アーカイブ年: 2020
金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓
京都へ改葬された金森家の墓地跡に立つ供養塔の左右に、主君に殉死した家臣の墓石が集められている。
向かって左の内側の2基は、元和元年(1615)閏6月3日没した金森家第2代可重(ありしげ)に殉死した森石衛門九郎政吉と山蔵縫殿(ぬいの)助(すけ)宗次のもの。外側のもう1基は、正保4年(1647)8月7日に没した金森家第3代重頼(しげより)の9男重利に殉死した野田源五左衛門清次のもの。
供養碑の右側の4基は、慶安3年(1650)4月7日に没した重頼に殉死した平岡三郎兵衛忠勝・遠藤右京頼忠・大野瀬兵衛長矩・西塚三郎左衛門忠明のものである。
殉死は家臣が死後も主君に奉公する意味で、寛文3年(1663)幕府はこれを禁止した。
高山市教育委員会
説明板より
大原彦四郎の墓
飛騨の第12代代官大原彦四郎紹正(つぐまさ)は明和2年(1765)高山陣屋に着任し、幕府の方針により御用木元伐休止や検地による増石などにより、郡代に昇任した。しかしこれら厳しい政策は領民の反発を招き、明和・安永の大原騒動が起こった。一方彦四郎は俳句を嗜み、清流亭楚諾と号して俳壇水音社(すいおんしゃ)を結成し、その宗匠となった。安永8年(1779)9月22日陣屋にて没し、墓には側面から裏にかけて彦四郎の事績と俳句が刻まれている。墓は建立当初から幾度か倒され破損している。向かって右は、長男勝次郎照正の墓で、こちらも傷みが甚だしい。
第13代郡代を継いだ子の亀五郎正純(勝次郎の弟)も失政が続き、天明の騒動を引き起こしている。
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
2-22-1 金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓
2-22-2 大原彦四郎の墓
資料集
090_299_金森氏・旧墓域、大原彦四郎墓碑
飛騨から山形へ国替え
金森氏第六代頼旹が転封を命ぜられたのは、元禄五年(一六九二)七月二十八日。同年八月十八日、関東郡代伊奈半十郎が飛騨代官兼務となった。高山城在番を命ぜられたのは金沢藩主前田加賀守綱紀で、在番奉行を永井織部正良としている。
永井は十月三日、高山城の引き渡しを受け、半年交替で第六番まで続け、第六番奉行の和田小右衛門の時、高山城は破却の命を受けた。
元禄八年(一六九五)一月七日、第六番在番奉行に和田小右衛門が任命されたが、前田綱紀は十二日高山城破却の幕命を受け、十九日にはそのための横目に矢部権丞、作事奉行に近藤三郎左衛門、普請奉行に前田清八、次いで二月十日には破却総奉行に奥村市右衛門が任命された。二十四日高山城破却に要する諸道具と人数を見積り(註1)、三月一日破却時の廃材、石垣、城内に残る米や諸道具等の処置について幕府に伺い、十八日それらを伊奈半十郎へ引き渡した。
同年四月九日破却奉行奥村市右衛門以下金沢を発し、十五日高山着、破却は二十二日本丸三階櫓から着手され、城郭内の建物・石垣のほか城下の侍屋敷も同時に破却された。破却開始の日伊奈半十郎は役所をそれまでの武家屋敷から金森家の下屋敷へ移している。 五月二十五日には金沢藩の和田小右衛門、塩川安右衛門が破却を巡見した。六月十日三之丸の堀を江名子川へ掘り抜き魚類を放ち、十六日には本丸・二之丸・三之丸・武家屋敷の建具等の員数帳を伊奈代官へ提出し、十八日普請奉行以下高山を出立した。
天正十六年(一五八八)の築城はじめから約百七年後の廃城であった。
高山城の破却は元禄八年(一六九五)六月に終了したが、八月伊奈代官は城地・侍屋敷の跡地の処分について勘定所に伺い、結果高山の町人七百十五軒へ割地し渡すこととなり、また十一月には城や侍屋敷に残っていた道具や樹木の払い下げが行なわれ、後元禄十年(一六九七)六月侍屋敷の割地に対して割地の方法等を定めた証文が出された。
金森清水(上山市小穴字小穴沢)
ここは腰田山の山麓で、きれいな清水が湧出している。元禄の頃、金森氏の居館があったと言われ、この地区の人々は、ここを「金森清水」と呼び、今日まで伝承されている。
昭和初期に、地主がこの地を開拓した時、旧住居跡であったことを裏付ける当時の焼き物の生活用品が、かなり出土したことがあった。
元禄5年、金森頼旹が着封した当時、上山は城がなかったので、旧城二の九付近に新しく居館を造営している。しかし、頼旹が上山城から4キロも離れたこの山中にも自己の屋敷を建てたとは考えられていない。家臣の中で金森姓を名乗る者は5名いるが、実弟金森玄番は八幡小路に居住していたし、いずれも仲丁を中心とした家中地に住んでいた。
この地に金森の居館があったと仮定するならば、分家金森左京近供が考えられる。頼旹が家督相続の時、その後見役となった金森左京近供には、元禄6年、中郷・下郷から3,000石が分知された。江戸詰であった近供自身は来藩しなかったものと思われるが、その一族郎党が上山へ来藩して、この地に住居を構えたのではないかと推定されている。
平成22年7月22日
飛騨高山
金森公顕彰会
説明板より
関連資料
2-21-1 飛騨から山形へ国替え
2-21-2 金森清水(上山市小穴字小穴沢)
資料集
089_298_山形県上山(飛騨から国替え)
金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼と城山の銅像
金龍神社
金龍神社は、芝郡代が長近の法号にちなむ「金龍権現」の神号を得て、東照宮境内に勧請したのが始まりと言われる。
昭和17年(1942)森高山市長、東照宮社司、氏子諸氏が現在地にこの金龍神社を遷座した。
なお、神社の本殿は旧山王宮の社殿で、神門は旧松泰寺の山門を移築したものである。
平成27年(2015)1月、雪害により破損したが、同年12月修理工事が完成しだ。
毎年9月1日(長近命日・8月12日)に祭礼が執行される。
東照宮
元和5年(1619)金森第3代重頼は、高山城の中に東照権現社を勧請した。その後寛永5年(1628)、現東照宮境内地(本地堂の下方。西之一色村鴻巣の森尾崎と言った)に遷座した。これが東照宮の始まりである。
延宝8年(1680)には松泰寺宝珠院を別当とした。しかし、金森家転封後は松泰寺のみが残り、御宮跡の時代となる。
荒廃を嘆いた金森の子孫重任が神社の再建を志し、これに賛同した芝郡代が、東照宮を文化15年(1818)に、町人の協力を求めて再建した。以来、現在に至る。
