県指定・田中大秀墓
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈管理者〉荏名古史跡保存会
〈所在地〉江名子町上使畑2115番地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉300㎡
墓(1基)盛り土径3.3m、高さ1.9m
荏名(えな)神社から1㎞南方に大きな松樹の生い茂る小丘がある。大秀が生前松室岡(まつむろおか)と名づけ、墓所と定めたところである。曲折した参道をのぼると、芳賀矢一撰文「田中翁贈位記念碑」の立つ広場に出る。3段の石段をのぼり、切石道を進む。左右に春日燈籠1対を並べ、正面に大秀好みの、雅た標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
標碑の銘
正面 田中大秀之奥城
右側面 齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて
荏野翁
今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面 大人の歌を聞て言ほぎけらく
いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
又後世人にいはまほしくてよめる
こころあらば植はそふとも我大人のしめいます木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面 弘化四年丁未九月十六日歿
嘉永三年庚戌九月
田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれたが、兄休(よし)明(あきら)の夭折(ようせつ)(若死)により家督を相続した。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣長等に師事し、家号を湯津(ゆつ)香木(かつら)園(ぞの)と名づけた。文化15年(1818)隠居の後、自ら再興した荏名神社の傍らに隠棲し、荏野(えな)翁と称して国学の研究と門弟の指導に専念した。弘化4年(1847)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。
参考文献
『高山の文化財』176~177頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-14 県指定・田中大秀墓
資料集
029_238_田中大秀墓
荏野文庫土蔵
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉荏名神社
〈所在地〉江名子町1290番地
〈時代〉弘化2年(1845)
〈員数〉1棟
土蔵(1棟)桁行3.47m、梁間3.47m、カラー鉄板葺、2階建
国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名(えな)神社の境内にあり、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽(かぐら)が岡(おか)の土を運び、飛騨国内各社の注(し)連(め)縄(なわ)を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
文庫内の蔵書は、大秀没後高弟山崎弘泰の花里文庫に移され、大正元年(1912)売りに出たのを吉島休兵衛ほか5氏の援助で高山町教育会が購入した。現在、519部1,516冊が県の文化財(典籍)に指定され、飛騨高山まちの博物館で収蔵している。
関連資料
1-2-13-1 荏野文庫土蔵
1-2-13-2 県指定・荏野文庫 1516冊
1-2-13-3 千種園跡
1-2-13-4 荏名神社神橋
1-2-13-5 荏名神社標碑
1-2-13-6 田中大秀大人之碑
1-2-13-7 田中大秀木像
資料集
028_237_荏野文庫及び隣接の荏野神社
県指定・大雄寺鐘堂
〈県指定〉昭和48年6月13日
〈所有者〉大雄寺
〈所在地〉愛宕町67番地
〈時代〉元禄2年(1689)2月
〈員数〉1棟
鐘楼(1棟)地の間寸法3.45m正方形、木造入母屋造、銅平板葺、斗栱3ッ斗(と)組、間(けん)斗(と)束(づか)、天井鏡天井、基壇上に建つ
大雄寺記に、「鐘楼 第十世超誉白翁大和尚 元禄二己巳二月建之 四月屋根葺終 棟梁松田又兵衛、古橋長左右衛門、松山孫太郎、松田長次郎、古橋九右衛門、葺師越中富山橋本甚兵衛、橋本次右衛門、橋本忠右衛門」と記載されている。屋根は昭和49年、杮(こけら)葺(ぶき)であったのを修理し、銅平板葺に改めた。
