柄豊崎宮
前期難波宮(なにわのみや)
難波宮は大阪の上(うえ)町(まち)台地の北端を利用して造られた宮跡。聖(しょう)武(む)天皇の時代に造られた後期難波宮の下層から発見された宮殿遺跡を前期難波宮と呼び、孝(こう)徳(とく)天皇の652年に完成し、天(てん)武(む)天皇の686年に焼亡した難波豊(とよ)碕(さき)宮にあてる。宮城の中心部に、朝堂・内裏前殿(大極殿)・内裏の区画が南から一直線上に並ぶ威容は、先進国である大陸王朝の宮殿の制度をまねたもの。難(なに)波(わ)津(づ)は大和朝廷の玄関にあたり、唐や新羅の使節がいったんここで待機し、その後に大和の都に上る手順になっている。外国の外交官に対して、日本が決して後進国でないことを誇示するために造ったのだろう。いずれの建物も掘立柱・板葺きによる日本式で、大陸的な礎石や瓦を使った建物はない。建築技術の未熟さは、隠しようがなかった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
難波遷都
皇極4年(645)6月、クーデターで蘇(そ)我(が)本(ほん)宗(そう)家(け)を倒して新政権を樹立した中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)や藤原鎌(かま)足(たり)らは、その年の12月、都を上(うえ)町(まち)台地の先端部に当たる難波の長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さき)の地に移した。
難波の地は、「倭京」の外港で、瀬戸内海を経由する内外交通のターミナルである難(なに)波(わ)津(づ)を擁(よう)し、また、淀(よど)川・大和川水系を通じて畿内各地や、北陸・東海地方ともつながる交通の要(よう)衝(しょう)であった。そのため、中国・朝鮮への交通の発着点として早くから外交の要所であり、大(おお)郡(ごおり)や難波館(なにわのむろつみ)など外交関係の役所や迎(げい)賓(ひん)館(かん)が設けられた。さらに、難波に集散する内外の物資を収納・管理・運送する経済的中心地として、難波屯倉(みやけ)や諸豪族の難波の宅や倉が営まれていた。
難波(なにわ)遷(せん)都(と)は、長年専権をふるった蘇我氏ら旧勢力の蟠(ばん)踞(きょ)する飛鳥の地から脱して人心を一新するとともに、隋(ずい)・唐(とう)の対高(こう)句(く)麗(り)戦争を契機として引き起こされた朝鮮半島をめぐる政治情勢に積極的に対処しようとする新政権の意志表示であり、難波の外交・軍事の基地としての機能に着目したものであった。
天皇を頂点とする中央集権的な全国支配を目指す新政権にとって、その政治の中心となる都の造営こそ、まず成し遂げられねばならない課題であった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
長柄豊碕宮の造営
孝徳天皇は、とりあえず既成の官(かん)衙(が)を行(かり)宮(みや)に改修して、ここを拠点に新しい都の建設に着手した。当然のことながら宮都の建設に際しては、宮地の整地、街路・橋梁・池(ち)溝(こう)・港湾などの整備や河川の治水など基盤整備が先行して行なわれた。
こうした過程を経て、白(はく)雉(ち)元年(650)10月から、いよいよ新宮の建設に取りかかった。
その地の名をとって難(なに)波(わ)長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さきの)宮(みや)と名づけられ、白雉3年(652)9月に完成した新宮の宮殿の状(かたち)は、『日本書紀』が「言葉に尽しがたいほど立(りっ)派(ぱ)であった」と特筆している通り、従来の宮殿とは隔(かく)絶(ぜつ)した規模と構造を持つものであった。
昭和29年(1954)以来の長年にわたる発掘調査によって、上町台地先端部に当たる大阪市東区馬場町・法円坂1丁目一帯の地に、中軸線をほぼ同じくする前・後2時期の宮殿跡が発見されている。