大工棟梁は水間相模宗俊、彫刻は中川吉兵衛である。
長近公銅像建立の経緯
昭和56年(1981)5月8日
金森公顕彰発起人会を開催。同日、第1回金森公顕彰小委員会(事務局長高山市助役)を開催。全体名称を「金森公顕彰会」、発起人会は「金森公顕彰委員会」と改称。
昭和56年5月24日
第2回金森公顕彰小委員会を開催。
昭和56年8月22日
金森公顕彰会総会を開催。市制45周年記念事業として金森長近公の銅像を城山公園二之丸に建立することを決定。広く募金協力を市民、各種団体に呼びかけることとした。
昭和57年(1982)1月29日
町内会連絡協議会に募金の取りまとめを依頼。
昭和57年10月5日
銅像建立に賛同された方の芳名録、記念刊行物等を台座カプセルに収納。
昭和57年10月12日
台座に銅像設置施工。
昭和57年11月1日
金森長近公銅像落成除幕式、高山市への銅像贈呈式。
<金森長近公銅像製作者>
■作家 高岡市の日展作家
般若純一郎氏
■製作 高岡市竹中製作所
■正面の題字揮毫 名誉市民 小池信三氏
■碑文 大野政雄氏、亀山喜一氏
■ 書 高塚道雄氏
■総事業費 3,076万円
■着工 昭和57年3月11日
■完成 昭和57年10月26日
関連資料
2-20-1 金龍神社
2-20-2 東照宮
2-20-3 長近公銅像建立の経緯
資料集
088_297_金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼と城山の銅像
金森氏第4代頼直の菩提寺・大隆寺
妙高山大隆寺の歴史
○承応2年(1653)、第4代金森頼直が創立、開山は京都紫野大徳寺前住「禅海宗俊」。京都金龍院の末寺となる。臨済宗としての大隆寺である。
○第3世乾舟妙一も大徳寺の前住で、書画をよくした。瀬戸の陶工加藤源十郎を同道。
○金森氏転封後は荒れてしまい、元禄5年(1692)から宝暦12年(1762)までの70年ほど無住、その後、留守居の道心坊は騒客を招くなどして、遊戯道場となった。
○安永7年(1778)、曹洞宗の「大而宗龍」が京都金龍院から謝礼金100両で譲り受け、大隆寺を再興した。古堂を壊して田とし、現大隆寺境内地に本堂、禅堂、庫裡等を造立した。師の天徳悦巌素忻を、曹洞宗大隆寺としての開山とした。宗龍和尚は、曹洞宗大隆寺の第2世となる。
〇この時から越後国曹洞宗万福寺の末寺となった。
○宝暦(1751~)除地帳には、山林1町3反、石高3石8斗とある。
○文政13年(1830)、庫裡用材、西之一色熊野社の檜の寄付を受けた。
○天保12年(1841)、妙見社、きれいにできすぎたので御役所より注意有。
○明治10年(1877)釈迦堂新築
※境内、隣接墓地に金森宗和の碑、館柳湾の詩碑、芭蕉の碑有。
※鎌倉時代の鰐口(県文化財)を宝蔵。これは朝日町甲区で、長八が発掘したもの。銘「敬白奉施入金一口岩寺正応二年十二月十八日願主沙彌道阿」、高山の野口養安ほか16人が買い取って大隆寺へ寄進した。
リーフレットより
金森頼直
金森氏第4代城主
元和5年(1619)~寬文5年(1665)
頼直は、第3代重頼の長男で、慶安3年(1650)父死去に伴い跡を継いだ。承応2年(1653)、頼直は、大隆寺を建立した。現在の大隆寺位置より北東150ⅿ離れた場所にある。頼直は明暦3年(1657)1月18日、江戸大火の際に、駿馬「山桜」に乗って危機を免れている。名馬山桜は、本町の山桜神社に祀られた。大火の際、幕府へ復興用の檜材1,000本を献上した。また、社寺の復興にも力を入れている。
万治2年(1659)、久津八幡宮修復
万治3年(1660)、古川杉本社殿再建
万治3年(1660)、千光寺再興
寬文3年(1663)、病によって剃髪を許され、立軒素白と号した。寛文5年(1665)6月、頼直の病気平癒、武運長久を祈って越中の肴屋連中と、金森家の家臣が日枝神社に絵馬を奉納している。
寬文5年(1665)7月、江戸の金森藩邸において没した。法号は大隆院殿立軒素白大居士。殉死は禁令になっていたため、殉死者はいない。
リーフレットより
関連資料
2-19-1 妙高山大隆寺の歴史
2-19-2 金森頼直
資料集
087_296_金森氏第4代頼直の菩提寺・大隆寺
駿府城下の金森屋敷
① 駿府城下町の建設 (①は『静岡県史 通史編 三(近世一)』静岡県発行 一九九六年 より)
「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)矢印が金森長門守屋敷
慶長十二年(一六〇七)一月、徳川家康は駿府を菟裘(ときゅう)の地と定め、駿府の城郭を広め、諸士の宅地を定めることを表明した。駿府の築城工事と城下町づくりが始まった。
駿府城の造営は同年七月完成したが、この年十二月の火災で焼失してしまう。しかし、慶長十三年二月には本丸の上棟式が行なわれ、八月には天守閣が完成した。
一方、城下町の町割は駿府城の拡張計画とともに立てられ、駿府城が完成する慶長十三年八月までに城下町の建設が進展したと考えられている。
駿府城下町の建設は城下町を安倍川の氾濫から防護し、駿府城を堅固にすることと不可分であった。安倍川を城下の西側に固定し、安倍川に駿府城の外堀の役割をもたせた。
こうして駿府城下町が建設されたが、江戸時代の城下町は武家とそれ以外の商人・職人との居住区が区分された。「駿府古絵図」によれば、武家屋敷は城内三の丸に重臣屋敷があり、大手門前から城を取り囲むように上級家臣の屋敷が構えられていた。また、城の南西方向、安倍川近くの一帯にも武家地があった。番町と称ると、城郭を含めた武家地が約四十五パーセント、町方が四十パーセント、寺社とその付属地が十五パーセント。江戸の武家地が六十八パーセント余、寺社地・町人地がそれぞれ十五パーセント余(内藤昌『江戸と江戸城』)にくらべれば、かなり町方が広くとられていた。
「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)拡大
駿府城
