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武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構
武野紹鷗
文亀2年(1502)~弘治元年(1555)
大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。茶道においては、わび茶を好み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。
説明板より
南宗寺
南宗寺は、臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代、堺を支配した武将、三好長慶が父元長の霊を弔うため弘治3年(1557)に大林宗套を迎え、今日の宿院あたりに寺を開いた。その後大坂夏の陣(1615)にて他の寺院とともに焼失したが、当時の住職澤庵によって現在地に再建された。境内には茶道を完成させた千利休や師武(たけ)野(の)紹(じょう)鷗(おう)の供養塔などがある。また国名勝の枯山水(かれさんすい)の庭、八方睨(にら)みの龍の描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財に指定されている。
千利休と茶道
南宗寺には、利休一門とその師武野紹鷗の供養塔がある。利休の「茶禅一味」の精神基盤は大林宗套ら歴代の和尚のもとで禅の修行をし、確立されたと言われている。
境内の奥には、利休好みの茶室「実相庵(じっそうあん)」があり、師紹鷗遺愛の「六地蔵石燈籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟(けさ)形(がたち)手水(ちょうず)鉢(ばち)」がある。
説明板より
宇治御茶師
宇治にあって碾茶の生産に携わっていた家を茶師と称していたが、江戸時代になって、将軍家御用をつとめる特定の家を御茶師と呼び、それが制度化された。
御茶師の人数は時期によりかなりの変動があったが、18世紀頃の記録では御物御壺を預かる上林家が茶頭取(代官家)に任じられその支配下で朝廷および将軍家直用の茶を調達する御物(ごもつ)御茶師11家、将軍が東照宮へ献上する袋茶を詰める御袋(おふくろ)御茶師9家、将軍家が一般に用いる茶を納入する御通(おとおり)御茶師13家が数えられ、それぞれが仲間を組織して、各々毎年2名ずつが交替でつとめる「年行事」を中心に茶壺道中に対応して茶の調達にあたり、相互扶助・独善的行為の阻止などにつとめた。これを「宇治茶師三仲ケ間」と言った。
茶師は自家の相続や将軍家の交替の際には、誓詞起請文や由緒書を提出して幕府の認可を受けなければならなかった。
茶師の身分支配は京都町奉行があたり、茶の納入に関しては幕府勘定奉行支配下にある上林家の指示を受けた。
また、宇治茶師の各家は、家格や幕府との取引の多寡にかかわりなく、諸国大名のお抱え茶師として御用達をつとめ、大名から扶持米(ふちまい)、その他の特権を与えられていた茶師も多かった。
明治維新に際して、幕府、諸大名という積年の顧客を失った茶師の痛手は大きく、茶業から離れるものが続出し、茶師仲ケ間の組織は瓦礫した。
説明板より
宇治上神社
宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
宇治上神社の創建は古くさかのぼるが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきた。
本殿は、正面1間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっている。建立年代については、蟇(かえる)股(また)の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築である。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿である。意匠的には切妻造の母屋(もや)の左右に庇(ひさし)をつけた形であり、屋根はその部分が縋(すがる)破風(はふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられる。
神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられる。
本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっている。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
宇治市
説明板より
源三位頼政公の墓 宝篋印塔
平等院境内
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられた。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残している。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追擊を受け、平等院境内にて自刃した(齢76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
説明板より
仁和寺 名勝 御室桜
御室桜は、遅咲きの桜として知られているが、その数約200本で、江戸初期にはすでに現在の場所に植えられていたようである。また江戸時代中期には観桜の名所としても知られており、丈が低く根元から枝を張る御室桜と、その満開の花を愛でる人々の風景が『都(みやこ)名所(めいしょ)図会(ずえ)』にも紹介されている。
大正13年(1924)、国の名勝に指定された。
※都名所図会=安永9年(1780)、秋里(あきさと)籬(り)島(とう)、竹原(たけはら)春(しゅん)朝(ちょう)斎(さい)により刊行された本。多数の挿絵が庶民の心を捉え人気となる。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 御影堂
建立/江戸初期 寛永年間(1624~1644)
本尊/弘法大師
真言宗の祖師である弘法大師空海、仁和寺開山寛(かん)平(ぴょう)法皇(ほうおう)、第2世性(しょう)信(しん)親王(しんのう)を安置する。
現在の御影堂は、慶長年間(1596~1615)造営の内(だい)裏(り)清(せい)涼(りょう)殿(でん)の一部を賜り、寛永年間(1624~1644)に再建されたもの。蔀(しとみ)戸(ど)の金具なども清涼殿のものを利用するが、檜(ひわ)皮(だ)葺(ぶき)を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂の印象を与えている。