二軒(ふたのき)・繁(しげ)垂(だる)木(き)の軒廻りでありながら、他は簡素な手法で建てられる。木割が太くて柱転びもよく、柱頭(かしら)貫(ぬき)端の唐草彫刻も力強い。3斗組の組物上に勾配(こうばい)、反(そ)りともによくまとまりを持った入母屋造りの屋根を持つ堂々たる建物である。
この地方最古の鐘楼である。
参考文献
『高山の文化財』32頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-12 県指定・大雄寺鐘堂
資料集
027_236_大雄寺鍾堂
県指定・法華寺本堂
〈県指定〉昭和45年8月11日
〈所有者〉法華寺
〈所在地〉天性寺町62番地
〈時代〉江戸時代(17世紀)
〈員数〉1棟
本堂(1棟)桁行20.2m、梁間15.5m、単層入母屋造、銅平板葺
寛永9年(1632)、九州の地から配流され、翌年この地で寂しく亡くなった加藤肥後守清正の嫡孫光正の霊を哀れんだ金森重頼(第3代)が、高山城内の建物を移してこの本堂にしたという。宝暦年間の平面図が残されている。昭和45年~47年には自火報設備、本堂の半解体修理を行なった。さらに、平成5年には須弥壇と内陣の天井、蟇股や欄間彫刻の全面修理を行なっている。その際、須弥壇脇の6枚の彫刻と、内陣手前の厚鴨居上端に裏書が確認された。彫刻の方には工匠松田太右衛門、塗師は藤田宇兵衛、宝暦12年(1762)7月16日、須弥壇を再興したことが記されている。また厚鴨居の方には、宝暦12年修復とある。須弥壇上の箱段裏板には「宝暦五年十一月本寿院日量代 大工谷口小兵衛」と裏書がある。
建物内部は、正面からゆったりとした広縁があり、腰唐戸の障子がやわらかい感じを与える。内陣は改造されて、法華宗の寺院様になっているが、内陣正面に見られる蟇股や、欄間の花鳥彩色彫刻から桃山時代の様式をうかがい知ることができる。内陣を除いて柱はすべて角柱面取がしてある。
建物外観は、間口が8間もあって重量感にあふれ、寺院様の装飾は何1つ見あたらない。木割が一般的に太く、間隔の粗い、軒廻りの太い垂木が木(こ)舞(まい)化粧裏や屋根を軽やかに支えている。両妻飾がなく、木(き)連(づれ)格(こう)子(し)組(ぐみ)となっているので、いっそう書院造りの風格を強調しているようである。
参考文献
『高山の文化財』29~30頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-11 県指定・法華寺本堂
資料集
026_235_法華寺本堂
県指定・東山神明神社絵馬殿
〈県指定〉昭和39年12月8日
〈所有者〉東山神明神社
〈所在地〉天性寺町71番地
〈時代〉江戸時代(17世紀)
〈員数〉1棟、4面
絵馬殿(1棟)桁行6.32m、梁間4.25m、単層寄棟造、銅板葺、4方吹抜け、廻縁親柱高欄付
絵馬額(4面)墨絵一部彩色、正保2年(1645)の願文があるもの、明暦元年(1655)のもの、延宝2年(1674)のもの、天和2年(1682)の陵王舞楽絵
もと高山城内の月見殿であったが、元禄8年(1695)高山城破却の際に移築された建物だと伝えられる。この建物には金森藩政時代の絵馬額4面が残されている。最も古い額には「奉掛御宝前絵馬 自高山城 正保二乙酉歳八月吉日信心願主敬白」とあるが、これらの絵馬額はこの建物が移築される以前から神明神社の社殿に掲げられていたものと考えられる。昭和54年2月6日、隣のモミの木が折れて屋根を大きく破損した。修理の際、カラー鉄板葺を銅板葺に変えている。
構造は4方吹抜で壁のない空間に大きな面取りをした太い角柱が立つ。角柱頭部には美しい曲線を持つ舟形の肘(ひじ)木(き)が深い軒をがっしりと受け止め、雪国にふさわしい極めて力強い手法である。建物全体が低く、屋根は緩やかな勾配を持ち、市内のどの神社建築にも見られぬ優雅さと古さを強調している。
参考文献
『高山の文化財』28頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-10 県指定・東山神明神社絵馬殿
資料集
025_234_東山神明神社
県指定・赤田臥牛墓
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉赤田家
〈所在地〉愛宕町3174番地
大雄寺裏墓地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉16.5㎡
墓(1カ所)環石径9㎝、盛り土径91㎝、高さ30㎝