今から約650年前の室(むろ)町(まち)時代、今(いま)川(がわ)範(のり)国(くに)が駿(する)河(が)守(しゅ)護(ご)職(しょく)に任ぜられて以降、駿河国は今川氏によって治められた。9代義(よし)元(もと)の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らした。永禄3年(1560)今(いま)川(がわ)義(よし)元(もと)が桶(おけ)狭間(はざま)で織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われた。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移った。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)により関東に移封され、豊臣系の中(なか)村(むら)一(かず)氏(うじ)が駿府城の城(じょう)主(しゅ)になった。その後、徳川家康は、関(せき)ヶ(が)原(はら)の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征(せい)夷(い)大(たい)将(しょう)軍(ぐん)に任じられ江戸幕府を開いた。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀(ひで)忠(ただ)に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入った。この時天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わった。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲(くる)輪(わ)を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪(りん)郭(かく)式(しき)の縄張りとしている。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天(てん)下(か)普(ふ)請(しん)」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められた。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られた。
静岡市教育委員会
説明板より
関連資料
2-18-1 駿府城下の金森屋敷
2-18-2 駿府城
2-18-3 家康公の年表
資料集
086_295_駿府城下の金森屋敷
大坂の陣・金森氏の配置場所
① 冬の陣
大坂冬の陣は、慶長19年(1614)10月、豊臣側では戦争準備に着手し、全国から浪人を集めて召し抱え、その兵力は10万人に及んだ。
家康は10月11日駿府を出発、23日には京都二条城に入っている。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かい、18日先着していた秀忠と「茶臼山陣城」で軍議を行なった。徳川方は約20万の軍。
11月19日、戦闘が開始され、12月3、4日の真田丸の戦いでは、豊臣軍が徳川軍を撃退している。12月20日には和平が成立、三之丸、さらには二之丸の堀が埋め立てられ、12月23日に完了、諸大名は帰国の途についている。家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻った。
② 夏の陣
和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で戦争準備を行なっている。慶長20年(1615)3月、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。4月10日、秀忠は江戸を出発、4月21日、二条城に到着、22日、家康と秀忠は諸将と軍議を行なった。徳川方の戦力は約155,000人、軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かう。
大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した。5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した(天王寺・岡山合戦)。
5月7日、兵力に勝る幕府軍は次第に態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。真田信繁(幸村)は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち死にした。享年49。
下の図は「夏の陣・首帖(くびちょう)」で、下欄に諸将が獲得した首数が記される。慶長20年(1615)5月6日、道明寺・誉田合戦図。金森の首数は153とある。
「元和偃武(げんなえんぶ)」
応仁の乱以来、150年余にわたって続いた戦乱の世が、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で終わったことを指す。江戸幕府は、この年、元和と元号を改めて、天下の平定が完了したことを知らしめた。
『高山市史・金森時代編』より
関連資料
関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所
三成の決起と家康の陣営固め
慶長5年(1600)
6月18日 家康、伏見城を発ち会津遠征に向かう。
7月11日 三成、佐和山城で吉継に家康討伐を打ち明ける。
25日 家康、小山で三成を打つため西上を決定する。
8月10日 三成、大垣城に入る。
26日 東軍、美濃赤坂の集結する。
9月 3日 大谷吉継、山中村宮上の布陣する。
14日 家康、美濃赤坂に入る。
島左近率いる西軍、杭瀬川の戦いで勝利する。
小早川秀秋、松尾山に布陣する。
三成、大垣城を午後7時頃出陣。
家康、赤坂を午前0時前出陣。
激突・裏切り・壊滅
――本戦―― 9月5日
午前5時頃 全西軍、関ケ原の布陣完了。
6時頃 全東軍、関ケ原に布陣完了。
8時頃 戦闘開始。
10時頃 家康、本陣を陣場野に移す。
12時頃 秀秋、西軍を裏切り、大谷隊を攻撃する。
13時頃 脇坂ら4隊も裏切り、西陣壊滅する。
14時頃 島津隊、敵中突破を敢行する。
17時頃 東軍圧勝。
家康、西軍将士の首実検と東軍諸将を引見する。
戦後処理と動向
9月17日 三成の居城佐和山が落城する。
19日 家康、草津に入る。
小西行長、伊吹山中で捕らえられる。
21日 三成、古橋村(滋賀県木之本町)で捕らえられる。
23日 大垣城開城される。
安国寺恵璚、京都で捕らえられる。
10月 1日 家康、三成・行長・恵璚を京都六条河原で処刑する。
慶長8年(1603)