奈良時代の後期難波宮跡に先行する前期難波宮跡こそ、652年の完成後は、難波における正宮として、難波宮とも呼ばれた難波長柄豊碕宮の遺構と考えられるのである。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
前期難波宮跡
すべて掘立柱建物で、屋瓦を伴わないので瓦葺(ぶ)きではなかったと考えられる。遺構は、曲折して南北にのびる回廊が左右対称に配され、その内部は、7間×2間(32.7メートル×12.3メートル)の日本の宮都の中でも最大級の規模を持つ巨大な内(だい)裏(り)南門で、北の内裏と南の朝(ちょう)堂(どう)院(いん)に大きく2分される。宮城門(外門)は未調査であるが、朝堂院南門(中門)を入ると、広大な朝庭の東西に12朝堂が並び、内裏南門(内門)の左右には、他の諸宮には例を見ない八角殿院がある。
内裏南門を入ると、中庭の北に内裏前殿、左右に東西長殿がある。内裏前殿は9間×5間(36.6メートル×19メートル)で、前期難波宮の中で最大の規模を持つ。その掘立柱は、直径73センチメートルもある立派なもので「長柄の宮に 真木(まき)柱 太高敷きて」とある『万葉集』(928)の歌を彷(ほう)彿(ふつ)とさせる。
その後の内裏後殿は前殿と回廊で結ばれ、左右に脇殿を配するというように、全体として左右対称の整然とした宮殿の配置がうかがえる。
内裏・朝堂院の西方約284メートルには、西側を一本柱の塀(へい)で区画された高床倉庫4棟以上や「並び倉」が並び、東方約200メートルにも、前期難波宮に属すると推定される2棟の高床倉庫を中心とした掘立柱建物群が存する。
内裏後半部の状況は明らかではないが、これまでに判明した内裏・朝堂院部分だけをとっても、東西238.7メートル、南北408メートルの範囲を占め、さらにその外方の倉庫群や官衙などを含めると、東西約600メートルに及ぶ規模であったと思われる。
前期難波宮は基本的には、内裏とその前面の朝庭を含む官衙群、その周囲に配された倉庫群とから構成されていた。
<画期的な長柄豊碕宮>
こうした前期難波宮の構造は、基本的には文献から復元されている小墾田宮の構造を継承するものであるが、内裏部分が前殿区域と後殿区域に分かれること、巨大な内裏南門の左右に八角殿院を配すること、朝堂院が極めて大きく、広大な朝庭と多数の庁(まつりごとどの)(朝堂)を持つこと、近辺に倉庫群を配する点など、それまでの飛鳥諸宮に隔絶した規模と、よりいっそう整備された配置を持っている。
前期難波宮の規模の大きさは、飛鳥では分散していた内廷・外廷機能を難波遷都を契(けい)機(き)に1か所に集約したこと、後世、「難波朝廷の立札」として記憶される中国的な立札が採用されたことに示されるように、中国の儒(じゅ)教(きょう)的な礼教主義に基づいて、天皇を頂点に臣下を秩(ちつ)序(じょ)づけるさまざまな礼法が定められ、それを具体的に演出し、「海東の大国」としての威信を内外に誇示する舞台装置として、長柄豊碕宮が構想されたことを示している。その具体的な例として、別宮のことではあるが、650年の白雉改元の儀式や、孝徳朝から始まる元日朝賀の儀式があげられるであろう。
その基本構造は5世紀以来の大王の宮の発展系列上にのるものであったが、中国の都城制にならってさまざまな体(てい)裁(さい)がこらされた。隋(ずい)・唐(とう)の長(ちょう)安(あん)城の宮城に当たる内裏の南面には承(しょう)天(てん)門(もん)にならった巨大な門を置き、その左右に回(かい)廊(ろう)で囲まれた八角形の楼(ろう)閣(かく)を配する。この八角楼殿は、東方が鼓(こ)楼(ろう)、西方が鐘(しょう)楼(ろう)であったと思われる。時間や暦(こよみ)を定めて民に知らせることは、古代の天子や天皇の重要な役割であった。また、朝庭に出入する官人の出退時間を鐘で知らせたことは、大化3年(647)の小郡宮の礼法に見え、その鐘は中庭に置かれたという。唐の長安城太極宮では、貞(じょう)観(がん)4年(630)に太極殿の前にある太極門の東に鼓楼、西に鐘楼が置かれたとあり、その配置が前期難波宮の場合と一致することも参考になる。