東山大雄寺墓地に赤田家の墳墓がある。東西3.6m、南北5.5mの墓域内に石塔3、小墳4が配置されているが、臥牛墳は入口に最も近く、中央に位置し、右に先霊、左に誠軒(嫡孫)、後ろに章斎(嫡子)の墳墓がある。各墳とも同大で、環石を設け、中に盛り土がしてある。誠軒の遺骸は大正15年小糸坂からここに移された。章斎墳の右横に修墓の際建てられた標碑がある。
臥牛は名元義、通称を新助と呼んだ。臥牛はその号である。幼少より学問に志し、長じて江村北海の門に入り、最も物(ぶっ)徂(そ)徠(らい)の学風を好んだ。代々一之町に住み醸酒を業としたが、文化2年(1805)官許を得て邸内に家塾静修館を開き、初めて釈奠(せきてん)を行なった。文政5年(1822)7月22日没、享年78、法名浄彰。
「臥牛集初編」10巻は、文政10年津野廷賢により刊行された。
参考文献
『高山の文化財』177~178頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-9 県指定・赤田臥牛墓
資料集
024_233_赤田臥牛墓
県指定・加藤歩簫墓
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉加藤家
〈所在地〉天性寺町字西ヶ洞 法華寺裏墓地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉11㎡
墓(1カ所)標石高さ59㎝、幅25㎝角
加藤家の墓地は、法華寺山頂上にある。上下2段に区画し、上段に17基の墓石を3列に配置してあるが、歩簫の墓は第1列の中央に位置し、「清境院幽山白翁居士」と刻まれている。
歩簫は名を貴雄、通称を小三郎という。蘭亭歩簫、白(しらら)翁(おう)(晩年)と号した。俳諧を泊庵蝶夢に、国学を伴蒿蹊(ばんこうけい)に学び、安永元年(1772)家督を相続し、父の私塾を継承した。
二之町組頭を40余年間勤める一方、雲橋社を創立し、図書1,000余巻を一般に公開するなど文教の振興に力を尽くした。晩年吉城郡西茂住に凡兆の遺詠地を探り、大きな自然石にその句を刻ませた。文政10年(1827)12月14日没、享年85。
「紙魚のやとり」(しみのやどり)等多数の著書があり、大正15年100年祭を記念して「蘭亭遺稿」2巻が刊行された。
参考文献
『高山の文化財』178~179頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-8 県指定・加藤歩簫墓
資料集
023_232_加藤歩簫墓
県指定・富田家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡神岡町杉山)
〈時代〉江戸時代末期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行14.4m、梁間8.2m、入母屋造、茅葺
富田家は越中東街道沿いにあった。歴代茂住鉱山の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいた。
建物は平入りで、内部は大きく3つに区分され、押入れはない。狭い「ドジ」へ入ると「アガリタテ」があって、左に広い「オエ」、その奥には板間の「デイ」と仏壇のある6畳間の「デイ」がある。「ドジ」の右手には「マヤ」、「ニワ」があって、2階へ上がる階段は「ニワ」にある。「オエ」は板間で、棟下下手寄りに囲炉裏がある。
奥の「デイ」と「ニワ」は根太天井で、他は簀(すの)子(こ)天井である。前の「デイ」と「オエ」の前2間に幅2尺ほどの縁を設けて、店に立寄る旅人が腰かけて休めるようになっている。また、入口横には帳場があった。
屋根は丸味のある入母屋造で、破風口は小さく妻側の壁は竪羽目となっている。当家と同じ河川流域に吉真家、道上家があったが、異なる谷筋にあって外観を異にする。吉真はハホザオ、ミズハリがあり、道上は兜造(かぶとづくり)(妻の屋根を切下げて開口部をとったもの)で、カヤ尻の形が異なる。
昭和45年11月から翌年6月にかけて民俗村へ移築された。
参考文献
『高山の文化財』37~38頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-7 県指定・富田家
資料集
022_231_富田家
県指定・前田家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡上宝村神坂(かんざか))
〈時代〉明治32年(1899)
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行19.5m、梁間11.8m、切妻造、板葺、2階建、西面下屋付属、東北面庇付属、板葺