※清涼殿=内裏の殿舎(でんしゃ)の一つであり、天皇の日常生活の居所。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 観音堂
建立/江戸初期 寛永18年(1641)~正保元年(1644)
本尊/千手観音菩薩
現在の建物は寛永18年から正保元年にかけて建立。
千手観音菩薩を本尊とし、脇(きょう)侍(じ)として不動明王・降(ごう)三(ざん)世(ぜ)明(みょう)王(おう)、そのまわりには二十八部衆を安置する。また須(しゅ)弥(み)壇(だん)の背後や壁面、柱などには、極彩色で仏・高僧が描かれる。
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用される。
※須弥壇=本尊等の仏像を安置するために1段高く設けた場所。須(しゅ)弥(み)山(せん)に由来する。
仁和寺の説明板より
三千院
天台宗5箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東搭南谷に1堂を建立したのが起こり。
本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行なったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(3体・重要文化財)が安置される。
大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する5氏の筆により飾られている。
京都市
説明板より
桂春院
慶長3年(1558)に美濃の豪族石(いし)河(こ)壹岐(いき)守(のかみ)貞政(さだまさ)が桂南(けいなん)和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分かれる。方丈南庭は、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈り込みで蔽(おお)い、その下に東より椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に低地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。
茶室は草庵風の3畳の席で、藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みと伝えている。宗和型の灯篭がある。
京都市
説明板より
関連資料
2-34-1 武野紹鷗
2-34-2 南宗寺
2-34-3 宇治御茶師
2-34-4 宇治上神社
2-34-5 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
2-34-6 仁和寺 名勝 御室桜
2-34-7 仁和寺 重要文化財 御影堂
2-34-8 仁和寺 重要文化財 観音堂
2-34-9 三千院
2-34-10 桂春院
資料集
京都天寧寺(金森宗和の菩提寺)、宗和の茶室・真珠庵庭玉軒
天寧寺
山号は萬(ばん)松(しょう)山(ざん)と号し、曹洞宗に属する。
当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の遺跡と言われるこの地に移転されたと伝えられている。その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。
本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。
境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流の開祖と言われる善吉和尚らの墓がある。また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。
京都市
説明板より
京都市指定有形文化財 天寧寺 本堂・書院・表門
天(てん)寧(ねい)寺(じ)は曹洞宗の寺院である。境内の主要な建物は、天明8年(1788)の大火によって旧堂が類焼した後、19世紀前期から中期にかけて建てられた。
本堂は、文化7年(1810)に上棟された6間取りの大規模な建物である。正面に向拝(こうはい)を設け、前列3室を仕切らずに一つの空間とし、後列中央間に来迎(らいごう)柱(ばしら)を立てて置仏壇とするが、これは同じ禅宗の一派である臨済宗寺院の方丈建築とは異なる構成である。
書院は弘化2年(1845)の造営で、床の間・床脇、付書院を持つ15畳の上の間と、同じく15畳の下の間からなり、その周囲に入側縁をまわす。西北隅に1間四方の室が張り出すのが特徴である。
表門は安政4年(1857)建築の薬(やく)医(い)門(もん)で、構造や意匠に禅宗様の要素が見られる。
これらの建物は、江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝えている。また市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。
平成14年4月1日指定
京都市
説明板より
京都市登録天然記念物 天寧寺のカヤ
カヤは山林に散生する常緑高木である。社寺境内や沿道に植栽されることも多く、ヨーロッパでも公園や庭園によく配植される。材は碁盤に使われることで知られる。
このカヤは樹高16.2メートル、胸高の周囲は4.78メートルある。頂部には落雷のあとが、また幹の本堂側には天明8年(1788)の本堂火災時に受けたと思われる傷痕がみられる。
市内有数のカヤの大木として、昭和62年(1987)5月1日、京都市登録天然記念物とされた。
京都市
説明板より
庭玉軒(京都大徳寺塔頭真珠庵)
通遷院書院に接続した茶室で、入口の潜りは露地の中潜りに相当し、その中は1坪余りの内坪として屋根に覆われた内露地の機能を果たす。ここに雪国育ちの経験が生かされ、座敷は2畳台目と最小の規模である。
リーフレットより
真珠庵庭園
真珠庵は、大徳寺の塔頭で、一休禅師を開祖として、延徳3年(1491)堺の尾和宗臨によって、開創された。庭園(史跡・名勝)には、①方丈の東庭・南庭、②通僊院庭園があり、①の東庭は室町時代の作と伝え、石組の配列から「七五三」の庭と呼ばれている。②の通僊院に付属して茶室庭玉軒(国重文)があり、その露路は宗和の作庭とされ、茶庭の趣がある。
リーフレットより
関連資料
2-33-1 天寧寺
2-33-2 京都市指定有形文化財 天寧寺 本堂・書院・表門
2-33-3 京都市登録天然記念物 天寧寺のカヤ
2-33-4 庭玉軒(京都大徳寺塔頭真珠庵)
2-33-5 真珠庵庭園
天寧寺案内地図
資料集
101_310_京都天寧寺(金森宗和の菩提寺)、宗和の茶室・真珠庵庭玉軒