内裏の南にある朝堂院は、長安城の皇城を意識した官(かん)衙(が)であり、内裏南門の前面に広がる広大な朝庭は、承天門前の横街に当たる。
朝庭の周囲に配された庁の数が12であるのは、町(まち)田(だ)章(あきら)によれば中国の五(ご)行(ぎょう)思(し)想(そう)に基づくもので、天子の12章(天子の服だけに許された独特の模様)や、宮城12門のように天子だけに許された聖数であるという。
難波における正宮として、以後、難波宮とも呼ばれた長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さきの)宮(みや)は、孝徳天皇の崩(ほう)御(ぎょ)と飛鳥(あすか)への遷都の後にも廃(はい)絶(ぜつ)することなく維(い)持(じ)され、天(てん)武(む)朝にはいっそうの拡充を見て、天武12年(684)12月には複都制の詔(みことのり)によって「倭京」と並ぶ副都となるのである。
以上述べてきたように、前期難波宮跡が孝徳朝の長柄豊碕宮の遺構であるとすると、後出の大津宮や浄御原宮の推定遺構の方が規模が小さくなることから、両者ともに長柄豊碕宮の発展系列の上においては考えにくいとして、天武初年あるいは複都制の詔とかかわらせて、天武12年(684)頃の創建と考えた方が、飛鳥の諸宮から藤原宮にいたる、我が国の宮室の発展系列が整合的に理解しやすいとの考えがある。
しかし、白(はく)村江(すきのえ)の敗戦後の緊(きん)迫(ぱく)した国際状況の下に、慌しく遷都・造営された大(おお)津(つ)宮や壬(じん)申(しん)の乱(らん)後に造営された浄(きよ)御(み)原(はら)宮の方が、日本の都城の発展系列では異質のものではなかったか。飛(あす)鳥(か)板(いた)葺(ぶきの)宮(みや)伝承地の上層遺構が浄御原宮であるとすると、それは斉(さい)明(めい)朝の旧宮である後飛鳥岡本宮にエビノコ郭を新宮として付け加え拡充したものという。すでに多くの宮室や外廷施設、寺院によって占居されていた飛鳥の地に、新しい宮室を造営する余地はなかったのである。浄御原宮は飛鳥の立地と伝統に規制された極めて飛鳥的な宮室であり、天武朝における政治機構の整備・拡大に対応するだけの余地がなかった。それゆえにこそ、天武天皇は飛鳥遷都後間もない天武5年から早くも新しい都城の建設を目指したのである。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
前期難波宮跡(大阪市中央区)
蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変を受けて、孝徳天皇は改新の詔を発布して新政府を難波で樹立した。その象徴ともなる宮殿が前期難波宮である。前期難波宮は掘立柱建物で瓦を葺かず、朱鳥元年(686)に火災によって焼失したことがわかっている。宮域は明確ではないが、約700m四方程度が考えられており、その中心に北から内裏・朝堂院が並ぶ。その中心の内裏前殿は9×5間の四面庇建物で、朝堂院(南北262m、東西231m)には東西に各7堂以上の朝堂が配置されている。宮域の東方には官衙区画がみられ、西方には倉庫群が建ち並ぶ。これらの規模・構造は後の藤原宮と共通する部分が多く、『日本書紀』に「宮殿の状、殫く論ずべからず」と記される。
<引用文献> 明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録④ 飛鳥の宮殿 ―古代都市“飛鳥”を探る―』6頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成17年
前期難波宮
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。
天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
ウィキペデア 2019.2.3 前期難波宮
難波長柄豊碕宮