2月12日 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
東軍の総兵力 約74,000
徳川家康 約30,000
約5,400
黒田長政 古田重勝 約1,000
竹中重門 織田有楽 約 400
細川忠興 約5,000 金森長近 約1,200
加藤嘉明 約3,000 生駒一正 約1,800
筒井定次 約2,800 寺沢広高 約2,400
田中吉政 約3,000 本多忠勝 約 500
約6,000
松平忠吉
井伊直政 有馬豊氏
約13,900
福島正則 約6,000 山内一豊
藤堂高虎 約2,500 朝の幸長
京極高知 約3,000 池田輝政
説明板より
関ヶ原古戦場 ――笹尾山――
西暦1600年9月15日、日本列島のほぼ中央、東西交通の要に位置するここ関ケ原において、天下分け目の戦いが繰り広げられました。天下の覇権をねらう東軍・徳川家康と、家康の野望を阻止せんとする西軍・石田三成の雌雄を決する関ヶ原の戦いは、この関ケ原盆地において東西両郡あわせて約15万人の将兵の激突となりました。
笹尾山は西軍の総大将・石田三成が本陣を構えたところです。
桃配山
天下を分ける壬申の大いくさは千3百年ほどまえであった。吉野郡をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、6月の27日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮につくがはやいか、桃のむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」大領、宮勝木実は、胸をうたれ平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。9百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。
説明板より
関ヶ原決戦のあらまし
① 両軍の配置と兵力
大垣城及びその周辺にいた両軍の主力は14日夜、石田、島津、小西、宇喜多隊の順に、野口、栗原、牧田を経て関ヶ原の陣地笹尾山、小池、北天満山、南天満山へそれぞれ着き、完了したのが午前4時頃であった。とにかく、雨の中、夜通し遠廻りの行軍は相当の疲労も見られたが直ちに陣地を固めた。それに対し、東軍は早朝2時頃福島隊、黒田隊が竹中隊の案内で出発し、4時頃には福島隊の先頭が着き、西軍の最後尾字喜多隊と接触し、大混乱を起こした。こうして東西両軍が東西4キロメートル、南北2キロメートの関ヶ原陣地に着き、開戦を待った。
東軍の兵力は徳川家康ほか74,000人(そのうち南宮山軍に備えた池田、浅野隊ら19,965人)、西軍の兵力は石田三成ほか82,000人、関ヶ原陣地での午前中は東軍が約53,000人、西軍が56,000人とほぼ互角。午後になって小早川隊らの裏切りで東軍が19,965人増え、西軍はそれだけ減って、東軍が94,000人、西軍が37,000人となった。西軍の陣地は高地で鶴翼の陣で、戦いには有利であったが兵力の差、意欲の差が地の利を生かすことができなかった。
② 決戦の模様
午前7時頃、雨は上がったものの深い霧が一面に立ち込め、数間先も見えない。機先を制することが兵法にあるが、お互いに陣地に着いたばかりで、土地感も弱く、西軍にとっては夜行軍の疲れもあり、相手の出方を見守っていた。8時頃、霧も次第に晴れてきた。東軍は外様大名に先陣の功を取らせるものかと、井伊直政は家康の四男松平忠吉の初陣を飾らせんと、屈強の家臣30余名をつれ、福島隊の前面に出かけた。ところが先陣を受けていた福島隊の先頭可児才蔵に発見され「今日の先陣は福島隊である。誰も先に通すことはできない。」と止めた。直政は「総大将松平忠吉公の敵状偵察に案内するところだ。」と偽り、そこより方向を右へより宇喜多隊に発砲した。これを見た福島正則は800人の銃手をつれ、宇喜多隊を攻めた。この頃、西軍は南天満山、笹尾山、東軍は丸山にそれぞれ大きな音ののろしを上げ戦端が開かれ、あちらこちらから閧の声、螺の音が大きく鳴り響いた。
南天満山の字喜多隊は五段に構えて戦った。なかでも明石全登の率いる隊は強く、福島隊を追い返した。その左に位置した藤堂、京極隊、さらに寺沢隊は大谷、平塚隊を攻めた。織田、古田、佐久間隊は北天満の小西隊と戦い、その後織田隊は福島隊の背後から不破の関付近に出て、藤堂、京極隊と共に平塚隊と交戦し、一進一退の激戦を繰り返した。
笹尾山の石田隊へは黒田、竹中隊、さらに田中、加藤、金森親子隊が向かった。三成は本陣前2町ほどに竹柵と濠を造り、その前に猛将島勝猛隊、柵の内に蒲生郷舎隊を置き、三段構え、これに対し黒田隊は竹中隊の案内で、山麓をつたって三成隊の左側を突進した。島隊は二手に分け、自ら一隊を率い、山麓からの黒田隊へ迫り、これを討たんとした。これを見た東軍の田中、加藤隊は黒田隊を援けんと三成の本陣へ突進、また、黒田隊は名銃手10数人を小高い山麓を密かに迂回し、島勝猛隊の側面から鉄砲を撃ち、島隊を混乱させ、さしもの勝猛も弾に当たり、柵の内につれ入れられた。その隙に黒田、竹中、田中隊ら三成本陣へ突進した。しかし蒲生隊らの頑強な兵に撃退され、細川、加藤、金森隊の援護で防戦し、一進一退の激しい戦いが続いた。
家康は桃配山の本陣では戦況を充分知ることができないこと、南宮山軍の傍観を確認して本陣を前に進め、11時頃には陣場野に着いていた。正午になっても松尾山の小早川隊が動かない。痺(しびれ)を切らし、麾下と福島の鉄砲隊に松尾山へ向けて一斉射撃を命じた。これによって迷っていた小早川秀秋は松野主馬の反対を押し切って山を下り、大谷、平塚隊へ向かった。これに呼応して脇坂、朽木、小川、赤座隊も裏切り、後ろから大谷隊らを攻めたてた。この時、平塚隊は藤古川の前より後ろにさがり前から横から後ろからの敵と戦い、3度までも撃退したが多くの兵士を失い、力つき、ついに戸田、平塚も戦死した。大谷は平塚からの冥土の土産の首を手にし、小早川の裏切りを恨みながら自害し、湯浅五助に介錯させ、三浦喜大夫にその首を埋めさせた。こうして西軍の一角が崩れるや、宇喜多、小西、石田隊と次々敗れ、その多くは伊吹山麓方面へ敗走した。残った島津隊は陣容を整え、敵の本陣を突破して、伊勢路から堺に出て鹿児島に婦った。