京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)
龍源院
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、大徳寺南派の本庵である。
文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠(はたけ)山(やま)義元(よしもと)が豊(ぶん)後(ご)(現在の大分県)の大友義長(おおともよしなが)らとともに創建した。
方丈、玄関、表(おもて)門(もん)(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物と言われ、禅宗の典型的な形式を示している。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍(りょう)吟(ぎん)庭(てい)は、苔の上に三尊石が建つ須(しゅ)弥(み)山(せん)式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱(ほうらい)式の庭園、また、東の東(とう)滴(てき)壺(こ)は日本最小の石庭と言われ、1滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏(くり)の南側には聚楽第(じゅらくだい)の礎石を配した阿(あ)吽(うん)の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔(まき)絵(え)の碁盤、天正11年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。
昭和前半頃、金龍院の墓地が龍源院に移されている。金龍院は明治時代に入ってから、廃寺となった。
京都市
説明板より
金龍院
(①は『越前大野城と金森長近』一八四~一八六頁より)
① 大徳寺塔頭金龍院墓所
金龍院は京都紫野大徳寺境内にあり、金森長近が菩提寺として建立したものである。寺内の西北はやや高き丘形となっている。この丘上に金森家本家代々の墓並びに奥方あるいは殉死者の墓もある。さらに金森家代々の将士にして戦士した者、及び敵軍戦死者の霊を祀った祭祀碑もある。
しかるに明治時代に至り、金龍院は廃寺となり、その寺地は京都市の切なる要望により入れられて今は京都市のものとなっている(今はテニスコート)。従って金森家代々の墓は、同じく大徳寺塔頭龍源院に移された。金龍院にあった時の墓の配列は右 図のようである。
○型は五輪塔、□型は棹石で大小は身分を示したものである。祭祀碑は金森家累代の将士にして戦死せるもの及び敵軍であった将士で戦没した霊を祀ったものである。
金森累世将校及敵軍抂霊祭祀碑
絶待英霊後二天地一而不レ凋、刹那三際、萬劫且暮、縄縄今不レ可レ名、蓋存樹風□、没著徽烈、古之道歟、百骸潰散之人、真性尚存、君臣義如之何其廃レ之、金森出雲源頼門知二其然一也、乃寄二銀百両一、以給二祭祀一、庶幾感レ霊慰レ神、而不レ辱二忠臣義子之分一乎、臣無二二心一天之制也、秉二国之均、四方
維断断無二他抜一、蹇蹇匪躬之故、抜レ奇夷レ難挙レ賢援レ能、不二以レ私汚レ義、不二以レ利傷行、絶耳分少惟和惟一、至二於白虹貫レ日大白□レ昻、其不レ可レ測之最也、失レ性心失レ真、認レ物為レ己、輪廻是中、自取二流転一、是以誑誘移レ俗、姦訛若レ風、重諾千金、銜レ感一劔、割レ慈忍レ愛、離レ邦去レ家、偶決二兵機一、骨肉棄二於塵埃之域一、落二奸計一、身首散二於刀斧之前一、不レ憑レ棺、葬不レ送レ野、滞魂難レ解、幽魄何依、非二仏如来一不レ足二以度レ之、□如ト大雲以二一味雨一潤中於人華上、各得レ成レ実、茲勒二堅珉一、有二辞於永世一、窮沢再流、顚
木重栄、可二坐而致一、是源頼門之志也、自二大永一至二宝暦一凡二百四十年、功二勲其家一者、奮二死其義一者、敵国之士授二首其手一者、及郡国戦跡三十六所、名状別具、
宝暦十一年秋九月 紫野金龍院第七世石峰宗柱記
祭祀碑
右祭祀碑は、金森本家第八世頼門が本家改易、のち第七世頼錦が、南部盛岡に配流中元祖長近以来代々愛敵の美徳を追悼し金百両をもって金龍院に建てたものである。
敵の亡霊を自家累世戦没将士と同一に祀る衷心は、我が国武門の精萃である。この建設は宝暦十一年(一七六一)で頼錦が南部に流された四年後である。もちろん頼門も流適の身であった。金森氏代々の領主が敵戦死者を味方戦没者と同様に悼み菩提を弔い、祭祀碑を建立せる心情は武門の亀鑑とすべきである。
龍源院
①沿革
京都紫野の臨済宗大徳寺の塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に、厳然と位置している大徳寺中で最も古い寺である。
その名称も大徳寺の山号「龍寶山」の「龍」と、今日の臨済禅でただ一つのみ存続している松源一脈の「源」の両字よりなっている。
文亀二年(一五〇二)大徳寺の開祖、大灯国師より第八代の法孫である東溪宗牧禅師(時の後柏原天皇より特に仏恵大円禅師の号を賜わる。)を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公(大友宗麟の祖父)らが創建した。
明治の初め頃、神仏分離によって現在大阪の住吉神社の内にあった往時の慈恩寺と、岐阜県高山城主金森長近公が大徳寺に創建した金龍院とを合併して、今日に至っている。
②建造物
方丈(重要文化財)
室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全に留めているただ一つのもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在である。方丈の棟瓦は、附玄関、表門の棟瓦とともに、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものである。一重入母屋造、檜皮ぶき。
附玄関(重要文化財、別に唐門ともいう)
方丈と同時代の建立で、我が国最古のもの、一重切妻造、檜皮ぶき。
表門(重要文化財)
方丈・附玄関とともに同時代の建立である。四脚門切妻造、檜皮ぶき。
庭園
方丈を中心として南庭、北庭、東の壺石庭、開祖堂前庭及び庫裡南軒先の各種庭園よりなっていて、見る者の自ら味わい、体得する真の「禅宗庭園」である。
竜吟庭
方丈の北庭、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしない大海原を表わし、石組が陸地を表わしている。