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。難波長柄豊崎宮、難波長柄豊埼宮とも表記する。学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれる。
この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。
内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。
ウィキペデア 2019.2.3 難波長柄豊碕宮
資料集
088_095_都の移転・難波長柄豊崎宮
飛鳥川原宮(橘寺)
1 橘寺
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。新西国三十三箇所第10番札所。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見。
当寺出土の古瓦のうち、創建瓦とみられる複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀第I四半期に位置付けられ、当寺の創建はこの頃とみられる。ただし、この時期の瓦の出土は少なく、本格的な造営が行われたのは7世紀半ば以降とみられる。
橘寺出土瓦に川原寺創建瓦との同笵品がみられること、川原寺の伽藍中軸線が橘寺北門の中軸線と一致することなどから、僧寺(男僧の寺)である川原寺に対する尼寺として橘寺が建立されたとする説もある。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。
皇族・貴族の庇護を受けて栄えた橘寺であったが、平安時代後期の久安4年(1148年)に五重塔が雷で焼失する。しかし、文治年間(1185年-1189年)には三重塔として再建される。
室町時代後期の永正3年(1506年)、室町幕府管領細川政元の家臣赤沢朝経による多武峰妙楽寺攻めの際に橘寺の僧が赤沢軍に与したため、多武峰の衆徒によって全山焼き討ちされ、以降衰退していった。
それでも聖徳太子ゆかりの寺としての寺基は保ち続け、元治元年(1864年)には本堂として太子堂が再建された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.3.5
2 橘寺関連年表
西暦 年 号 記 事
0572 敏達天皇 1年 聖徳太子生誕 於 橘島宮 (太子伝歴)
0606 推古天皇14年 7月朕前に勝鬘経講讃3日講竟る。 法隆寺東院資財帳
千仏頭現出 蓮華降零の奇瑞あり。 古今目録抄
ここに禁裏をもって伽藍となす
0680 天武天皇9年 4月尼房失火10房を焼く (日本書紀)
0756 天平勝宝8年 光明皇后御願丈六釈迦三尊像奉納 (古今目録抄)
0827 天長3年 淳和天皇御願薬師三尊像安 ( 同上 )
1023 治安3年 10月19日藤原道長参詣す (扶桑略記)
1078 承暦2年 推古帝御厨子(玉虫厨子)金銅仏肆拾九体
(即ち49躯仏)等法隆寺に遷さる (古今一陽集)
1148 久安4年 5月15日雷火により五重塔焼く (古今目録抄)
1185 文治年中 三重塔建つ(裏書建仁3年1203年) ( 同 上 )
1506 永正3年 多武峰僧兵橘寺に放火す
1161~72 寛文年中 今は講堂一宇残りて太子35才の御時自ら作り給う
立像の御影まします 余りは只礎石のみ残り云云(寛文寺社記)
1864 元治1年 現堂宇再興さる
3 宝物
聖徳太子勝鬘経講讃像 (室町 重文) 太子殿
聖徳太子孝養像 ( 鎌 倉 ) 太子殿
田道間守像 ( 藤 原 ) 太子殿
如意輪観世音菩薩 (藤原 重文) 観音堂
日羅上人像 (貞観 重文) 収蔵庫
地蔵菩薩像 (藤原 重文) 収蔵庫
だ太鼓のふち (鎌倉 重文) 収蔵庫
橘寺型石灯炉 (吉野朝 重文) 収蔵庫
聖徳太子絵伝八幅 (室町 重文) 国立奈良博物館
釈迦涅槃図 (室町 県重文) 国立奈良博物館
4 二面石
