国指定・田口家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村(飛騨の里)構内
(旧所在地 益田郡金山町卯野原)
〈時代〉文化6年(1809)
〈員数〉1棟 7冊 置石2個
主屋(1棟)桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造、4面庇付、南面突出部付属、鉄板葺
附 普請文書(7冊)
家普請杣木挽大工日記帳(文化5辰年2月2日)
家造作杣方木材帳(文化5辰歳2月2日)
家木山取覚帳(文化5年辰乃2月2日)
家木杣衆木取帳(文化5年辰之10月5日)
家木出シ方人足之覚帳(文化5辰年小10月22日)
大工木挽日数覚帳(文化5辰年11月29日)
家普請見舞貰ヒ覚帳(文化6巳年正月日)
旧屋根置石(2個)文化6年2月の記、28日の記が墨書き
田口家は、飛騨と美濃の国境に位置する金山町卯野原という部落にあった。代々庄屋をつとめた農家で、集会に利用されたため部屋数が多い。小さい囲炉裏1つ、長方形の大きいものが2つ設けられ、来客の用にこたえる間取りとなっている。
建築の記録に、文化5年(1808)から翌6年にかけて材木の伐採から完成祝いまで記録された普請帳が7冊と、文化6年の墨書がある古い屋根置石がある。これらの普請帳には、出役の記録や資材代、人足賃の支払記録、材木の木取記録などが詳細に記録されている。
間口は14間半、奥行7間と大型の農家で大屋根の軒の出は浅い。金山地区は美濃と飛騨の国境にあるため、両者の特徴を合わせた様式となり、田口家はその典型といわれる。飛騨の農家は、縁も「マヤ」もすべて1つの大きな屋根の内側に収め、その軒の出は深く、形ばかりの庇をその下に取り込む。濃尾の農家は広い土間を持ち、錣(しころ)状に四方へ張り出した大きな庇が広い下屋をつくり、外周は土壁、整形の間取形式を採用する。田口家の土間は濃尾のように「通りニワ」で裏口に通じるが、「ダイドコ」を広敷状に張り出して、「ニワ」の面積を狭め、板張りの「ウスニワ(作業場)」を設けている。2階は全体が広大な養蚕部屋で、間仕切はないが、「ナンド」を上ると外から見えない落し座敷(隠し座敷)がある。
比較的温暖な飛騨地方最南端にあったため、雨戸の外に廊下があり、また積雪が少なかったため雪の重みに弱く、民俗村へ移築後積雪で裏側の梁が折れてしまったことがある。
参考文献
『高山の文化財』20~22頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-11 国指定・田口家
資料集
011_220_田口家
国指定・若山家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡荘川村下滝)
〈時代〉宝暦初年(1751)
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行17.1m、梁間12.5m、1重4階、切妻造、茅葺、西面及び南面庇付属、板葺
荘川村に2軒あった合掌造りの1つで下滝にあった。電源開発による御母衣ダムの建設により水没するため、昭和34年、現在地へ移されている。
若山家は荘川造りといわれる入母屋造りから、白川村の合掌造りに移行する唯一の建物である。外形は白川村の合掌造りだが、小屋組は荘川式の入母屋造りに近い構造をしており、その他にも両様式が共存する点が多い。建築年代は高山の大工によって宝暦初年(1751)に建てられたと伝承はあるが、構造手法から18世紀末頃ともいわれる。
間口は9間半、奥行は6間半と奥行が深く、4階建て、背面に1間通りの下屋を設ける。平面は棟通りの約半間後方で前後に分かれ、それぞれ4室ずつに間仕切る。前側の下手3間分を土間とし、広い「ウマヤ」「コウマヤ」を設ける。土間の上手は前1間通りを「ドウジ」と「エンゲ(縁)」とし、その後ろは下手より取次や廊下の用に使われた「シヤシ」、接客や男の居間寝室の「オエ」、寄り合いに使われた「スエノデイ」と並ぶ。「エンゲ」には若い女の寝所にあてられた中2階を設け、梯子(はしご)段で昇降する。後側は下手より穀類の調整場「ウスナカ」「ダイドコ」「チョウダ」、家長夫妻の室である「ナカノデイ」の4室が並ぶ。背面1間通りは下手より炊事場の「ミンジャ」、女の寝室の「オクノチョウダ」、仏間の「オクノデイ」と並ぶ。「ミンジャ」はさらに背面に1間半張り出して「ナガシ」と「フロ」を設ける。「オクノデイ」は背面に1間の仏壇がついているが、これは現在地に移築した際、設けたもので、以前は東面にあった。構造は正面を船枻(せがい)造り(側柱上部から腕木を突出して小板を張った棚を持つもので、組頭・名主層以上にしか許されなかった)としている。合掌は「エンゲ」を取り込んだ最も外側の柱列の上に組まれた素屋造りである。背面に1間半の葺下し屋根が加わっている。
