加太春日神社
加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が神寳二種を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀したらしく、文保元年(一三一七年)六月二十九日付賀太庄住吉社への寄進状(向井家文書)が残されている。
当社の社名については、紀伊風土記によると日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配した嘉元年間(一三〇三~一三一七年)に、自分の祖先神である春日三神をあらたに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、嘉吉2年(一四四二年)の記録に春日明神神事日記(向井家文書)がある。 紀伊名所図絵によると、社地はもと、現在地から東の山の中腹にあったが、天正年間(一五七三~一五九二年)に羽柴秀長の家臣で和歌山城代(当時、秀長は大和郡山に居城、大和、和泉、紀伊三国を領し、紀伊国は和歌山城代が支配)、桑山重晴によって現在地に遷したと記している。なお、棟札(重文)によって慶長元年(一五九六年)に大がかりな社殿の造作がなされたことも実証されている。
当神社は、明治時代まで神職はおかず、神社経営は宮座形式の当屋制によって運営されていた。そのため、神社には記録文書類は全く存在せず、他からの資料に頼らざるを得ないが、御神徳の篤い神社であることは、「紀伊国神名帳」に「正一位春日大神」と記されており、神格の高さを知ることが出来ると共に、役小角(飛鳥時代の山岳修業者で修験道の開祖者、役行者とも称す)が、友ヶ島を行場とし、当社を勧請して守護神とされた。そのため現在でも毎年四月、当社に聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に参拝されていることからもわかる。 また、昭和五十六年、環境庁(現環境省)主催の第二十三回自然公園大会において、採火神社に指定され、聖火を献火すると共に、氏子有志による獅子舞が郷土芸能として披露された。
なお、加太春日神社の現在の社名は、太平洋戦争後、全国の神社が国家の保護を離れ、宗教法人による神社に切り替わったとき、用いられたものである。
現在の御社殿は、一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付き檜皮葺で、構造をはじめ木鼻、蟇股、手挟、欄間、脇障子などの彫刻が雄大、豪壮でよく桃山時代の特徴を表しているとして、昭和6年に国宝として指定され、戦後は国指定重要文化財として保存されている。
蟇股の向拝の彫刻は透彫で、中央は雲に龍、,裏は雲、向かって左は竹に虎、 裏は竹に椿、右は牡丹に唐獅子、裏は牡丹が彫られており、身舎の正面の中央には宝珠、左は恵比須、右は大黒天、東側は桐に鳳凰と迦陵頻伽、西側は貝類と波に蝦、後側の中央は水に若葉と筆、左右には桐と菊を配している。 手挟の東は牡丹に蓮、西は菊に枇杷など多くの彫刻で飾られているが、あまり人目につかない軒唐破風の付け根にも二匹の鯉が相対しているなど、あらゆる面に細心の気配りがうかがわれる。 迦陵頻伽は梵語で極楽鳥のことであるが、人頭鳥身で仏前を飾る華鬘にももちいられ、蟇股の飾りに取り入れられたのは類例がなく、また、西側に貝類と波に蝦など珍しい飾りを配するなど地域性も考慮した精密な構想の下に建立された華麗な極彩色の社殿であったが、明治初年の神仏分離の際、すべて剥ぎ取ってしまったと言うことである。
古老らに聞くと、国宝になる以前から左甚五郎の作った立派な社殿だからご利益があり、どの角でもよいからよいから担ぐと肩の凝りが治り、無病息災になると言い伝え、特に節分の日には大勢の人が、「どうのすみかたげよ」といいながら担いだものであるという。
#左甚五郎
資料集
123_332_加太春日神社
鶉田神社