中央に高く突出する奇岩が須弥山で(註=仏説に、この世界は九つの山、八つの海からなっていて、その中心が須弥山)魏々として聳えたち、人間はもちろん、鳥も飛び交うことのできない、ただ一人として窺い知ることのできない、真実の自己本来の姿、誰もが本来そなえ持っている超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現している。中央の須弥山石の前にある円い板石を遙拝石といい、この理想、目的に一歩でも前進し、近づこうという信心の表われである。
東滴壺
方丈の東にある有名な壺庭で、我が国では最も小さく、底知れぬ深渕に吸い込まれそうな感じのする、格調高い石庭である。
一双
「龍源院リーフレット」より引用
※龍源院 京都市北区紫野大徳寺町八十二
関連資料
2-32-1 龍源院
2-32-2 京都の墓地・金龍院
2-32-3 京都の墓地・龍源院
資料集
100_309_京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)
日光東照宮ほか2件の金森寄進の灯篭
光東照宮、上野東照宮、亀戸東覚寺の燈籠
① 日光東照宮内・陽明門下方の中神庫前に金森重頼寄進の灯籠が並ぶ。
金森重頼寄進の灯籠の右に中神庫、左に上神庫がある。
金森重頼寄進の灯籠銘文
「元和三年丁巳・一六一七 東照宮 四月十七日 金森長門守 御寶前 源重頼」
② 上野の東照宮に、金森頼直寄進の燈籠が現存する。
上野東照宮境内 金森頼直(第四代)寄進灯籠銘文
「武州東山東照宮慶安四年石灯籠二基寶前四月十七日金森長門守源朝臣頼直」
③ 亀戸東覚寺に金森頼旹寄進の燈籠が現存する。上野の寛永寺から移された。
亀戸東覚寺所蔵の灯籠銘文
「厳有院殿延宝九年五月八日飛騨国主金森万助源頼時」
上野東照宮(国指定重要文化財)
台東区上野公園9番
藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建と言われている。あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、第3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成21年3月
台東区教育委員会
説明板より
関連資料
2-31-1 金森家寄進の灯篭
2-31-2 上野東照宮(国指定重要文化財)
資料集
江戸・芝の金森屋敷跡
太政官布達公園 日本で最も古い公園の一つ 芝公園
公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などであった。
明治に時代が移り、新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、公園が誕生した。その後、明治20年(1887)までに、江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定された。
上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定された。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25号地に区画されていた。現在も公園では号地のままで親しまれている。当初は増上寺の境内を含む広い公園であったが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になった。
東京都芝公園・説明板より
浄土宗 大本山 増上寺
沿革
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山(さんえんざん)広(こう)度(ど)院(いん)増(ぞう)上(じょう)寺(じ)が正式の呼称である。
開山は明徳4年(1393)、浄土宗第8祖 酉(ゆう)誉(よ)聖(しょう)聡(そう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長3年(1598)に現在の地に移転した。
文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきた。
江戸時代初期、増上寺法主12世 源(げん)誉(よ)存(ぞん)応(のう)上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行った。
徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となった。
その大きさは、寺領10,000石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮100数十軒、常時3,000名の僧侶が修学する大寺院であった。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行なわれ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管している。
説明板より
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいた。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。
その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除された。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第6代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。
左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。
墓所には、第2代秀忠公・第6代家宣公・第7代家継公・第9代家重公・第12代家慶公・第14代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(第2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(第14代家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(第3代家光公側室、第5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び第3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。
説明板より
関連資料
2-30-1 太政官布達公園 日本で最も古い公園の一つ 芝公園
2-30-2 浄土宗 大本山 増上寺
2-30-3 徳川将軍家墓所
資料集
098_307_江戸・芝の金森屋敷跡
江戸・桜田門通りの金森屋敷跡
正保年中(1644~1647)の江戸城下図