前田家は、上宝村で1、2を争う豪農であり、構えが大きく意匠も形態も優れている。建物は、栃尾温泉の東、穂高連峰の西山麓に抱かれた蒲田川沿いの神坂にあった。明治32年、高山の大工によって建てられたもので、人も馬も、1つの入口から出入りする特殊な形をしている。
内部は、入口「ドウジ」に入ると正面に「マヤ」がある。左手には「エン」があって、「オエ」、「六ツデイ」に通ずる。右手は、便所、水屋、「ニワ(ダイドコ)」へと通じている。「六ツデイ」は、戸を全部はずすと42畳として使える広い部屋となる。「六ツデイ」のうち奥の2間は、「オクノデイ」、「ブツマ」で、床の間と仏壇があり、間仕切りの鴨居上には、特徴的な筬(おさ)欄(らん)間(ま)が立てられる。
2階へは「ニワ」から階段で上がり、2階は間仕切りがなく、養蚕ができるようになっている。天井は、中央のオエが簀子(すのこ)天井、座敷部が棹縁天井、他は根太天井である。
外観は、町家風に小庇をつけ、1・2階ともセガイ造りとし持送りで支える。角柄窓があるのも、農家としては珍しい。大きな庇屋根は、片流の上部を折り曲げた招き屋根となる。正面の犬走りは、長大な石を旧所在地からわざわざ持ち込んで敷き並べている。
昭和45年11月から翌年6月にかけて、民俗村構内に移築された。
参考文献
『高山の文化財』41~42頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-6 県指定・前田家
資料集
021_230_前田家
県指定・セイロ倉
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡上宝村鼠(ねず)餅(もち))
〈時代〉江戸時代末期
〈員数〉1棟
倉(1棟)桁行5.6m、梁間4.98m、切妻造、板葺
角材を積み上げてつくった校倉(あぜくら)様式である。1階は穀物を入れ、2階には道具類を入れた。飛騨地方ではあまり例のない建物である。
参考文献
『高山の文化財』44頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-5 県指定・セイロ倉
資料集
020_229_セイロ倉
県指定・野首家
〈県指定〉昭和37年2月12日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 片野町林)
〈時代〉元禄以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行15.2m、梁間10.8m、切妻造、両面下屋付属、長榑葺石置屋根
この建物は、元禄8年(1695)の検地帳や当時の絵図に記載されている家と、建物面積、位置が一致していた。元禄検地以前の建物と推定される。元禄検地水帳に「しものくび 間口八間半 奥行六間 屋舗云々 八兵衛」と記載され、19代目の野首秋蔵も、通称「片野の八兵衛」と呼ばれた。昭和37年、野首氏から本建物の寄付を受け、3月に現在地へ解体材を集積した。同時に、解体調査を行ない、昭和40年10月から翌年2月までかかって復元修理を実施したのである。その際「オエ」や「ニワ」の床板を撤去し、裏側の縁側なども取り除いて旧形態に復元をした。
建物内部は、土座生活の「オエ」が中心に位置し、右側に「デイ」、「オク」、「ナカオク」、「ダイドコ」とカギ形に並ぶ。左側には「マヤ」、「ニワ」が配置されている。土台はなく、垂木は藤蔓(つる)で縛り、壁は板張りで窓は少ない。構造材も化粧材もほとんどアカマツが主で、一部クリを用いて飛騨の農家らしい建築部材となっている。柱の加工は片刃の釿ハツリである。梁や桁の加工は江戸中期後に発達したと思われる「はびろ」ハツリではなく、飛騨型の「まんきち」斧でハツリ、その加工跡を残している。板類の加工は大(おお)鋸(が)引(び)きのあと1枚鉋削りで仕上げてあるので、大きな逆(さか)目(め)を残している。
建物の外観は、飛騨の中央部に発達した榑葺(くれぶき)石置屋根葺き下(おろ)し付である。小屋梁が母屋桁と併行した架構法は、軒の高さを制限されたり、低い建物を建てる場合に採用される架構法で、構造上直交した梁より弱いはずだが、止むを得ない架構法で、この地方でも古い建物に多く見られる。旧田中家住宅とともに、飛騨では最も古い民家の1つである。
参考文献
『高山の文化財』26~27頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-4 県指定・野首家
資料集
019_228_野首家