右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現わしたもので、飛鳥時代の石造物の1つである。
5 五重の塔跡
飛鳥時代には120数尺(約40m)の五重の塔が建っていた。
6 聖徳太子 愛馬
黒駒像
聖徳太子は、
愛馬 黒駒に乗って
各地の説法に行かれました。
2~6は説明版より
資料集
089_096_飛鳥川原宮(橘寺)
飛鳥川原宮(川原寺)
1.川原宮
川原宮(かわらのみや)は、7世紀中期の斉明天皇が営んだ宮。一般には飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)と呼ばれている。奈良県明日香村川原にある川原寺(弘福寺)の地にあったと伝えられている。川原寺の下層からは、寺建立以前の大規模な整地層や石組溝・マンホール状施設などが部分的に見つかっており、川原宮の有力な候補地となっている。おそらく豊浦寺のように、川原宮の跡地に川原寺を建立したのであろう。
『日本書紀』には、斉明天皇元年(655年)の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年には新たに後岡本宮を建てて遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
斉明天皇の崩御後、子の天智天皇のときに川原宮は川原寺(かわらでら)に改められたという。平安時代初期には嵯峨天皇がこの寺を空海に与えたと伝わる。今日では真言宗 仏陀山弘福寺(ぶつださん こうふくじ)を正式名称としている。
<引用文献>明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録④ 飛鳥の宮殿 ―古代都市“飛鳥”を探る―』7頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成17年
2.史跡 川(かわ)原(ら)寺(でら)跡(あと)
川原寺は、法(ほう)名(みょう)を弘(ぐ)福(ふく)寺(じ)ともいわれている。その創建年代については不明であるが、『日本書紀』天武天皇2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、伽(が)藍(らん)配置や瓦の文様が天(てん)智(じ)天皇に関連する大津宮の南(みなみ)滋(し)賀(が)廃(はい)寺(じ)や大(だ)宰(ざい)府(ふ)の観(かん)世(ぜ)音(おん)寺(じ)と類似することから、天智天皇の時代(662~671)に斉(さい)明(めい)天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられる。
昭和32・33年の発掘調査の結果、中金堂(現弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が建ち、中門からでた回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。また、中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧房が3面にある。川原寺で使われていた複(ふく)弁(べん)八(はち)弁(べん)蓮(れん)華(げ)文(もん)丸(まる)瓦(がわら)は川原寺式軒瓦と呼ばれ、天武天皇の時代には近畿・東海地域の古代寺院に多くみられ、壬(じん)申(しん)の乱(らん)で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えられている。
現在では弘福寺境内にある瑪(め)瑙(のう)(白大理石)の礎石と公園内の建物復元基(き)壇(だん)が当時を偲ばせている。
説明版より
3. 一代一宮の慣行