荘川村にあった当時は、北流する荘川の西河岸の下滝という扇状地にあって、若山家の他に5軒で1つの集落を構成していた。屋敷地は川に向かって緩く傾斜し、東面する主屋を中心に味噌小屋、板倉、便所、ハサ小屋、田畑等が周辺にあった。
参考文献
『高山の文化財』22~24頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-10 国指定・若山家
資料集
010_219_若山家
国指定・吉真家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡河合村角川)
〈時代〉安政5年(1858)以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造、茅葺、南面下屋付属、板葺
吉真家は角川(つのがわ)にあったが、ここは宮川と小(お)鳥(どり)川の合流するところで河岸段丘になっている。中央部に南面して建てられ、安政5年(1858)の角川地震以後、礎左衛門が小鳥川上流の「保(ほ)」から移築した。昭和45年11月から半年かけて現在地の飛騨民俗村へ移築している。
この家は、飛騨でも有数の豪雪地帯にあり、また角川地震にも耐えてきただけに、どっしりとした土台、太い柱や梁、桁を用い、構造は簡潔で規則的である。また広間型3間取りの平面や、妻が大きい点では富山県の民家と似ている。
内部は、中央部「オエ」の大広間を中心に「デイ」と「ネドコ」が居室部となり、反対側に「マヤ」と「ニワ」があるという3つの構成になっている。「ニワ」は囲炉裏を切り、作業空間としての役割と炊事場の役割を持っていた。「マヤ」は家畜の排泄物を集めて肥料としたため、地面を低く掘り下げている。広い2階は養蚕の室として使っていた。
構造は特徴ある架構で、左右側面、特に4隅にあたる柱が「のぞき柱」(むかい柱とも呼ぶ)によって構成される。これは宮川、古川、国府、河合の各地に例が多くある。通常、上屋と下屋の構造柱を別々に立てるが、この家は下屋部に曲がった柱を立て、この曲がった柱の上部で上屋の構成をさせるというものである。この太い柱は栗の股木を使う。
屋根は破風のコロビ(傾き)が強い入母屋造りで、破風口は広く、開口部にムシロを吊るしてある。棟の両端には、中央に「かたもたせ」を高く立て、茅を崩れないように止棒を差す。
参考文献
『高山の文化財』24~26頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-9 国指定・吉真家
資料集
009_218_吉真家
史跡 堂之上遺跡
所在地 岐阜県高山市久々野町大字久々野字堂之上2270番地
史跡指定 昭和55年3月24日(文部省告示第47号)
本遺跡は、古く明治・大正時代からその存在が知られていたが、学術調査も行なわれることなく、また破壊もされず畑として耕作されてきた。
昭和47年久々野中学校郷土クラブ員により遺跡の一部が発見されたため昭和48年から昭和54年までの7年間にわたり岐阜県教育員会・久々野町教育委員会の発掘調査が行なわれた。
この結果約75アールの小舌状台地にほぼ完全に残されている縄文時代前期から中期(約5,500年~4,000年前)の集落跡としての様相が明らかにされた。
集落の形態は、台地中央部に土壙群が存在し、それを取りまく形で住居群が台地縁辺部に分布している。
出土品は縄文土器を主体として、石器・土製品・自然遺物等が住居址及び土壙包舎層中より大量に発見された。
遺跡・建物の内容は広く西日本・東日本各地の文化の影響・手法の伝播が認められ、縄文時代の研究に興味ある多くの知見を得ることができた。
本遺跡は往時より今日まで地形の変化を殆んど受けず、典型的な縄文時代集落跡の姿をよくとどめており、学術上重要な遺跡として認められ、国の史跡に指定された。