天下分目の関ヶ原の大合戦はわずか7時間ほどで東軍の勝利となった。この戦いで西軍約8,000人、東軍約4,000人が鉄砲弾、弓矢、槍、刀によって殺され、負傷者もこれ以上あったと思う。したがって関ヶ原の戦場跡には血みどろな、首のない、手足のない人体や馬、さらに動けない者も右往左往し、全く地獄絵そのものであった。慶長7年(1602)関ヶ原古戦場に生まれた合川少年は、世の無情を知り、本陣職を譲って出家し、無難禅師となった。
<引用文献>
太田三郎・中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』35~36頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
郡上八幡城の攻撃
関ヶ原合戦の慶長5年(1600)春に金山城主森忠政が信州海津城に移封された当時の中濃から東濃西部には、郡上に稲葉貞通、武儀鉈尾山に佐藤方政、加茂白川には郡上から左遷され小原に遠藤慶隆・犬地に遠藤胤直の両遠藤氏が配されていた。
美濃の最大大名の織田秀信が石田三成に加担したので美濃の多くの武将は西軍に属した。稲葉貞通は犬山城の石川光吉のもとに、佐藤方政は岐阜の織田秀信のもとに馳せていた。同遠藤氏は慶隆が東軍に組し、胤直は西軍に属するという東西両陣営に分かれた。
8月に入ると犬地の胤直は「上ヶ根」の砦に籠もり慶隆に備え対した。この「上ヶ根砦」の所在については諸説がある。一番有力視されているのが、現白川町切井の「城が根」であるという。それに対して慶隆は佐見の吉田に砦を築いて「上ヶ根」に備えたという。慶隆が旧地の郡上奪取の行動を起こすのは8月28日である。郡上城主稲葉貞通が犬山に在陣中で留守のうちにというわけである。慶隆は飛騨川を渡河し和良から安久田へ出、9月1日に郡上城を飛騨の金森可重の援軍とともに攻撃した。翌2日に和議が成立した。急を聞いた犬山にあった稲葉貞通が3日に郡上に到着し愛宕山の遠藤軍を攻撃し激戦となったという。4日再び和議が成立し両軍は兵を収めた。
慶隆は東濃へ兵を戻し5日に胤直の籠もる上ヶ根の砦を囲み、軽戦のうちに岐阜・犬山等の近況を知らせ東軍に降ることを論した。胤直はこれに従った。慶隆が家康に胤直の罪の宥されんことを懇請したが岳父に敵対したことを理由に宥さなかったという。
9月14日慶隆は美濃赤坂で家康に謁し、郡上・上ヶ根の戦闘報告をして東軍に参如した。
一方、稲葉貞通も15日関ヶ原で家康に謁し東軍側と戦ったことを詫び、長束正家が居城水口で籠城しているのを加藤貞泰らとともに攻める。
関ヶ原の論功行賞で稲葉貞通は豊後の臼杵50,000石に移封、そのあとに遠藤慶隆が郡上八幡城に入城し27,000石を領有し、12年ぶりに旧地を回復した。
この稲葉も加藤も犬山に籠もった武将である。東軍が本曽川を渡河し岐阜城を目指した時に、犬山は無視され戦わずして開城している。東軍が西軍の濃尾国境の拠点を徹底攻撃していたら犬山に馳せていた武将らの近世大名として存続することは不可能であった。犬山城の各武将が西軍に見限りをし東軍へ傾斜していったことが根底にあったのではないだろうか。
<引用文献>
中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』22頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
関ヶ原合戦後の金森長近―上有知時代から晚年への動き―
金森長近は、「上有知旧事記」によれば関ヶ原戦後、家康と一緒に稲葉山城に登った時に、「信長公在世中、この山へ来た者、今は法印と2人だけになった。相変わらずの味方に満足、何なりと望みを。」と言われて佐藤領と上有知築城を願い、やがてその望みは達せられた。
史料「上有知旧事記」の一部
<翻刻文>
権現公様、岐阜山へ御登山被為遊候節の事、法印様へ、信長在世ニ、此山へ来ル者も、今ハ法印と我等計ニ成候、不相替味方被致、満足ニ、何成共好ミ可被申と、被仰候節、上有知ニ御隠居御願被成、飛騨之国之同郡ヲ、領知 被成候、市町御免許、御上聞被為達候御事と、申伝候
関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。
1 金森長近への恩賞
関ヶ原戦後の賞罰で家康は、敵対した諸大名の領地の没収・削減を厳しく行なう一方、味方した外様大名に加増し、その領国を移すという政策を行なった。西軍の上有知城(鉈尾山城)佐藤氏は滅亡、東軍の長近は功によって本領飛騨国の安堵と、滅亡した佐藤方政の所領だった美濃国上(こう)有(ず)知(ち)に関を加えた20,000石と河内国金田の3,000石の都合23,000石を加増された。「岐阜県史」「美濃市史」他
<加増額の不一致>
上の金森長近の石高は、岐阜県史、美濃市史による。河内国金田の分は、長近が伏見居住の便を考えて家康に所望したと考えられ、飛騨一国と合わせ61,000石の大名となった。
ただし、これらの石数は諸書によって差があり、正確な石数の確定はむつかしい。(分知・蔵(くら)入地、合戦前の金森領など問題あり)
23,000石説をとる文献は「金森先祖書」「寬政重修諸家譜」「靱負由緒書」「飛騨略記」などがある。
20,000石説の文献には「寛永諸家系図伝」「諸牒餘録」「飛騨太平記」「金森家譜」「上有知元地目録」などがある。
2 徳川家康と采配紙
徳川家康が関ヶ原合戦で東軍の総師として西軍と戦った時、家康が軍勢を指揮する采配の紙を、武儀郡御手洗村(現美濃市)の彦左衛門等に申し付けた。一同畏まって漉き立て家康公に差し上げた。
この紙で作った采配で指揮したところ、東軍は大勝した。やがて天下を掌握し幕府を開いた後も、この吉例を以て、采配紙をはじめ、障子紙の御用をも仰せ付けられることになった。
「佐藤鶴吉文書」に、次のようにある。
是は神君関ヶ原御出陣の時、今庄屋を相勤め候、定七先祖の者等、御采配の御紙仰付けられ御漉上げ申し候処、悦喜にて、其節御利運に相成り申し候に付、吉例を以て追々御用を仰付けられ、御治世の上、駿府より以来、御紙漉屋と仰付けられ、代々御用を相勤め申し候。御采配紙の儀別して御大切の御用には、御忌言葉の儀仰渡され、漉立て候節は格別精密に仕り候儀、今尚心得罷り在り候。(略)
采配紙は良質の厚紙に大根の汁や、みょうばんを塗って乾かしてから朱・金・銀仕上げとする。朱漆塗・金箔押・銀箔押がこれで、紙は7・8・11・13・21枚などを重ねて細く裁ち、その一端を立鼓という輪に順に重ねる。(「武具考」)
3 関ヶ原合戦に戦った家臣団
関ヶ原合戦後、飛騨は可重へ、上有知は長近へと主君は二分され、当然ながらその家臣も分割を余儀なくされた。