こうした一代一宮のいわゆる歴代遷宮の慣行の理由について、八(や)木(ぎ)充(あつる)は、①父子別居の慣習による、②死の穢(けが)れを避けるため、③政治的課題を解決するため、④地理的・経済的理由に基づく、⑤宮殿建築の耐用年限によるなどとする従来の説に触れた上で、宮室内に起居した天皇の死を忌(いた)む心情と、5~6世紀以降の天皇の宮と皇子の宮が並存して、東宮を即位後の宮処とする慣習とが表裏一体の関係となって、歴代遷宮が繰り返されたと見る。そして、平城京のような都城を経営するようになった後も、天皇の宮を1代ごとに移すという宮廷慣行は失われず、内(だい)裏(り)の移動や都城の遷都になったと考えている。
歴代遷宮の理由を一元的に説明することは困難で、遷都が飛鳥地域内における遷宮に留まらず、孝(こう)徳(とく)朝の難波遷都や天(てん)智(じ)朝の近江遷都のように、地域的に大きな移動を伴った場合には、その時々の国内的・国際的な政治的動向が遷都の大きな要因になっている。
ただ歴代遷宮と言うと、1代限りで宮室が廃絶してしまうかのような錯覚にとらわれるが、推古朝の小墾田宮、皇極朝の飛鳥板(いた)蓋(ぶき)宮、皇極朝以来の嶋宮、孝徳朝の難(なに)波(わ)長(なが)柄(ら)豊碕宮(とよさきのみや)などのように、天皇が代わっても廃絶することなく長く継承される場合のあっこたとを忘れてはならない。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』
(株)講談社発行1989年
資料集
090_097_都の移転・飛鳥川原宮(川原寺)
下原八幡神社(水無八幡宮)
下原八幡神社(水無八幡宮)
鎮座地 金山町中津原字佃940番地 (旧社格 郷社)
1.祭神 応神(おうじん)天皇 他
1.由緒 『斐太後風土記』によると、第16代仁徳天皇の65年、強賊両面宿儺の討伐に、皇弟武振(たけふる)熊(くまの)命が飛騨入国の第1歩において、先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、武運長久を祈願された斎場として鎮祭されたのが、その創始であると伝えられる。
皇弟進軍の各所において同様祭祀された、すなわち中津原をはじめ、乗政・森・久津・位山・一宮・石浦・高山等の八幡宮を後世称して、「飛騨八幡八社」と言う。
戸田釆女正による元禄検地に、6反4畝15歩の境内除地がある。また、古くより同地万福寺を別当とし、社人細江喜助以来明治維新(1868)に及び、下原・中原・上原3ヶ村の郷社に列した。
同40年神饌幣帛料の供進指定、並びに神社会計を指定され、同42年区内及び境内3社の合併合祀があった。
官制廃止後、単立社となった。
第2次大戦後、天然記念物の「蓮根杉」等の大樹を伐採されたのは、神社の風致上、誠に残念なことである。
1.祭祀 例祭4月1日。祈年祭2月17日。新嘗祭11月23日。
1.建造物 本殿(流造 1坪)・拝殿(平棟造 15坪)・鳥居(明神形 高2間 幅2間)・社務所(平棟造 15坪)。
1.氏子 旧下原村全戸を氏子とする600戸。
<引用文献>土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,308頁 飛騨神職会発行 昭和63年
下原八幡神社
祭 神 応 神 天 皇
創 立 仁徳天皇の御代 1,600年前
旧社格 郷社 下原郷(下原・中原・上原)17ヵ村
境内坪数 1,935坪
上古は、中津原水無八幡宮と称して飛騨八社の第一番であった。
由 緒
斐太後風土記によると仁徳天皇の御代、飛騨の国は「両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)」という首長が治めていた。宿儺は、1つの体に両面があり手足は4本ずつあって、走ることは馬の如く左右に剣を佩し強弓を引く豪傑であった。時恰も大和朝廷の全国統一期にあたり、宿儺は天皇の命に反したので、皇弟の「難波根子武振熊命」が勅命を奉じて飛騨へ討入ることとなった。
武振熊は、武内宿称と共に神功皇后にお供して、三韓に渡り凱旋の後も香坂王忍熊王の軍に勲功のあった名将軍であったので、美濃国高沢山の要塞で両面宿儺の軍を打ち破り、道々心を配りつつ中津原に来て軍勢を宿め、飛騨入国の最初のこの地に仮の斎場を設けて先帝、応神天皇の御霊を奉祀して戦勝祈願された遺跡が下原八幡神社の起源である。武振熊は、どこからともなく舞い降りた1羽の白鳩の道案内によって無事討伐の任を果たした。