昭和56年から昭和57年の2年間にわたって文化庁・岐阜県教育委員会の指導援助により、復元整備を行ない史跡公園として永く保存し後世に伝えるものである。
発見された遺構
縄文時代前期住居跡 9軒
縄文時代中期住居跡 34軒
土壙群 約150箇所
昭和57年11月 高山市教育委員会
説明板より
関連資料
1-1-8-1 史跡 堂之上遺跡
1-1-8-2 堂之上遺跡概要
1-1-8-3 堂之上遺跡
資料集
008_217_堂之上遺跡
国指定 重要文化財 荒川家住宅(母屋・土蔵)
所在地 岐阜県高山市丹生川町大谷141
指定日 昭和46年12月28日
荒川家は、天正年間に当町の肝煎をつとめたと伝える旧家で、元禄以来代々周辺6ヶ村の業帯名主をつとめていた。
この住宅は、母屋棟札により寛政8年(1796年)土蔵は普請文書及び2階床板墨書などから延享4年(1747年)に建築されたことを知ることができる。
母屋は、桁行11間、梁間8間、2階建切妻造りの大型住居で、正面外観は出桁を腕木でうける小庇をつけ、また差物や軒桁にかなりの巨木を用いて横の線をつよめるとともに、2階正面の格子窓と2段に通る貫の細い直線的交叉をみせるなど、かなり洗練された立面意匠をあらわしている。土蔵は、桁行3間、梁間2間、2階建切妻造、妻入りで東側は片流れの蔵前が付く、蔵前は、主屋の建設前に奥行1間半、2階切妻造りに改造したものと考えられる。
江戸時代における飛騨国の国境は、標高が三千メートルもある山脈の尾根上にある。厳しい山脈に四方を囲われている飛騨だが、東の江戸へ、南の尾張へ、西の越前へ、北の越中へと、物資運搬や人の移動には街道が必要であった。
丹生川地域にも信州へと通じる街道があり、「平湯街道」また、ある時期には「信州への道」として大きな役割を果たして来た。その道筋は町方、坊方、大谷、小野、平湯、安房峠へと進むが、坊方から小八賀川を渡って日当たりのよい北方、法力、瓜田を通る道もあった。
この平湯街道沿いの大谷集落に、国指定重要文化財の名建築旧荒川家住宅がある。大谷という所は戦国時代から戦略上の重要な場所で、「森ケ城」という戦国時代の山城が大谷にある。また、朝日、岩井町方面から信州方面への道筋上にあって、重要拠点に荒川氏が配置されたのであろう。
荒川家は四百年前に金森氏が国主になった頃から肝煎りを務め、元禄時代(幕府直轄地時代)には大谷、小野、根方、白井、芦谷、板殿の六カ村兼帯名主を務めていた。
間口十一間、梁間八間半の大型農家で、寛政八年(一七九六)建の棟札が残る。
裏手にある土蔵も古く、延亨四年(一七四七)の普請帳が伝わっている。内部の間取りは四ツ出居が一段高く造られ、慶弔行事、村方寄り合いに都合がよい大広間として利用された。農家なので向かって左手に馬屋がある。二階はイロリの煙が上がりやすいスノコ天井で、広大な養蚕作業場が確保されている。
建物の外観は板葺きで質素に見えるが、内部は良材を駆使して飛騨の匠の高度な技術で造作をしている。玄関を入って右手にオエというアガリタテがあるが、上をみると巨大な「ウシバリ」という構造材が架かっている。この梁が荒川家の見所である。長さが四間で、この寸法の間に柱が無いために建具が四間幅で取り外すことが出来る。
オエの奥に、気持のよい巨大空間の四ツ出居が見渡せ、贅沢な大広間が用意できる。平成二十四年に林格男先生を講師に、この荒川家で大原騒動講演会を開催したときには、百二十人ほどが入室できている。百人収容の空間は日本の集落、地域、同好のグループなどのコミュニティ創造に役立って来たのである。
ところで、荒川家の土蔵普請帳には、当時の建前から完成するまでに、親戚や近隣の人たちが人足手伝い、見舞いの品々を持参した書付が残されている。品々には、酒二升、赤飯、うどん粉一鉢、そば粉五升、くるみ菓子、牛蒡一わ、にんじん一わ、すし一鉢、餅一鉢、茶一袋、たばこ一斤、白米四升などと記録され、これらはお返しをしていかなければならなかった。
開館時間・料金
1、開館時間 午前9時00分~午後4時00分
1、入館料 入館無料
1、休館日 毎週水曜日(祝日の場合は翌日)
12月1日~3月31日
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
1-1-7-1 国指定 重要文化財 荒川家住宅
1-1-7-2 荒川家
資料集
007_216_荒川家
国指定・高山陣屋
〈国指定〉昭和4年12月17日
