あさんず橋
飛騨支路・あさんず橋
萩原町指定史跡 あさんづの橋所 石碑 下呂市萩原町尾崎宇舟渡
奈良時代の頃より、飛騨の国府(飛騨の国の中心地)から都へ上る本街道は「位山官道」と呼ばれ位山峠を越えて山之口から尾崎まで来て、ここから益田川を越して対岸の宿場「上留(かみのとまり)」(今の上呂)へ渡り、萩原を通って美濃の国の東山道へと通じていた。
ここに「あさんづの橋」が架けられたのはいつ頃であったのかはっきりしないが、今から400年ほど前の天正年間(1573~1592)、飛騨の国の領主となった金森長近によって、現在の小坂町・久々野町を通る新しい道が開かれたため、険しい位山峠は通らなくてもよくなり、やがてこの橋も廃止になった。そして新しく小坂川に架けられた橋に、廃止となった「あさ
んづの橋」の名にちなんで「あさむつの橋」の名がつけられたと伝えられている。
この石碑は、享保13年(1728)第7代飛騨の国の代官となった「長谷川忠崇(ただむね)」が、すでに150年以上も前に橋があったことを知り、当時は渡し場となっていたこの地にあさんづの橋の名を偲(しの)び、「むかしあさんづの橋があった所」と記した碑を建てた。そして小坂の橋には今の「あさむつの橋」の石碑を建て、飛騨の名所としてこの橋の名を残すことにした。 昭和48年5月30日指定
*説明版より
石碑銘
(表)終古 阿さん川の橋所
(裏)欽差郡吏 長谷川庄五郎藤原忠崇立
享保万年之第十三禩歳在戊申九月六日
私達のふるさとの歴史を語る大切な文化財をいつまでも残すために、皆様の御協力によって、石碑の周囲を整備することができた。 昭和54年3月 萩原町教育委員会説明版
尾崎 おさき
益田(ました)川の右岸および支流の山之口川の流域に位置する。西は急峻な山で、馬瀬(まぜ)村へ通う主要路であった連坂峠がある。益田川に沿って川西街道が通り、同街道から分かれて山之口川に沿って古代の位山(くらいやま)官道が北上、中村・黍生(きびう)・平沢・洞の支村を経て山之口に入る。地名の由来は位山・川上岳に連なる山の尾の崎に位置することによるという(後風土記)。
〔近世〕尾崎村 江戸期~明治8年の村名。飛騨国益田郡上呂郷のうち。住吉の飛騨官道は上呂から浅水橋を渡って尾崎から山之口川に沿って上り、位山を越えて国府に通じていたが、天正年中金森長近が小坂(おさか)・久々野(くぐの)へ通じる河内路を開いたため位山越は間道となり、浅水橋も朽ち果て、渡し舟に代わった。享保13年長谷川代官によって「あさむつの橋所」の旧跡を示す碑が建てられた(萩原町誌)。寛政元年、当村は口組と奥組とに分離し、口組の鎮守は白山神社と神明宮3社、奥組の鎮守は尾崎白山神社。寺院にもと天台宗で寛永3年開基の浄土真宗永養寺があった。明治8年川西村の大字となる。
〔近代〕尾崎 明治8年~現在の大字名。江戸期を通じて対岸の上呂との間に渡船が常設されていたが、明治26年上呂との間に浅水橋架橋により、渡船は廃止。当時益田川流域の橋は下呂(げろ)町三原の帯雲橋と浅水橋のみで、馬瀬村へ通ずる連坂峠をひかえる尾崎橋場は物資の集散地となり、人馬の往来が激しく、店舗・料理飲食店が軒を連ね繁栄した。大正12年萩原~古関(ふるせき)間に益田橋が架設、また馬瀬村へ通ずる日和田峠が改修され、昭和6年高山線飛騨萩原駅が開設されるにおよんで浅水橋の通行量は減少し、尾崎橋場の繁栄も失われた。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年