金森長近の領地が20,000石余増大した慶長5年(1600)以後、上有知に移った家臣について、「飛騨太平記」は、次のように記している。
「法印公より御奉公仕り来る者は、大半上有知にて、長近公御逝去の後、御暇取者有。其内、肥日主水・島田四郎兵衛・池田図書、権現様へ召出さる。」
文中記述の「法印公より御奉公来る者は、大半上有知にて……」とある大半が何を意味しているか問題であるが、長近直属の家臣団たる「高山法印衆」の上級家臣の大半ともとれる文である。
可重に残されたいわゆる「古川出雲衆」は、長近が与えた家臣団であることを考えれば、法印衆と出雲衆をはっきり分離していたと言えなくもない。
記述にある3名は、長近の遺臣で、肥田主水忠親(母は長近の娘)、島田四郎兵衛、池田図書政長(上有知金森断絶後家康仕官)は家康から各1,000石宛を与えられて旗本に列した。
なお、肥田、池田のほかに島三郎左衛門にも1,000石与えられているので島田四郎兵衛と島とは同一家臣とも考えられる。
長近が飛騨に発した会津上杉征伐時出陣命令に、田島道閑、大塚権右衛門、今井少右衛門宛の名が散見されるが、法印衆であろう。
「田能村記」「願生記」「飛州軍乱記」「豊国武鑑」「遠藤家旧記」などの文献上から法印衆・出雲衆の一部を見ると、
高山法印衆……遠藤宗兵衛(家老)、吉田孫十郎(500石)、石徹白老右衛門、田島道閑、牛丸又右衛門、山田小十郎など
古川出雲衆……西脇右近(家老)、西脇吉介(300石)、西脇兵左衛門など西脇一族、田能村善次郎、佐藤彦太夫など
があるが、同姓でも違(い)字があったりで確定に難がある。
いざ合戦となると、多くの雑兵(家臣団の戦闘要員の多く)の動員が必要であったし、主力の遠征では自領内に残留する家臣、出陣期間、家族などを考慮する必要があった。
前述の会津出陣準備命令では、「3年間免税することを条件に百姓を動員したこと」「長柄の者50人を動員したこと」などをあげている。小荷駄(主に兵糧・弾薬運び)、砦造りに従事したのである。
実戦では、主人と共に戦う侍(悴(かせ)者・若党・足軽と呼ぶ)、主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下(げ)人(にん)(中間(げん)・小(こ)者(もの)と呼ぶ)、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓たち(夫(ふ)・夫(ふ)丸(まる)と呼ぶ)の雑兵たちによって支えられていたことを忘れてはならない。
ほかに「陣僧」と呼ばれる非戦闘員が武士と共に戦場へ行き、戦死者の菩提を弔ったり、和議を取り持ったりしたことはよく知られている。合戦後戦場を訪れた僧もあったと伝えている。
武儀郡洞戸村の禅僧「不立」は、関ヶ原合戦の時、家康に属して戦うため村民を連れて出発したが、途中水に溺れ死んだという。
4 小倉山城築城と上有知繁栄
合戦後鉈尾山城(上有知城)に居館した長近は、ここには住まず慶長6年(1601)より背後に絶壁と長良川を持った尾崎丸山を選び築城に着手し、慶長10年(1605)に完成した。尾崎丸山を風流人長近らしく京都嵯峨の名勝にちなんで小倉山と改め、小倉山城と称した。
築城と同時に、西軍に属した佐藤氏の菩提寺だった以安寺住職鉄松和尚を開祖として清泰寺を建立、金森家の菩提寺となし、寺領100石を寄進した。
長近は、これと並行して、慶長7年(1602)の長良川の大水害後、城下町南方の台地を開拓して亀ヶ丘と名付け、ここに長良川沿岸にあった古町の人々を移転させ、永遠に水害より救った。
古町は佐藤氏時代の城下町で、今も古町、古城跡保寧寺跡、金屋街道などの小字名が残っている。
こうして新城下町上有知(旧美濃町)ができ、以後この地方の政治、産業、交通の中心地として繁栄した。長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移るや、長良川の水運の要衝は港町に移り、舟及び筏の寄港発着地として、上有知の表玄関となった。人も荷も悉く上有知港に集まり、上有知港から散っていった。上有知からは紙荷、曽代絹が主で、その積荷には水陸安全、桑名から海を行く荷には海陸安全と記入されていた。
産業に意を注いだ長近は、紙の生産はもちろん、養蚕も奨励指導した。養蚕が盛んだったことは、浅井図南(註1)の「釜戸治湯日記」中に「明けゆけば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
註1 図南は、尾張藩主徳川家勝に招聘され藩医となった。美濃各地巡遊紀行「釜戸治湯日記」を著した。
<引用文献>
森政治『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』65~67頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
関連資料
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の金森氏布陣場所
① 文禄・慶長の役
◇文禄の役 文禄元年(1592)4月~文禄2年(1593)に休戦した。
◇慶長の役 慶長2年(1597)の講和交渉決裂によって再開され、慶長3年(1598)の太閤豊臣秀吉の死をもって撤退で終結。
秀吉は、天正19年(1591)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元尾張・那古野(氏)と同じ肥前・名護屋(氏)(古くは名久野)という地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝(かつ)男(お)山と縁起がいいことにも気をよくし、この地への築城を決めている。
9月、平戸城主松浦鎮信(まつうらしげのぶ)に命じて壱岐の勝本に城を築かせた(勝本城)。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前(よしあき)、五島城主五(ご)島(とう)純玄(すみはる)であった。(宇久(うく)純玄はこの年、姓を五島に改める。)
② 諸大名が九州へ
10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった。
『松浦古事記』によれば、205,570余の兵が高麗(こうらい)へ渡り、名護屋在陣は102,415兵で、総計307,985兵で陣立てされた。