昭和54年10月2日追加指定
昭和55年3月24日追加指定
平成元年1月9日追加指定
〈所有者〉岐阜県(陣屋前広場は高山市)
〈所在地〉八軒町1丁目5番地ほか
〈時代〉江戸時代(17世紀)
〈員数〉11,219.05㎡
八軒町1丁目3番地 305.32㎡
八軒町1丁目4番地 1,209.91㎡
八軒町1丁目5番地 2,419.83㎡
昭和4年指定
八軒町1丁目2番地2 53.09㎡
昭和54年指定
八軒町1丁目1番地1 180.73㎡
八軒町1丁目1番地3 1,411.63㎡
(1番地3のみ高山市所有で陣屋前広場の分)
八軒町1丁目1番地5 792.48㎡
八軒町1丁目6番地 2,475.41㎡
昭和55年指定
八軒町1丁目7番地1 1,244㎡
八軒町1丁目7番地2 1,126.65㎡
平成元年指定
現在遺構
御門 天保3年(1832)
切妻造杮(こけら)葺(ぶき)平家建
門番所 天保3年(1832)
切妻造熨斗(のし)葺平家建
御役所 文化13年(1816)
切妻造熨斗葺(一部杮葺)平家建
御蔵 慶長年間(1596~1615)
片入母屋造石置長榑葺平家建
御勝手土蔵 天保11年(1840)
切妻造熨斗葺2階建
書物蔵 天保12年(1841)
切妻造熨斗葺2階建
その他 供待所、腰掛、中門
天正14年(1586)、金森長近は秀吉の命により飛騨を平定し、領主に任ぜられた。以来、6代107年間にわたって藩政時代が続いたが、元禄5年(1692)徳川幕府は金森頼旹(よりとき)を出羽国上(かみ)ノ山に転封し、飛騨一円を幕府直轄領とした。
それ以来、明治維新に至るまでの177年間に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この御役所を「高山陣屋」と称する。
飛騨代官は関東郡代の兼任で始まり、金森家臣屋敷を会所としていたが、高山城の破却が始まる元禄8年(1695)、金森氏の娘が住んでいた、現在地の向屋敷に代官所を移した。その後4代から専任、7代から常駐となり、11代まで代官、12代から郡代に昇格している。この間、殖産振興に尽くす等善政もあったが、一方、飛騨一円を揺るがした明和・安永・天明の大原騒動、明治初年の梅村騒動の2大一揆もあり、数々の歴史がこの陣屋で展開した。
陣屋設置以来、享保10年(1725)、文化13年(1816)と数度にわたって改築がなされ、幸いにも火災を受けなかった。明治になると、主要建物はそのまま地方官庁として使用され、昭和4年には国の史跡に指定された。昭和44年12月、ここにあった飛騨県事務所が移転し、元禄8年から270余年続いた役所の幕を閉じた。この機会に全国50余カ所のうち唯一現存する史跡を保全するため、岐阜県教育委員会は、文化庁の指導を受けて昭和45年10月から58年12月まで2次にわたり、約7億円を費やして復元修理と復旧事業を行なった。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえり、現在岐阜県教育委員会が管理している。
内部は、玄関の間が文化13年改築のままで残り、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。式台も駕篭(かご)を乗りつけるため低くしつらえてあり、幕府の使者等、身分の高い来客専用であった。御役所大広間も非常に体裁を重んじた意匠となっている。吟味所、白洲はグリ石敷で屋根のあることが特徴的である。事犯の大半は幕府の裁決を仰いでいた。
御蔵は、高山城三之丸に米蔵として建てられていたものを、元禄8年現在地に移築したものである。軸部は慶長年間(1596~1615)のもので、良質のヒノキが使われ、仕上げも蛤刃手斧であり、年代、規模ともに全国有数の穀物土蔵である。壁面の傾斜(四方転び)や通風の隙間など、飛騨匠の手法が見られる。
また、平成元年1月には西に隣接する高山拘置支所が移転された。ここは役宅があったところで、復元整備するため、平成3年度に発掘調査がなされ、用水池跡1カ所、竃跡3カ所、地下式石室(いしむろ)跡1カ所、溝、井戸が発見された。それらを参考に、郡代役宅の復元工事が平成4~7年度にかけて進行中である。
参考文献
『高山の文化財』169~172頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-1-6 国指定・高山陣屋