本殿の左側の注連を廻らした大岩を、昔から猫の形に似てもいないのに「ねこ岩」といっている。武振熊がこの大岩の上に八幡様を勧請されたので、難波根子武振熊命の「ねこ」から来たものといわれている。「根子岩」の横に国指定天然記念物で直径4mの「神代杉」と、傘のような大杉で乞食が年中いたという「乞食杉」や、穴がいくつもあってくぐることが出来た「蓮根杉」があったが、昭和24年、濃斐中学建設資金として伐倒された。
嘉永6年(1853)の神木改によれば、目通り1丈以上9本、6尺以上8本の記録がある。昭和21年神袛会となる。神社総代7名 内主管者1名、氏子数600戸。
文化財 12点 縣伝・神鏡・神輿・絵馬・山車・高寺権現の神鏡 花笠踊・御神刀・槍・長刀・狛犬・社叢
境内社 神明神社 祭神 天照皇大神
創立 安政4年(1858)お田植祭として、祭日が5月5日であったが、平成元年から4月祭と合併。
春日神社 祭神 武(たけ)甕(みか)槌(づきの)神(かみ) 経(ふ)津(つ)主(ぬしの)神(かみ) 天(あめの)児(こ)屋(や)根(ねの)神(かみ)
創立 元亀3年(1570)
歴代神職 中世飛騨守護職、京極氏の一族である京極四郎左衛門尉源高氏の後裔が当村に住み、その5世の孫、細江喜助が元和年間(1615)より当八幡神社に奉仕した。
代々「若宮大夫」と名乗り、その13世細江志津馬に至り断絶、以後明治初年より御番所役人市村用次郎、名主加藤三郎右衛門、医師加藤習古、門和佐今井頼吉、今井彦松、三渕足立高太郎、門和佐今井富郎、中津原細田徳全、細田秀州、森真男。
露払 中津原 森氏宗家の世襲となっている。現在 森(もり)里(さと)言(ゆき)
歴代主管者 森金兵衛・戸谷卓二・長瀬忠栄・千田市蔵・島崎松郎・千田茂・沢田多郎・亀山勝
※説明板より
重要文化財 下原八幡神社の山(だ)車(し) 金山町指定 昭和61年11月26日
この山車(だし)は、鳩(きゅう)峰(ほう)台(だい)と呼ばれ、天保7年(1836)高山市下二之町上組から譲り受けたものです。創建は延享4年(1747)で、高山祭初期の、今から254年前のことです。
かつては大(おお)津(つ)絵(え)のカラクリ人形を載せていたので、「大津絵」と呼ばれていました。高砂人形を載せたこともあり、のち、飛騨郡代芝与市衛門正盛の命により、八幡宮の御神号の守護役となりました。
この山車は、江戸型(天領型)とも言われ、現在高山には、この山車のように破風造りの屋根を持った屋台は25台中に1台しかなく、角柱の屋根も4台しか残っていません。また車が外側車で木製の「寸(ずん)胴(どう)式(しき)」は皆無であり、「くり型」と「戻し車」の装置のない型は1台も残っていません。
この鳩峰台は、改造されていない高山屋台の初期の祖型であり、歴史的にも貴重なものです。
※説明板より
資料集
078_085_飛騨八幡八社・下原八幡神社
107_115_下原八幡神社
乗政八幡神社
鎮座地 下呂町乗政字森1,011番地
(旧社格 指定村社)
1.祭神 応神(おうじん)天皇・天(あま)照(てらす)皇(すめ)大(おおみ)神(かみ)
大(おお)己(な)貴(むちの)神・少(すくな)彦名(ひこなの)神
火産(ほむ)霊(すびの)神・白山三柱神
倉(うか)稲(の)魂(みたまの)神・大山(おおやま)祗(つみの)神
2.由緒 『斐太後風土記』によると、第16代仁徳天皇の65年、両面宿儺追討の際、武振(たけふる)熊(くまの)命が中津原をはじめとして、官道のところどころに先帝応神天皇の尊霊を祭祀した、「飛騨八幡八社」の1であると言われている。
古来飛騨国内における有名社で、応永年中(1394~1427)三木氏の崇敬厚く、戸田釆女正による元禄検地には、1町9畝13歩の境内除地を受けた。また、千古不伐の森として杉・桧などの古木が鬱蒼(うっそう)としていたが、第2次大戦後、伐採などにより皆無の状態となり、境内また縮小して旧観もなくなった。