宝亀二年創祀。天武天皇の第三皇子一品舎人親王の孫権中納言式部卿秀重、宝亀二年鶉の森を拓き、鶉の郷と名付け、郷内天王森に鎮守の祠を建て(素盞鳴尊を祀れり。弘安四年蒙古来寇の時、御祈願の為勅使参向あり。平定の後、皇室より大床安坐の狛犬を下賜せらるる。永禄年中織田信長、斉藤龍興征討の際戦勝祈願あり。斉藤滅亡の後紋所を寄進し、且つ社殿改築寄進あり。後光明天皇正保年中社殿炎上したれども、御神体及び大床安坐の狛犬のみ難を逃れたり。其の後加納藩主松平丹波守光重に於いて再建し、且つ社田旧高十石を寄進せらる。社殿の彫刻は左甚五郎の作なりと云ひ伝へ。精巧を極む。延享五年里正より寛延二年笠松郡代吉田忠倶より寄進の石灯籠今に存す。維新前旧高十八石を有せしが、町村政実施の際村有地となるたるも、字名神田と称し存在せしも、農地改革実施に伴ひ現在は全部民有に帰したり。従前は社家社僧ありしを、維新の後之を改め、更に古昔の郷名を採り社号を鶉田神社と称し明治六年一月笠松縣より郷社と定めらる。
#左甚五郎
資料集
122_331_鶉田神社
野外博物館 合掌造り民家園
白川村の使われなくなった合掌家屋を移築・保存して作られた野外博物館。昔ながらの暮らしぶりが再現されています
昭和43年、加須良(かずら)地区の住民が集団離村した際、歴史民俗資産の散逸を惜しんで白川村が3戸の合掌造りを譲り受け、現在の小呂に移築。合掌造り民家園形成の第一歩となりました。
以後、数年かけて村内各地の合掌家屋を当地に移転し、『白川郷合掌村』としてオープン。その後も整備を継続し、名称も変更しつつ、合掌造り家屋25棟に「ふるさと体験館」を加えた『合掌造り民家園』として現在に至っています。
園内は、白川村の歴史や文化を学べると同時に、訪れた人がゆったりと寛いで楽しめるように、「常設展示場」の他「かたりべの館」「わら細工の館」「マタダテ小屋」「お休み処」「芸能の館」「山野草苑」「そば道場」「売店」等、多彩な施設によって構成されています。
資料集
130_146_野外博物館-合掌造り民家園
ほたるの里公園
郡上大和ほたるの里公園は、地域の立地条件を生かした農業と活力を促進する県営中山間地域農村活性化総合整備事業で建設されました。
現在は、大和第一北小学校児童と万場地区住民の方々が協力し合い、ほたるやカワニナの育成に励んでいます。ほたるの見頃は6月上旬から末までです。
資料集
129_145_ほたるの里公園
鶏ちゃん
鶏ちゃん(けいちゃん)とは、岐阜県の郷土料理の一つで、鶏肉を使用した料理である。「けいちゃん」、「ケーチャン」とも表記される。近年は「鶏ちゃん焼き」と称する例もある。
元々は飛騨地方南部の下呂市(旧益田郡)や高山市南部、中津川市北部、奥美濃地方の郡上市の家庭料理である。1950年頃から食されていて、1960年頃から、地元の精肉店や居酒屋が独自に改良したと言われる。
資料集
128_144_鶏ちゃん
石徹白大杉
石徹白の大杉(いとしろのおおすぎ)は、岐阜県郡上市にある巨大なスギの古木である。国の特別天然記念物に指定され、白山国立公園内にある。
この杉は高知県の大杉と共に日本の二代杉であり、推定年齢は約1800年。大人が両手をつなぎ12人でやっと囲めるという大杉。白山登山道の途中にあり、国の特別天然記念物に指定されている。
資料集
127_143_石徹白大杉
明宝温泉
めいほう高原エリアにある明宝温泉は、アルカリ性単純弱放射能温泉の泉質をもつ、とても身体にやさしい温泉です。開放感あふれる湯につかりながら、明宝の大自然の息吹を肌に感じ、夜ともなれば満天の星空を仰ぎ、雄大なロマンにひたってみるのもまた格別。マイナスイオンと遠赤外線の柔らかい熱が「心とからだの疲れ」を癒してくれる岩盤浴も併設。四季の移ろいが美しい絶好のくつろぎ施設です。
資料集
125_140_明宝温泉
白山文化の里
白山長滝公園内にあり、白山文化探訪とスポーツが楽しめる欲張りな施設。パターゴルフ、テニスコート、芝生広場でスポーツを楽しんだり、白山文化博物館では長滝白山神社の宝物も公開しています。地元の食材を使ったメニューが人気のレストラン長滝もあり、奥美濃路・飛騨路のドライブの途中に楽しいひとときが過ごせる公園です。
資料集
123_138_白山文化の里