高山陣屋 年表
陣屋説明文
179_18_陣屋朝市
資料集
006_215_高山陣屋
国指定・照蓮寺
〈国指定〉昭和31年6月28日
〈所有者〉照蓮寺
〈所在地〉堀端町8番地(城山公園内)
〈時代〉室町時代(16世紀)
〈員数〉1棟1枚
本堂(1棟)桁行7間(16.27m)、梁間9間(20.05m)、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺
棟札(1枚)「飛州白川光耀山照蓮寺住持云々 延宝六戊午 十月十九日 奉行三嶋宇右衛門 棟梁池守源五」
永正年間(1504~1521)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る真宗寺院最古の遺構である。荘川村中野にあって中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、昭和33年から35年にかけて現在地に移築された。延宝6年(1678)の棟札や小屋束の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことがわかり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。
杉柾目(まさめ)の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟(ふな)肘木(ひじき)、広縁内部の調和のとれた舞(まい)良(ら)戸(ど)と明(あかり)障(しょう)子(じ)など、仏壇構えの内陣とともに上品な雰囲気が漂う。
参考文献
『高山の文化財』10~11頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-5 国指定・照蓮寺
005_214_照蓮寺
資料集
005_214_照蓮寺
国指定・田中家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 冬頭町982番地)
〈時代〉江戸時代中期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造、東面1間庇付、板葺
この建物は、もと高山市の北部中切町にあったものを二之町薬種商田中屋の第4代田中大秀が買い、冬頭村の田舎(でんしゃ)として文化年間(1804~1818)に移築、手代茂七郎(庶子)に与えたという。1度移築を受けているが、内部は昭和の初めまで建設当初のままで土座形式であった。飛騨の石置板葺の民家の中で18世紀前半まで溯る代表的な建物の1つである。
平面は本来土座の「オエ」の上手に板の間の「デイ」「ブツマ」、裏手に板の間の「ネマ」と土間の「ニワ」、下手に「マヤ」を配したもので、さらに下手外側に下屋が付加されている。この形式は、飛騨地方でも高山市周辺から西は荘川、白川までの大野郡でこの平面形式の民家が見られる。ただし屋根が板葺になるのは高山周辺だけである。北の国府町でも一部この平面形式が見られるが、南の益田郡はこれと異なる。
後世の改造時期については明らかではないが、まず「ネマ」回りの改変があり、次いで「マヤ」回りや正面出入口および「オエ」南側が改造され、さらに昭和になってから「オエ」の土座や「ニワ」の土間に床板が敷かれ、東側の下屋も撤去された。
昭和46年9月、旧所有者田中秀茂氏が高山市に寄贈し、翌年12月「飛騨民俗村 飛騨の里」に移築するため解体工事に着手、昭和48年12月にすべての修理を完了した。
建物の外観は素朴な板葺石置屋根で、勾配が緩く棟高が低くて荷重が軽いため、雪国にしては梁が細く数も少ない。入口を入るとL字形の「ドウジ」、「マヤ」がある。奥にはそれぞれ炉をもつ「オエ」と「ニワ」が広い土座を形成し、「オエ」には深さ60㎝程の「ムロ」がつくられる。「デイ」、「ブツマ」は板敷となり、東西2室の「ネマ」は板壁で囲まれて窓もなく、閉鎖性をもっている。各室とも天井を張らず、屋根裏がむき出しになり、柱は土間回りに栗、部屋に赤松が使われ、土間と外回りは杣ハツリ、部屋回りは丸刃釿(ちょうな)が多い。鴨居は溝を掘らず、付(つけ)樋(ひ)端(ばた)(付(つ)け溝(みぞ))にしてある。小規模な家だが、高山を代表する古い農家である。
参考文献
『高山の文化財』14~16頁 高山市教育委員会発行 平成6年