明治維新村社に列した。
同40年神饌幣帛料の供進を指定され、同42年には区内6社を合併合祀し、また大正6年には神社会計指定を受けた。
官制廃止後、単立神社となる。
特に当社拝殿は、益田地方における久津八幡宮・尾崎の明白神社とともに、三大拝殿の1に数えられる壮麗な建築である。
3.祭祀 例祭4月15日。祈年祭2月17日。新嘗祭11月23日。
4.建造物 本殿(神明造 3坪)・幣殿(入母屋平入造 6坪)・拝殿(入母屋平入造 20坪)。
5.境内地 1町9畝13歩。
6.氏子 300戸。
<引用文献>土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,289頁 飛騨神職会発行 昭和63年
資料集
079_086_飛騨八幡八社・乗政八幡神社
日龍峯寺
本堂 岐阜県指定重要文化財
本堂は間口6間(15.6m)奥行5間(12.6m)の入母屋(いりもや)造りで、高澤山中腹の岩上傾斜地に建立されている。前方は舞台造りで京都の清水寺によく似ており、美濃の清水として親しまれている。寺伝では鎌倉尼将軍 北条政子寄進であったが、惜しくも応仁・文明の乱の戦火により焼失したと言われる。現在の本堂は寛文10年(1672 ※寛文10年=1670)の建造物である。
堂内正面にはご本尊の千手千眼観世音菩薩、脇佛は毘沙門天・不動明王、堂内東側には寺開創の両面宿儺(りょうめんすくな)、堂内西側には弘法大師が祀られている。また当寺は美濃西国三十三観音霊場一番札所、中濃八十八ヶ所霊場六十一番札所である。
*説明版より
籠堂 岐阜県指定重要文化財
籠堂(こもりどう)は文化3年(1806)建立で、岐阜県内では当寺のみ存在する大変貴重な建造物である。 当時より修行僧や参詣者が堂内に籠り修行を行なう場であり、在りし日の盛況が偲ばれる。
*説明版より
両面宿儺 (りょうめんすくな)
自伝によると、仁徳天皇の時代(5世紀前半)飛騨の国に両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。両面宿儺は当地の豪族として権勢を誇っていた。この異人、天皇の叡聞に達し都に上り、御対面した。その帰り、美濃加茂野ヶ原で休憩していると、何処からともなく鳩2羽が奇端(めでたい事の前兆)のさえずりをなして、高沢の峰に飛び去った。異人不思 議に思い、里人に尋ねると、「高沢の山脈に他あり、神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす」と聞き、はるかの峰に登り大悲の陀羅尼を唱え神龍を退散させ、この峰に寺を開祖したと云う。
*説明版より
龍神の池
日龍峯寺(高澤観音)に伝わる縁起によると、仁徳天皇の時代、飛騨の国に顔が2つ手足が4つある両面宿儺(りょうめんすくな)という異人がいた。両面宿儺がこの地を通りかかった時、どこからともなく2羽の鳩が飛来し、不思議なさえずりをして、ここ高澤山の峰の方向に飛び去った。
両面宿儺は奇異の念を抱き、村人に尋ねると「高澤山に池があり、その池に住む龍が村人に危害を及ぼしている」と聞かされ、両面宿儺は高澤山に登りその龍を退治し、ここ高澤山に開山したと伝えられている。
龍を退治した時、その血が参道沿いの谷を流れたので、その地(現在の多良木地内)を「血野」と呼び、退治した龍の尾が飛び、立ったところから「尾立」(現在の西洞大立)と、昔の伝説を地名に残している。
鎌倉時代には、全国的に旱魃(かんばつ)に見舞われ大飢餓の時期があった。時の尼将軍・北条政子の夢枕に神龍が飛来し「美濃日龍峯寺に池あり、法華経1,000巻を写経し供養して池に納めればたちまちに降雨あり」と伝えた。
道運という高僧に命じて供養すると、夢のお告げのとおり雨が降り五穀が実った。尼将軍はこれを喜び、日龍峯寺に7堂伽藍を寄進したと、縁起に記されている。その時に建立した多宝塔が今にその姿を残している。
この度、「龍神の池に神龍を迎えれば寺の興隆あり」とのお告げにより、1,600有余年の年月を経て、この池に新たに良い神龍を迎えるに至った。
*説明版より