東京の国立公文書館に江戸の城下絵図が何点かあり、その中に金森氏の屋敷が見られる。第Ⅰ期・桜田通りの金森屋敷、第Ⅱ期・桜田通りと芝の両方にあった金森屋敷、第Ⅲ期・芝の金森屋敷のみの種類がある。「金森出雲」は金森第2代可重か第3代重頼。「金森万之助」は第6代頼旹と思われる。
高山市教育委員会『高山市史・金森時代編』平成29年より
関連資料
2-29 江戸・桜田門通りの金森屋敷跡
資料集
守山市の矢嶋町などの史跡と琵琶湖
金神社由緒
金神社(金大明神)
祭神 金山毘古神(かなやまひこのかみ)
境内神社
日吉神社
祭神 大山咋命(おおやまくひのみこと)
稲荷御崎神社
稲荷金高神社
祭神 宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)
金神社(金大明神)
益須寺(やすでら)を守り、すべての村の繁栄と安全を祈願するため、天武天皇の命令により、白鳳7年4月13日に義観法師が大和国吉野金峰山から御霊をお迎えしてお祀りした。
もと金大明神と称したが、明治の初期に金神社と改められた。
また、金森の地名は、金大明神が江州益須郡に鎮座されたことから名付けられた。
説明板より
中山道守山宿
守山は古来、東山道の宿駅として栄えた。江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。寛永19年(1642)守山宿は、徳川幕府より、中山道の正式宿場としての制札が下され、認可された。中山道は板橋(東京都)から守山までの67次で守山は最終宿場であった。
江戸時代、旅人の1日の行程は8里(約32キロ)から10里(40キロ)であった。京都三条大橋から守山までが8里6町(約34.4キロ)でこの行程にあたる。京都から中山道を通って江戸方面に行く(東(あずま)下(くだ)り)人たちは守山で泊まった。このことから「京だち守山泊まり」と呼ばれ、守山は明治維新まで繁栄した。
平成25年5月
中山道守山宿歴史文化保存会
守山市観光物産協会
説明板より
守山市指定文化財 史跡 大庄屋諏訪家屋敷
諏訪氏は暦応3年(1340)に諏訪(すわ)円(えん)忠(ちゅう)が足利尊氏に従って信州から地(じ)頭(とう)として赴任してきたことに始まる。以後、江戸時代には代官をへて小津郷の大(おお)庄(じょう)屋(や)として活躍した。
広大な屋敷には、主屋・書院・茶室・土蔵・庭園がある。主屋と接客用の書院を伴う珍しい構造で、江戸時代後期に建てられたと考えられる。茶室は明治7年に大津の円満院から移築されたものである。元禄12年(1699)銘の鬼瓦から建築年代が明らかで、門跡(もんせき)寺(じ)院(いん)の茶室建築として大変貴重である。庭園は東庭が枯(かれ)山水(さんすい)の平庭、北庭が池(ち)泉(せん)回遊式(かいゆうしき)の池庭とする。両庭とも苔むし、多数の石組みや石燈籠(いしとうろう)、手水(ちょうず)鉢(ばち)を配するなど、趣向をこらしたつくりである。
また、茶室裏を流れる大川(釈迦堂川)から屋敷地内へ舟が出入りできる水門のくぐり石や屋敷入口の見事な石橋など、随所に大庄屋屋敷の風格がみられる。
このような江戸時代の建築様式を伝える当屋敷は大変貴重で、昭和52年4月に守山市史跡に指定された。
平成24年10月 守山市教育委員会
説明板より
関連資料
2-28-1 金神社由緒
2-28-2 中山道守山宿
2-28-3 守山市指定文化財 史跡 大庄屋諏訪家屋敷
資料集
金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配
金森左京家 白崎陣屋址
ここは金森家の分家である金森左京家の陣屋址である。金森家の初代である金森長近は信長・秀吉・家康に仕えた戦国武将で、信長の時代には越前大野を支配する大名となり、大野城の築城や大野の町づくりに努めた。秀吉に仕えた長近は飛騨国38,700石余を統治し、大野での経験をもとに高山城築城や高山の城下町の整備に尽力した。また長近は関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康からその戦功により加増を受けた。
その後元和元年(1615)金森家第3代領主となった重頼が家督を相続した際に、重頼の弟である重勝は領内より3,000石を賜り分家し、代々金森左京と称した。金森左京家はこのように領内分知により成立し、のち旗本となった。これが金森左京家の始まりである。
100年余にわたり飛騨国を支配した金森本家は、元禄5年(1692)ついに出羽国上山(かみのやま)(現山形県上山市)へ転封となった。その5年後には美濃国郡上八幡(現岐阜県郡上市)へ移り、左京家は本家と共に移動をした。
郡上八幡では本家第7代金森頼錦(よりかね)の代に領内において、郡上宝暦騒動(郡上一揆)が起こり、その責任を追及された金森家は宝暦8年(1758)に改易となり、所領没収となった。しかし幕府は金森家が信長以来の名家であり、その断絶を惜しみ、分家である左京家に名跡を継がせ、3,000石をそのまま下し置かれた。
翌年の宝暦9年、左京家は新たに越前国南条郡(白崎村・清水村・牧谷村)、今立郡(大手村・西尾村・上大坪村・萱(かや)谷村)の計7か村、およそ3,000石を賜った。ここに越前における金森左京領が成立し、この白崎村に陣屋が建てられた。金森左京家第4代領主可英(ありてる)がこの地に入府したのは、明和4年(1767)のことであったという。
金森左京家は旗本のうち交代寄合に列せられ、江戸城表書院で将軍に拝謁できる表御礼衆20家の1つに数えられた。隔年での参勤交代が義務付けられ、この陣屋から行列が出発し、江戸屋敷まで参勤交代が行なわれた。左京家は、まさに大名並の格式を持っていたのである。
この陣屋において明治維新まで8代100余年にわたり、左京家の知行統治が行なわれた。その後大正14年(1925)5月、左京家の厚恩に感謝して、領内牧谷村の宮地義(ぎ)平(へい)が中心となり、この場所に「金森家之碑」が建立された。
陣屋は明治初年には取り壊され、碑の前の鬼瓦や庭の泉水、築山、井戸の跡などにその面影を残している。
説明板より
本保陣屋
本保陣屋は、越前国内の幕府直轄領を支配していた役所で、幕末には丹生郡や今立郡、大野郡などの175か村余、約50,000石を統治していた。享保6年(1721)に初めてこの地に設けられ、一時廃止されたが、延享元年(1744)に再び設置された。その後、明和4年(1767)に飛騨高山郡代の支配下におかれ、明治まで存続した。
明治2年(1869)に本保県が成立すると、旧陣屋が県庁に当てられ、一部の建物を改修したり、新築して明治4年7月に開庁した。しかし、4か月後の11月に本保県は廃止され、明治6年頃までに、旧陣屋の建物はすべて取り払われた。
この図は、天明元年(1780)から寛政元年(1789)頃の「本保陣屋絵図」(本保区有文書)に基づいて、江戸時代の本保陣屋の建物の様子を復元したものである。