九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8ヵ月後の文禄元年(1592)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。
唐入りの期間、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
③ 金森氏の陣所
金森氏の陣所の位置は名護屋城主体の南側の離れた箇所にあり、北に藤堂高虎、南に京極高次の陣所がある。秀吉は唐津から名護屋城までの街道「太閤道」を作り、石田と金森が諸将の統制のために布陣されたのであろう。
リーフレットより
関連資料
2-15 肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の金森氏布陣場所
資料集
小田原合戦
天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条(ほうじょう)氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)の大軍に包囲されました。
●時代を画した小田原合戦
織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)の死後、北條氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで土塁を構築しました。(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北條氏(うじ)直(なお)は小田原城開城を決意します。
合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。
●戦闘の経過
天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛(もう)利(り)輝(てる)元(もと)(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前(まえ)田(だ)利(とし)家(いえ)率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。
これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の猛攻撃に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。
●小田原合戦の意味
北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行なっていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土累で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。
北條氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。
また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行ないました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡県)や御土居(京都市)岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行なわれたといわれているものもあります。
説明板より
関連資料
2-14 小田原合戦
資料集
082_291_金森氏が秀吉の配下で攻めた小田原城
伏見城
伏見城の概要
① 城下の歴史
風光明(ふうこうめい)媚(び)な伏見は、平安貴族たちの別荘地として知られ、その後、太閤秀吉による伏見城築城によって一躍脚光を浴びるようになった。
築城に際して作られた道路や外堀は、江戸期以降にも活用され、伏見は水陸交通の要衝として発展を遂げている。城下町から宿場町となった伏見では、さまざまな産業とともに、酒造りも次第に本格化してゆき、明暦3年(1657)には83軒もの蔵元が15,000石余の酒を生産するようになった。
② 伏見・御(ご)香(こうの)宮(みや)神社
この神社の南側に金森長近の屋敷があった。明治以降、伏見の清酒は東海道線をはじめとする鉄道の開通によって、関東から全国へと広がってゆく。築城以来の面影が残る伏見は、「灘」とともに現在日本の二大酒どころとして有名である。
③ 伏見城下図
秀吉時代の伏見は、伏見城下に全国の大名を集めた、まさに「武将の町」で当時の城下の様子を知る史料に「豊公伏(とよこうふし)見ノ図(みのず)」がある。徳川家康が伏見幕府を開いた時代の大名配置と錯綜しているが、この絵図をもとに町割の特色を見ると、秀吉の幕閣(ばっかく)の五奉行の上(かみ)屋(や)敷(しき)は城内に定められ、次に前田、島津、毛利、伊達などの強豪大名、秀吉側近の大名は城の近くや城下の要衝に上屋敷が定められた。
大名に必要な物資を調達するため、各地から多くの商人や職人が集まり、わずかの間に伏見は日本有数の都市となり、全国各地の人や物資で賑わった。
④ 伏見城の4期区分
伏見城の位置は宇治川を望む通称「指(し)月(げつ)の丘」の中心地であることから、「指月伏見城」とも呼ばれ、文禄元年(1592)に豊臣秀吉が隠居屋敷として築き始めたものを、秀頼が誕生した後の文禄3年(1594)に本格的に城郭としたことに始まる。同時期に各大名はじめ家臣である武将たちの屋敷も形成されていき、文禄4年(1595)にはほぼ伏見城下町として機能していたと考えられる。
伏見城を中心に家臣の大名はじめ武家屋敷が取り囲むように建ち、特に城の西側の御(ご)香宮(こうぐう)一帯は秀吉の重臣武将大名の居住区であり、徳川家康はじめ金森長近・古田織部・片桐市正(いちのかみ)(且元(かつもと))などの家臣団屋敷が並ぶ。
<第1期> 指(し)月(げつ)屋敷時代
天正20年・文禄元年(1592)~文禄3年(1594)
○天正19年秀吉は関白職を秀次に譲った。京都の聚楽第(じゅらくだい)が秀次の居城となる。
○文禄元年8月伏見指月の丘に隠居屋敷造営を開始、同2年9月に秀吉が移る。
○文禄2年、城下に大名屋敷の割り当てを命じ、各大名・家臣の武家屋敷が建ち、移る。
○同年秀頼が誕生し、秀吉の本城とした。
○同3年8月城の主要部分が完成。伏見の城下町造営のため寺社・村落を移転。
