飛鳥川原宮(川原寺)
1.川原宮
川原宮(かわらのみや)は、7世紀中期の斉明天皇が営んだ宮。一般には飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)と呼ばれている。奈良県明日香村川原にある川原寺(弘福寺)の地にあったと伝えられている。川原寺の下層からは、寺建立以前の大規模な整地層や石組溝・マンホール状施設などが部分的に見つかっており、川原宮の有力な候補地となっている。おそらく豊浦寺のように、川原宮の跡地に川原寺を建立したのであろう。
『日本書紀』には、斉明天皇元年(655年)の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年には新たに後岡本宮を建てて遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
斉明天皇の崩御後、子の天智天皇のときに川原宮は川原寺(かわらでら)に改められたという。平安時代初期には嵯峨天皇がこの寺を空海に与えたと伝わる。今日では真言宗 仏陀山弘福寺(ぶつださん こうふくじ)を正式名称としている。
<引用文献>明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録④ 飛鳥の宮殿 ―古代都市“飛鳥”を探る―』7頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成17年
2.史跡 川(かわ)原(ら)寺(でら)跡(あと)
川原寺は、法(ほう)名(みょう)を弘(ぐ)福(ふく)寺(じ)ともいわれている。その創建年代については不明であるが、『日本書紀』天武天皇2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、伽(が)藍(らん)配置や瓦の文様が天(てん)智(じ)天皇に関連する大津宮の南(みなみ)滋(し)賀(が)廃(はい)寺(じ)や大(だ)宰(ざい)府(ふ)の観(かん)世(ぜ)音(おん)寺(じ)と類似することから、天智天皇の時代(662~671)に斉(さい)明(めい)天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられる。
昭和32・33年の発掘調査の結果、中金堂(現弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が建ち、中門からでた回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。また、中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧房が3面にある。川原寺で使われていた複(ふく)弁(べん)八(はち)弁(べん)蓮(れん)華(げ)文(もん)丸(まる)瓦(がわら)は川原寺式軒瓦と呼ばれ、天武天皇の時代には近畿・東海地域の古代寺院に多くみられ、壬(じん)申(しん)の乱(らん)で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えられている。
現在では弘福寺境内にある瑪(め)瑙(のう)(白大理石)の礎石と公園内の建物復元基(き)壇(だん)が当時を偲ばせている。
説明版より
3. 一代一宮の慣行
こうした一代一宮のいわゆる歴代遷宮の慣行の理由について、八(や)木(ぎ)充(あつる)は、①父子別居の慣習による、②死の穢(けが)れを避けるため、③政治的課題を解決するため、④地理的・経済的理由に基づく、⑤宮殿建築の耐用年限によるなどとする従来の説に触れた上で、宮室内に起居した天皇の死を忌(いた)む心情と、5~6世紀以降の天皇の宮と皇子の宮が並存して、東宮を即位後の宮処とする慣習とが表裏一体の関係となって、歴代遷宮が繰り返されたと見る。そして、平城京のような都城を経営するようになった後も、天皇の宮を1代ごとに移すという宮廷慣行は失われず、内(だい)裏(り)の移動や都城の遷都になったと考えている。
歴代遷宮の理由を一元的に説明することは困難で、遷都が飛鳥地域内における遷宮に留まらず、孝(こう)徳(とく)朝の難波遷都や天(てん)智(じ)朝の近江遷都のように、地域的に大きな移動を伴った場合には、その時々の国内的・国際的な政治的動向が遷都の大きな要因になっている。
ただ歴代遷宮と言うと、1代限りで宮室が廃絶してしまうかのような錯覚にとらわれるが、推古朝の小墾田宮、皇極朝の飛鳥板(いた)蓋(ぶき)宮、皇極朝以来の嶋宮、孝徳朝の難(なに)波(わ)長(なが)柄(ら)豊碕宮(とよさきのみや)などのように、天皇が代わっても廃絶することなく長く継承される場合のあっこたとを忘れてはならない。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』
(株)講談社発行1989年
資料集
090_097_都の移転・飛鳥川原宮(川原寺)