周囲に幅4尺ほどの惣堀(そうぼり)が廻り、土塀に囲まれた敷地は、東西約42間、南北方向は西辺が約40間、東辺が約28間で、広さは1,500坪余であった。
中央に玄関や西座敷、台所、白(しら)洲(す)(裁判)などからなる「御本陣御用場」があり、正面東側の細長い建物は、正門を備えた「御門長屋」である。「北長屋」や「西長屋」は役人たちの住居と考えられ、ほかに土蔵や小屋、稲荷社などの建物もみられる。これらの建物は、延享の再営時の記録である「御陣屋御普請諸入用勘定目録」(本保区有文書)にみられる。いずれも茅葺きの建物であったと思われる。
なお、「御本陣御用場」の玄関と台所部分は、それぞれ渡辺国重家(鯖江市上氏家町)と中出俊臣家(武生市広瀬町)に移され、現在も残っている。
(福井工業大学・吉田純一)
関連資料
2-27-1 金森左京家 白崎陣屋址
2-27-2 本保陣屋
資料集
095_304_金森氏改易後の金森左京・武生市白崎支配
岩手県盛岡の金森氏遺構(第7代頼錦の菩提寺)
金森兵部の碑
金森兵部は少(しょう)輔(ゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)38,000石の藩主であったが、宝暦8年(1758)に領民騒(そう)擾(じょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになった。
盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇していたが、宝暦9年2月の流(る)謫(たく)から4年余り過ぎた同13年(1763)6月に病死している。享年51歲。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものである。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきた。
金森家は長く謹慎の身に置かれていたが、嫡孫靭負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元年(1789)に遺骨は江戸へ引き取られている。
碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」の没年が刻まれている。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われる。
平成16年3月 盛岡市
説明板より
国指定史跡 盛岡城跡
所在地 盛岡市内丸1番地ほか
指定年月日 昭和12年4月12日
盛岡城は、三戸(さんのへ)から不来(こず)方(かた)に居城の移転を決定した南(なん)部(ぶ)信直(のぶなお)(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(としなお)(第2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められた。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅(あさ)野(の)長政(ながまさ)の助言によるものと言われ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰(こし)曲(くる)輪(わ)などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内(うち)曲(くる)輪(わ)(御(ご)城(じょう)内(ない))としている。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸(うちまる)地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外(そと)曲(くる)輪(わ)とした。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠(とお)曲(くる)輪(わ)(総構(そうがま)え)が配置されている。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(しげなお)(第3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃したが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけた。
平成21年10月 盛岡市
説明板より
関連資料
2-26-1 金森兵部の碑
2-26-2 国指定史跡 盛岡城跡
資料集
金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
慈恩寺
当寺は、八幡城主遠藤慶隆が開基で、大本山妙心寺から半山禅師を迎えた。境内には遠藤慶勝らの霊廟や、金森左京(可英(ありひで)・第4代)の墓、金森頼錦(よりかね)(台近(よりちか))の碑(墓は、宝暦騒動後改易断絶、御預け先の盛岡にある)がある。奥庭の荎草園(てつそうえん)は創建半山禅師の作庭で、池泉廻遊式かつ座観式の室町様式を持つ庭園である。明治26年(1893)、水害で埋没、3年後に復興。園内には、宗和形灯籠と、高山→上山(かみのやま)→郡上へと金森氏と共に運ばれた春日灯籠がある。八幡城主頼錦は、深くこの庭を愛し、詩集「錘山十境記」をまとめている。
リーフレットより
臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤但馬守慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南化玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。寺内に但馬守嫡男長門守慶勝公及び生母智勝院殿の塔所を建立し、当寺を長州公の菩提所と定め但馬守の学問所とされる。元和8年(1622)正月20日、山火事類焼の厄に遭い堂宇全焼するも、但馬守江府より工匠を呼び庫裡(12間・18間)再建後寛永8年(1631)8月、前長州公二の丸御殿を移して本堂(9間・12間)を建立される。当山第2世天外和尚、第3世梅山和尚と3代を経て、堂々たる堂塔伽藍並びに境内の整備を成したと伝えられ、元禄13年(1700)高山城主、金森頼旹公、郡上に移封となり以来当山は、金森公の香花所となる。第6世絹因和尚代勅使を以て寺号に「護国」の2字を賜り、文化14年(1817)勅諡大徹正源禅師(棠林和尚)禅堂建立、雲水80有余員参集して、禅風大いに揚がったのであった。因みに当山は隠山系棠林門下一流の発祥地である。嘉永5年(1852)第12世月局和尚経蔵新築され、禅寺の偉容全く堂々たるものとなる。第13世淅炊和尚代、維新の政変、排仏毀釈の法難に遭い、寺内困窮、第15世綱山和尚代、明治26年(1893)8月22日、県下未曽有の豪雨あり、裡山崩壊し本堂始め諸堂宇埋没、僅かに総門及び勅使門を残すのみの惨禍に遭うも、同29年(1896)本堂裡再建、第17世英山和尚、昭和50年(1975)宝蔵庫建立される。名勝天然記念物「荎草園」は、創建半山禅師の作庭にして、明治被災以前は、広々と本堂の周辺一帯をめぐり、古城跡東殿山を望む庭中のたたずまいなど、往時の雄大さは偲ぶべくもない。併し、現存の借景に依る池泉回遊式の禅宗庭園としては当地方随一を誇るものである。