<第2期> 指月から木(こ)幡山(はたやま)時代
文禄3年(1594)~文禄5年・慶長元年(1596)
○文禄3年拡張工事を開始。朝鮮戦争による秀吉側の疲弊解決と終結目的に明の特使一行を迎える準備をする。
○同4年秀次自害を受け聚楽第を破却、建物の旧材を伏見城に運ぶ。
○慶長元年閏7月13日大地震により伏見城天守が倒壊、大名・家臣屋敷も倒壊した。
京都全域に被害、犠牲者が多数。大仏殿・東寺・本願寺・興正寺なども倒壊し、死者が多数。(言経(ときつぐ)卿(きょう)記(き)(山科言継の日記)・朝鮮征伐記・当代記・義(ぎ)演(えん)准(じゅん)后(ごう)日(にっ)記(き)(醍醐寺三宝院の義演の日記)・その他の記録史料で克明に伝える。)
○翌14日から同2年にかけて場所を木幡山に移し、伏見城を新たに再建し始める。
<第3期> 木幡山時代
慶長3年(1598)~慶長5年(1600)
○慶長3年8月18日秀吉が没。遺言により秀頼の大老職の徳川家康が伏見城の天守に入る。
○慶長5年7月19日関ヶ原の前(ぜん)哨(しょう)戦(せん)にあたる伏見城総攻撃をして石田三成西軍が攻略、同年8月1日焼失。
<第4期> 徳川家康時代
慶長5年(1600)~元和9年(1623)
○家康は関ヶ原の戦い後、再建に取りかかった。慶長8年、征夷大将軍任時も伏見城で受け、秀忠・家光3代にわたり伏見城で将軍宣(せん)下(げ)を受ける。
○同9年9月家光将軍宣下のため、本丸御殿・大台所・大書院・御対面所を補修。
宣下以後は城としての機能は途絶え、家光の代に破却された。
天守は二条城へ移築、石垣は大坂城と淀城へ。大手門は御香宮へと移築されている。
リーフレットより
伏見城下にあった金森氏の屋敷
① 長近の屋敷
金森長近の屋敷は豊臣期の伏見城下を描いた『伏見桃山之古図』には「金森法印」と記述されている。
※金森長近の法号は「金森法印(ほういん)」で、「金森出雲」は金森氏第2代可重の号である。
城下図で金森長近の屋敷が特定できるのだが、「法印」でなく「金森出雲」が町名になった経緯は分からない。
② 可重の屋敷
深草大亀(ふかくさおおかめ)谷(だに)金森出雲町に可重の屋敷があった。金森氏第2代可重の号「金森出雲」のまま、町名になっている。
『伏見桃山之古図』には、城の北西に位置する土塁と堀の角に東西に長い可重の「金森出雲屋敷」が確認でき、通りは現在の伊達街道に面している。
薮地として金森出雲屋敷跡地が江戸期から明治期以後も残されており、江戸期と明治期の各伏見の地図には「出雲(いずも)丁(ちょう)」が見え、「金森出雲町」の町名は今も残され伝えられている。
リーフレットより
関連資料
2-13-1 伏見城の概要
2-13-2 伏見城下にあった金森氏の屋敷
資料集
081_290_伏見城下の金森屋敷
照蓮寺本堂(国指定重要文化財)
所在地 高山市堀端町8番地(城山公園内)
所有者 照蓮寺
指定年月日 昭和31年6月28日
構造形式 入母屋造 栩葺形銅板葺
浄土真宗の寺院では日本最古の建物といわれ、昭和35年に合掌造りで有名な荘川村(現在の高山市荘川町)から、高山城二の丸跡へ移築された。永正年間(1504年から1521年)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る。
かつては荘川村中野にあり中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、昭和33年~35年にかけて現在地に移築された。
一本の大杉を使って建てられたと伝わる書院造りの本堂は、長さ7間の長大な梁や、緻密な木目の板材など見所は多い。山々の形にも似た緩やかな屋根の曲線は、飛騨の寺院建築を象徴する優美さの一つである。
延宝6年(1678年)の棟(むな)札(ふだ)や小(こ)屋(や)束(づか)の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことが分かり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。杉(すぎ)柾(まさ)目(め)の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟(ふな)肘(ひじ)木(き)、広(ひろ)縁(えん)内部の調和のとれた舞(まい)良(ら)戸(ど)と明(あかり)障(しょう)子(じ)など、仏壇構えの内陣と共に上品な雰囲気が漂う。
説明板より
嘉念坊善俊上人畧伝
高山別院照蓮寺の開基嘉念坊善俊上人は後鳥羽天皇第12の皇子で承久3年(1221)御年8歳のとき園城寺に入って僧となり道伊と号した。 寛喜3年(1231)関東から上洛中の親鸞聖人に箱根で逢い、本願他力の念仏の奥儀を聞いてその弟子となり、嘉念坊善俊の名を賜わった。その後祖師聖人に常隋し研鑽怠ることなくいよいよ利他真実の義をきわめた。師の命を受け辺地の群萌教化の旅にたち、都から北陸に向かう途美濃白鳥に暫く逗留したがそのとき上人に帰依するもの数知れず北濃一帯に真宗がひろまった。
宝治年間(1247~49)はじめて飛騨国に足を踏み入れ辺地の教化のため己が住居を一ヵ所に定めることはせず、白川郷の深い山あいの村々をたずね歩いて強化一日としてやすむことがなかった。弘安5年(1282)3月3日69歳没年までおよそ35年間 ひたすらに念仏往生の教えを説き伝えて○むことを知らなかった。その真摯な教化はこの地方の人びとに深い感銘を与え、白川郷一帯はもとより近郷近在の老若男女の商人に帰依する者其の数を知らず。 当時これを白川善俊門徒と呼び白川郷中野照蓮寺を中心として一大宗教団を形成した。
照蓮寺は天正16年(1588)高山城主金森長近公によって高山の地に移されたが、以来真宗は飛騨一円にひろがりいわゆる真宗王国を実現するにいたった。
高山別院は飛騨真宗発祥7百年と飛騨御坊造立4百年を記念して、同境内に嘉念坊善俊上人の碑を建立し、ながく上人の遺徳を顕彰し、かつわれらの父祖によって伝統された真宗念仏の信心を相続し、同朋社会の顕現に一段の精進を期せんとするものである。建碑に寄せられた門信徒の芳名録は、百年後の人びとへのメッセージとともにタイムカプセルに収納し建碑の地に遺するものである。
岩井正尾 謹書
昭和60年11月2日 高山別院照蓮寺
説明板より
関連資料
2-12-1 照蓮寺本堂
2-12-2 嘉念坊善俊上人畧伝
005_214_照蓮寺
資料集
080_289_金森氏が招へいした照蓮寺(現高山別院)