説明板より
関連資料
2-25-1 慈恩寺(郡上郡八幡町島谷)
2-25-2 臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
資料集
093_302_金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
金森氏6代頼旹、第7代頼錦の郡上八幡城下
山形から郡上へ国替え
①頼旹から頼錦(よりかね)へ
(①は『金森史』一三四~一三七頁より)
元禄十年(一六九七)六月、幕府は金森頼旹(よりとき)に出羽国上山から、美濃国郡上八幡へ所(ところ)替(が)えを命じた。郡上郡百二十一か村(村高二万四千石)と越前国内で六十九か村(村高一万五千石)の合計三万九千石を治めることになった。元禄五年(一六九二)七月、飛騨高山から上山へ移り、五年で再び郡上に国替えとなったのである。
「長滝寺(ちょうりゅうじ)荘(そう)厳(ごん)講(こう)執(しっ)行(ぎょう)帳(ちょう)」の中に、頼旹は、元禄十一年(一六九八)七月六日午後六時頃、三百余人の家来を引き連れて、八幡城へ入城したことが記されている。翌十二年には、参勤(さんきん)交代(こうたい)のため江戸へ赴(おもむ)いた。頼旹のその後の様子は、「鷹の書」の本を書いた以外わからないが、前藩主井上家の方法を受け継いで行なったものと思われる。
頼旹は元文元年(一七三六)五月、六十八歳で江戸芝の邸において亡くなった。
頼旹の後は、息子の可寛(ありひろ)がすでに亡くなっていたので、孫の頼(より)錦(かね)が元文元年(一七三六)十一月、二十三歳で相続した。頼錦は、天文学を研究したり、詩歌や書画を愛する風雅な性格であった。
東常縁(とうのつねより)(郡上篠脇城主)の遺風を慕い、白雲水の碑(東常縁が宗(そう)祇(ぎ)に古今伝授をした由来による)を建て、歌集白雲集の編纂(へんさん)をしたり、多くの書画を書いている。藩政については、八幡城下の宮が瀬の傍らに目安箱(めやすばこ)を設け、領民の声を聞いて藩政に反映させようとした。
延享四年(一七四七)、頼錦は幕府の奏者(そうじゃ)役に任ぜられている。この役目は、大名などが将軍に謁見(えっけん)する時、姓名を申し上げ、献上物の披露をしたり、将軍からの下(か)賜(し)物(もつ)を伝達する役目である。
いつも将軍の側近くで仕えるために、かなりの器量人でないと、勤まらなかったといわれる。また、諸大名との交際も多くあるために、生活も派手になりがちであった。しかも、奏者役に任ぜられる前に、江戸芝の藩邸の新普請で五千両余を費やし、その費用調達に随分無理をしたので、藩財政はかなり苦しくなっていった。そこへ、奏者役になったため、出費がさらにかさむことになった。
これを補うため、二か年分の年貢を前借したり、領内の口番所
(関所の小さいもの)からの税を増やしたり、さらには、日(ひ)傭(やとい)稼(かせぎ)の者からも「日(ひ)役(やく)」という税を取ったりした。それでもなお経費が不足するので、最後の手段として、これまでの定免(じょうめん)法(数年間一定の免の率を定めて取る方法)から、検(け)見(み)取(どり)(年毎に収穫高を計算して免(めん)(貢租の割合)の率を定めて取る方法)に改めようと
した。この方法になると、農民側ではこれまで公然と持っていた隠し田が見つかったり、検見のための坪刈りの方法によっては、過酷な年貢になる心配もあった。
②金森頼錦(金森氏第七代)
(②は『越前大野城と金森長近』一四六頁より)
頼錦(又太郎、兵部)の祖父は頼旹、実父は長門守可寛、母は家女、妻は駿州田中城主、本多伯耆守正永の女である。正徳三年(一七一三)江戸に生まれ、享保十四年(一七二九)九月三日祖父頼旹の願の通り、嫡孫として後を継ぐことになる。
享保十四年(一七二九)九月二十八日将軍家継公、家重公へ御目見、巻綾二、馬代献上した。同年十二月十六日従五位下若狭守敍爵。
元文元年(一七三六)七月十八日、頼旹の遺領頂戴し兵部少輔となった。
元文元年(一七三六)七月七日、西丸登城のところ勅使冷泉大納言為久卿葉室前大納言頼胤卿御馳走御用仰せ付けられたが、冷泉卿は病気のため御下向中止となった。
元文五年(一七四〇)五月朔日初めて御暇下し置かれ、巻綾十句、銀二十枚拝領、西丸よりは巻綾五拝領した。
寛保元年(一七四一)四月より翌年まで出火の節、大手組防仰せ付けられ、同三年四月より翌年まで出火の節、桜田組防、同四年五月十五日御奏者役仰せ付けられた。
宝暦元年(一七五一)家継公薨去(こうきょ)の節は、増上寺にて御法事中
両門勤番、同月十二日御座間にて山門勤番。
宝暦六年(一七五六)八月千代姫君誕生し、御祝として襁褓(むつき)二
献上、西本丸へは酒肴料献上。
宝暦八年(一七五八)十二月二十五日御咎(とが)めあって領地八幡城
取り上げられ、奥州岩手郡盛岡城主南部大膳大夫利夫へ永の御預となった。
御咎とは美濃越前に一揆が起こり、特に郡上領内百姓一揆、越前石徹白事件の責任追究の結果である。
宝暦十三年(一七六三)六月六日配所盛岡にて病死、享年五十一歳、同所法泉寺に葬った。寛政元年(一七八九)五月十四日菩提所江戸渋谷祥雲寺へ改葬したいと願い出たため御用番井伊兵部少輔のはからいにより許されて、同年八月八日同寺へ改葬し法名曽雲院殿性海善理大居士と号した。
これにて金森本家は断絶となった。頼錦には七男二女の子供があったがいずれも父の御咎改易のため同様改易となったが在世中いずれも御免となった。もっとも頼錦は永の改易で許されずに、病死した。
③郡上藩石高の内訳
(③は『越前大野城と金森長近』一四一~一四五頁より)
元禄十年(一六九七)六月、頼旹は郡上八幡へ再転封、三万八千石である。
八幡は美濃郡上郡で長良川に沿う小都市であるが、領地は郡上郡と越前大野郡、南条郡、今立郡とにある。細別すれば郡上郡に約二万石、越前三郡に約一万八千石となっている。― 中略 ―
〈大野郡における郡上領(五十八ヶ村)〉
三石七斗三升六合 市布村 七石八斗九升八合 上半原村
七石六斗三升二合 下半原村 三石七斗五升一合 荷暮村
九石 久沢村 十石五斗 伊勢三ヶ村
四石九斗 米俵村 十石九斗一升 穴馬大谷村
八石七斗八升四合 野尻村 十四石三斗九升 長野村
三石五斗八升 鷲 村 九石二斗九升 下大納村
十三石三斗 下山村 五石六斗一升九合 貝皿村
十二石四斗三升四合 河合村 二石七斗六升 伊月村
七石六升三合 朝日村 九石八斗五升 角野村
八石六升九合 後野村 四石一斗二升八合 朝日前坂村
三石二斗六升 角野前坂村 五石二斗九升九合 板倉村
四石五升 仏原村 三十八石二斗二升一合 西勝原村
九石二斗七升 東勝原村 五石五斗六升 下打波村
六石八升二升 上打波村 六百九十五石二斗一升 上野村
六百十五石八斗三升四合 御給村 五百十六石八斗五升九合 吉 村
三百八十一石九斗一升九合 森政領家村 百二十五石五斗六升 森山村
百十九石四斗二升五合 平沢地頭村 六百五十二石五斗八升三合 平沢領家村
八百七十七石二斗三升八合 木本地頭村 四百二十七石八斗九合 木本領家村
四百二十七石八斗九合 木本新田村 五石五斗 巣原村
二百十六石二斗二升 新河合村 二百八十石三斗 土布子村
二百七十一石一斗五升 井口村 百二十五石三斗 川島村
百五十二石四斗一升 北山村 二百四十九石六斗 発坂村
四百石六斗九升 別所村 七百三十六石 細野村
六百二十一石二斗 野津又村 百十四石七斗四升六合 横倉村
百六十八石一斗七升 御領村 三百九十六石五斗六升 薬師神谷村
三石 木合月村 百八十一石七斗一升 根橋村
九十石六斗三升 小原村 百三石五斗一升 田名部村
三百七十六石一斗八升 松田村 九十六石六斗 暮見村
四百四十石一斗二升 寺尾村 六百八十五石九斗八合 若猪野村
三百三十石八斗一升 下高島村 二百六十三石四斗九合 北市村
二百六十五石一斗六升 上高島村 三百六十四石八斗五升 大渡村
三百五十五石二升 岩ヶ野村 二百四十八石二斗七升 大矢谷村
二十二石八合(大矢村枝) 蓑輪村 百四十六石九斗 石谷村
六百九十三石一二升 松丸村 高無 上中下 石徹白村
合 計 一万三千九百五十二石五斗四升五合
〈南条郡における三ヶ村〉
九百二十九石八斗一升 千福村 八百三十六石三斗八升一合 妙法寺村
五百四十九石六斗五升二合 上中津原村
合 計 二千三百十五石四斗一升四合
〈今立郡における四ヶ村〉
五百九十七石三斗八升 生谷村 五百五十八石七斗 和田村
二百三十二石五斗九升三合 上野枝村 百九十八石五斗六升八合 蝉口村
合 計 千五百八十五石二升四斗一合
第7代 金森頼錦
①金森頼旹の郡上八幡支配
頼業の子として寛文九年(一六六九)に生まれ、同十二年四月五日幼年で遺領を継いだ。幼名は万助、改めて頼時といい、のち頼旹とした。天和三年(一六八三)十二月四日、従五位下出雲守となり元禄五年(一六九二)七月二十八日に長近以来の居城であった飛騨国高山城を取り上げられて(国主として飛騨一国を領有していた)出羽国上ノ山に移されたが、落ち着く間もなく同十年六月十一日に郡上城に移され、郡上及び越前国大野郡の一部を領有することになった。
②金森頼錦の支配
正徳三年(一七一三)に生まれ、名は又太郎といいはじめ台頼(かつより)のち台近(かつちか)と改めた。享保十四年(一七二九)九月三日に父可寛(ありひろ)が若
死したため(「地方発達史と其の人物」では十三年)、祖父頼旹の家督を継ぎ、同年十二月十六日従五位下若狭守に任ぜられ、元文元年(一七三六)七月十八日に二十三歳で遺領を継承して兵部少輔と改めた。同三年五月一日初めて城地へ行く暇をもらい、延享四年(一七四七)五月十五日奏者番となったが、宝暦八年(一七五八)九月二十七日に不審を被って仮に松平忠名に預けられた(十月二日)。「飛州志続藩翰譜」には「その事由は今日に至るも詳らかでない」とされている。領内の租税問題で農民の強訴・駕籠訴が起こり、また石徹白の社人追放の時、家臣らの曲事があったことも知らず、また石徹白豊前の悪事についての訴訟に対してもその尋問をせず、幕府の審理によって初めて豊前の罪は明白になったので、「これを知らないで多くの社人を追放したその罪は重い」として領地を没収されて同年十二月二十五日に改易され、南部大膳大夫利雄に預けられて同十三年六月六十一歳で没した。
③典雅だった金森頼錦
頼錦(一七三六~五八)は武人というよりもむしろ文人ともいうべき人でちょうど常友を思わせる藩主であった。性格が温和で文雅に深い関心を持ち絵画にも優れ、神社・寺院へ絵馬を描いて奉納した。― 中略 ― 彼は先人の遺績顕彰のため著名な事績の修復に努め、まず寛保年間(一七四一~一七四四)に東殿山の城跡を保存するため大学頭林信充に作文を依頼し、石碑に銘を刻んでこれを建てた。現在は慈恩寺(乙姫町)境内に移されている。
さらに小野滝山の古戦場にも石碑を建てて、戦没した先祖可重の家臣の霊を慰さめ、常縁・宗祇の遺跡白雲水の傍らにも石碑を建ててこの碑文もまた林信充に作らせた。
常縁の遺風を慕い、白雲水の名跡を長く後世に伝えようとして、和歌の上手な公家・諸侯らに頼んで三十首を手に入れ、鳥丸大納言光栄にその清書を願って白雲集と題し、これを慈恩寺に納めた。
(①~③は『郡上八幡町史』二七九、二八三頁による。)
八幡城の沿革
永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山(市街地南方)の東家を滅し八幡城を築いたのがこの城の創始である。後、秀吉が天下を統一し、領地20,000石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けた。やがて関ヶ原合戦が起こると遠藤慶隆は家康に味方し、慶長5年(1600)再び遠藤氏が城主となった。
元禄5年(1692)遠藤氏後嗣なく没収せられ常陸より井上正住が城主(40,000石)となって来封したが間もなく同11年金森頼旹がこれに代わって封せられた。宝暦8年金森頼錦の晩年になって失政のため農民困窮甚だしくついに金森騒動宝暦義民の一揆が起こり、そのため一家は断絶され、同年丹後国宮津の城主青山幸道が代わって郡上藩主となり八幡城下48,000石を領することになった。その後藩政よく治ってその後明治維新によって廃城となり、昭和8年旧跡に模擬天守閣が作られた。
説明板より
郡上八幡城由来
永禄二年(一五五九) 遠藤盛数が東家を滅ぼしこの八幡城を築いた。
その後 遠藤氏加茂郡小原に転封、稲葉右京亮貞通が城主。
慶長五年(一六〇〇) 関ヶ原合戦時、金森長近と遠藤慶隆は稲葉を攻め、落城。
遠藤氏が再び城主となる。
元禄五年(一六九二)遠藤氏後継ぎがなく没収、常陸より井上正住が来て、城主。四万石。
元禄十年(一六九七)金森氏六代頼旹、山形県上山から来て、城主に。
宝暦八年(一七五八)金森頼錦の代に宝暦騒動、金森氏改易。
丹後国宮津の青山幸道が郡上藩主となり、明治を迎えた。
関連資料
2-24-1 山形から郡上へ国替え
2-24-2 第7代金森頼錦
2-24-3 八幡城の沿革
2-24-4 郡上八幡城由来
資料集